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 THOUGHTS

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『洋楽ファンのひとりごと』

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2012/3/22

★酒とタバコ★

すいません、京都篇が終わりません。せいぜい2章でクランドルに戻るつもりだったのに引っ張ってます。それとゆーのも、前回、名前だけ出て来た峰岸達哉。実は、コイツが colours of the windから紛れ込んだと言ってたヤツで、続柄的にはそっちの主人公の峰岸裕也の息子になります。そもそもは、デュアンたちが日本に来てるんだから、だれか案内役いた方がいいかなと思って、誰にさせたらいいんだろうと考えてるうちに出て来てしまった。で、名前だけのつもりが、とうとう今回では本人出て来ちゃって、紛れ込むどころか完全に乱入状態。結局、なかなか京都から去れないぞってことになってしまったのでした。そんな事情なんで、colours of the windの話は、デュアンたちが京都を離れてからにしたいと思います。

で、タイトルの酒とタバコなんですけど、ご存じの通りデュアンはけっこう酒飲みです。しかし昨今、世間では"コドモに酒飲ましちゃいかん"とゆー風潮が昔よか非常に、とゆーか、異常に強くなってるようで、タバコに続いて酒もいかんのかい、と、小説書いてると、とっても困ってしまうのです。私自身はタバコ吸わないし、お酒もたまにちょっとだけというヒトなんで、世間がどー言おうとあんまり関係ないんですが、小説の中ではタバコって、間をもたせたり、場面の繋ぎとか、そういうシーン展開に便利な存在で、これでけっこう、ないと困るコモノなんだな。しかし、昔と違って昨今では、タバコ = 社会悪 みたいな図式が出来上がってしまっているので、イメージ的に使いにくくなってしまった。

そもそもはディもアレクも、まーもみんな喫煙家だったんですけど、今の風潮の中ではそういうわけにもいかなくて、ディはともかく、アレクとまーは立場場、禁煙実行させなければならなくなっている。ちなみにアリは、まーが止めてたので、元々、喫煙家じゃない。でも、なんか淋しいなあ、という感じではある。反社会的にならない程度に使おうと思うとスモーキングルームとか、特にそれ用の場所作らなきゃならないしねえ。それでは、間をもたせる小道具にならんがな。

それだけでも困ってるのに、今度は"酒もだめ"って、なんでよ? まあ、これは未成年のみみたいですけど、少し前、電車に「未成年の飲酒はだめ。ルールだから、みんなの意見だから」みたいな? アホか! と言いたくなるよーな広告が出ていて、い〜かげんにせーよと思ったんですけど、何が腹立ったと言って、何なんだよ、その「みんな」ってのは。私は違うぞ、勝手に私の意見を決めるんじゃねえ、とか思ってしまいましたね。なんとかなりませんか、この小学生思考。もう、これ大人の考えじゃないよ。「みんな」って言ってれば、何でも自分が正しいと主張できると思ってんだから。ってゆーか、「みんな」自分と同じ意見だって、あたまっから決めつけるとゆー傲慢さが、イヤ! そっちの方がよっぽど問題だろーに、と思いませんか?

ガキに酒飲ましちゃいかんってのは、昨今、酒飲んで暴れる十代とか多くなってるからじゃないかと思うんですが、それなら、そーゆーのをきっちり取り締まれば済むことでしょう? それでなんで、いきなり「みんな」になるかな。私なんか、ごくごくコドモの頃から親に日本酒もビールも飲まされてたけど、だからって大酒のみになんかならなかったぞ。い〜じゃないか、それくらい。そのへんのフレキシビリティとゆーか、法と実際の間の余裕というか、これまでは社会的にそういうのは親の自由裁量の範疇だったのに、親がバカんなって、てめーの子供の躾もよーせんようなのが増えたから、こんなアホな広告出て来ることになるんじゃないか。めーわくな。

ともあれ、タバコは確かに健康に良くないですから、仕方がないので小説の中でも使わないようにしてますが、酒は使います。デュアンは酒飲みですが、暴れませんし、コドモにしては飲むという程度で、ちゃんと自分の限度もわきまえてます。そういうお酒なら、いいんです。私は、止めませんからね。私の意見、勝手に決めるのヤメてよね。

とゆーことで、今回もデュアンは刺身で日本酒を一杯やってます♪

     

2012/1/26

★人生100年時代?★

ウィリアムじーちゃんは95才ですが、昨今は本当にそのくらいの年齢でも元気な方っていらっしゃるんですねえ。雑誌でちょっと見かけただけなので、お名前は忘れてしまいましたけど、女性カメラマンで現在は九十代半ばくらいなのに、今も元気にカメラ担いであちこち行ってらっしゃるんですってさ。映画TITANICでも百歳のばーちゃんがそれなり元気に動いてたし、あれっていくらお話とはいえあまりに一般とかけ離れた描写はしてないと思うから、最近はもー人生100年時代に突入しるってことなんでしょう。戦後すぐの頃はまだ人生50年とか言ってたらしいし、そうすると半世紀ほどで人間の寿命って飛躍的に延びてるってことだな。

それに、栄養学に基づくアンチエイジングが広まり始めたのはわりと最近で、今90代の方が若い頃ってよほど独自に栄養学の知識を持ってて、それに基づいてケアでもしてない限りその恩恵には与かれなかったろうから(昔の医者はビタミン剤を迷信扱いしてる人も多かった)、それが一般に普及してる我々の世代からは更に寿命が延びる可能性は大いにあるんじゃないかな? そして、あと30年〜50年生き延びることができるのなら、たぶん"Glamorous Gossip"で描かれてるみたいに、身体機能の大半を機械化して生命維持できるとゆーよーな時代に突入してるかもしんない。これは既に"ナノテク"の世界だが...。

まあねえ、そうなってくると問題はやっぱり、その長くなった人生をどう生きるかってとこでしょうな。なにはともあれ、健康第一で私もウィリアムじーちゃんを見習って楽しく長生きしたいと思ってます♪

     

2011/7/18

★節電★

約3週間のご無沙汰となってしまいましたが、皆さま、如何お過ごしでしょうか。更新できない間に巷はすっかり真夏の様相を呈してきていて、昨日なんて関西は昼間35度とか。今日は曇り時々雨って感じなので少しマシですが、うちあたり山の中ですら日が暮れてからも室内30度あっちゃな〜。"熱帯夜"なんてコトバは既に死語と化してるんではないかとゆーほど、常時熱帯雨林状態の昨今のこの気候はもー、どーしよーもないですね。今既に、早く秋になってくれ〜と思っているのは、私だけではないことでしょう。

そんな中でも3月の大地震以来、原発の問題表面化が大きいのか、世間では今や"節電"がみんなのキーワードとなっているようです。うちは夏でも殆どクーラーつけないしテレビも置いてないから、もともと一般家庭に比べて遥かに電気を使わない生活をしていると言えると思いますが、ある雑誌によれば夏の電力の消費内訳はクーラーとテレビで全体の40%ほどを占めているらしい。つまり私は! 世間にうるさく言われるまでもなく、過去数十年に渡って図らずも夏は40%の節電を実行してきたってことみたいです。偉いっ!!!

特にこの夏、クーラーが消費する電力は大問題のようで、そのせいか扇風機が非常に売れているように見受けられます。実は、今使ってる扇風機は実用品ではなく、デザインが気に入ったのでインテリア用にと買ったものなのであまり使いたくなくて、それで今年は実用品をひとつ買おうと思ってたのにのにのに! 7月の半ばにして近所のJuscoでは扇風機完売!! 仕方がないので別に目をつけていた雑貨屋さんに行ってみたら、つい10日ほど前は3色揃ってた扇風機が1色だけになっちゃってて、欲しかった白が無くなってる! この雑貨屋さんでは私が狙ってたやつを昨年も扱ってたんですけど、8月の終わりになっても売れ残ってるやつがあって少しお安くなったりしてたのに、今年はもう残り2個になってたから、このぶんでは8月を待たずに全色完売しそうな勢いですもん。

これまでもエコエコとはよく言われてきたことですけど、こういう現象を見ると原発問題以来、単なるエコを超えて、エネルギー問題の深刻化がより広く意識されつつあるんだろうなあということを感じます。まあ、より多くの人が深刻に捉えれば、それだけ快方に向かう度合いも高くなるわけで、それはそれで良いことだと思いますけどね。

で、各家庭における太陽光発電っつーのも昨今のトレンドみたいで、こちらは一時期に比べて、お値段が下がって来てるように思われます。言われ始めた最初の頃って100万とかだったんじゃなかったですか? ある雑誌によると、昨今では65万程度で付けることが出来るようで、業者によっては50万台を打ち出してるところもあるようです。そうすると数年する間にはもっと安くなる可能性もある。それに、思うにたぶん10年くらいの間には太陽光発電装置そのものの小型化が起こってくるだろうし、そーすると今の屋根に乗っけるタイプってそのうち"旧式"とか言われるようになるんだろうなあ。その頃になったら、"ベランダに置くだけで一般家庭の消費電力を80%賄えます!!" なんてものも出て来るかも。とか考えてると、今付けるのはもったいないよな〜、みたいな? 気もしないではない。ま、うちの場合は今さら何もしなくても一般家庭に比べて40%減ですからね、40%。他にも節電対策はやれる限りやりまくってますから、今すぐ自家発電に参加しなくても、まあ許されるんじゃないかな?

ところで、火力発電の場合、電気を起こすために資源である原油が必要となるわけですが、同じ資源を直接熱エネルギーに変える方法を取った場合に比べて、電気になっちゃうと60%ほどがロスになってしまうってご存知でした? 実は、80年代に三原順さんが"Die Energy"という作品を書いてらして、それに出て来たことなので私は何十年も前から知ってるんですけど、わりと知らない人も多いんじゃないかと思う。この作品といい、佐々木淳子さんの"ダークグリーンといい、80年代の少女マンガは視野が広くて知的レベルも高かったよなあ。翻って、その頃も今も、(自称)純文学はバカバカしい小市民的悩みの回りをウロウロくどくど回ってるだけなんだから、ほんとアホ! だなとつくづく思うね。あんなもんマジで読んでると、真実、バカになるぞ! 視野が狭い上にバカだから、個人的問題すら解決できずにちまちましたことを大問題のよーに人生かけて悩まなきゃならなくなるのよ。ああ、救われない、救われない。

ともあれ私は、そんなにロスが出るんだったらオール電化って問題あるよなとか、電気自動車ってどーなのかなーと常々考えてたわけですが、これは太陽エネルギーを利用して自家発電するならクリアできる問題ですよね。特にクルマの場合は、今あるような電気自動車よりソーラーカーが実用化される方が好ましいでしょう。実は、前回の更新でアシュバが"世界経済がひっくり返りかねないテクノロジー"を搭載してるとか言ってたので、私は"それってどんなんだ?"と今さら考えてて(少なくとも現代だったら、いきなり時速300km以上で無制限に突っ走れるソーラーカーとそのテクノロジーが出現しちゃったらOPECはどーするんだとか、いろいろえらいことだと思うぞ)、まあ、ガソリンで走ってるわけじゃないことだけは確かですが、じゃ、アシュバって何で走ってるのよ? もしかしてあいつってソーラーカーだったのか? いや、それはあまりに楽しすぎるから空気中から何らかのエネルギー源を抽出して使ってるのか? 水素というのは現実的みたいだけど、それって実用化にはいろいろ問題ありそうな気もするしな、などと、悩んじゃったりしてるのでした。

ま、それはそのうち何か思いつくだろうと思うので置いといて、話を電気に戻します。以前から、もし全ての建物が自家発電でそれぞれ必要な電力を賄えるようになったら、送電線とか全部いらなくなっていいじゃないかと考えてたんです。エネルギー問題を解決するに当たっては、もうずいぶん古くから常温核融合とか広角照射法とか、いろいろ大がかりなシステムが研究されてきてるらしいなんて話は聞いてましたけど、それは集約されたシステムでエネルギーを一元的に発生させて利用者へ分配するという発想だからコトが大きくなるだけで、逆に個別の自家発電システムという発想から発展させてゆくと、要するに自家発電装置の小型化と性能向上という比較的開発しやすく、環境問題も引き起こさずにすみそーな、方向性が見えてくるんではないかと思いませんか? 電力会社はつぶれるだろーけど、そんなこと言ってちゃ人類と地球の安全と未来は確保できんしね。その場合は、自家発電装置のメンテナンスとかに商売替えしてもらったらいいんではないでしょうか?

ところで、例えばうちの場合、ガスはLP、下水処理は浄化槽、電話もネットもやろうと思えばモバイルのみにできるので、あとは電気が自家発電になって、空気から水を合成する装置が実用化したら、全て外からの配線配管なしで生活できることになる。信頼性の高い自家発電装置と自家発水装置(?)の開発って、技術的にはわりとクリアしやすいんじゃないかと思うから、そうすると人間が生活できる地域は飛躍的に広まるわけで、都市に集住する必要もなくなるよね? ネット経由で出来る事務とかの仕事は家でやればいいし、みんな広いとこに住んで、おうちで仕事できるようになれば電車、バス、車等、毎日通勤に使われてるエネルギーも大幅に削減できるし、人間は通勤によって発生する時間的ロスからも開放される。...とゆーよーな、どうかするとSFまがいと言われそうな"未来社会"も、今や決して実現不可能ではないとこまで来てるなと思っちゃうんですけど、そのためにはやっぱり、全体の意識改革が必要なんだろうなあ。実際、このネット全盛の世の中に、未だにネット経由で出来るようなことでも会社に集まってやってるわけですからね。それって交通費と時間のムダなんだし、まずは発想の転換って重要な課題ですよ。

などなど、昨今の激化する節電意識を見ていて、単に省エネルギーのみに留まらず、全般的な社会機構そのものの変革についてもトータルで省みるべきだなとかいろいろ考えてるんですが(社会全体のリストラとゆーか)、その辺りがそのうちまた例の小説の中でIGDの機構や仕事、活動などに反映されてくることでしょう。

     

      

2011/3/12

★仮定法★

今、文法教室で仮定法の解説と取り組んでるんですけど、これは大して時間かかんないだろうと思っていたのに、例によって一般的な参考書の解説が杜撰なもんで、いろいろと詰めないといけない部分が出て来てしまい、またまた大格闘という事態に陥ってしまいました。それとゆーのも・・・

● 仮定法過去完了

If + S + had + 過去分詞 〜, S + would/should/could/might + have + 過去分詞 〜

↑↑ こーゆー公式ってよく文法本に載ってるじゃないですか。しかし、この公式だと仮定法過去完了の条件節には、必ず仮定法過去完了の帰結節が続くというカン違いを学習者に与えてしまうんです。事実、ネットを検索すると「仮定法過去完了の条件節に対し、仮定法過去の帰結節を続けてもいいんでしょうか?」という質問がいくつもありました。結論は、「いいんです」。

ただ、問題はそれだけでは解決されません。そもそも過去に起こった事柄と反対のことを条件として述べた場合、それに対する帰結はいつ発生するのか? それは過去、現在、未来のどこででも発生しうるんですね。例を揚げると、「もし三年前にその株を買っていたとしたら」という条件節があるとします。すると帰結節としては、

過去・・・「去年あたり、もうかっていたのに」

現在・・・「今ごろ、もうかっているのに」

未来・・・「来年あたり、もうかっているだろうに」

以上のように、帰結節の時制はどの段階でも発生しうるということです。従って、帰結節の言い方についてもこの3通りそれぞれの場合について解説されていなければ十分とは言えません。先ほどの「仮定法過去完了の条件節に、仮定法過去の帰結節を続けてもいいんでしょうか?」という質問に対して、場当たり的に「構いませんよ」と答えれば、少なくとも「今ごろ、もうかっているだろうに」とは言えるようになります。これは、仮定法過去の原則的な定義が"現在の事実とは逆の事柄を述べる"だからです。しかし、では「来年あたり、もうかっているかもしれないのに」については、どー言えばいいのか? 今度はこの疑問が発生し、また解答を求めて学習者はさまよい歩かなければならないとゆー、これが!! 以前も言った通り「日本の学校英語が体系立てた解説をしていない」ことの、まさに弊害の実例そのものなんですね。

そもそも「仮定とは、どのような時に発生するのか」という根本的なところから解説しておけば、はっきり言って仮定法なんて例文せいぜい10個覚えれば済む。だって、殆どそれだけしかパターンないんだもん。それを上の公式のように、「過去の事実の反対+過去の事実の反対」というパターンを、さもそれだけが唯一無二の仮定法過去完了の使い方であるかのように書いてあるから! 学習者はカン違いと混乱の渦に巻き込まれてしまうんじゃないですか。

とゆーことで、私はここ一週間、仮定法と闘っていたわけです。戦果は近々、あやぼー流解説をアップしますので、そちらでご確認下さいまし。申し訳ありませんが、そんな事情なので今回は連載小説を1回お休みさせて頂きます。代わりと言ってはなんですが、先日、京都に行く用事があってちょこっとプチ観光してきましたので、そのレポートをアップしてみました。おヒマでしたら、そちらもチェックしてみてもらえると嬉しいです。

文法教室は仮定法が終わったら、あと大きなものは話法くらいしか残っていないので、この死闘が終結したあかつきには小説の方に全力投球したいと思っております。なにとぞ、よしなに♪

       

2011/1/10

★文法教室★

そんなこんなやってるうちに、1月も早や十日が過ぎてしまってますね。この調子でまたズルズルと一年が過ぎてしまわないように、今年は気合いを入れて頑張るつもりなんですが、そこで約1年間止まったままになっていた文法教室の続きをやっとこさ仕上げました。今回のテーマは"疑問詞"。しかし、"準動詞"の解説を仕上げた段階で厄介な部分は済んだと思って安心してたのに、やってみると"たかだか疑問詞ふぜいでなんでこんなに苦労せなならんの?" と思うくらい難航してしまったんだな、これが。

いや、"私が疑問詞を理解していないから解説できなかった"とゆーことではなく、これまでも思ってたことですが、どうも世の中に出回っている文法の参考書ってやつは説明不足で、そのへんを補って体系立てようとすると、まとめあげるのに多大な労力を必要としてしまうみたいなんです。今の知識をベースにして改めて見てみると、こんな参考書使ってたら分かるもんも分からなくて当然だよと思いますよ。なにしろ読んでると次々"これはどーなるんだ?"みたいな疑問点が出てきて、その解決のためには参考書中を探し回らなきゃならないとか、挙句の果てに甚だしくはこっちのには出てないけど、あっちのでやっと出て来たとか、どーしてコレをココに書いておかないんだ?!?!?!みたいな? とにかく機能的に体系立てられていない文法本が非常に多いんではないか? と思わざるを得ない状態なんですね。だから、学習する側は本来知っていなければならないことを知らないままになってしまって、結果として先日書いてたようなワケの分からん英文が、有名企業のパンフレットに平気で登場することになっちゃったりするんだな。

で、そのへんを出来るだけ抜け落ちがないように、項目ごとに体系立ててまとめあげようとすると、なかなか大事業になってしまうというお話です。私は最初、こんなに細かく文法を解説するつもりなんかなかったのに、その"一般の参考書の機能性のなさ"に学習者として腹が立ってきて、もーこの際、私が究極の文法書を書いてやる! みたいな気分になってしまった。それで、最初の方はわりと軽く流してたことでもあるし、今後、可能な限り"これひとつでスッキリ分かる!"みたいな文法教室を目指して、改訂に改訂を重ねてゆく所存でございます。つくづく、なんでそーゆーことをもっと早く誰かがやっといてくれなかったんだ! と思いませんか? そういうものがあったら、私だってもっと早く英語に不自由がなくなっていたかもしれないのに〜。今の世の中、英語が使えるか使えないか、これは人間の一生に関わる大問題なんだぞ!!!

     

       

     

     

2010/11/28

★情報の選択★

先日買ったケータイに"EZニュースEX"とかゆーのを無理矢理付けさせられたので、ついついその内容をここ一週間ほど見るハメに陥ってたんですが...。あくまで私個人の結論ですけど、これは殆ど"ムダの集積"と言うべきものではないかと。

もともと私は過去二十年来に渡って新聞ともテレビとも縁切って生きてるヒトなんで、一般に無意識のうちに世間から押し付けられる膨大な、しかも殆どはムダの集積でしかない情報でアタマをいっぱいにされるということの弊害からは離脱した生活をしてます。だから情報内容に鈍化している一般の感覚からすると、ずっと敏感にそういうことを感じ取れる立場にあるわけです。その立場から言わせてもらえば、"こんなの不用意に毎日読んでたら、「大事なことは何も入ってないアタマ」になっても仕方はない。潰してるヒマに、外国語のひとつも覚えた方がよっぽど人生のためになるぞ"

まあ、やることやってて、たまのゴラクに目を通すくらいなら問題ないと思いますけど、言うまでもなく人間の"時間"というものは限られているんですから、それをどう使うかで人生変わってくるのは当然の話。例えば、"近場のヤクザ国家が、またハタ迷惑な自己主張をやったらしい"なんて情報は国際情勢を把握するという点で重要な部類に入るかもしれませんが、そんなのはどーでもいーよーな芸能ニュースに埋もれて上っ面しか撫でてない記事読んだって大した知識にはならない。例のバカ国家については私は80年代からイヤというほどよく知ってるし(当時、そのテの本は山ほど読んだ)、誰かさっさと潰してくれよ、と思い続けてますけどね。実際今、あの"首領さま"が目の前にいて私が銃を持ってたら、"いつでもドタマぶちぬいたるで"くらい腹は立ってるんです、その存在そのものに。

ともあれ、こういう種類の社会的に重要視されるニュースはたいがい、毎日日米の主要株価指数にチェック入れてりゃイヤでも入ってくるし、日本の新聞記者等、大半のジャーナリストの知的レベルについては全く信頼を置いていないので、その低い知的レベルのフィルターがかかった内容の記事なんてそもそも不要。要するに、情報の入れ方にも注意しないとアタマ悪くなるぞってことよね。

それに、精神衛生上宜しくない内容の記事も一緒にナダレこんでくることになるから、それを日常として無意識にやってると知らず知らずのうちに世間ズレを起こすというか、ものごとに対して悪い方向に無感覚になってくのも当然かと思える。"誰でもやってる日常"だけど、それが"日常"であるがゆえに、人格に大きく影響してしまうのも当然だな。う〜ん、なんて危ないんだろう...。

まあだから、戦後、特にテレビの普及から始まる"ムダ情報の垂れ流し"が、"人間の人格形成に大きく影響して現代のような状況を現出するひとつの大きな要因となっている"とは言えるんじゃないかな?

それともうひとつ気になるのは、日常会話の内容が主体性のないものになりがちであるという点。お天気の話なんてのは、社交辞令でちょっとした挨拶とか会話とかしなければならないシチュエーションでよく便利に出されるものだと思うけど、それに加えて昨今、よくある日常会話が血液型だとか、占いだとか、芸能ニュースだとか、テレビやラジオで聞いた話だとか、そういう実際には自分に大して関りのない話題で終始しがちになってないかということね。思うに、ああいう垂れ流し情報は、"話題のない人"、"知識のない人"、"自分の考えがない人"、"主体性のない人"、つまりは"話すべきことが自分の内側に何もない人"にこそ社交上必要なものなんではないかということだ。確かに"日常の潤滑油としての会話"は必要であるとしても問題はその内容で、こんな話ばかりしてるヤツが「価値ある人間関係」なんてものを築いてゆけると思うか? そもそもその程度の人間を回りに集める値打ちが、人生においてどこにあるとゆーんだ? 

いや、これはあくまで私見ですよ、私見。あくまでも意見には個人差があり、著しく反社会的でない限り、現代日本においてはどのような意見でも持つ権利が認められています。ただ、その考え方が自分の人生にどー影響するかについては、自分で責任取らなきゃならなくなるだけです。(きゃはははは)

ま、情報は賢く取り入れて、ムダなものに振り回されないようにしましょう、ということですね♪

     

2010/10/19

★なんとかしてくれ★

"This product is designed for use in Japan only and cannot be use other country."

― 作 : KDDI株式会社、広報担当

「本製品は、日本国内でのご利用を前提としています。国外に持ち出してのご利用はできません。」と言いたいらしいんですが、私、心から問い質したいのは、"あなた、ほんとーにっ、中学出てるんでしょうね?!"ということで、皆さんもお分かりかと思いますが、あんまりじゃないですか? コレ。

こんなの"Domestic use only, NOT available in other countries"でいいんだ! これがこういう場合の定型文なんだ! どーせ、そんなことも知らんのだろうが、コイツがもし大学を出ているとしたら、その卒業した大学が例え東大だろうと京大だろうとっ! 即刻、英語教育から手を引かせろ! ノウハウを確立するまで、営業停止処分だ!!

とにかく情けないのは特に後半で、"be"の後になんで"use"なんだよ(コレ、中学レベル...)。そこでそもそも英語になってないんだが、このuse は名詞のつもりなのか、動詞のつもりなのか? おまけに目的語と修飾語の区別もつかんのか、コイツは。"use other country"は日本語にすると"他の国を使う"だろ? useが名詞のつもりなら、金輪際、意味なんか成立せんわっ! しかも、なんでcountryが単数形? この場合、明らかに"他の国々"の意味なんだから、一般に複数形が当然でしょ?

これを無理矢理に意味だけは通るようにするとすれば、cannot be used in other countries だったら使えんこともないと思うが、"機能する"というニュアンスの場合、一般には"available"が使われることが多い。そもそも、こういうパンフレットなどの文章はスペース限られているんだから、冗長にならず、簡潔に内容を伝えることが鉄則なんだ。こんなにズルズルとヘタ!!くそな文章にするんじゃない!!

それに前半だってね、これまた無理矢理に意味だけ通すとすれば"be designed for using only in Japan(日本でのみ使用するために規格されている)"もしくは"be designed for domestic use(国内利用を目的として規格されている)"だとまだマシかと思う。しかし、ここでもコイツはuseに対する品詞理解が曖昧なまま英作文してしまっている。use in Japan(日本で使う) と続けるならこのuseは動詞扱いであるべきで、従って前置詞forの後に持ってくるなら「動名詞」にしなければならんのだ。別に文法縛りでうるさく言ってるわけじゃなく、この文はブロークンとしてさえ通らない、全くの誤文だということだな。立派な大企業なんだから、広範囲に配布する印刷物の英文くらい責任持て! せめて基本だけでも理解してるヤツに書かせろよ。これに企業としてチェックかからんというのが、もー、あんまりにも情けない。要するに、KDDI広報にはコレを"意味が通ってない"と指摘するヤツがおらんということなんだから。もうこの際、ついでに直訳してやる。

「この製品は日本で利用ために規格されています。そして、他の国使うはずはありません/利用はずはありません

日本人にはどうでもいいかもしれないけど、英文を挿入するということは英語を日常語としてる人たちにその内容を伝えたいからあえて入れるわけで(それとも、ファッションなんかい?!)、そうするとこの英文で内容を知ろうとするヒトたちがどう感じると思うよ? どー考えても"にっぽんじんってバカ?"と思われても仕方ないくらいのハジだと思うぞ。こんなんコレだけじゃなく、日本産のパンフレットとか見てるといくらでもあるから困る。

ともかく、おそらくは受験とかなんとかでavailable(利用できる)、domestic(国内の)という形容詞があることくらいはコイツも知ってると思うけど、現実に使われている英文にウトいもんだから、"こういう時に使う"という実際的な知識がなく、結果として一生懸命"英作文"しようとするもこの始末。そもそも「使う」とか「利用」というと「use」しか思い浮かばないというのが情けない。日本の学校英語に欠落している点は数々あれど、"実際的な用法の知識を蓄えない"というのもそのひとつで、その決定的な例としてご紹介してみました。

皆さん、有名企業の発行している印刷物と言えども、こういう英文を決して鵜呑みにしないようにご注意下さいませ♪

      

2010/7/13

★与党大敗★

"政治なんて国が壊れない程度にやっててくれりゃいー"と思ってるし、政治家になんて何の期待もしてないので選挙には絶対!! 行かないことにしているあやぼーなんですが、ってゆーか、今の状況で選挙行ってもなあ...。とにかく小市民的でアホとしか思えないよーな主張しかしてない政治家に、とりあえずどれか選んで票を入れるということは、それそのものが国を滅ぼす行為に加担してるんじゃないかとゆー気すら最近してるんだな、私は。

で、まあ民主党ですが...。はっきり言って、私はコレが与党になったこと自体が単に自民党にウンザリしていた国民が、違うとこだったらちょっとは何かしてくれるんじゃないかという淡い期待を一時的に寄せてみただけとゆー、浮き草的な成り上がりだと思ってたからこうなるのも予測はついてましたね。

そもそもこの春、本来はこの時期12000円近くまで上がってもおかしくない株価が、せいぜい11000円超えるくらいしか上がらなかった。で、その時期だったか、ちょっと前だったかに"日本が政治的に何らかの経済対策を示さない限り、国債の格付けを落とすぞ!" とゆー、海外の格付け会社のコメントが出たことがあったのをご存知の方もあるかと思います。実際、民主党が与党になってからというもの、何のつもりか円高に対して何の対策も取らず、それが株価にも大きく影響したことがあったわけで、昨今、投資なんて一般のご家庭にまで広がってるんだから、こういうところからも"民主党はあかん"という印象が広まったことは想像に難くないんじゃないかな。そういう種類の"恨み"は当然、尾を引きますよ。なにしろ、例えご家庭の主婦の一口投資であっても、このご時世にみんな大事なお金かかってるんですからね。

民主党に限らず、昨今の政治家の言ってることって、例えばあの"子育て支援金"ってなに? ああいうのが"近視眼的"でなくていったい何なのよ? 日本全体が景気良くなれば、そんな小銭アテにしなきゃなんない人だっていなくなるのよ。それをさ、大局的見地に立って世界経済における日本のスタンスを維持するとか、促進するとか、そーゆーことは全く考えず、それこそアホな国民相手に"小銭やるから票入れてくれ"的なレベルの低いこと言ってて、日本経済が積極的に立ち直るわけないじゃないですか。それに、少子化が主に将来の年金制度に支障をきたすとかって、だからコドモ増やせばいいってか? あまりにもバカバカしいリクツなんで呆れ返るしかないですね、コレに至っては。

ちょっと考えてみれば分かることですが、今や、アパートも借りられずネット難民と化してる若いヒトも少なくないとゆーのに、これから生まれてくる子供が将来的に年金の掛け金ちゃんと払えるほどの収入を得られる保障なんてどこにもない。今の"バカ製造システム"に成り下がった教育をこれから生まれてくる子供たちにも適用すれば、結局、ネット難民になるしかないような人間を増やすだけで、結果として将来、国費で養ってやらなきゃならない老人が増えるだけでしょーが。そういうのを悪循環とゆーのよ、悪循環と。だから、大局的見地に立てば、まず国内での対策としては何より教育改革が絶対急務であり、そこに必要ならそれなりの金をかける方が先なのよ。しかし、偏差値バカが成り上がっただけの肩書きバカがしがみついて巣くってるだけの政府に、そんな上等なコトが出来るアタマがまずないのも分かってるけどね。

ついでだから言いますけど、今の政治家って"弱者に優しい"よーなこと言ってはいるけど、本当に社会的弱者に配慮しようなんて啓蒙レベルの高いヒトがどれほどいるのかってことで、"社会的弱者"というなら、いまの日本、最もそういう立場にあるのはホームレスの人たちや、親に虐待されてるとか、親がいないとかで普通より辛い立場に立たされてる子供たちだろうと思うけど、ホームレスの社会復帰だとか、親のいない子供の救済だとか、そういうことを大きく叫ぶ政治家なんて殆どいないじゃないの。そのくせ、"子育て支援金"? それも育てる金も自分で稼げないくせに3人目の子供が欲しいわ〜なんて言ってるアホにそんな金渡しても! 遺伝子的見地から見て役立たずが増えるだけの可能性は極めて高いぞ。しかし、そういうのが一般家庭にはアピールするから票に繋がると考えてるんでしょうよ、アホな(自称)政治家どもは。

では、なんで本当の究極的弱者であるホームレスや孤児の救済を誰も叫ばないかと言えば、それはホームレスは全体から見て数が少ない(大して票にならない)し、子供には選挙権がないから! だから連中のは単なる"エセ弱者崇拝"だと言うのよね。票になるから拝んでるだけ。でも、国の将来なんて、なっんにも! 考えてはいないし、そもそも考えるだけのアタマもない。期待するだけムダ! だから、自分のことは自分でやるしかないのだ♪

このままいくと...。あんまりしたくない予言ですけどね。昨年、株価がどん底落ちた時に"日本経済置き去り説"ってのがまことしやかに囁かれてて、それって海外の景気は回復しても、日本はそれからツマはじきされるんじゃないかっていう懸念だったんですが、その時点ではまあ、私も含めて大半は笑い飛ばしてました。少なくとも今の段階で、そこまで世界経済における日本の位置が崩れ去ってしまうほど酷いとこまではゆくまいと。しかし、十年後はどうだか分からない。思うに、今のままいくと今後、徐々に日本の株価は最高値をどんどん切り下げてきて、十年も経つと最高値で12000〜13000円とか、10000円とかくらいになっちゃうんじゃないか。まあ、産業と教育と政治がトリプルで空洞化してりゃ、当然の結果ですよね、それって。今の政治家(あいつらはアタマが空洞化してるんだ、アタマが!)に、それ全部なんとかできるだけの能力があると思います? ま、これに対する結論は各自で出して頂ければ宜しいんじゃないかとゆーことで、ヨロシク♪

     

2010/4/19-4/20

★JAL本★

巷の書店ではハデにコケたJALをネタに一発当てようと、JAL本が何冊も出回っているようです。ここんとこちょこちょこ株でお小遣い稼ぎしてる話はだいぶ前に書いたと思いますが、一応毎日、日経とダウはリアルタイムでチェック入れてるので、私もJALの話はおのずと知るところとなってました。(うちテレビないからね。ついでに最近はラジオも全然聞かないから浮世の情報源はネットくらいしかないのだ。おかげで平和で文化的な生活が楽しめてるぞ♪)

で、あのJALがなあ...、とけっこう感慨あったもんですから、ご多分にもれず、なんで? という興味はあったのよ。それで、普段はそういうマスコミのバカ騒ぎに便乗したような本なんて絶対買わないんですけど、いっぺん読んでみよーかいという気になって1冊買ってきてみました。それは"ある客室乗務員のJAL実態バクロ本"といった種類のもので、なかなか面白かったです。冷たいようですが、まあ、しょせんヒトんちの火事ですからね、こんなの。笑って読めました。なんでこんなに冷たく言い放つかというと、やっぱりなあ、というか、そーゆー生き方してるから、こーゆーことになるのよと言いたいような内容だったからです。

いろいろな見方があると思うし、ああいう事態では原因は複合的である方が自然だと思うので一概には言えないと思いますが、少なくとも私が読んだ本から得た印象としては、"国鉄型の破滅ケース"と言えるなあと思いました。国鉄がコケてJRになったのなんてもうどーかすると30年近くも前の話じゃないかと思うんで、"国鉄があった時代なんて、私生まれてないよ"とゆー読者の方すらいらっしゃるかもしれません。私もそんなに詳しく知ってるわけではありませんが、あれも赤字路線が放置されたままだったとか、所謂"親方日の丸"の傲慢のもとに組合が無理を通して多くの不心得な職員に好き勝手やらせてきたとか、それこれのツケが最後に清算されざるを得なくなったケースでしたよね。 まさに、JALもその種の実態が少なくとも崩壊の大きな要素として内在していたとはいえるんでしょう。

しかし、はっきり言ってそれって実はJALだけの問題ではないと思う。JALがとうとうコケたのを見て戦々恐々としている同じような会社なんていくらもあると思うし、おんなじよーなことやってて"明日は我が身"なヒトたちだっていっぱいいるでしょうしね。JALだって昔はあれだけ立派な会社だったんだから、こうまでなるには長い間の負の蓄積があったわけで、逆に言えば昔はこんなじゃなかったとも言える。結局それはやはり、昔の"立派なJAL"を支えていた数十年前までの優秀な社員が退職し、次世代に受け継がれてこの始末、ってことなんじゃないのかな。そして"次世代に受け継がれてこの始末"なのは、日本経済全般に、そして政界にも言えることなわけですよ。

以前にも書いたと思うけど、例えば日経平均が80年代の崩壊以降、結局どーやってもこーやっても2万台に戻らないのは共産圏の崩壊とも大きく関連のあることで内部的な要因だけではない。しかし、内部的な要因も少なからずあるということもいーかげん自覚しろよ、ってことよね。

で、呆れたのはさ、英語がらみなんで特に笑ったとゆーか、アホ! と思ったエピソードで、"パイロットが管制塔の指示を聞き間違って危うく大惨事!"なんてことが実際にあったらしいという話ね。大惨事! までならなくても、管制塔の指示を聞き間違ったなんて例はいくらもあるそうです。全世界共通で管制塔って英語でやり取りするじゃないですか。つまり、文藝春秋が「この本に書かれたことは全部事実です」と宣言してるのを信じるとすれば、JALのパイロットの中には、単純な指示を、つまり、離陸を許可するとか、しばらく待てとか、絶対、絶対、絶対、殆ど定形文に等しいレベルの英語を! 聞き間違えるヒトがいるとゆー! これはやっぱり笑っちゃいませんか? (利用客にとっては笑いごとで済まんと思うが...)

いや、これはね、別にそのパイロットご本人だけをターゲットに言ってることじゃなく、こういうパイロットも結局は"日本の英語教育"という"状況の犠牲者"だってことなんだな。そもそも日本の学校教育がしっかりしてれば、義務教育の間にバイリンガルにしてしまうことは可能なんです。アジアにはご存知の通り多いし、日本より遥かにGNPでは劣るとされるブータンでも英語は小学生でも不自由ないって言いますからね。それどころか、三ヶ国語いっちゃうコまでいるとゆー。王さまがしっかりしてりゃ、そのくらいのことはあんな不便な場所にある国でもやっちゃえるってことなのよね。 翻って日本は80年代から有識者に散々"旧態依然"と叩かれながらも未だにあのバカげた学校英語擁護を押し通して、"発音もマトモにできない英語教師"を放置し続けている。

そーゆーことを続けている限り、いずれは"日本株式会社"(高度成長期にはこういう異名があったんだ)丸ごとJALの二の舞踏みますね。JAL崩壊は単なるひとつの縮図でしかないんだから。そして、そうなった時に自分を救うのは、やっぱり"個人の実際的な力"なのは言うまでもないです。資格さえ掠め取れば簡単な英語でも聞き間違えるような語学力でもパイロットにはなれたかもしれない(もしかして、パイロットにも"裏口"があったとか?)。しかしそんなものはどうカッコつけようと単なるメッキでしかないから、こうやっていずれハゲる。 もちろん、本当に優秀なパイロットの方もいらっしゃるわけで、そういう方は結局、窮地でほど必要とされるから困らないでしょうけど、ごっこ遊びはしょせんごっこ遊びなんで甘えた根性で一生見栄張り続けられると思うのが畜生の浅ましさってヤツだな。それはパイロットだけじゃなく、あらゆる職種について言えると思いますけどね。ともかく、こういうことをわれわれ若いもんは教訓として受け取り、個人としての本当の実力をつけられるよう頑張ってゆくしかないですよ♪

ちなみに誤解の無いように言っておきますが、私はこの"JAL本"をおすすめしているわけではありません。ヒマつぶしにはそれなり面白かったというだけの話なので、そこんとこどうぞヨロシク!

     

2010/3/14-3/15

★松花堂弁当★

さて先日、私は3万円のフルコースと、特価250円の松花堂弁当を横並びにして比べてしまいました。そんな大それたことをしていいのか?!?! と思われた方もあったかもしれないので、ついでだし言います。いいんです。(断言)

美味しいかそうでないか、それは値段ではなく本人がどう感じるかの問題なんで、例え3万円しても本人がまずいと思えばまずいんだ。それに加えて私が言いたかったのは、要するに、"特価250円のスーパーの松花堂弁当"と比べられる程度の味しか提供してない日本のフレンチ業界のカン違いそのものなんだな。プライドだけは高いが、それで客が納得すると思うな。今どきは、若いコでも本当に好きなコは海外行ったりとかして、どーかするとヘタな料理人よか美味いもん食ってんだ。従って、味を知らないと思ったら大間違いだぞ。それに一般から、"フランス料理って高いばかりで美味しくない"なんて評価が出ること自体が恥だと思え。レストランなんてお客さまに、まず味でご満足して頂いてなんぼの商売だって知らないのか?! 

とゆーことで、もちろん例外的に美味しいものを出してるとこもあるでしょうけど、そういう努力をしているところは別として、本当にきっちり作ったフレンチは本当に美味しいのに、その名誉を汚すよーな味のもん出すな! ってことよね。それって単なるカタリのボッたくりだと思うぞ!!(怒怒怒)

          

★不老不死★

古来から、不老不死は人間の夢のように言われて来ましたが、しかし、"不老"はともかく"不死"はどうかなあと疑問に思う今日このごろ。

昔のヒトの寿命って、例えば平安時代なんて40代とかがせいぜいで、50代まで生きる人はそんなにいなかったんじゃなかったっけ? そのくらいじゃ人生短すぎてもっと生きたいと思うだろうけど、現代では80代くらいは普通。それでもやっぱりまだ短いんだろうな。百でもまだもっと生きたいと思うかも。けど、じゃ、二百歳だったらどうだろう? 例え、身体機能は衰えなかったとしても、二百年っつったら、なんか生きるの飽きて来ないか? さすがにそれだけ生きたらすることなくなって来るんじゃないかと思うのよね。ましてや、三百年とか四百年とか、実際そのトシになったらどう思うか分からないけど、少なくとも今の段階ではそんなにはいいよなあ...、という気がするんだな。

ま、"過ぎたるは及ばざるがごとし"という諺もありますが、人間ってのは一般に極端から極端へ走る傾向ってあるよね。死ぬのがイヤだから死なない方がいい、と、これも極端から極端へ走ってるわけで中間がない。それ考えるとやはり、"過ぎたるは及ばざるがごとし"って諺は偉大かもなあと思う。中庸とか、腹八分目とか。

栗本薫さんの作品にも"永遠の生命を得た美女"なんて出てきますけどけっこう壮絶だし、新谷かおるさんの"Quo Vadis"、あれ、最近6巻出ましたが、オーディンの八千年は論外としても、ルーの六百年とかね。なんだかなあ...、と考えさせられてしまうのは私だけでしょーか? まあ、長く生きればいいってもんでもないわな。月並みな結論かもしれませんけど、要は、短くとも充実した一生を送ることが大切ってことですかね。

     

2009/7/8

★そごう閉店★

先日、心斎橋に行ったら、どうやらこちらのそごうがこの秋頃までに閉店するらしく、その告知が出てました。またナビオみたいに改装して再出発てのもアリかもしれないけど、でも心斎橋そごうってわりと最近全面改装してリオープンしたんじゃなかったか? 確かそうだと思うんですけど、結局、業績が悪いってことなんでしょうね。

この前ちょっと、こちらにウエッジウッド・ティルームが入ってると知って行ってみたんですが、以前ヒルトンにあったのとはまるで違ってて少なくとも私には全然アピールしなかったし、その時、そごうそのものの店内も見てみたんだけど、これはもう、完全に時代を読み間違ってるなと思ったもんなあ。

ひと口で言えば"中途半端な高級感"というか、やってる方はブランド並べて高級路線でやってるつもりなんでしょうけど、キビシイ言い方すれば、こーゆーとこで喜んで買い物するのはイナカの成金さんだけだよ、みたいな? まあそれは、最近のヒルトンとかにも言えることですけどねえ。昨今、本気でスマートなカネモチだったらまずブランド品なんて海外行ったついでに買ってこないか? 

だから、本気で高級感ウリにするならもっとやりようはいくらでもあったし(ラフなファッションだと入店お断りとか、会員制で入会金何百万とか、常連客であることがステイタスになるようなシステム作りとか)、逆に庶民的な雰囲気を極めてればそれはそれでもっと客層広げられただろうなと。実際、隣の大丸はいつ行ってもけっこう人多くて繁盛してるみたいだし、こっちはモトからそんなに全体の雰囲気が変わってませんからね。50年前ならともかく、今どきデパートに高級感求めるヒトってどのくらいいるんだろう。どっちかってばもう、わりと庶民的な場所になってると思うんだけど、それならそちらに合わせたそこそこな店作りの方がお客さん安心して買い物出来るんじゃないですか?

どちらにしても今の時代"中途半端"は絶対命取りになるのに、これはもう経営者側の文化レベルの低さが決定的に出たなというよーに、わたくしはお見受けいたしました。経営陣そのものが"本当に高級であること"の意義を全然理解していなくて、彼らの考える"高級感"で店作ったらイナカセンスだったとゆーだけのことでしょう。それじゃ、本当に大金落としてくれるオネカモチ(誤解のないように言っておきますけど、当然私はこの範疇には入っていない)からは見捨てられるだけだと思うけどなあ...。

本当の"老舗"っていうのは、どんな時代でもポリシー変えないもので、だからこそしっかりした顧客がつくし、不況の時にもそれで乗り切ってけるってあると思うのね。それに、どんなに高くても、一生懸命お金ためてでもいつかは欲しい! ってものを作り(売り)続けてるってのもあるよね。自己のポリシーがなく、時代に流されてふらふらうろうろ、これはもう企業だけじゃなく、個人の生き方としても絶対成功しない方法じゃないかな。教訓としては、"時代は読まねばならないが、時代に流されるな"ですかね、やっぱり。 

     

2009/4/25

★うるさ〜い★

黄色いのがウチの賢ファビ、ひなちゃん

かしこそうでしょ?

 

以前、うちのファビベイビーのひなちゃんが、騒々しく窓の外でがなりたてている選挙カーに対してヒトコト、"うるさ〜い!"

これには私も驚きましたが、聴覚のあるファビたちにはあれはきっちり"騒音"として認識されるようで、しかもそれが、"家の中にいるのに外でしている音に反応した"ってのがね。よっぽど本気でうるさかったんだな。いや、私もうるさいなとは思ってたんですけど。

さて、ここ数日、窓の外ではあのアホな選挙カーが、どこの誰とも分からんおっちゃん、おばちゃんの名前をがなりたててうるさいのなんの、これは皆さま、毎度選挙となると多くの方が感じておられることかと思います。

以前もココで同じようなことを書いたとは思いますが、そもそもああいう"環境を汚染する騒音"を平気で垂れ流すことに疑問すら持たない連中に、現在の日本の、"難しい"を通り越して"末期的な"状況を救える知性があるのか? どー、考えてもないんじゃないかとしか思えないんですが...。

そもそも、このネット全盛の世の中に、"選挙の時だけ名前をがなりたててくる"というところに、人間としての程度の低さが伺われる。 もし本当に"政治信条を持ち、日本を良くしたい"という熱意のあるヒトなら、今の世の中、それをアピールするために日常からサイトのひとつも開いて、現代の日本や地方行政が抱える問題に対して人々の関心を喚起するような熱心な活動をしててあたりまえじゃないでしょーか? そうすればそれが本物で値打ちのある活動である限り、そこで既に名前も、その信条も多くのヒトが知るところとなっているはずで、そうであってみれば選挙カーで"環境汚染な騒音、ムダ金、ムダなガソリンをまいて回る"ような非文化的でアホなことしなくても、選挙民はちゃんと投票所に足を運んで一票を投じてくれると思いますよ。それが"本当に人を動かす"ということであり、"人間と人間の相互理解に基づいた信頼をもって行政を任せる"ということだと思うんですけど?

どこの誰ともよー分からん、個性も人間的魅力も、ついでに言えば思想・哲学を理解するオツムとか、マトモな政治信条すらあるかないか知れないおっちゃん、おばちゃんに、誰が信頼を寄せたりするかとゆー、この基本のところをですね、あのヒトたちは全然分かっとらんのだな。

国は、というよりも、そこで行政に従事する人間は、選挙権を行使しない国民を非難するより先に「投票率が落ちているのは、ロクな候補者が出ないからだ」ということを改めて認識してもらわなければ困る。私に言わせれば、「投票率何%以下の選挙は無効としてやり直す」くらいでないと、結局、有権者の多くが棄権という形で"認めていない者"に行政を任せるという有名無実がまかり通り、つまりは民主主義に基づく政治なんてものは"お飾り"だということになってしまう。そんなものに人がマジメに興味持つかどうか、これは所謂ひとつの"悪循環"というものなのに、ちょっとはそのへん考えるアタマすらないのかな、昨今の政治家なんてものは。

いや、結局は"日本を良くしよう"なんて理想はハナから持っていず、だから彼らにとっては国民とか、"国民の理解を得る"なんてことはどーでもよくて、自分が"政治家の肩書きを持てればそれで良い"程度の連中のやってるコトなら、あの行動もよく理解できる。ま、そんなてーのーな政治家ばかりではないと信じたいと、例え私が周りをはばかってココで書いたとしても、"いやしねーよ、そんなもの"という賢明な読者の皆サマの声が聞こえてくるよーな気がするのは、単なる錯覚だろーか?

まあ、もともと現行の"民主主義制度"そのものが穴だらけの思想と方法論に基づくもので、そりゃ、こうなってアタリマエなんですけどね。さっきの、"ロクな候補者が出なくて棄権者が多くても、選挙は1回で成立してしまう"というのも、システム上の欠陥のひとつだな。

社会主義、共産主義は、"経済的に立ち行かない"という目に見えた結論をはっきり出したために"崩壊できて"むしろ良かったんじゃないかと思いますが、民主主義の場合は、目に見える負の結果がはっきり出にくいために、日本においても既に実質的には破綻してるにもかかわらず、ズルズルそのまま続いているという点で始末が悪い、というかキズは深いかもしれません。これもまた、様々な社会問題と直接、間接を問わず関係してくることなんですけど、そんなとこまで読める政治家なんて今やまずいるまいな。

ま、私は"自分のことは自分でする主義"なヒトなので、根本的に政治なんて世の中壊れない程度にやっててくれりゃいい、くらいに思ってるから、政治家がバカでもサルでもこっちに実害なきゃいいですけど、しかし、いつ頃から誰が始めたのか知らんが、選挙と言えばあのステロタイプな選挙カーの騒々しい騒ぎ。お願いだから、そろそろその方法だけでも他人サマの迷惑にならないよう変えてもらいたいと思ってしまうのは、決して私だけではないはずだ。い〜かげん、なんとかしろ〜♪

*****

P.S. 今もうるさく回って来たんで気づいたんですけど、あいつらゆーことまでステロタイプなんだよね。選挙と言えばそのセリフしかないんかい、とつっこみたくなるよーな、同じことばかり言ってるんだもん。ちょっとはオリジナルな謳い文句とか、目立つフレーズくらい自分で作ったらいいのに。あれじゃ、どれがどれだか分かんなくて、選挙民も選ぶにも選べないと思うんですけど? 再び、なんとかしろ〜♪、だな。

P.S.その2 なんか、選挙活動速報みたいですけど、さっき回って来た共産党のおっちゃんはなかなか良かった。てゆーか、"熱意ある演説"なんてものを、なんか初めて聞いたなってゆー、珍しくヒトを立ち止まらせるような演説やってましたね。私も手を止めて聞いてしまいましたが、近所のオバちゃんも家から出てきて聞いてたりしたし、こういうのならうるさがらずに聞いてやろーかい、という気にさせる熱弁をふるってた。別にそれほど目新しいことを言ってるとか、技術的にうまいとかじゃないんですけど、自分の言ってることに対して本気だなと思わせるものがあったとゆーか。街頭でもよくやってるけど、ああいうのはめったにないな。惜しいなあ、共産党でさえなきゃな(笑)

日本人にはけっこう多いんじゃないかと思うけど、私は無条件に共産党アレルギーなんで、残念ながら1票を投じるわけにはゆきませんが(ってゆーか、私は選挙に行かない主義なんで)、でも、あのおっちゃんは当選しそう。共産党なんてヤメて無所属とかで出た方がウケるんじゃないかという気もするな。ああいう"芸"を見せてくれる候補者がもっと増えたら面白いかもしれないのに...。

     

2009/3/23

★最近の銀行★

ファンタジーなウサギちゃんの話題からいきなり現実に飛びますが、低迷してますねえ、昨今の株価。まあ、NYダウがじりじり上がって来てるので、時期的に見ても5月頃からは日本株もじわじわ回復に向うんじゃないかと思いますけど、それにしても一気には上がりますまいな。

昨今、金融危機が叫ばれる世の中ですが、それにつけても最近の銀行は、なんだかなあ...というか、危機的状況に陥っても仕方ないというか、どうも"なってない"感じがするのは私だけかな? 

だって、何日か前に私、低迷する金融業界に見切りをつけて、もーいーから自分で儲けるわっと投資に回すために定期預金の一部解約に行って来たんですけど、金額的にはそんなに大きなものじゃないのに、なんと! 完了するのに50分もかかったんですよ、50分もっっっ!! しかも、お客さんなんてぜーんぜんいないのにっ! 待ってるお客さんゼロの状態なのにっ!!! 30人待ってるとかだったらまだ分かるけどっ!!! なんなんだ、この生産性のなさは! と叫びたいような時間のかかり方だと思いませんか?

大阪市内の某銀行支店では10分もかからずに完了するような小額の解約が、なんで50分もかかるかな。銀行が違うからなのか、地方の支店に回す人材がないからなのか知らないけど、立派な都市銀行なのに、うちの近場の支店はなぜかこーゆーのが多い。そもそも、80年代までは銀行にこの種の手続きをしに行ったら、ぱっぱっぱって、お店すいてれば5分! くらいで終わるようなことですよ。それがどうも、このところもたもた、もたもた、コンピュータ自体は進化してるはずなのに、同じ手続きでなんで昔より何倍も時間かかるかな。

もともと私は、現在の日本経済の低迷の最大の原因は"人間"、つまり、これはもう殆ど"人災"と言っていいようなものだと思ってるんですけど、昔だったらエリート集団だったはずの銀行で、やることこれではなあ...。市内なんかは忙しいし、あんまりどーしよーもないのを置いといたら評判に関わるからそれなりデキる人を置いてるのかもしれないけど、一般に今やもう、銀行につとめてればエリートだっていうのは単なる錯覚と化してるのかもしれん。そりゃもちろん、局地的に優秀な人はいるでしょうけど、金融業界の現在が全てを語ってるというか、この生産性の無さでは企業として傾いてアタリマエというか...。

ふり返れば...。ここんとこ株価チャートを見て、いつごろ下がるか、いつごろ上がるか、とか考えるのが楽しくて(当たっても当たらなくても、うんちくが楽しい)、それで90年代からこっちの株価とかもデータ取って眺めてたんですけど、90年代初頭で26000円以上あった日経平均が今や8000円割れ。ここんとこで、あわや7000円割るかってとこまでゆきましたからねえ。それだって、人為的に買い支えが入って7000円台切らなかっただけのことで、あの時期、野放しになってたらまず間違いなく6000円台出てましたよ。20年も経ってないのに危うく株価が四分の一になりかかるとわっ。

なんで誰も言わないのか不思議で仕方ないんですけど、私は"教育改革なくして日本経済の回復なし"と思ってるので、そのオオモトの教育改革がまるっきり手付かずで、いくら景気刺激策で急場しのぎしたところで、そりゃ一時的には持ち直すかもしれないけど、本気でどうにもならないのは当然ですよね。だって、現在の政治家や経済人もかつてはコドモや学生だったわけで、実社会で役にも立たん学校のおべんきょーは出来たかもしれないが、根本的にアホなままオトナになってるから、しかも最も悪いのは自分がアホと気づかないまま賢いつもりで重要な地位についちゃって、でも実際は右も左も分からんごっこ遊びのコドモ状態。政治家は単に地位目当てで世渡りだけで今の地位に上ったよーなのが多くて、だからその地位を維持するのだけに戦々恐々、経済人は親から会社を継いだはいいが、無能だから業績伸ばすってことが出来ない。こんなんで根本的な改革なんてありえないし、結果としてバブル崩壊後最安値更新、なんてことになるわけですよ。

現在、"人間"がこんな状態で日本経済がなんとか細々でももってるのは、70年代以前に世界経済に大きく食い込んでいたことのおかげであって、株価と国際情勢照らし合わせて見てれば分かってくると思いますけど、80年代から90年代にかけて世界情勢は大きく変化して、ECの連携はあるし、共産圏やアジア諸国の世界経済でのウエイトはどんどん大きくなっているしで、それと相反するようにして日本の株価は右肩下がり。今後期待される代替エネルギー関連、ロボット産業関連では日本の技術力はまだまだ有効(と信じたい)でしょうから、そういう分野で主導的な立場に立てれば日本経済もそれにつれて一時的に登るでしょうけど、問題は、人間がアホなままだと"格差"がどんどん広がり(アタマのいいやつは学校教育なんてアテにしなくても自分で勉強するし、自分で儲けるから)、挙句のハテにそれが社会不安に繋がるだろうということなんだよな。カンタンに言えば、ビンボーになったら人間って気が荒くなるからロクなことしなくなるってゆーか。だから、みんなが平和に暮らすためには、ある程度、みんなに賢くなってもらわなくてはならないし、それが"機会均等"ということにも繋がるし、それで、そのためには教育改革断行が日本経済回復への第一歩! と思うわけですが...。

まあ、実際無理だよなあ、政治家アレではなあ。だから! やっぱり自分のことは自分でやるしかないのかもしれませんが、しかし、それにつけても、小額の定期解約で50分か。これが、今の日本の生産性を象徴しているというコトなんだろうな...。う〜ん。

     

2008/10/10

★時代は栄養学 ?★

うちのグレにはオマケで「血液サラサラ健康辞典」というソフトが付いてるんですが、これは、いろいろな食材が含む栄養素とか、その効能などをホームページ形式で解説してあるもので、Fujitsuの最近のパソコンに標準で付いてくるものみたいです。だから、お持ちの方も多いかと思いますが、"なんか付いてるのは知ってたけど見たことない"というヒトも多いかも。でも、そういう方はぜひ一度ご覧になってみて下さい。なるほど、今どきの医学は栄養学に傾いてってるんだなあという気がしてきますから。

これまでの(西洋)医学は対症療法というか、"病気になったからクスリや手術で治しましょう"という世界なのに比べて、最近の栄養学の進歩は"病気にならないように、こうやって予防しましょう"という意識を高めているんですね。それで、このソフトには"こういう病気にならないためには、コレを食べればよい"みたいな?、そういうことが分かりやすく解説されているわけです。

元々、漢方(東洋医学)は、薬草の効能を利用して体質改善により病気を治したり、病気になりにくくしたりするのが基本的な考え方かと思うんですけど、これは西洋でも古来からハーブなどを利用するという形でずっとあって、そうすると対症療法としての(西洋)医学が発達する前から、こういうものはずっと続いてるってことでしょう。ただ、これまでの(西洋)医学というのは、"病気になっちゃってるものを治す"という、その点で効果が目に見えて分かりやすいこともあって目立ってた。そりゃ、心臓移植とか脳外科とか、こういう劇的なパフォーマンスで死にかけてるヒトが助かったりしたらみんな「すご〜い!!」って思うよね? もちろん、それはそれで意義のあることなんですが、しかし、それに比べると"予防"とか"体質改善"ってのは、"ぢみ"なのは否めない。

だけど、本当は"病気にならない"方が誰にとっても絶対良いわけで、ただ、人間って本当に病気になるまでは、"自分がそんな病気になんかなるわけない"とゆー、何の保証もない希望的観測を盲信して生活してるって、あると思いません? だから、これまで漢方とか栄養学って"ぢみ"な存在にならざるをえなかったんでしょうね。私はよく"野菜食べないと〜"とか言ってるんですけど、今でもそれを"迷信"程度にしか思わないヒトってけっこう多い。まあ、"あんたの命と健康なんだから、私のトクになることでもなし"と、私も別にしつこくは言わないんですけど、でも、実際本当に、野菜食べると食べないとで!! 全然違うんだものなあ。だから、たまに言いたくなるのよ。

最近の栄養学の発展とか、それが注目を浴びている原因というのは、やはりアンチエイジングとすごく関係あるでしょう。"アンチエイジング"と言うとすごく新しく感じられる表現ですけど、実はこれは"不老"という、古来からの人間のユメが科学的に実現しつつあるということで、なかなか"不死"までは無理でも、爆発的に寿命を伸ばすという"不老"に関しては、かなり本格的に現実のものとなってるってことです。つまり"ある程度トシとってるのに、すごく若く見える"これは"死にかけてるヒトが助かる"というのと同じくらい、いや、もしかしたら遥かに人間にとってインパクトのあるコトなんではないかと。そして、その基盤になってるのが"栄養学"ってこともあって、注目度がビシバシ高まってるんだろうね。それにこれは、人体そのものの老化を遅らせる技術なので、見ためだけじゃなく身体そのものも若いまま保たれてるわけです。

それに加えて、栄養素には"様々な病気を予防する働きがある"ということも広く知られるようになってて、ま、"病気にならないで"済めば、長生きもできるとゆーリクツよね?

そう考えると、今や、時代は栄養学なんだなあという気がして、私はなにしろ、"22世紀を見てやる"とか心に決めてたりするし、だからコレを利用しないテはない! と思っちゃうのであった。

何年か前に一念発起して、人参、たまねぎ、ピーマン、キャベツ、もやしの5種を常備野菜とし始めてから、それまで2ヵ月に1回は微熱出してた私が、せいぜい1年に1回くらいしか体調を崩さなくなった!! それに気をよくして、最近はブロッコリ、ニラ、トマト、パセリ、ネギなども常備野菜とし、毎日食べまくってるわけですけど、たまにちょっと食べないでいると、お肌に元気がなくなったりするものなあ。いくら最高級基礎化粧品を使っていても、サプリを山ほど飲んでいても、野菜不足するとブスになってしまうのよ〜。そして、挙句は体調を崩してしまうのよ〜。(ああ、恐ろしい...)

ま、野菜を迷信扱いしてる方は一度ぜひこの「血液サラサラ健康辞典」とか、栄養学に関する分かりやすい本を読んでみられることをオススメしますね。思うにギリシア神話で不老の神々が食べてたと言われるあの"アンブローシア"は、もしかして"究極のサプリメントフード"だったのでは? などと思ったりする、あやぼーなのでした。

     

2007/11/5

★阪急と阪神★

う〜ん、やっぱりもう日本経済は断末魔だな。阪急と阪神が合併するような世の中になっちゃ、どうしようもないってゆーか、さっさと見捨てて出てく算段を早急にせねばならんかもしれん。

てゆーのは、先日書いてた話の続きみたいになりますけど、梅田には阪急百貨店と阪神百貨店というのがあることは関西在住でなくても沢山の方がご存知かと思います。そして、このふたつは昔からビミョーに違う文化を代表する存在だったわけです。阪神はどちらかというと庶民的、阪急はどちらかというとお上品ぽいという感じかな。で、このふたつが合併するなんてことは、特に関西人にとっては信じらんな〜い、なコトなんです。他の地域の方にもイメージして頂けるように言うとすれば、「巨人と阪神がひとつの球団になる」ようなもので、そういうと「ありえな〜い」という気持ちも理解してもらえるのではないでしょうか。

で、銀行の合併なんてのはもう慣れっこで誰も驚かないけど、さすがに阪急と阪神がひとつになるってのには驚いたな、私も。そうすると、この前書いてたナビオの閉店なんかもその影響のひとつなんでしょうね。で、そうなるとどっちがどっちを? みたいな素朴な疑問が生まれるわけですが、まあ、阪神の方が商売うまそうだからなあ。今の世相にも合いそうだし、結局、そっちの色彩が強くなってくんじゃないかという気が私はするな。そうすると梅田のあのあたりも、ますますそーゆー雰囲気になってくんだろうか???

まあ、どちらもがうまくいってりゃ合併なんて話、他ならともかく阪急と阪神の間で出るとは思えないし、そうすると、これは発展的合併ではありえないわけで、どっちもそれなり大変だからひとつにしましょうかみたいな感じなんでしょうね。

阪神って庶民的とか書きましたが、今の日本文化はどんどんそっちよりになってると思いませんか? 「庶民的」であることが悪いということじゃなく、一般に「良い趣味」よりか「庶民的」の方が断然ウケがいい世の中になってると思うのよね。それはそれで全然構わないし、ストレートで健全な変化だったら別に問題ないんだけど、ただ、90年代以降の日本の、そういうある種の「庶民化」には、実は人間性の暗い部分がすごく影響してるような気がする。問題はそこだな。ま、これはAypoo で書くべきネタでもないと思うので、近々「洋楽ファンのひとりごと」で書こう。

ともあれ、阪急と阪神が合併すると、梅田の街がどう変わってゆくのか? 例えばナビオの後に何が出来るのかみたいなことが、梅田全体の雰囲気がどうなるかにも関わってくるだろうし、ま、私としてはあまり楽しみにもできない変化じゃないかな。もうどうせ、梅田には殆ど行かなくなっちゃってるからどーでもいいようなもんだけど、あ、でも阪神まで行かなくてもあのへんでイカ焼き売ってくれるんなら、嬉しいかもしんない♪

        

2007/11/1-11/2

★22世紀を見れるのか?★

例のまーちゃんたちの話、パーツとなるシーンはいろいろ書けてるんですが、冒頭をどうしようかなあとずっと考えてたんです。連載にするには、とにかくお話を始めなきゃならないわけですが、これまた私の小説の書き方というのはヘンで、最初から順に書いてゆくわけじゃないんだな。そのお話のいろいろな場面がランダムに見えてくるので、それを部分的に書いておいたものを後から映画みたいに編集して繋ぐ。だから、真ん中がずーっと続いてるわりに、一編の小説としてまとめようとすると、冒頭がなかなか決まらなかったりするのであった。

で、悩んでたわけですけど、どうやらそのへんもクリアされたようで、来年中にはなんとか連載にこぎつけられる、かな? という感じになっています。ま、その前に以前書いてたDialogue の第一部を出す方が先なんですけどね。それはもう書き上げてある分だから、それ出してる間にまーたちの話をまとめてゆこうかなと思ってます。

さて、まーたちの話は今よりもうちょっと未来ってことになってるんですが、そうすると21世紀後半〜22世紀へ移るあたりということになる。22世紀かと考えてふと思ったのは、あやぼーはもう一回、世紀の変わり目を見ることができるのかなってことなんです。今、十代のヒトでも93年後というと当然100超えてるわけで、みんなが22世紀を見れるわけじゃない。もちろん私も生きてれば100を遥かに上回る年齢になってる。う〜ん、これはどうだろう? 

今、最長寿のヒトがどのくらいかは知らないんですけど、100才を超える方って決して一人、二人ではなかったんじゃないですか? しかも最近はアンチエイジング対策が科学的にも進んでいるし、あれは老化をこれまでよりゆるやかにする技術だと思うので、ますます長寿なヒトは増えると考えられる。事実、これまでならシワだのシミだのが出て当然のような年齢でも、マジメにアンチエイジング努力してるとそういうのに悩まずに済んでるヒトもいるんだよね。私自身もわりとそうだし。科学的裏づけがある技術なだけに、そのへんを理解してサプリとか基礎化粧品とか、いい加減じゃないものを選んで日常生活に取り入れてゆくと、確実に効果はあるようです。もちろんこれには、食生活を正すという基本が不可欠。ただ、始めるのは早ければ早いほどよい。なぜなら、現状維持はできても、一旦老化が進んだ状態を元に戻すってことはまずできないからです。あやぼー的には、20才くらいになったらもう始めた方がいいんじゃないかと思うな。それに肌の状態と内蔵の状態って表裏一体なところがあるから、肌のワカいヒトは内臓もワカいというリクツが成り立つと思う。

ともあれ、ここ十年ほどでアンチエイジング意識ってすごく高まったし、そのおかげで従来みたいに老化まっしぐらにならずに済んでるヒトも多くなってるわけで、今のお年寄りより遥かに若い状態でトシとってくヒトも増えると思うんだな。そうすると、けっこう私もうまくいけば22世紀を見れないこともないんじゃないかなー??? と思ったりする。なんか、可能性あるかなと考えると本当に見てみたいという気もしてくるし。うーん、93年後か...。

まーたちの時代って、どんな風になってるんでしょうね。私はこれからそのへんも想像して書いてくわけですけど、今から50年前ってゆーと、昭和中期くらいですか? それと今を比較すると、変わってるような変わってないようなって感じかな。1957年ってもう戦後だし、交通機関は今とさほど変わらないはず、それにテレビももうあったはずだよね? そうするとその後で日常生活に追加されたのはパソコンとかの通信関連ってことになるのかな。過去と現在でそうなら、「未来の世界」ってもあんまり今とかけ離れてはいないような気がする。でも、ガソリン車は旧車好きだけのモノになってるだろうし、逆に電脳積んだフルオートで自分勝手に走り回って喋るクルマとか(欲しいっ!!!)、それにロボットは今のクルマくらいには普及してるかもしれない。実は、まーの愛車はフルオートでも走るし、喋るし、もうそういう設定で書いてあるんですけどね、私の願望で。なんか、そのへんも好きに作れるのが楽しいかも〜♪でも、実際に自分が22世紀まで生きるとしたら、書いたのと現実のギャップも見ることになるわけか...。まあどうせ、うちのお話みたいな理想社会になんかなりっこないから失望もしないけどさ。人間は100年経っても大して変わってないだろうことだけは、まずまちがいないと確信を持って言えるもん。そしてそれは、史実であり、事実であり、現実だな。

        

2007/10/26

★昭和は遠く...★

あやぼーは阪急宝塚沿線土着民なので、「大阪」と言うと「梅田」だったりするんですね。長年の習慣で、阪急電鉄で梅田に出るというのが大阪の中心へ出るということと同義語なわけです。従って、コドモの頃からよく知っている街なんですけど、なんかここ数年ですっごい様子が変わって来ちゃった感じがします。

それを決定的に感じたのは、ナビオ阪急が10月末で閉店というのを聞いたからで、まあ、あのへんのことだから、改装して名前変えて同じようなファッションビルにはなるんでしょうけど、「ナビオ」という名前そのものが無くなるらしいんですね。以前、その隣にあるファイブが全面改装した時には、「ファイブ」という名前だけは残ったのでそんなに感じなかったんですが、「ああ、ナビオが無くなるのか」って思うと「時代が移った」みたいな気がするんだな。

昔のナビオには「THE GINZA」なんてのがあって、けっこう面白い雑貨なんか置いてたんでそれなり行ってたんですが、最近はそういうのもなくなったのでそれほど行ってた場所というわけでもない。でも、阪急梅田駅の近くに長年でーんとあっただけに、「相変わらずある」のが自然な場所でもあったわけ。たまに覗いたりもしてたし。

昔の話をするとトシがバレますが、まあそもそも隠してるつもりはないし、スクリッティとかフェリーさんのファン、80年代に英国の音楽を聴き狂っていたというだけで大体そういう文化の中で育った年代だなと分かるヒトには分かってると思うから気にせず言う。で、このあたりっていうと大昔にバイトしてたりした場所なんで、まだ梅田コマがココにあって、その地下で怪しげな映画館がちょっとマニアックな洋画(フェリーニとかね)を上映してたり、ごたごたとワケの分かんない「ロック喫茶」(今や死語?)があったり、ファイブの1FにMILKがあったり、近くに紅茶専門店のデューク・ウェリントンなんてのがあったりという時代をよく覚えてるんだよね。そういえば、ナビオっていうのはそのくらいの時期に出来た建物じゃなかったかな。

今じゃあのあたり、ファイブの玄関先だからかもしれないけど、やたら若いコが集団でたむろしてたりして、それだけでも随分「変わったなあ」という気はする。昔はあのへん今みたいに整然としてなくて、小汚いラーメン屋があったり、ごちゃごちゃ立て込んでたもんなんだけど、ああいうのは今からすると「昭和」の光景とかいうものなのかなあと思ったりもする。最近、あのあたりやたらオシャレなビルは増えたんだけど、生命力がないっていうか、どこも同じようなものを売っててすぐつぶれるし(爆)、実際、ここんとこ梅田そのものにまるっきり行こうという気がしないのよね。服はもう、ご存知の通り、ジェーンとかメアリとかでしか買わなくなってるし、だから大阪に出るというと梅田を素通りして心斎橋まで行っちゃうしな。ま、要するに、やたら入れ替わりが激しいわりには、面白くない街になっちゃったってことなのかも。見るべきものがない。

そもそも現状で繁盛してりゃ、わざわざ改装しようなんて考えないよな。今回のナビオの閉店にしても、今のままじゃダメだから変えようってことなんだろうし、ナビオはファイブに比べて高級品を扱うのがコンセプトだったから(高級品と言っても阪急グループのやることで、あやぼーから見ると中途半端な高級感でしかなかったけど)、今の時代に合わなくなってきてるのと、ヒルトンが増殖してヒルトンプラザ・ウエストとか作ったから(これも中途半端だけどね)、お客さんが分散しちゃったというのもあるかもしれない。

そういえば、ナビオの向かいで阪急百貨店の横をずーっと通ってく道、ここはずーっと長いこと天井高の高い、キレイな装飾天蓋の通りになってたのに、なーにを思ったんだか、この上の空間にフロア作るつもりなのか、天井がぐーーっと低くなってしまってるのよね。天井高ってけっこう通る人間の気分に影響するもので、あの豪華な天蓋があるのと、低い天井では全然違う。まあ、総じて最近の梅田の街の変化は、いろんな意味で「発展」じゃなくて、「後退」を象徴してるように思うなあ。これは日本中わりと同じような事情のような気もするが。

なにしろ長引く不況、ってもう、これだけ続けば一時的なものじゃなくてそれがスタンダードで不況とも言えない感じですけど、あれこれ工事やったり改装したりするのも、昔は「儲かってるからどんどん改装してもっと儲けよう」という活気ある変化だったんだけど、最近のは「儲かってないから、なんとかしなくちゃ」という断末魔的な変化のような気がするんだね。ってゆーか、まんまそうなんだろうけどさ。でも改装したからって、中身ぜんぜん変わってなかったりするしな。なんだかなぁ...。

創造力と想像力の欠如からくる災厄ってゆーか、これはもう日本全体の文化的な後退とも関係してると思うけど、最近ね、これまでにも増して「日本はもう絶対ダメ、将来はない」と痛感することがありまして、マジで移住するならバハマか? とか考えてるんだよね。バハマって年中20度〜30度だってゆーし、常春状態って私の一番望む気候だし、英領だったからクルマ左側通行だし、英語通じるし。来年あたり下見に行って来るかなとか、かなりマジっすよ、私。暗い? うーん、日本にずっといるってことなら「暗い」かもしれないけど、「出る」ということを具体的に考えだすと、逆に「明るい」気持ちになるんだけどな。まあ、どこ行ってもサイトはやってるだろうし。

昔、ばーちゃんの世代とかが「明治は遠くなりにけり」とか言ってたけど、その当時はこっちは「明治」なんて知らないじゃん、テレビドラマとかでしか。だから全然そういう心境って分かんなかったんだけど、いまつくづく思うのは「昭和は遠く...」ですかねえ。そう思うこと自体が、あやぼーもそれなりトシとって来たってことなのかもしれないけど、それだけ大きく「知ってる街」が変わってってるってことでもあるな。

ともあれ、どうなるんだろうなあ、これからこの国は? 将来的に、あんまりおつきあいしたくない気がするなあ。そういえば平成元年に生まれたヒトってもう大学生とか社会人になってるのか。 そりゃ「昭和も遠く」なりますよね。そしてもう二度と過去の栄光は再来すまい...。

      

2007/3/26

★「環境改善提言サイト宣言」とは?★

以前、JAFがアイドリングストップのキャンペーンをやってたじゃないですか。ステッカー配ってクルマに貼って下さいとかゆーやつ。この前始めた「環境改善提言サイト宣言」って、まあそんなようなもんです。そういうのを自分が宣言していると日常の意識が高まるっていうか、公言してるだけに自分自身がいい加減にはしておけなくなるし、ついでにお客さまにもちょっとそういうコトについて考えるきっかけを持ってもらえればなとか思ったもんですからやってみました。

あの草稿は2002年には既に出来てて、出さなきゃ出さなきゃと思いつつもそのうち出来上がってることそのものを忘れてしまってたんですけど、最近、かなり本格的にサイト作りに取り組んでるので、やろうと思ってることはちゃっちゃっとやってくという態勢が整いつつあることもあって、やっと今になって出せたって感じですね。

思うに、環境問題のいろいろな側面について気にしてる方は沢山あると思うんですけど、ああいうページをひとつ作ろうとするとなかなかめんどいものなので、HPとかブログとか持ってる方だったら、ステッカーを貼る感覚でバナーやリンクを貼って頂くだけで、「常日頃から言いたかったこと」を宣言してもらえるという趣向になっております。それに、「私は環境に対して高い意識を持っています」ということを、訪問客の皆さまに伝えることも出来るわけですしね。

実際、環境の改善というのは、やはり日常から一人一人が高い意識を持って取り組むことなくしては実現しないと思うし、逆にそういう意識が世界的に高まりさえすれば、まだまだ地球にも人類にも未来はあるというのが、楽天家のあやぼーの見解です。結局は人間次第というか、人間変えなきゃ世界は変わらないってのも、ひとつの真理だと思いますからね。ま、ああいうのをキッカケにして、皆さまにも広く環境を意識して頂けると嬉しいなと考えているあやぼーなのでした。

      

2006/11/3

★怒るかも★

いきなりなんですが、もし。アメリカ人に向かって「日本から学びなさい」とか言ったら、怒るかな。一部ではウケるかも。

とゆーのはですね、以前からアメリカ以外の国のひと、例えば、オーストラリアとかヨーロッパとか東南アジア周辺の人と話すと、決まって「アメリカ人は傲慢だ」みたいな否定的なコメントが出て来ちゃうんです。まあ、私自身も現在のアメリカの在り方については自分なりの分析もしてるんですが、実際、評判悪いですよ、アメリカ。気がついてないのはアメリカ人だけか? って、もちろんどんな国でもそうですけど、自国の悪いとこ認識して憂えている人はそれなりにいると思うんですけどね。それにアメリカの方でも感心するくらい丁寧なヒトもいるし。でも、あるオーストラリアの方がいみじくも、「アメリカ人って洗脳されてるみたいだね」とか言ってたんですが、私もそれって以前からちょっと感じていたことだけに、ああ、やっぱりそう思うヒトいるんだなと納得したりしてました。

アメリカの方と話すと、ある程度までは全然ふつうなんだけど、アメリカそのものに対する否定的な意見が出ると、いきなりヒトが変わったかのように反発されるって経験、ありませんか? もちろん先ほども書きましたけど、アメリカ人と言っても千差万別ですから一概に言えることではありませんが、そういう傾向がなきにしもあらずな感じがするってことです。CIAが終戦直後、日本で洗脳の実験やってたって話は有名ですけど、それはいったいどこへ行き着いたのか。

ヒトラーが研究させてた洗脳の手法は、というか一般に「洗脳」っていうと、なんらかの科学的手段によって人間をその意志に反して思うがままに動かそうという試みってことになるんだと思うけど、それって当然かなり無理のあるやり方ですよね。なぜかってゆーと、人間の精神には確固たる自我というものがあって、催眠術をかけても一般的に本人がしたくないことはさせられないとかいうし(薬物を用いれば可能らしいけど)、それを無理矢理曲げさせるのはかなり大変なことになっちゃう。

でも、思うに、もし人格形成期において予め、それも合法的かつ不自然でないやり方で(例えば学校とか日常の環境の中で)適当な刷り込みを行っておけば、自我そのものの基盤が一定の条件に対して一様な反応をするようにしてしまえるんじゃないだろうか。それって例えば、日本が戦前、戦中にやってた教育勅語みたいなもん? ああまで露骨だとバレバレだけど、もっとデリケートなやり方である種の捏造された絶対正義を繰り返すことによって刷り込んでしまう。例えば「アメリカは正義だ」みたいな、そんなのそれとなく繰り返して示され続けてたら最終的に疑わなくなっちゃうんじゃないかな、単純な人間ほど。それに敵役というか、冷戦時代のソ連みたいに絶対的に不当な敵がいるという想定を植え込んだりすると効果的で(今ならテロリストがそれ?)、危機感と総体的な仲間意識が相乗効果を発揮し、社会的総意に発展させる。

しかも、自国に対する優越感というのは、人間性の基本にある「自己の優越欲求」に対してとても有効なので、それに対して否定的な現実をつきつけられかけるとブロックかかって異常に反発する、ってことも考えられない? しかもこのやり方だと、そうやって育った子供が社会人になると、特にそう仕向けられているという意識もなく日常の中で子供に教えてくから、ネズミ算式に権力機構から見て好ましい国民性が確実に育ってゆく、とか。

もちろん、こういう手法はあるとしても決して100%というわけにはいかないと思うし、どこの国にも私みたいに「そんなもん誰が信じるか」って超現実をきっちり見てしまう人間がいるから、一般に考えられているような絶対的な洗脳の手法とは言えないかもしれないけど、それなりの効果は得られるような気もするぞ。要は全国民が何に対しても全て言いなりになってくれる必要はなく(そうなったらなったでそれはめんどいと思う)、必要な時に目的が達成できる最小限の条件が揃えばいいわけだから。ついでに言えば、民主主義ほど使い方誤ったら、というか危ないやつに使わせたら最適な独裁手法もないもんな。

話が飛びましたけど、洗脳されてるかどうかは別として、アメリカ人ってとにかく「アメリカが一番」みたいなものすごい自信持ってる人が決して少なくないから、アメリカ以外の国の人からみて「傲慢」という印象が濃く残ってしまうんじゃないかと。そこへ持ってきて実際、アメリカはそれこそ現代の日本以上の「成金大国」ですから、素地としても劣等感の裏返しで強く出るって傾向も出やすい。だから、いわゆるnew money とold money ってやつね。平たく言えば昔からの金持ちか、成金かってことで、成金ほどハデに「金がある」ってとこ見せびらかしたがるじゃないですか。それはそうやってないと誰も認めてくれないからで、昔からの家柄とかあるうちほど謙遜するのが美徳みたいなとこがあるし、だから成金ほど逆になるわけね。

昔から、欧米の何でもハッキリ言うとか、遠慮しないという傾向は日本では「先進的」みたいに言われてたとこあるけど、だから何でも欧米的にするのが良いってのがこれまでの傾向で、日本人の方から、「学べ」なんて殆ど誰も言わなかったじゃん。でも今になって考えてみるに、ヨーロッパはともかくアメリカはこれから「謙譲の精神」を学ぶ必要がある。それって帝王学と表裏一体なんだし、ともかくそんな気がしたんで、遠慮大好きな日本人にちょっとは学べよとか思ったりしたんだな。そしたらもーちょっと、心から尊敬される国になれるかもしれない。

うーん、これを英語で書くべきか、書かざるべきか。怒るだろうしねえ...。もちろん日本は日本なりに改善すべき負の要素を山ほど抱えてるんだから、日本が尊敬されてる国だとか(逆よね)、何もかもいい国だなんて口が裂けても言えませんが、評価できる要素もたまにはあるもんだってことだな。強く出るべき時と、譲る時、要はそのへんのバランスの問題なんだけど、アメリカは一般に何でも強く出すぎ、日本は遠慮しすぎ、なのかもね。

      

2006/10/23

★なんとかして★

ここしばらくうるさい選挙カーがあちこち走り回ってたんですが、皆さんの周辺では如何でしたでしょうか。ただでさえうるさいあの選挙カー。昨今、交通マナーまで守らなくなってんですか? 非道ですね。あんなのに政治やらすなんて論外だぞ。

なんで怒ってるかとゆーと、短い選挙運動の期間に2度もあいつらのせいで交通渋滞にひっかかったという、「いーかげんにしろよ」な状況に腹立ててるからです。一度なんて、こんなとこ渋滞するわけないってとこで流れ止まってて、のろのろ先に進んでみると選挙カーが道端止めて演説してんの。で、その関係者のクルマかなんか知らんが、ずらーっと道端に止めてあって、それよけてくのにクルマの流れが悪くなってたんだね。うちのわりと近くで、演説してるすぐ横に「道の駅」ってのがあるんで、そこにはちゃんと広い駐車場もあるのにですよ。そういうの借りるとかしてやればいいのに、公道で、しかも交通の流れを止めるような方法で演説するとは何事か。そんなことにも配慮できんやつなど、落選してしまえ。

あの関係者の黒塗りのクルマとかもさ、偉そうに止めてんじゃねーよって思わない? 何サマのつもりなんだよ、とゆーか。選挙に参加して偉くなった気分で浮かれてんのか? まだ単なる候補の分際で政治家関係者気取りやってんじゃないぞ。選挙カーそのものならまだしも、広い駐車場が目の前にあるんだよ。関係者のは駐車場に入れることくらい出来るじゃないか。あんなのこそ全部さっさと取り締まるべきじゃないの。公僕候補の分際で、その程度の配慮もせず、あまつさえ市民さまにご迷惑をおかけするとは、それだけでも立候補の資格などないっ!! そんなとこで偉そうに演説なんかしてるんじゃねー、引き摺り下ろすぞとゆーくらい、アタマに来た。今度から写真撮っといて、実名入りでネットに公開してやる。(渋滞が大キライな私としゃーるさんの進行を阻んだ罪は極刑に値するのだ。)

その他にも、昼時で小休止かなんだかしらないが、何台もつらねて道端に止めてた選挙カーがあったな。それもクルマの流れを悪くしていた。全く、日常から他人の迷惑に配慮なんかしない最低の生活態度が伺えるぜ。実際、選挙だからこのくらいいいだろうとゆー、そういうイナカもん*注な考え方が問題なんだ。政治をやらせて頂くとゆー、もっと謙虚な気持ちを持てんのかね。それで「お願いします」もクソもあったもんじゃないと思うけどね。政治のひとつもやろうという人間は、全国民の模範になるくらいでないといかんのだ。表面的なものだけでなく、人間性そのものがそうでなくてはならん。現実問題として、そんな政治家が「お伽噺」だってのもそもそも大問題なんだが、ともかく迷惑駐車を一般庶民と同じに「このくらい」と考えられるよーな連中に、社会的理想なんてものが実現できるとは金輪際思えんね。バカもの。身の程わきまえて、さっさと去れ!! (*著者注 : あやぼー言うところの「イナカもん」とは、「広い視野を持ってない人間」のことで、地域的に地方に住んでる人という意味ではありません。)

とゆーことで思いっきり怒ってしまいましたが、まあそーゆー連中はどうせ落選するでしょう。まかりまちがって当選しても、一回限りでしょうね。あれほどアホじゃ。

それはともかく、あの選挙活動ってのがそもそもあまりにもバカバカしい迷惑行為だと思いません? 政治のひとつもやろうという人間は、日常から自分の思想を明らかにして、こう考えるからこうしたいという理想をですね、有権者の皆サマに知っていただく努力というのをするべきで、短い選挙運動期間の間だけ、自分の名前をがなり立てて走り回るとゆー、そういう前時代的マンネリに甘んじていられるというオリジナリティの無さだけでも「私はアホです」と宣伝して回ってるよーなもんだと思いますけどね。今はネットもあるんだし、本当に政治的理想を追求したいなら、日常から一人の人間として支持を集める努力をするべきですよ。まあどうせ、あんな連中に政治的理想なんてものはクスリにしたくも、ありやしないでしょうけどね。けけけけけ♪そりゃ、期待するだけムダってもんだ。しかしまあ、本当に価値ある政治家として立ちたいという理想を持っておられる候補者の方は、活動の方法論から新しく案出してゆくべきだと思いますよ。

私個人のことを言えば、政治なんて国が壊れない程度にやっててくれりゃいいってゆーか、昔みたいに封建的な方向にさえ走らなきゃそれでいいわけで、どうせその程度の知能のやつが集まってやってんだから大した期待はしてないし、自分のことは自分でするわって方だからどーでもいいんですけど、迷惑かけられるのは我慢ならないんだな。皆さんもっ、これはヘンだと思うことは、きっちり怒るようにして下さいね。でないとこの国、ますますアホな人たちのいいようにされてしまいますよ。

      

2006/10/14

★やっぱり根性ないとね★

レヴューとかで私は、中身が伴ってないやつに「いい男」なんていないと断言してますが、最近、草刈さんの若い頃のフィルムとか見てて、やっぱり彼も基本的にアーティスト気質なひとだなと改めて気づいたりしてます。そもそも私は、そーゆーヒトにしか興味持たないんだけど、なにしろ彼の存在を知ったのがずーっとコドモの頃なんで、自分でもそのへん全然分かってなかった時で、今になって自分の好みの基本が当時からそこにあったのかと感心したというか、感嘆したというか、感動したというか。

グリーンと同い年とか書いてましたが、私そのへんちょっと勘違いしてまして、実際には4つくらい草刈さんの方が上だそうです。まあ、同年代ではあるわけですが、それはともかくもともとモデルさんだったのは知ってました。17才でスカウトされて芸能界デヴュー♪って、それだけ聞いたら全然シンデレラ・ボーイじゃないかと思いかねないんですけど、草刈さんの場合、それ以前がけっこう苦労人。

お父さんがアメリカの方で、でも朝鮮戦争で亡くなってたので、お母さんだけに育てられたってことで、ま、そのへんの時代ですから日本全国裕福とはいいかねたし、彼も子供の頃からアルバイトとかして家計助けたりとか、大変な時もあったとか。そのへん知ると、なるほど北野晶夫ってゆー役柄も、草刈さん自身の中にないでもないキャラだったのかなと思ったりもしますね。

「若い頃の苦労は買ってでもしろ」とか言いますが、私もこれは名言だなと思ってて、のぽぽんと育ったやつは結局、どこかで「その程度」止まりになっちゃうんじゃないかって気がする。その17才でいきなりデヴューなんて話も、つまんないヤツだったら結局ただのモデルとかタレント止まりで終わっちゃうなんてことは、それこそよくある話だと思うし。当時も、それこそ若手のタレントとかモデルとか歌手とかあまたいる中で、他は全然キョーミなかったけど草刈さんだけはおや?と思うものがあって、そりゃもう抜群の美形だということの他にですよ、なんか観客にヘンに媚びてないとことか、きっちり自分の意志のありそうなとこだとか、そのへんが回りにおだてられてその気になってるだけの三文タレントとはまるっきり違って見えたもん。

あのっ、誰が見ても美形と認めざるを得ない容姿にも驕ってるようなとこ全然なかったしな。で、やっぱり今の目で見ても昔のフィルムなんかまだ若いのに演技力が大したもので、例えば田中邦衛さんなんてめちゃうまい俳優さんじゃないですか。それとあれだけ意気の合った演技が出来るってだけでもすごい努力してんなというか、他に主演作品だけ並べてみても絢爛たるもので、でもそれに見合うだけの努力が裏に絶対あるよなあとつくづく思っちゃうんですよね。偉いわ...。

それ言えば、グリーンとかでも実のお父さんがドイツ系だったから、そのせいで中学でいじめられて転向しなきゃならなかったとか(ガートサイド氏はお母さんの再婚相手だから義理のお父さん)、フェリーさんにしても、彼はご両親が教育熱心だったからそのへんは恵まれてたようですけど、でも裕福じゃなかったから子供の頃からアルバイトとかしてお小遣い稼ぎしてたっていうし、まあいろいろきっちり苦労させられてるとこがあるから根性育つってのもあると思うんですよ。まあ、芸術家気質ってのは、それだけで社会的ハンデって生まれつき負ってるわけですけどね。

ともあれ思うに、案外70〜80年代の芸術的隆盛って、歴史的にそれに先んじる戦争と終戦の影響ってあるんじゃないかなあ。その時代にコドモやってりゃ、みんなそれぞれしなくてもいい苦労とかさせられる確立高かったと思うしさ。その反動で意志とか根性とか、こういうことをやりたいという希望とかもしっかりしてる人が多かったんじゃないかという気もするし。それ考えると、昨今の音楽にしても映画にしても特筆すべきものがないって現状は、世界が平穏すぎるせい? ニューヨークも治安が良くなってこのかた、芸術的にはロクなことなってないような気がするしな。かと言って、あんまり貧困すぎるとそれこそ芸術どころじゃなくなるし、逆に韓国とか中国なんかが経済的にも社会的にも過渡的な位置にあるから、かえって才能が育ちやすいのかもしれない。

またなんか話がえらいとこに飛躍してますが、例の「華麗なる刑事」のDVD、VOL.2が来たので楽しく見てたんです。そのへんからまたアタマがヘンな方へぶっとんでたんですが、それはそれとしてこれけっこう解説がしっかり書かれてて、作品の作られた時代背景とかも分かってそっちも面白いですよ。リリースする側がけっこうリキ入ってんなという感じで、ふつー、CDのライナーとかが如何にお座なりかというのはコアな洋楽ファンの方ならよくご存知だと思いますが、こういうのの解説って「付いてるだけ」みたいなの多いじゃないですか。でも、これのはこの皮肉屋の私をして、「へえぇぇぇ」とか「ほぉぉぉ」とか、そりゃ知らなかった気づいてなかったなんてことが書いてあって読んでて面白い。

で、この作品に赤のギャラン・Λってクルマが出てくるんですけど、これがまたカッコよくてね。それをまた草刈さんが乗り回すもんだから、今見てもやっぱりカッコ良かったりするんだ。でもクルマの話になると長くなるので、続きは次回の更新でということにしておきましょう。待っててねー。

      

2005/10/1

またなんか前回の更新で壮絶なことを書いてしまいましたが、思うにけっこう私と同じように考えてるヒトって実は案外多いんじゃないかなー?、と思ったりするもんですから、そのへんわざわざ口にしちゃうのよ、私は。まあ、おくゆかしい皆さんはそんなこと思ってても何も言わずに済ませてらっしゃるんだと思いますけど、ホントは人間なんてつまらなーい、世間なんかどーでもいー、と思ってるヒトは絶対いっぱいいると思う。もちろんそのへん一般論で、面白いヒトも行くトコ行きゃいるってゆーか、例えばうちの先生(フェリーさん)なんかは、もう本当にやってること見てるだけでも面白いですけどね。屈折してて。 ああいうの見てると、やっぱり「人類」をひとくくりにして「つまんない」と言い切ってしまうこともないかと思うから、私は「個人主義」なんです。

ともあれ私としては、なんてゆーか、「人間」に向上してほしいのね。今のままじゃなく。 今の状態で、えらいいーもんのように自己美化と自己とーすいにひたってちゃ、向上しないじゃないですか。だからね、程度の低いイキモノだってゆー、その現実をきっちり認識してもらって、人類自体に向上を目指して精進努力して頂きたいとゆー、あれは私の親ゴコロなのよ、親ゴコロ。(ほんとか?) 

現実なんかつまらん!、人間なんかバカだ!と言われて、そーだよなーと思うヒトはたぶん自分がけっこう精進努力して生きてるヒトだろうし、こいつ何言ってんだ、失礼なって思うヒトは、ま、人類自体の無責任な自己美化にひたりこんでるほどバカってことね。そういうのはもう救いようがないから、ほっとくしかないし。勝手に自滅してくれちゃって惜しくもなんともないよ、私は。それにこっちは商売でやってんじゃないから、そもそもそんな低脳なのウチの客にいらないもん。 ともかくね、人類ってのにはまだまだ「啓蒙」ってことが必要なの、「啓蒙」ってことが。無知と暗愚の暗闇でのた打ち回ってるロクでもない生き物にだね、enlighten (「啓蒙する」、古語では「光を注ぐ」、「照らす」)してやろーと、それが古来から偉大な先達の皆さんの親ゴコロなんじゃないですか。バカは自分がバカだって認識しなかったら、いつまーでもバカなのよ。だからバカって認識するところから全ては始まる。そーゆーもんなの、そーゆーもん。だから私は敢えてゆー。これからも、ゆーぞ。  

とは言え、ココでこーゆー話題をあんまり押してるとコンセプト上マズいんで、この話の続きは"洋楽ファンのひとりごと"に持ち越すことにします。こういうのが面白い方は、そちらでお待ち下さい♪

       

2003/7/10

★最初っからこーすべきだっだぜ★

熱狂的ファンのひとりごとが止まらなくなってしまったので、仕方ないから専用ページを作ることにした。"Frantic"を聴きまくってる間に他の作品も聴き直したくなってきてしまったから、まだまだ止まらないと思うし、そうなるともうAYAPOOでは、カバーしきれないとゆーか、これ以上ココで続けたら、お客サマにあきれられた挙句、アイソをつかされるという怖れもおおいにある。というワケで、私のひとりごとをまだ読んでもいーと思われる方のみ、こちらへどうぞ!! たぶんフェリーせんせの作品だけじゃなくて、洋楽関係であれこれ話が飛ぶんじゃないかと思いますが、自分でもどーなるのかまだよくわかりません。でも、やってみよー。ともあれ、しょっぱなから"Boys and Girls"のタイトル曲を完全分析!! なんてしちゃってるので、相当ぶっとんだページになってると思いますけど、まあこういうワケのよく分かんないお話がお好きな方はぜひ一度。

      

2003/7/3

そうそう、今ね、フェリーせんせのオフィシャルサイトをチェックして来たんですけど、↓でも紹介してました"AVALON"、これの発表21周年記念とかでリマスター版が出るらしいですね。これは多分海外での発売で、国内版がどうなるのかはちょっとわかりませんが、ともかく7/7リリース。シングル版の"AVALON"のB面に入ってた曲もボーナストラックとしてつくみたい。最新技術でリマスターしたってコトだから、これはもー早急に手に入れなきゃ!! なのです。しっかっも、これまで未発表になってた当時のバンドのフォトなども入った12ページのブックレットもつく!! その上ライナーは"Frantic"でもプロデュース&ミックスに入ってるレット・ディヴィス&ボブ・クリアマウンテンのお二方が書いてらっしゃるとか〜!!! これはもーファンならぜーったい、みたい&よみたい!!! それにしてもこれって既に21年も前のアルバムなんだよなあ、でも今聴いても全然古さなんて感じさせないと思うよ。名作はやはり時をこえるんだな...。

で、このオフィシャルサイトは以前は、「とにかく作っとこうか」ってノリだったんだけど、昨年"Frantic"発表の頃にリニューアルされたらしくて、今はけっこう充実したページになってます。曲の試聴とかも出来るみたいだしヴィデオもあるとゆー、なんかサイト構成がジェームズ・ローランスのSPサイトとよー似てるのは偶然か? と思ったりしますが、最新ニュースも見れるしフェリーのファンは必見って感じですね。

7月16日にROXYのコンサートをハイドパークでやるってコトになってたらしいんですけど、なんかトラブルでキャンセルになってて、でもその後8月はアメリカにROXYで行くらしいですから、今はけっこうそのメンバーで動いてるってことなんでしょうか。ま、何はともあれ先生はお元気そうでなによりです。TOP PAGEのフォトも、またまた惚れ直しちゃいますね〜。ほんとは58のオジさんなのに、なんでこうカッコよく撮られてしまえるんでしょうか。うまいなあ...。(それにしてもフェリーに比べるとグリーンって、ナマケモノ!! いーかげんニューアルパムとは言わないまでもニューシングルくらい出してよ〜!!! フェリーよか10才は若いのに動かないよねえ、グリーンは...。)

      

2003/7/1

★おとっときを見せてやる!!★...熱狂的ファンのひとりごと・その3

とうとう7月になってしまったが、そんなことは今日はどうでもいい。こないだから私はフェリー先生をステキだカッコいい、と言いたおしていたが、知らないヒトにはぜーんぜん分かんなかったと思うので、あやぼーのいっちばん好きな写真を見せてやる!! ブライアン・フェリー氏というのはこーゆー方なのだ!!

ホントはけっこうわりと楽天的で性格の明るいオジさんだったりするというイメージが私にはあるが、しかしこーゆー写真を撮らせたら見事にバケる!! それでみんなだまされてしまうらしい。でも、「役者やってみないか」と言われたコトもあるとゆーから、演技力もけっこうあるんだろーね。

で、この写真は70年代半ばくらいのもんじゃないかと思いますが、わっか〜い!! もー、なんっで、こんなにステキなのっっっっ!!! 雰囲気作りっていうか、そういうのがめちゃうまいんだな。役者やっても当然成功してたと思うぞ。実際、私の知る限り、女性のインタヴュアーだとギリでもなんでもなく、マジで「ステキですねっっっ」って感嘆符付きで言わないヒトなかったもん。

とゆーわけで、今回も、ちょっとフェリーせんせがらみのお話をさせて頂きます。ちょっと、で済むかどうかは保証できませんが...。う〜ん、彼の息子さんって、お父さん似なんだろーか...。夫人も知的な美人だけどなーっ。やっぱりおとーさんに似ててほしーなーっと。

さてこっちの写真は"In Your Mind"の頃だから、やっぱり1970年代後半くらいのかな。こーゆーのもいーでしょー。今回の"Frantic"でもこんな雰囲気の写真ありましたけど、なんでこー見せるのがうまいんでしょうね。↑の写真にしてもそうですが、なんか一枚の写真にドラマがあるじゃないですか。好きだなあ、こういうの。シルクでもコットンでもサマになる男!! もぉー、他にいないですよ、こういうヒト、どこの芸能界探してもっ!!! こーゆ、スタイルを自在に扱えるってとこはやはり美術的な才能のなせるワザだと思うけど、カッコつけててもいやみなとこがぜーんぜんない。だから女の子のファンももちろん多いけど、男のヒトでもめちゃ好き!! ってひとが多いんだろーな、きっと。あくまで画面構成の一部として自分を置いてはいるけど、演技してるだけでそれにヘンにハマりこんでないから、かえってカッコいいのよね。基本的には自分の存在意義を容姿に求めなくてもいーっていうか、アタマいいから出来ることなんだろーけど。

そもそもロック系のミュージシャンがビシっとスーツで決めちゃう、なんて発想はですね、フェリーせんせ以前には、そんなになかったんじゃないですか。あやぼーは70年代の当事者じゃないので、そのへんの事情はよく分かりませんが、当時はそういうスタイルって逆にロックファンには信じらんなーい!! って種類のもんだったようなイメージがあります。まあそもそもロックって労働者階級のもの、ってイメージが当時は特にあったっていうし。フェリーせんせも出はそっちだしね。自分でも、「これ以上落ちるところはない、あとは登るだけだっていうのはいいよね」とか言って笑ってたけど(このへんが楽天家!! )、生まれがたしか1945年でしょ。世界中がただでさえ戦後直後の貧窮の中にあった時で、しかも決して裕福じゃない環境で育ってるのよね、彼も。だから未だに"CRUEL"みたいな曲を作るほど、不条理とか、その変革に対する根源的な希求ってのは子供の頃からあったんだろうなと思ったりする。まあ十代の頃なんかは、ぜーったい、クソなまいきなガキだったことは、まずまちがいあるまい...。

そして、コレは1988年"Bete Noire"発表当時の写真ね。ふっふっふ、やっぱすてき〜!!! あー、また言っちまったぜ。でも言わずにいられないんだもーん!!!

もともと線の細いヒトじゃないから、トシとってもぜんぜんカッコいーのよね。知的レベルが高いってゆーのも、当然影響してるしポイント高いけど、この先もっとじーさんになっても、相応のスタイルを作っちゃうんだろうな。で、やっぱりかっこいー、って言わせてると思う。

まあね、そういう美術的な部分ってのは、ソングライター、ヴォーカリストという本分からゆけばオマケにはちがいないけど、オマケの部分でさえこれだもんなあ...。昨今の「ロック」やってる「つもり」のワカものはですね、もーちょっと勉強せーよ!! と、あやぼーが思っちゃうワケ、これで少しは分かってもらえるかなー。まあフェリー先生と比べるなんて、それはもー、ケタがちがうとゆーか、格がちがうとゆーか、種がちがうとゆーか、それこそオサルと神サマ比べるよーなもんだから、ムダ以前だけどね。もーちょっと、なんとかなしなさいよー。みっともないから!!

       


      

さてもう一枚、こんなのがあった。

あれ? と思う方もあるかもしれませんが、これはあの名作"AVALON"のジャケット写真と一緒にとられたもののうちの一枚でしょうね、きっと。あのジャケ写はけっこう暗くて分かりにくいんだけど、実はこういう扮装で撮影されていたんですね。

ちょいとあやぼーの知る限りのところをお話しますと、このアーサー王に扮しておられるのが誰あろう、フェリーせんせの奥さまでルーシーさん。結婚したばかりの頃じゃないのかな。彼女は英国の五指くらいには入る富豪のお嬢さんで、この写真にも写っている湖は彼女の所有するものだという話を聞いたことがあります。...う〜、ケタがちがいますな。私は絶対!! ジェリー・ホールと結婚なんかしなくて良かった!! と思う。ルーシーさんの方が、フェリー先生にはまちがいなくお似合い!!

で、なんでアーサー王かとゆーと、当然"AVALON"だからなのね。いや、アーサー王と限る必要もないのかもしれないけど、アイルランドの王様で伝説化されてて一番有名なのがアーサー王でしょ。"AVALON"に関してはどっかで書いてたかもしれないけど、ケルト伝説に出て来る西方海上にある極楽島の名前で、アーサー王やその騎士が死後おもむいたとされる所なんだそーです。で、この写真は、そのAVALONから海を臨む王サマをイメージしてあるってことでしょう。ちなみにこの作品の最後を飾る美しいサックスのインストゥルメンタル"TARA"、このタイトルであるタラは、アイルランド諸王が本拠地とした場所。アイルランドってのは、ご存知だと思いますがケルト民族の地ね。これでこの作品のタイトルが"AVALON"で、ジャケットがコレで、ラストが"TARA"なのは全部ひとつながりのテーマがあるって分かるでしょ? (そういえば、TARAっていうコトバは今回の"Frantic"のリーフレットにもスミにfor TARAってちょこっと入れてたよね? なるほど、王サマの本拠は今でもTARAだってことなんですかね。そうだとすると傲慢不遜だなあ、相変わらず。でも、もしかすると誰かあての献辞だったりする? どっちにしろ20年たっても何かしらの思い入れがこのコトバにあるってことなんだろーな。)もちろん更に"More than this"だから、あえて"AVALON"だし、これだけアイルランド伝説で固めてる作品に、たとえ小品と言えども"INDIA"なんてとーとつにインドが出て来るわけなんぞないんであって、これにも通底したイミがちゃんとあるんですが、そこまで話すと長くなるので、ひとまず今日はそういうつながりがあるんだなー、ということさえイメージしてもらえればよしとしましょう。まあ言ってみれば、"AVALON"とはすなわち、「究極の平穏」を象徴しておりまして、この作品にもりこまれた哲学的側面の象徴でもあるわけですな。これ聴いて、私はフェリーせんせの完全主義を悟った。こーんなの、全部分かるヤツ世の中にいるのか、と思うようなとこまで、てってー的に、かんぺき!!

でもね、論理的に追ってっても、とことん凄い作品ではあるんですが、やはりそれを「音楽」できっちり表現してあるというのが、これまたすごいところなんですよね。だから歌詞読まなくても、内容分かんなくても、イメージされてるものは聴き手に伝わってると思う。そこまでしてあるからリクツ抜きで聴いても、やっぱりいいってことなんでしょうね。やはりこれはもう、名盤中の名盤、絶賛されて当然の作品でしたよ。これをもってROXY MUSICは解散、実際、やれる限りをやりつくしての終焉だったと思います。(同時に、この"AVALON"は、音楽的にその後の彼のスタイルの原点だとも言えるでしょうけれど...。)

      

2003/6/27

前回はファンじゃないヒトには何のことかよー分からんという話をしてしまって申し訳ありませんでしたが、今回は先日ショッピングに出た時のお話なんかしたいと思います。梅雨もそろそろ終わりそうだし、あやぼーも浮上しなくちゃ。Love is the drugの話とかも当然したいんだけど、とりあえず今回は他のネタがあるので、そのうちってことにしとこーかな。う〜ん、それでもねえ、このまえちょっと1980年のROXYのアルバム"FLESH & BLOOD"を聴いて、それから"FRANTIC"また聴いてたんだけど、やっぱアトにいくほどクオリティ上がってるわ...。もちろん"FLESH & BLOOD"も、その後80年代の英国のポップ路線に多大な影響を与えた名盤なんだけど、単に録音技術の向上とか、そういうのだけじゃなくて更に洗練されてるというか、改めて「妥協も停滞もないヒトだな〜」と感心した。それと"FRANTIC"の"GODDESS OF LOVE"ね。これもフェリー独特の歌詞だあ...。特に冒頭のとこなんか、 すっごいこうイメージが一発で浮かんで来ない? "Marillyn says I got noting to wear tonight, only a pair of diamond earrings that catch the light" って、コレだよ、コレ〜!!! うー、やっぱモト絵描きだよ。こんな短いコトバだけで、パってイメージ浮かばせちゃうんだもんなあ...、しかもそのイメージが、めちゃ美しいと来てる。まるで写真見てるみたいだもん。そこを、あのヴォーカルで歌っちゃうわけだから。彼ってそもそも、素直に声出してスタンダードをきっちり歌えるヒトだから、それなのにあえてああいうヴォーカル・スタイルってのが、これまた独自性なんだよね。

そう言えば、何かの写真集で"Manifesto"のジャケットのラフスケッチみたいのを見たことがあるんだけど、あれもすっごい「完全主義」な絵だったぞ。なんかそんなこんな考えてると、単にミュージシャンという方向からだけ捉えたんじゃ、フェリーってやっぱりもったいなさすぎる才能だという気がしてねえ...。音楽は当然だけど、美術、文学(詩作)、哲学、そういう類まれな才能に加えておまけにものすごいロマンティスト。私ってモトがナルシストだから、あんまり他人に必要以上の興味持たないヒトなんだけど、彼はやっぱり特別だー。

おっといけない。またひとりごとが始まってしまう〜。ムリヤリ本題に入らなくてはまた止まらなくなる!!

       

2003/6/18

★熱狂的ファンのひとりごと・その2★

なんか止まんなくなった。どうせこんな季節だし、このさいもーどっぷり暗い世界にひたりこんじゃおうかなと思ってるので、テキトーに読み流して下さいね。こういうのが退屈な方はハボとでもあそんでて頂ければ、そのうちまた夏の訪れとともに明るい世界に戻れるのではないかと本人も期待してます。でも暗い世界にひたるのも楽しー!! 

さて↓でフェリーせんせのことをあれこれ書いてたら、またどんどんその気になってきて、その晩あれから5回くらい"FRANTIC"を聴いてしまった...。しかし当然それだけではあきたらず、翌朝MDに録音し直して起きぬけから、かけつけ3回聴いた上、以来そのままずーっと、何回も何回もくりかえして聴きつづけている...。こういうのを「中毒」とゆーんだが、そういえば以前この状態になったのは1999年にSPの"A&B"が出た時だったな。もー、夜昼おかまいなしで聴きつづけるもんだから、100回とか200回とか300回とかふつー信じられないくらい聴くことになる。もちろんそれにさかのぼること十何年まえには"AVALON"も"Boys & Girls"も、そんな感じで聴きつづけていたことがあるのよ〜。あの時はもー、ROXYとソロのアルバムを一挙に聴いたもんだから、一枚二枚の問題じゃなくて、それこそアタマおかしくなってんじゃないかというくらい聴きまくってたんです。

それで久々に思い出したんだけど、ROXYでもソロでもフェリーのディスクはヘッドホンをかけて聴くに限る!! スピーカーから流してると気がつかないような細かい音が散りばめられていて,それはそれは美しく繊細な音の世界にひたれるのがいーのだ!! こういう音の構築の仕方を絵画的と言ったヒトが、かつてあったような気がするけど(いや、私が言ってたんだったか?)、さすがに美術畑出身だからか音楽やってても方法論的にそういうのが出るんだろうね。なんかキャンバスに音を乗せていく感じの音の作り方になってるのもフェリー独特の世界なんだな。それと今回のアルバムでは彼自身がハーモニカなんか吹いてるのがすごいいい!! "ジェラス・ガイ"で口笛吹いてたけど、今回はハーモニカで、もー、なんかこーゆー素朴な音の使い方がさすが!! ヘッドホンで聴いてると、そういう細かいとこまで耳が捉えるから、やったことない方は是非おためし下さい。アルバム自体が絶対ちがって聞こえるから!!

ところで私が"FRANTIC"で一番気に入った曲は"San Simeon"で、これ歌詞がもー最高!! フェリーの言葉の選び方ってグリーンとは全くちがってて、特にこの"San Simeon"なんかは真骨頂というか、美しすぎる!! ヴィジュアル面での彼の美的こだわりというのはよく知られているところだけど、歌詞の方ってあんまりみんな気にしてないと思うんだよね。特に英語だから並べられてるコトバの独特の雰囲気、なんてとこまで見るヒトは一般に少ないんじゃないかな。でもねー、フェリーのこだわりっていうのは、当然歌詞にも及んでいるのよっ!! 特に自作の歌詞!! その中には今回の"San Simeon"みたいにあまりに情景が美しいんで、それだけで感動してしまうようなものがたまにあって、とにかく私はこーゆーのが大好き!! AVALONにもあったなあ、TRUE TO LIFEとか。う〜、なつかし〜。私、あの曲1000回くらいは軽く聴いてる!!

話を"San Simeon"に戻しますけど、どういう内容の歌かというとですね、「どんな贅沢な暮らしも、いるはずのきみがいないことに気付くたびに虚ろになってしまう」とゆー、まあこのテの「失われた愛」を嘆く歌はフェリーの十八番といえるほどあちこちにあると思いますが、まあそんなようなもんです。曲想も内容そのまんま、幻想的で、かつての幸せな思い出にひたる、ふーな? 単なるラヴソングとして、つらつら〜、と聞き流してなんら問題ないようなもんです。例によって、一部を除いては。

先にも書いたけど、美しいっていうのはこの歌詞の描き出す情景。これがまず、わっ、と思い描けてしまうんですね、あの短いコトバの流れだけで。例えばのっけから"Walk up the driveway endlessly curving, Go through the front door , It's so inviting, Baronial great hall, once so exciting" って具合いで全篇このテの贅沢な貴族的アイテムをずらずらずら〜、とならべてあるわけ。さりげに韻の踏み方が既に「歌詞」と言うより「詩」ですな。う〜、美しい...。この冒頭はまあ、邸宅のアプローチから玄関、玄関ホールへとつづく豪壮華麗な雰囲気を思い浮かべて頂ければまちがいないかと思います。で、そういうのが並べば並ぶほど曲想の雰囲気と相乗して、哀しみが深く伝わってくるよーな歌です。

ただね、これを単に「曲の中の架空の世界、架空のストーリー」として聴くのが当然ふつうで、当たり前なんですけど、長年フェリーの書く歌詞その他...、その他ってゆーのはカヴァー曲ね、そういうのの歌詞を重箱のスミをつつくように細かく見てきた私としては、この曲想の心象風景というのは作者自身のものだろうなあ、と思えてしまうわけです。で、現実として彼自身の日常の環境というのがそもそも、ここに描き出されている通りの洗練された趣味でまとめられてるんだろうし、人間として、芸術家として手に入れられる限りのものを手に入れちゃったヒトですからね、誰が見たって幸せじゃないはずがないだろうし、実際、おおかたにおいては何も不満はないんだろうけど、で、も。...、まあそこが、芸術家、理想家なんだろうなあと、やっぱり思っちゃうんですよ、私は。そういう社会的成功に根本的に安住しないの、彼も。あるイミ、それが一番彼のカッコいいとこだと思うな...。Forget your trouble...と歌いつつ、Nobody knows the trouble I see, Nobody cares nobody but me"("CRUEL")なわけだから。(笑っちゃう〜!! 50も過ぎて未だにだもんねえ...。いや、ホントは笑い事じゃないんだが...)

.....、まあそれはおいといて。(実はこれ以上はとても言えない。こわくて...)

ところでその"CRUEL"なんですけど、こういうストレートに根源的なものについて歌ってる珍しい作品もありましたね、今回は。これはフェリーの歌詞の中ではあまりないんじゃないかと思うくらいめちゃストレートで内容的にも珍しい。ここまでストレートってのを、めったに書かないヒトだしな。言われなくても当然、More Than Thisが書けるんだから、このテのビョーキは抱えてるとわかってましたが、ハッキリ言われるとまた気持ちよく納得できちゃう。でもまあこの歌詞も単にストレートというわけでもないか。可視の社会的病巣というよりは、もっと深いところにある人間の根源的病巣? 宗教的・哲学的なものも含んで"Trouble"と一括してるんだと思いますけど、そのへんも単に政治性とか社会性とかだけに限定されてないところが深いなあ、と。だってNobody but me でしょ? ふつー、政治的とか社会的病巣なんてものについて歌ったりするミュージシャンなんていっぱいいるし、そういうものはけっこう誰にでも見えるものなんだけど、そういう表層の問題の根源になってるモノっていうのは、案外にふつーの人間には見えないものらしいからな。だからシステム変えれば世界が変わると短絡に信じる。なさけない話だが...。

で更にまんなかあたりで出て来る聖歌っぽい? っていうか、そもそもそうなのかもしれないけど、"Ja Nun Hons Pris"ってあるでしょ。どちらにしても、もとがある曲ならこれもダブルミーニングをカマしてある気がする。こんな短い、しかも自分で歌ってるんじゃなくて、まるでアルバム全体の雰囲気作り的な小品でさえ!!詩的表現において手を抜いてない!!! 彼のカヴァー曲選びの方法論にちゃんと添ってるってのが、芸が細かいなあ、と感心しちゃう!! いつものことだけどっ!!

こういう小品にまでこだわるっていうのはAVALONでも"INDIA"でやったじゃないですか。あれも一分くらいのなんてことないインストゥルメンタルなんだけど、"INDIA"というタイトルにダプルミーニング乗せてあって、More Than This が分からないとINDIAのイミも分からないとゆー、全く何て排他的なやり口だろーかとあきれたもんですが、どこまで完全主義なのかとアタマが下がりますよ、実際。でも、これが分かる、というか、そもそも「詩」のなんたるかを心得てる人間にはコレがたまらなく面白いんです。ジグソーパズルって自分でも言ってたけど、歌詞に使われてるコトバのイミを正しく組み上げた時のみ真意が出てくる、とゆー。だーかーら、私は彼を天才!! と言ってはばからないんです。わかんないかもしれないけど!! ただ単に英語が分かれば解けるかというと、とんでもなくて、当然英語圏の方でも底の底まで読みぬけるのは文学的、哲学的にかなりな知識のある方だけだと思う。ついでに相当なロマンティストでないと、ってのもあるか。私にしても大筋は押さえてるけどまだまだ「なぞ...」って思うとこあるし。これ特にね、日本人って英語苦手じゃないですか。だから漠然と英語の分かるヒトなら、こういう歌詞も読めるんだ、と思ってると思うけど、英語そのものの知識より、こういうのは芸術的、文化的、哲学的知識とかセンスに拠ってくる要素の方が強いから、単に英語が分かる、という程度のヤツに訳なんか書かせたら(誰のことかは言うまい...。名指しなんかしたらアトがうるさい。でもフェリーのファンなら「ああ、あいつか...」って当然分かると思うけど。)、...ね? とんでもないコトになってるでしょ、レコード業界!!

まあそれはいいや、今日のところは。

ともあれ、こういうふうにですね、あれこれ作詞者の詩的な真意を推し量りつつ聴いてると、際限なくハマりこんでしまうわけですよ、私などは。哲学、哲学と言ってますが、なにしろ私ホントぉ〜っ、に、これしか取り柄ないからね。それ以外は単なる人間失格ですから。まあヒトには何か取り柄があるもんだってことで、そのへんはテキトーに読み流しておいて下さい。

う〜、まだまだ書きたいけど、"Frantic"については今日はこれくらいにしておくか。でもなー、ホント私はうれしいですよ。何がって、フェリーやグリーンみたいなヒトを人生の早いうちに見つけることができた、ということが!! そりゃ、どちらもこれだけ有名なヒトなんだけど、それを言ったら有名人なんて世界中に掃いて捨てるほどいるわけで、ミュージシャンにしても、名前は知ってるけど作品に出会う機会がないままに終わってることの方が、ふつう多いでしょ?

そもそも、どちらも私は写真一枚から作品に入ったんだけど、フェリーの場合、まずミュージシャンだと思わなかったもんね、一目見た時。絶対文学系だと思ったもの。グリーンにしても美形だけどアホじゃないというのは一目見て分かったし。まあどちらもその直感の通り、文学的、哲学的才知というのは常人の及ぶところじゃなかったんですけど、同時に二人ともホントに音楽が好きなんだなあ、と思うね。グリーンなんかは少なくとも2回、いろいろな事情で音楽に見切りつけてウエールズに帰ったりしてるけど、そのつど「やっぱりぼくは音楽が好きなんだなあ、と実感してしまって」みたいなコトを言って戻って来てるしな。フェリーにしても、カヴァー曲だってハンパに選んでるわけじゃなくて、彼の音楽の好みが反映されてて昔から(ミュージシャンになるずっと前から、ってことです)音楽がすごく好きだったんだろうなあ、というのが出てるし、"As Time Goes By"なんか、そういう好きな曲を自分の解釈で再構築してるってのが、泣かせたもんなあ...。あれはジャズに対する独自の愛情があふれてましたよ、全くのところ。

少なくとも作品の点で、どちらも絶対、私を裏切らないのがうれしい。A&Bは気に入らなかったヒトもけっこういたみたいだけど、少なくとも私は泣いたもん。よくぞやってくれました、って感じだった。あれでもし"PROVISION"の延長みたいなことやってカムバックして来たんだったら、たとえ世間が認めても私は認めん!! だったもんな。あれでこそ、音楽史に残るってもんなんですよね。一旦死んだものが生き返ったってくらいうれしかったです、はい。

それとね、グリーンが言ってたんだけど、彼は自分が他のアーティスト、例えばアレサ・フランクリンとかね、そういう音楽から多大なパワーを得て今日があるヒトだから、そういう自分が得たような力を自分の音楽を聴いてくれる人にも与えることが出来るといいなと思ってたんだって。でね、私はC&Pで、その通り、多大なパワーをもらったヒトだったから、のちにこの発言を聞いて、やっぱりなあ、すごいなあ、と思ったもんでした。そういう作者の心というのは、やっぱりちゃんと伝わるものなんだなあ、と思って。フェリーにしても、彼の作品の中には彼の根源的な「祈り」とか「願い」みたいなものが歌い込まれているし、要するにハートがあるのね、ハートが!!

洋楽のミュージシャンというのは、内容はどうあれこういう「心から」歌が作れたり、歌えたりする人が多くて、いや、そうでないと「アーティスト」とは言えないんだけども、だからこそ、そういう人たちには私のような「熱狂的崇拝者」というのが絶対、数多くいるものなのよね。だってそれは単に芸能人にハマってるとかじゃなくて、自分の個人的な人生において、多大な影響を受けている、ましてや救ってもらっているというものすごく強い思い入れからくるものだから、そういうところから来ている「好き」は、そうそう簡単に消えるものではないからなんだな。で、それは同時にそこまで愛させてくれる彼らの存在に対して、もうそれは感謝しかないですよ、これは。よくぞそこにいてくださいましたって。ここまで好きでいられるということが自分自身の幸せだからだと思うけど、まあ、そこはLove is the drugなんですよね、やっぱり。あれも偉大な歌だったよなあ...。

こう考えてくると、どう名付けようとさ、しょせん歌謡曲でしかないJ-POPとかゆー? ごめん。でも!! あえて言わなければならない、ということも世の中にはあるんです!! だからあえて言うけど、あんなものしかラジオで流れない今の時代は、それだけでも救いがないと思えてしまうのよね。ああいうのの自称「アーティスト」さんたちに、誰が救えるの? 10年たって誰に覚えててもらえるの? いや、たしかに例外もあるにはあると思うけど、大半は全くもって「詐称」に等しいね、ああいうのをアーティストなんぞと呼ぶのは!! 逆にそういう「本物」までゴミの山の中にいっしょくたにしてあるってのも大いに問題だし、せっかく才能あるのにそれを存分に発揮できてない、いやさせてもらえないというのも悲劇だと思う。それも当然、日本人の文化レベルの低さに原因があるんだけど、それにしたってマスコミさん、コトバは正しく使おーね、って思っちゃうよ、ホント(怒!!)。日本ってとこは明治の昔からこーゆー、文化的にデタラメなコトバの使い方を蓄積してきているから、世界の常識についてけなくなってるって未だに分からんのだから救いようないけどね。

それはともかくこういう変わらず好きでいられるってのも、結局は作者がちゃんと自分の実像というものを作品の中で表現しているからで、それは芸術史から見ればどうでもいいような芸能人の、マスコミの作った虚像に群がってるアホなファンの「好き」とは次元がちがうのよ〜。いい面も悪い面もひっくるめて作品に表現してある、だからこそ見る目さえあればちゃんと作者の心が見えて「人間」として尊敬できるということかもしれませんね。

とゆーわけで、...次回の更新もこのまま「その3」になだれこんでしまうかもしれない、と思うあやぼーなのであった。(もういいって? でもまだLove is the drug の話がしたいんだよ〜。ますます話の内容が暗い方向に走りそうだけど、したいんだ〜!! ギリシア哲学における快楽主義が〜、とか宗教論が〜とか、なんであの曲を聴いてそんなことを考えるんだ!! と誰もが思うだろうけど、関係あるんだから仕方ないんだも〜ん!! あー、I put a spell on youの話もしたい〜。)

P.S.

ここでの私の話を聞いてフェリーを聴いてみようとは絶対思わないで下さい、危険です(爆)。いや、ほんとにあぶねーんだって。まあ私の言ってることは一般にまるで見えて来ないと思うから、単に出来のいいCDとして聴くなら何も問題ないけどね。たしかにクオリティはめちゃ高いし、ヴォーカル曲が好きなヒトは何回も聴いてると、フェリーがどんなに歌のうまい人かってのも実感できると思うし。私の言ってることなんかムシして聴いて頂く方が絶対いいな。

まあもし、ごキトクにも聴いてみようと思われるようでしたら、必ずやROXY MUSICの"AVALON"からお始めになって下さい。これなら英国のポップ・ロック史において十指に入ろうかという名盤中の名盤ですから、きっと気に入って頂けると思います。それが気に入ったら、やっぱりBoys & Girlsあたりが宜しいかと。ちなみにScritti Politti聴くなら、やっぱり "Cupid & Psyche85"からが定番ですね!!

        

2003/6/17

★やっぱり一生もんの好き、かなあ...★

あーんまり、したくないんだけどなあ、こういう話は。身内ウケとゆーか、ファン以外には何のことだか分からない話になっちゃうから、面白くないかもしんないし〜。でも今回ネタがあまりないので、いちおう書こう。面白くなかったら、次回の更新に期待して下さい。それまでには調子も戻ると思うので...(ってホントか?)。以下、フェリー先生・命というヒト以外にはバカバカしいだけの熱狂的ファンのひとりごとですので、他にすることがなく、超・ヒマな方だけ、どうぞ。

さて、今なぜか、「FRANTIC」を〜、時々きいたりしてるんですよね〜。そもそもここ何年かCDそのものをめったにかけないんだけど、最近たまに何かかけよう、と思うとこのCDをかけている。もちろん、Bryan Ferry大先生さまの、昨年リリースされた一番新しいやつよ、これ。当然買ってあるには買ってあったんだけど、他のCD同様、一度かけただけでそのままになってたの。気に入らなかったとかじゃなくて、とにかくCDそのものを聴きたいと思うようなコトがなくってさ〜、このごろ。この音楽ばなれは自分でも驚異的だと思う。かつては四六時中、音楽なくして生きてられなかったヒトなのに〜!!

で、そんな状態でも、やっぱりFerry先生は特別ですから、何かかけよっかと思うと一番に思い浮かぶ、とゆーか、仕事場の机の上にいつも飾ってあるのが、新作とBoys & GirlsのCDなもんで、目に付くトコにいつもあるからそうなるのかもしれない。...実はBoys & Girls、これは私が初めて手に入れたフェリーせんせのアルバムだったんだけど、まあ私の人生の道徳的転落は、この一枚で始まったようなもんですからね。これの中でも、彼は自分の哲学的不道徳さを臆面もなく歌ってますが、この裏ジャケットの写真がすっごい好きなんで十数年来いつも机に飾られてたCDです。...うーん、そうか、この頃のフェリーはまだ40代入った頃? 私がそれより前に初めて彼の写真を雑誌で目にしたのは38才くらいの時のだからなあ。今58だよ、フェリー先生も。彼の長男がそろそろ20才くらいにはなるんじゃないの? う〜、私もトシを取るはずだぜ。(身内ウケの話ですんません...)

それにしても、やっぱ未だにカッコいいよなあ...、相変わらず。まあライヴのDVDとか見るとさすがにトシとってるといえばいえるけど、このFRANTICに使われてる写真は彼の美的感覚の産物か相変わらずやっぱカッコいい。けっこうフェリーってヒトがそもそも複雑な性格してるから、こういうスタイリッシュな外見と実際のわりと明るい...、ってのは控えめな言い方で、一般的なイメージほどカッコつけることに執着してないとこ? そのへんのアンバランスさの上に、更に歌詞なんて読んでるとモンブランより高いプライドとか見えたりするからな〜。そういうとこは殆ど表に出してない、というか、出さないようにしてるから人あたりのいい誠実な態度でインタヴューとか受けるんだろうけど...。こういう複雑な性格が、やっぱり写真の構成なんか見てても出てるんだよなあ。う〜、何でもいいけど、ホントなんでこんなにカッコいいんだ、この男だけは!!

新作にしても、例えばLove is the drugとかの、1回聴いたら覚えてしまうような曲が集まってるアルバムってわけじゃないんだけど、2回、3回と聴いてるとハマりこむ。そのへんやっぱり彼のすごいとこなんだよねえ...。なんかもう、あらゆるカテゴライズを超えてて、ブライアン・フェリーというカテゴリーになってるとゆーか。まあマネの出来るアルバムではないな。いや、たぶんね、音だけ聞き流してると私の言ってるイミってわかんないかもしれないし、「そおかあ?」って言いたくなる気持ちも分かるんだけど、聞こえ方がどうであれ、AVALONの頃から見ても彼自身は決してクオリティ落としてない、どころか、聴けば聴くほど以前よりすごくなってないか? という気がしてしまうんだよ、少なくとも私は。それがROXYの頃ほど一般に出てこないのは、やっぱりフェリーが、ど・天才だからで、特にAVALON以降のアルバムの真価っていうのは、先へ行くほど評価されていくっていう種類のもんだと思うのね。それにそもそもROXYの初期の頃ならともかく、今や作りたい作品作ってれば喜んでくれるファンが世界中にいるんだし。

わりとフェリーをデヴィッド・ボウイがそう言われるほど「天才」と言うヒトは少ないと思うけど、でもさ、ボウイはROXYをカヴァーしたけど、フェリーの方はしないじゃん。少なくともテーマ性の点では、デヴィッド・ボウイではフェリーに抗すべくもないと私は思うぞ。科学とかの実績がハッキリ見える分野はともかく、芸術の分野で「天才」と世間で評価される程度では、実際モノホンの「天才」には程とおいわけで、凡人=世間に視認出来る程度の才能なら大したことはない。見えないから天才なのよ〜!!! (いいです、贔屓のひき倒しとでも何とでも言っておくれ。)

まあ今回も"I Thought"なんて曲が入ってて、そもそもこういうのばっか歌うから回りはワケわかんなくなるんだと思うけど、フェリーのラヴソングって既に怨念こもってるもん。思わない? このI Thoughtとか聴いてて、怨念こもってるって。そのへんが彼の歌のすごさというか、独特なものになる理由だろうなと私は思っているんだけど、今となってはこれだけが最後の執着なのかも。AVALONで、あれだけの哲学性を確立しちゃったら、残すはこの私的ロマンの完結だけかな。まあAVALONを創れる男がだね、どこをどうまちがったって単なるポップスをカバーしたり作ったりするなんざプライドが許すわけないんであって、あのファーストソロのIt's My Partyでさえ、カヴァーしたイミがちゃんとあったんだよな。ああいうのをカヴァーしてしまうところに、彼の茶目っけと、排他性を同時に見てしまうんだけどなあ、私は。

まあそれはいいとして、やっぱり私は一番フェリー先生が好きだ!!(何をいまさら、と自分でも思うが...。)う〜ん、グリーンとどっちがホントの一番だと言われたら当然困るけど...。それにしてもフェリーせんせ好きとか言い出して既に17年とはなあ...。その存在を知ってからというと早や20年を数えるわけで、やっぱり、あやぼーの「好き」は一生もんだってことですかねえ...。この先、変わりそうもないし。

      

2002/9/1

★悪意の背景★

あしべゆうほさんの「悪魔の花嫁」に"不信の背景"ってのがあったな、そういえば。

いや、それは何の関係もないんだけど、先日ある方が自宅の玄関にかけてあったリースを盗まれてしまったって話をしておられて、ショックではあったけど、そういう悪意があるからと言って自分のやりたいことが出来なくなるのはイヤだから、しばらくしたらまた新しいのをかけるだろうなとおっしゃってたんですよね。

あるよなあ、そういうこと、とか思ってたんですが、これってなんで持ってったかには少なくとも二通りある気がする。ひとつは「あ、キレイ。誰もいないしもらっちゃお。ラッキー」ってのと(こういうのもありそうな気はする)、「なによ、いい生活してて幸せでいいわね。持ってってやったらどんな顔するかしら」ってのね。そのかたのお住まいのとこってのがまた高級住宅地だってコトで、これまではそんなことずっとなかったのに、っておっしゃってたから、これはやっぱり後者の仕業なのかもしれないけど、まあ前者は、そりゃイケナイとはいえ、まだ可愛げあると思う。でも問題は後者の方で、私は昔からわりと何も悪いことしてないのにいやがらせされたり、ねたまれたりする方のヒトだったから、こういうヤツの心理ってのは長年の経験から学習しているのね。で、こういうヒトって結論をいえば「かわいそうなヒト」なんだと思う。私なんかは、昔からお洒落なおうちの前にそういうのが飾ってあったら素直に「いいなあ」と思う方で、「いつかは自分もやりたいなあ」とポジティヴに考えるから、そのうち向上もするし実現もするんだけれども、そこでネガティヴに考えて劣等感から他人の幸福の破壊に走るってのは、実際救いようがないと思いません? やっぱりそこには↓でも書いたけど、ものごとの前後関係を考えないアタマの悪さって大いに影響してると思う。

私はシアワセな人とか、何かできる人というのは、すごく努力してると思う。まあそりゃ、運もあるかもしれないけど、何の努力もせずに、やりたい放題でシアワセな人なんていないと思うよ。例えばいくら親がカネモチとかでも、残念ながらお金があれば幸福になれるかってゆーと、そんな甘いもんじゃないしさ。でも世の中には特に90年代ひどくなったような気がするけど、ゆわえる「中流意識」ってのが蔓延してるじゃないですか。この「ふつう」とか「中流」とかの意識は「みんな同じ」と考えることで安心するのと同時に、自分が努力しないことの言い訳にもしてるという気がする。で努力しないから向上しないし、横並びて満足とか言いながら解脱には程遠いからコソコソ回りを気にしてて、自分より誰か上に行ってないか常に気にしてるのよね、こういうヒトは。だから自分よりシアワセそうなヒトってのが許せないわけ。「横並び中流意識」にしがみついて自尊心保ってるからだよ。だから90年代の「バカがノサばる」って傾向は目に余るものがあった。

もー、私はこういうイヤガラセするとか、イヤミ言うとかの人間が蛇蠍のごとく大大大大大キライなんで、ズケズケ言っちゃいますが、ホントこういう人間って劣等感持つと法律とかも含めて一切の理屈や常識ってものが吹き飛んじゃうらしい。だからバカなんだと思うけども、でもこの「理屈や常識が吹き飛んじゃった」状態というのはケモノと同じだからハッキリ言ってほっとくしかないという気がする。どうせ自滅してるんだし、かまうだけバカバカしい、というか、自分と同じ人間だと思うべきではないというか。ともかくそういうのと行きあわないよう、ヘンに刺激しないようにしないとロクでもないことにしかならないしね(私も可愛いしゃーちゃんをなぐられたとかあるから、ホントにそういう連中を同じ人間と思うのはバカげてるとさえ結論してるし)。

私も昔はドア・リースとか飾ってたけど、そういうヤツもいるってことは分かってるから、イヤな目に合う前にヤメて今は玄関の外側はわざと殺風景にしてあります。まあ、私がやると不必要に華々しくなって目立ちまくるしな。

ともあれ昨今こういう話は増えてる気がしますね。高度成長期から80年代にかけて「身分意識」ってのが無理矢理センメツさせられたってこともあると思うけど、逆にね、もちろん家柄とか身分なんかに人間が個人として縛られる必要は全く無いんだけれども、逆に「個人である」ということには「個人としての価値」がついて回るってことでもあるわけです。社会的価値観による差別は少なくともタテマエ上しない傾向にあるとはいえ、だからといって個人全ての価値が横並びになったわけではない。それはありえない。だから、自分の無価値を認識して向上の努力をしなきゃいけないんとちゃいますか??? 、そのへんカンちがいせんといて、と声を大にして言いたいですね、私は。

ありがたいことにウチのサイトに来て下さるお客様は皆さん大変お育ちがよろしくてシアワセな方が多いようで助かってますが(専門用語では「客スジがいい」という。...ホントか??)、まあそういう理由なき悪意の背景ってのは、ある種のカンちがいからくる「劣等感」である場合が昨今多いんじゃないか、というお話です。世相も世相だし。ネット上にもいろいろあるじゃないですか、そういうのって。でもコレってそのヒト当人の問題だしなあ。対策ってもない気がするね。でも確実に言えるのは、そういう他人を理由無く害するような人間はロクな一生が送れないってことだな。「天罰」ってのは、案外そういうコトなのかもよ。

      

2002/8/28

★オスカー・ワイルドのはなし★

↓で今度は「獄中記」をレヴューすると書いてますが、好きなんですよね、オスカー・ワイルド。

サロメとか幸福な王子などの作者として、ご存知の方も多いと思いますけど、私はこの「獄中記」が、いっちゃん好きです。なんでかってゆーと、なかなかいいコトをいっぱい書いてんですね、オスカーはこの中で。私は日本の「純文学」に対する極度のアレルギーだと以前から言ってますが(アレルギーだからね、もう近よれないの、あの世界は。だから多分いい作品もいくらかはあるとは思うんだけど、ともかく体質なのよ、体質。偏見と言って下さってもかまいませんけど、まあある部分あたってるだろうと思うのは、変に左翼的とか、その逆とか、大乗仏教系、聖書系とか、マジメぶってるわりに視野狭くて「欺瞞の固まり」ってイメージがあってさー。世界なんて全然見えてないし(だから欺瞞に陥る)、哲学性っても上等なとこまではまず行ってなさそうだし。せいぜいマルクスか? だいたい三島由紀夫とかが天才とか言われてるんじゃないですか。でも、哲学的大成っていうのは即ち「解脱」なわけだし、(生きてて)極楽浄土だか天国行っちゃうことなわけだから、間違ってもあんな死に方はせんよな。悩むのはいーんですけど、いくつになったら悟るんですか、みたいな...。なんか悩むだけで自己満足してるよーな世界??? なんかハートがないんだよなあ、ハートが。)、で、19才の時に初めて「獄中記」を読んで、生まれて初めてほんものの文学の世界っつーか、「芸術」の世界に触れたって感じで開眼モノだったんですよね。「あ、やっぱりコレでなきゃ文学じゃねーんだ」、みたいな。いくら「日本(自称)純文学」を読んだって、「イエスは詩人であり個人主義者である」なんて、まず言ってくれませんよ、誰も。この一言は効いたなあ。

オスカーって人は、まあ例のスキャンダルで有名なんで、19世紀・英国的頽廃の象徴みたいに思われてますが、実際は結構マジメで心のあったかい人だったみたいです。「ドリアン・グレイの肖像」という作品があって、それにマジメで堅物の画家(バジル)と頽廃的紳士(ヘンリー・ウォットン卿)ってのが出て来るんですよ。でオスカー自身も書いてるんですが、そのバジルの方が、ヘンリー卿より自分の実像に近いなって。だれでもヘンリー卿の方がオスカーのイメージだと言うと思うんだけども。まあ一言で言って「愛情深いヒト」だったってことかもしれません。

最近は私も、かなりリハビリして人間界に復帰してますが、一時期はもうホントに完全に隠者状態になるくらい人間ぎらいでしたからね。今でも「人間ぎらい」にはちがいありませんが、個人主義者だからもってるってトコはあるなあ...。で、この「獄中記」を読んで以来、長いことオスカーは唯一の「私の会ってみたいひと」だったんですよ。と言うのは、「獄中記」には私が日ごろから考えてるのと同じことがいっぱい書いてあって、「ああ、このヒトなら、こういうことが分かるんだなよなあ。いいよなあ」って。まあ100年前に死んじゃってるんだから、どうしようもありませんでしたが...。

ところでちょっと話は飛びますが、名前だけは有名なんですけどアルフレッド・ダクラスって写真見たことあります? まあ確かに美形ですけどね、根性悪そうだし。でも美形っていうなら、オスカーの奥さんの方が美人だったかもしれない。で、思うんですけど、ダクラスって「サロメ」だよね、あれは。オスカーにとっては社会的ハメツのきっかけではあったけど、同時に芸術的大成のきっかけでもあって、もしアルフレッド・ダグラスがいなかったら、結局オスカーって貴族のお坊ちゃん作家で終わってたんだろうなって思う。まあ芸術家の「必要悪」ってやつですかね。あれだけのことがあったんだから、もうそれで別れたのかなと思ってたら、オスカーが出獄してからナポリで一緒に撮ってる写真とかもあってね。まあ、可愛かったんだろうなあ、やっぱり。バカなコほど可愛いとは言うけれど...。

ともあれ今や私はオスカーゆずりの「個人主義」、「唯美主義」、「芸術至上主義(たぶん私のはもっとハードだと思う。芸術家至上主義だから)」を標榜しているわけですが、「耽美」ってコトバもあるよなあ、あれは大キライ。谷崎は問題外って感じだけど、いつのまにJUNE系の小説を耽美、耽美って言うようになったんだか。「風と木の詩」とか流行ってた頃って、そんなコトバ使わなかったよね、確か。いや、あれはいいんですよ、あれは別に。竹宮恵子さんって好きだし、確かにあの作品は「美的」と言えます。あと栗本薫さんとかね。納得できるんですけど、ともかくそういう「カテゴライズ」そのものがやなんだな。ミソもクソも一緒くたにして「耽美小説」とか言ってるのがやなの。それって結局「美とは何か」ってことについて、なんにも分かってないんじゃないのって感じがして。カテゴライズそのものが醜悪なの。

だからその「唯美主義」における「美」とですね、「獄中記」におけるイエスに関する記述っていうのは、もう芸術の根幹なわけで、なんで「美」なのかってゆーと、「純愛」だからなのよね。spontaneously given、これですよ、これ。オスカーもこの"spontaneous"ってコトバ使ってるけど、私も好きだあ、このコトバ。「自然に生まれて来る」から「愛」なのね。だから「美しい」んであって、型にはまるんだったらもう「美」じゃないの。だからイエスは「個人主義者」なの。私が「人間ぎらい」なのは、何千年にも渡ってこれを理解せんからってのも、たぶんあるな。

まあいろいろワケの分からんコトを書いてしまいましたが、要するに「獄中記」ってのはチマタで信じられてるような単なるダクラスあての個人書簡じゃなくて、偉大な文学作品なんですよ、って話ですよね。そもそもこれ始めからオスカーはダクラスが売り飛ばすって分かってたしね。だから一通は写しを取ってロバート・ロスに預けてたし。ともあれ、ああいうのを「文学」っていうんです、と私は思ってるんですけど...。

      

★ディケンズは大キライだ、というはなし★

ついでにもうひとつ文学系・ヨタ話を続けましょうか。

ディケンズの「クリスマス・キャロル」ってあるでしょ。私はあれが大キライ!! あれってディケンズは単純に「他人によくしてやれば受け入れられる」って言いたかったのかもしれないけど、それそのものがイヤなの。もー、ずごく「欺瞞的」で。まあ、私が深読みしすぎるんでしょうけど、だいたいスクルージが、なんであんななっちゃったかと言うと、幼い頃から貧しくて、誰も助けてくれなくて、一人で一生懸命生きてきて、やっとお金持ちになったからでしょ。じゃあ、そういうスクルージの人格形成の要因って「人間の冷たさ」じゃないですか。で、あの作品にしてもスクルージが施しをする気になったら、にこにこ寄って来てるけど、どうせスクルージが、けちんぼだった頃は「強欲」とか「高利貸し」とか、好きなだけカゲグチたたいてたのに決ってるのよね、あいつら。

よーするに私がもっともイヤなのは、「利益になればシッポをふる」というこの節操の無い人間の根性!! 自分の利益になれば「いい人」で、ならなければ「悪い人」、全く単純で前後関係を考えるということがないってトコが、いっちゃんキライ!!

そんなもんに施ししてやって、モノだのお金だのもらえるから「いい人」とか思われて、虚しくならないか? 私だったらあのあと百倍は厭世的になるぞ、絶対。助けたり施したりするにしても、それだけの値打ちのある相手っているじゃないですか。そもそも人間は確かに生まれた時は社会的に「平等」、つまり同じだけの価値があると思うんだけども、生き方でその価値ってプラスにもマイナスにもなると思うのね。あくまで「社会的」価値のお話ですけど。例えばヒトラーとマザー・テレサだったら、私たちはヒトラーよかマザー・テレサの方が「価値ある人」と通常の感覚では思うと思う。それって結局この人たちの生き方の差から生まれてる社会的価値観なんだよね。それと宇宙的な視野から見た場合の価値観ってのはまた別で、これは人間のみならず、全ての存在物が「等価」であるという認識なんですけど、まあその話は今はヤヤコシイから、おいといて。

ちょっと話がそれますけど、人間って生まれつき才能があるとか美人とか、そうじゃないとか、いろいろな差があるから絶対平等なんかじゃない、とか言う人が時々いるんだけど、平等っていうのは相対性の問題だと思うのね。つまり、「社会的」平等っていうのは、どんな生まれつきをしていても、それで社会側からの差別を受けるいわれはない、というイミの「平等」なわけです。イエスが言ったのもそういうイミだと思うわけ。「平等」という概念も定義が難しいらしいけど、少なくとも私の定義ではそうなる。で、その社会的価値を「等価」とするのが現代社会の基盤である平等の概念の在り方だと思うんですけど、でも、どんな生き方しても価値が同じってのは、ムリがあるんだよな、やっぱり。これまた「社会」と「人間」の関係をどう定義するかっつー、ヤヤコシイ問題になってくるんですが、ともかく個人主義のいいところっていうのは、人間を十把ひとからげにしないとこだと思うんですよね。人を個別に計るというか。それも価値の基準は人種とか性別とか家柄とか、当の個人に由来しないことではなくて、その人の人間性だという点ね。

だから私がスクルージだったら、いくら生き方を変えるつもりになったとしても、やっぱり「救うに値する人間」に援助すると思うなあ。見込みがあるとかハートがあるとか、志があるとか。そういう相手だったら、お金も生きるのよ。「モノもらえばシッポふる」なんてのに施ししてもザルだからね。もらえなくなったら、それまでだから不毛だわ...。...日本のODAって、いい例よね。

まね、私がこのクリスマス・キャロルがキライって言うのは、そういう細かいとこ、みんなムシしてるからなんだろうな。「スクルージはこうして良い人になりました、めでたし、めでたし」って、そこで終わっちゃってるのがやなの。現実無視してるじゃないですか。で、「これで感動しないやつは人間じゃない」みたいな押し付けがましさとかね。それって「聖書的」だよな、やっぱり...。(話が混乱するといけないので付け加えておくと、聖書とイエスの思想ってのは別モノだと少なくとも私は思ってるんです。聖書学者にもそういう結論に達している人もいるそうだし、あながち間違ってもいないらしいケド。)

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なんかものすごく長いなあ、今日のAYAPOOは。止まんなくなっちった。もうこのへんにしとこ。

ところで、今日はオークション経由でファビが一匹、うちにやって来ました。ゴリラ柄のかわいいヤツです(足、長いけど...)。そのうちまたオク・ファビコーナーに出ると思うよー。じゃあね!!

       

2002/8/24

★カゲキ発言★

↓で、東大や京大のことを思いっきりバカにしてしまったが、5月からこっち、あやぼーはいろいろ気に食わないことが多くて気が立っているからわりとカゲキモードに入ってしまっている。まあしかし、東大・京大合格という快挙(と世間では思われているらしい)をなしとげてカシコイつもりの兄ちゃん姉ちゃん方には、ちょっちキツかったかもしんないので補足説明をしておこう。

要するにね、あやぼーが言いたかったのは、ね。やはり東大・京大なんぞに入ろうというからには、よほどもともとIQが高いとかじゃない限り、幼い頃から熟に通って相当、一生懸命勉強に時間を割いてきたはずなんだよね。(そもそもIQが高きゃ、そんなとこ行かずにさっさとハーバードとかコロンビアとかに留学してるかもしんないけどさ。)でも、それで一番レベルが高いとされる所に入るからには、示されたカリキュラムを限りなくパーフェクトにこなしているわけじゃないですか。ねねね??? じゃなきゃ入れない大学なんでしょ、あれって???

でも、ですよ。それだけ一生懸命やって、寝るヒマおしんで、あそぶヒマおしんで、彼氏彼女も作らんとやってきたわけでしょ、彼らはさ(って、そーゆーやつばっかりじゃないかもしれないけど)。それなのになんで大学合格するまでに英語を習得しきれんのか、というコトなんですよ、つまりは。逆に言えば、現在の学校教育で示されているカリキュラムを、そこまでカンペキにこなしたとしても!!! 英語に不自由しなくてすむくらいまではなれない、というこの不条理!!! あやぼーが怒ってるのは、というか、それこそホントに十代の時間をそんな粗末なカリキュラムのために捧げてきた学生さんの方が激怒しなきゃいかんよ、と思うのは、まさにこの事実なわけ!!! だから文部省はバカぞろいだと言うのだ!!! もしそれだけの労力を正しいカリキュラムで費やしていたとしたら、そんなにマジメに勉強してきた人たちは英語どころか他に2ヶ国語くらいは習得できているはずなんだぁぁぁぁぁ!!! (怒)

...ま、つまりは彼らも環境の犠牲者っつーことですわな。知的最高レベルというのは秀才じゃなくて天才なんだし、それってすでに生まれつきのもんだし、突き詰めて言えば自分のやらされてるカリキュラムそのものに疑問を抱けない、という知的レベルが秀才の限界ってことなのかも。じゃ確かに日本という環境の犠牲者だな、やっぱり。彼らだってアメリカやヨーロッパで生まれてたら、もっとずっと未来のある人たちだったかもしれないのに...。(あ、ごめん。まだ人生終わってないよね。大丈夫だよ、きっとそれなりの未来はあるよ。がんばってね!! )

ま、ともあれハッキリ言って、英語には特殊な才能なんかいらないんですよ、そもそも。あたりまえじゃないですか。もし特殊な才能がいる言語だったら、こんなに広く使われてると思います??? もう、いいかげん素直に敗北をみとめて、国だか文部省だか知らんがEST(TOEIC作ってるとこ)あたりに泣きついたらいいのに。なんとかして下さいって。まあ英検だけは自分たちで改善できないんならさっさと廃止して欲しいもんですな。まったく。ヒトさまの貴重な時間を何だと思ってるんだ、いつまでも意地はってんじゃねーよ!!

       

2002/7/23

★まんがレヴューについて★

前回の更新からコミックのレヴューをやってますが、もともとマンガにあれこれ理屈をつけるなんて不粋だというのは分かってるんです。Clip Boardででも、ちょこっと紹介しとけばいいのに、なんでここまで理屈つけまくったレヴューを敢えて書いているかというと...。

昔から私は教科書にえらそーに載ってる「(日本)純文学」というモノが大キライでした。バカにしてさえいました(今でもだが)。「何でこんなもんが文学なんだ、タダの作文じゃねーか」とコドモの頃から思ってたわけです(もちろん例外は何にでもあるが)。ナマイキと言いたいヤツは言え!!! でも周囲の人たちの多くはこれを「文学」と信じ込んでいて知的に高級なもの、高尚なものと考えているんですよね。いや考えているというのは正しくないかもしれない。コトこういうものに関して、他人の判断をうのみにするヒトは「考える」ということをそもそもしない(と言うより、するだけの知識も教養もない。そういうヤツに限ってヨーロッパの文学作品なんか読んだこともない)。学校や社会で「これは価値があるんですよ」とか、「高級ですよ」と教えられれば、そのまま信じるんだから、考えるというよりは覚えこまされてると言うべきかもしれない(「覚えこませる」!!、よーするに、それが日本で言う「教育」なんだな)。で、翻ってマンガということになると、「マンガ」である、つまり文だけじゃなくて絵がついてるということだけで、そのひとつひとつの価値を考察しようともせず、びといのになると読みもせずに「しょせんマンガでしょ」とか「マンガなんか」と決め付けちゃうんですよね。コレが腹がたって仕方なかった!!!! 言わせてもらえば、自分がバカで教養がないからモノの値打ちをひとつひとつ判断出来ないだけなんであって、価値というのは見る目のあるもんには見える!! だからもちろん逆にマンガだからと言って、何でも価値があるとは思ってないよ、私だって。

浮世絵を無価値と考えて海外に流出させてしまった昔の日本人と、マンガをマンガであるというだけで「無価値」のレッテルを貼り付けてしまう今の日本人と、要するにそいつらの知的レベルは100年たっても何も変わってない。それで「日本人は芸術を理解しない」と未だにバカにされてるんじゃないですか。で、なんでこんなコトになってしまったのかというと、私に言わせれば芸術のなんたるかも分からんと文学やってるツモリだった「(日本)純文学」のオメデタイ精神性!!! 今の日本人のメンタリティに、これが社会的にも文化的にも大きな影響を与えていると、見えるヒトには見えてるだろうけど私もそう思うわけです。で、マンガっていうのは、まだ社会的に正当な評価を下されてない分野だけに、逆に「芸術とは」ということについて考察するには、つまりそれを無教養ゆえに無価値としか判断出来ないヒトに「これでも論理的に反論できますか」という「あなたたちが無教養である」ということを突きつけるには、なかなかいい素材だと思うんですよね。素材として扱わせて頂いている作品の作者の方には申し訳ないと思いつつ書いてるんですが、誰かがどこかでいくらかでも、それくらいやっとかなきゃ、いつまで経ってもこの国の文化レベルは向上しやしないしね。恥ずかしげもなくプロダクションでっちあげのアイドル・グループを未だに「ロック・バンド」と言われて、うのみにする教養のなさは、じーさん・ばーさんも十代の若い連中もしょせん未だに変わらんもんな。本質を見る目がないから、言われたコトをうのみにする。そんなところからは新しい、価値あるものなんか何も生まれ得ない。なぜなら、価値を判断する目がないから言われるままにうのみにするんだけど、価値が判断された時には、既にその対象はある程度の社会的地位を、それが正当な価値であろうと不当な価値であろうと得ているわけで、そうなる前にある程度その価値を認識できる社会でなければ、芸術を育てる基盤とはなりえない。だから優れた芸術家ほど海外に出て行ってしまうでしょ? 住みにくいから、日本って。新しいことや、ダイナミックなことが全くもってやりにくい社会だから、この悪い地盤は今後特に創造性が重要になってくる経済の世界でも大きく悪影響を及ぼすだろうなとも思うし。

まー、そんなこんなでマンガもレヴューに加えているということです。理屈はともかく私の紹介する作品は、どれも絶対面白いので、読んでみて欲しいなあ...。で、コミックのレヴューを他の分野のレヴューと別系統にしたのは、未だマンガの社会的価値が十分に認識されていないので、「マンガと並べられる」ということで、その作品の作者やファンの方が不愉快に感じられることがあるかもと思ったからです。まー、栗本先生なんか、そうは思われないでしょうけどね、あの方マンガもお好きだから。私でも読んでないようなのまで、読んでらっしゃるもんなあ...。やっぱり見る目のあるヒトは、あるってことですね。ともあれ独立させる分にはマンガの方も、それ専門のレヴューってことでハッキリするって効用はあるしね。だから私自身は紹介してる作品の芸術性にマンガだからと区別しなきゃならないものがあるとは思ってないってコトです。

「芸術はバクハツだ!!」という名言がありますが、要するに私が大半の(日本)純文学を「芸術性がない」と言って忌み嫌うのは、バクハツしてないからです。「上手な作文(私の定義では「文芸」)」ではあっても「文学」じゃないの。熱とか思い入れとか、切実なものがないでしょ、ああいうの。器だけが文章ってだけで、ホトケ作って魂入れずなのよね。テーマ性もせいぜいこのへん、って程度のもんだし、視野が狭い!! (何度も言うが、何事にも例外はある!! )。そりゃ明治維新直後の頃なら300年も鎖国してたあとで「世界」なんてものを認識しろって方がムリかもしれませんが、100年間おんなじコトを続けるか、恥ずかしげもなく!! 

ま、そういうわけで私は私の考える「芸術」の名に値するものだけをレヴューして行こうと思ってるんで、読んでれば多少わかって来るんじゃないですか? で、次回は私のバイブル、オスカー・ワイルドの「獄中記」を取り上げるつもりです(いきなり文学作品)。この作品が何でオスカーの作品リストの中で特筆すべきなのかも分からんのが、キリスト教圏じゃない国の悲しさだな。ま、そのへんもレヴューで書きます。

      

2002/7/13

★LIVE IN PARIS & FRANTIC★

昨年リリースされたフェリー先生のDVDを手に入れました。いやー、なんつーか、もう既にワビ・サビの領域に入りつつありますね、この世界は。ジャズとかロックとかポップスとか、そういうジャンルなんかもうぶっ飛んでいるというか、つくづく偉大なヒトだと改めて思いながら見てました。いいんだよなあ...、やっぱり。で、今年出たアルバムの方は、イーノと一緒にやってる曲なんかもあって、そのせいってわけでもないんでしょうけど、のっけから初期ロキシーのフォー・ユア・プレジャーあたりを彷彿とさせる雰囲気。私が特に気に入ったのはデイヴ・スチュアートと組んでやってる曲でしたけど、前のAs Time Goes Byとは全く赴きを異にしてて、それはそれでまた良かったです。まー、私はフェリーせんせだったら何でもいいんですけどね、実際。お元気でらっしゃるということだけでも嬉しいのに、最近のご尊影まで拝せるわけですから。

と、また冗談みたいなことを言ってますが、私は何もダテや酔狂でフェリーのことをせんせ、せんせと言ってるわけではありません。私はガッコでは何も学ばなかったヒトなんで、学校の先生を恩師とは思ったことがありませんが、何人か「この人がいなかったら、今の私はない」と言い切れるほど尊敬している方がありまして、フェリー先生はその筆頭だからなんです。もう、彼の作品からはどれほど多くを学ばせて頂いたことか。確実に彼がいらっしゃらなければ、今の私はございません。はい。

まあ、ホントの洋楽ファンなら皆さん、そういうミュージシャンのひとりやふたりお持ちではないかと思いますけど、最近ちょっと考えてたんですよね。演歌っつーか、歌謡曲とロックの本質的な違いってのは何かとか、つらつらと。で思い当たったんですが、いくら音やリズムだけロックにしても、それは単に音、つまり器をパクってるだけで本質的に歌謡曲でしかない、このへんは分かってらっしゃる方も多いと思いますけども、では音やリズムじゃないなら「何」が? ってことになりますよね。で、それはアーティストそれぞれの精神性とゆうか、視野の問題なんじゃないか、と。演歌とか歌謡曲ってのは、どこまで行ってもそれは「私は、私が、私の...」の、つまり「私は悲しい、私は嬉しい、私は辛い」という世界なんですけど、ロックとかフォークとか、スクリッティみたいに逆に音だけポップなのに本質的にはロックなんてものも含めて、要するにその視野が「世界」つまり「外」に向いてるってとこがモノホンのロック・アーティストの条件なんだなと。(でも演歌とか歌謡曲に芸術性が求められないかというと、それはまた別の話。そのうちもっと詳しく書くけど。)

例えば、Jonny Hates Jazzに"I don't wanna be a hero"という曲があるんですが、この曲は「戦争に行って人殺しをして英雄(ヒーロー)と呼ばれるようになんかなりたくない」、「おまえ(国家)は、ぼくが人を殺さなかったからといって、ぼくを断罪するのか」とゆー、非常にマジな内容なわけです。曲そのものはキレイなポップ系の曲ですけどね。やっぱり結構重いものがありますよね、こういうの。ところがコレが日本に来ると「ヒーローになるとき〜、それはいま〜」とか、脳天気きわまりない歌謡曲になっちゃうわけで、でも一応、これ日本じゃロックで通ってなかったっけ?(やっぱり徴兵制がないからねー。平和ボケ国家に相応しい「ロック」かもー。だからって憲法改正を支持するわけではありませんが...。) それとかU2のボノなんかは、最近「聖人」とまで言われてるそうですが、やっぱりそれだけマジに世界を見るだけの視野があるってことですよね。

まあそもそも所詮目の先三寸しか見えてない凡人が(だから土着的な視野でしかモノが見えない)、いくら自称ロック・ミュージシャンったって(本人が思い込んでるからなあ、強いわ)、そんなのに人生左右されるようなヒトはまずいないだろうけど、ある種の音楽っていうものは、単に音楽であることの域を越えて、伝えてくるものとゆーのがあるわけです。で、ロックっていうのは、そもそも音楽としては数少ない「思想性」を持ったジャンルなわけで(だから、グリーンやフェリーみたいなノン・ミュージシャンが存在しうる)、そう言えばボノも「クラッシュを聴いて初めてアフリカの現状を知った」とか言ってたもんなあ。ことほど左様に聴き手のその先の人生に影響してくるのよね、そういうものって。歌謡曲聞いて人生変わるか?

別に「思想性」っつったって、マルクス読めとか聖書読めとか、そういうレベルのことを言ってるわけじゃなくて、「視野」の問題ね、「視野」の。自分を包含している「外」としての「世界」が視野に入ってるかどうか。

で、翻ってフェリー先生ですが、彼に対する評価が一般に思想性まで及ばないのは、これはある意味、特に不思議ではない。それは本人にも責任あると思うし、そもそも理解期待してないってとこもあるし。例えばLOVE IS THE DRUG聴いてね、DIM THE LIGHT, YOU CAN GUESS THE REST って言われてね、まあ大半は考えがベッドに行くよな、この不親切な説明じゃ。歌詞書いた本人もそれ期待して密かに悦に入ってたんだと思うし。おまけにそれじゃ、あの大量のカバーと、どうやっても思想性なんか見出せない曲の数々は何なんだ、ってことになるし。実際、もろ思想性とは何の関係もない曲が半分はあるんだし。...これを言ってしまうと、私がフェリーに関しては、熱狂的ファンというのですらない、殆どストーカー的な興味を抱いているということをバラしてしまうことになるが、彼の歌詞を読んでると、どうしても、もともとのブライアン・フェリーという人の実像ってのは、どういうもんなんだろうと思えて来てしまって、その頭の中が覗いてみたくなってしまうのね。そもそも単なる脳天気ではAVALONなんか作れないわけだから、実に複雑で興味深い自我の持ち主ではある。私は殆ど人間に興味を持つことがないのに、なんでフェリーせんせだけはこう気にかかるかな、と自分でも不思議なんですけど、前世で因縁でもあったのかもしれない...。それはともかく、確かに分かりにくいことは分かりにくいけど、彼もやっぱり考えることはちゃんと考えてて、決して脳天気にラヴ・ソングばっかり歌ってるわけではなく、きっちり「外」が見えてるというのは確か。そうじゃなかったら、そもそも私はこうまで興味を持たない。ただ彼がユニークなのは、まさにその思想性とは関係のないラヴ・ソングで何を意図して来たのかということで、まあまだまだ私にも分かんないとこの方が多いしねー。そこそこ解読して私が聞きに行くまで先生には思いっきり長生きして頂かなくてはなるまいと、改めて思う今日このごろなのであります。こんなことを聞きたいと思う奴も他にはいないだろうしな...。でも、問題はどうやったら真実を吐かせられるかということだが...。それにしてもシェイクスピアやアルチュール・ランボーなんかは、フェリーの頭ではどんなふうに読めるものなんだろう...。なんかコワいな。

       

2002/2/24

★ぶっしゅチャン、あんたソレがやりたかったのネ!!★

一時大暴落した株価ですが、ブッシュ大統領の訪日以来ちょっと盛り返してますね。まあ当然というか、アフガン効果ですかね、コレは。ちまたでは例の9月11日のテロでアメリカ被害者説が当然のように信じられてますが、あやぼーは信じてません。つーか、アメリカ経済の体質を少しでも知ってりゃ、第一報入った時点で「オイオイ、またやってんのかよ」と思わんほーが不思議です。

先週だかのタイムでは大々的に日本の経済的凋落をうれしそーに特集してましたが、他人のウチの台所事情にクビつっこんでるヒマがあったら、おまえら自分ちの政府なんとかしろよ、と思いましたね、実際。2兆ドル軍事予算って、それ押し切られてて、なーにが民主主義国なんだか。マジ、軍事独裁国ですよ、あれは。(そこまでゆー???) いやいや、ココでケンカごしになってはいけない、テキの思うツボだ。まー、アメリカ人自身も殆どは自国の実態を認識していないという現実から言っても、とりあえずはオモテ向き被害者ってことにしといたほーが平和かもしれません。テロリストを憎む気持ちも分かるし、確かにあれだけ多くの方が亡くなっているわけだからマギレもない被害者には違いないにしても、問題はいったい誰が本当の、というよりも「本質的な」加害者であるのか、というコトで、それを突き詰めることなしに解決されるワケがないのに、そういう客観的視点からモノが考えられず与えられた加害者像(この場合テロリスト)に対して吠え立てるしかできないというのは...。言うまい言うまい、これ以上。ともあれアメリカ国民の皆さんには、せめて「何故テロの被害にさらされ続けるのか(若しくは何故テロリストが生まれ続けるのか)」について自問自答してもらいたいですね。それなくして根本的解決はありえない、というのは、そんなに間違った考えでしょうかね。まあ、「根本的解決」なんてしちゃいけないんだな、こういうコトは。はいはい。好きにしてちょーだい。こっちに実害なきゃいいわよ、別に。(←既に投げている。)

しかし何にせよ、9月のテロがその後どういう進呈を辿って2兆ドルという軍事予算に辿り付き、結局誰が一番トクしたか、ということについては、ヴァオレントな世の中を被害者にならずに生き残るためにも、個々人で考察の余地がある事柄ではないかと思います。ま、よーするにブッシュちゃんはコレがやりたかったということでっしょー。翻って国内では、やっぱり田中外相が切られましたね。これって日本国内の政界がどーのこーのいうより、アメリカにとっちゃヤメてくれたほーが良かったと思うし、つまりは日本がアメリカのバンドワゴンに乗るというコトでもありますか。でもなー、これで一時的に経済は回復すると思うけど(まー当然ね)、日本にとっちゃなー、いろんなイミで将来的に負債しょいこんだも同じかもしれません。やだなー。(知らないもんね、どーなっても。あやぼーの責任じゃないもーん。)

本日の格言 : 「一番になる努力はしても一番に固執しないのが大人(「たいじん」と読んでっ!!)、何がなんでも一番でないと気がすまないのが成金」、ご愁傷さまでした(合掌)。

      

2002/1/12

タイム誌にIBMのこんな広告が載っていた。

「e-businessは第2章へ・もう、すっかりおなじみになった"e-business" という言葉。これは、IBMが1997年に提唱した、まだまだ新しい考え方です。...(中略)...そして、いま、21世紀を迎えて。e-business は生まれ変わろうとしています。ひとつの企業にとどまらず、グループ企業、業界、さらには社会全体を結びつける「インフラストラクチャー」となること。単なる「IT化」を超えて、本当に収益性を追求できる、リアルな「ビジネス」となること。いよいよe-business は、第2章へ。」

とまあ、コレは、あやぼーがDOMESTIC POLICY VOL1.「ITバブルは本当にはじけたか」で書いてたことに近いんですよね。つまりインフラとしてのインターネットはほぼ定着したから、そこからは創造性が重要になる、ってヤツです。でもあやぼーがコレ書いたのって、もー、1年近く前だよ。やっとIBMが追いついて来たか、わっはっは。あやぼーってやっぱり天才!!(誰も言ってくれないから自分でゆー)

冗談はともかく、今までのHP作成業者って要するに作ったら作りっぱなし、それで客が来ようが来るまいが知りません、で商売出来たわけだけど、既に言われているように今後はソリューション構築が重要になってくる、つまり企業の現行の営業活動に、如何にしてネットを結び付け、尚且つ売上げの向上に貢献させるか、という点が重要になるってコトですね。企業なんかは、やっぱりそれでお客が増えるとか、なんかメリットがないとHP持ってる意味がないからね。で、そのためにはデザインも含めて独創的な発想、個性、そういうものが不可欠なわけで、でもこれって第1段階の頃みたいに技術畑のヒトの領域を既に超えてるよね。さらにもうひとつ言っておくと「技術は特化しない」(あくまでこれは経営戦略上の問題で、個人のスキル・レベルの話ではない)。もちろん特許とかになるような特殊な技術は別ですが、そういうものと違ってインターネット上で使われる程度の殆どの技術は、ネットの性質から言ってもこの傾向が激しい。要するに技術プラスアルファがないと、やっていけなくなっているばかりではなく、更にはプラスアルファの方がウエイト大きくなってるってことでもあるのね。だから今後ネットに関する技術系の起業は十分な注意が必要、コレは早いうちに警告してやっといた方がいいと思う。まあココからは、あえて言いません。ご想像におまかせします。

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