<洋楽ファンのひとりごと>

2003.12月

 

歌詞については、私もかなり信を持って言えることだけしか書かないつもりですけど、

ただ、ココで書いてることは、あくまで私個人の歌詞解釈にもとづいてますので、

絶対それが正しいとは現時点では言い切れません。

その点どうぞあらかじめ、おふくみ下さいませ。

 

 

 

Roxy Music in their early days

 

   

 

2003.12.26.-12.27.

★思想犯★

↓で"Boys and Girls"のジャケットの話をしていてふと思ったんですけど、表向きファッショナブルで何も深いイミないような音楽作ってて、裏向きは結構危ないコトを歌っている、なんであっちでもこっちでもいちいちこーゆー裏表のあることをしなけりゃならないのか? いろいろ理由はあるようですが、よくよく考えてみるとひとつ思い当たるのは、ヨーロッパの倫理道徳から言ってフェリーさんてもしかして立派に思想犯だから? 

"Love is the drug"がそもそもそうなんだし、それだけじゃなくて例えば"Valentine"にしても、あの曲とあのヴォーカルで、まさか痛烈な社会批判をやらかしてるなんて殆ど誰も信じないだろうけど、そおなんだ。"Boys and Girls"だって、"Slave to Love"だって、実はあの通りの歌だし。 "Sensation"なんかは、あれはまた全く別のイミで、すっごい怖い作品なんですけど、ともかくこの姑息なまでの裏表の激しさっていうのは、思想犯だったら当然のコトかもしんない...。

一見さんとかシロウトさんは、大抵あの音楽だけでフェリーさんの作品世界の全てだと思い込むらしくて、そこからこっちには殆ど入ってこれないんだよな。その場合アンビエントでもBGMでも好きなよーに聞いてもらっていー、と先生ご自身もおっしゃっておられた。まあそれはそれで別な目的は達成されているわけなんだけど、同時に裏世界ってものもありまして、だから彼の作品はみんな"dual purpose"なわけね。

で、そっち側入り込むと、私とかエドワーズさんとかKingだのPopeだの、もお殆ど彼のこと単なるミュージシャンとか芸能人とは全然思ってないわけで、大モトが思想犯なんだからその理解者やコアなファンのサークルったらアングラ・ソサエティ的になるのもやっぱり当然なのか...。怖いなあ...。

そのへん考えてると、思うに英語が素直な日本語と違って、あんなふうにひねくれてぐちゃぐちゃになってしまったのは、歴史から見て数百年に渡る政治的、思想的闘争の結果かもしれないなあ、と。実際、英語圏で生まれて育ったヒトでも、自分の日常喋ってるコトバが、こんなに無茶苦茶な言語だとは、みんながみんな知ってるわけじゃないんじゃないかな? 気がつかないまま、表イミの部分だけを利用してるってコトなのかも。で、裏イミっていうのは、そーゆー危ない人種の間だけで通用するスラングみたいなものだったりして、だからそれで詩なんか書くと、あんな暗号文みたいなことになっちゃうんだな。まあ言えばアンダーグラウンドの共通語ってゆーか、こっち側では筒抜けなんだけど、表から見ただけでは何のことだかさっぱり分からないようになっている...。しかも更に厄介なのが隠喩表現で、これはもう辞書にも載ってないから、全体のテーマから連想して意味を把握するしかない。結果としてもともと共通の意識基盤を持ってないと通じないってことになるんだな。日本人って西洋の文学だの思想世界を権威主義的に受け取りたがるけど、実はこーゆーめちゃヤクザな世界なのよね。哲学なんて、私に言わせれば極道の学問ですよ。たいてい現状の社会体制が気に入らないから、あーだこーだ理屈つけてひっくり返そうとするんだから。それも上等なのになるほど、理屈の上だけのことじゃなくてマジで。

しかし、それにしても「詩」なんて概念が、いつ頃からヨーロッパ社会に根付いたのか。そりゃ、古代ケルト民族の時代には既にそれが実用されてたんだし、遡ればそんなものすごい大昔に起源があるってことなんでしょうけど、英語という言語そのものが、あんなになっちゃったのは、いつ頃からのことなんだろー? いったい誰がこんなことを始めたのか...? 誰か一人がそうしたっていうより、やっぱりよってたかってそうしてしまったってコトなんだろうか? で、それに気がつくある種のヒトたちが更にそれを受け継いで利用してる間に、ますますぐちゃぐちゃなって行ったってことなのかな? まあ何であれ、そんな大昔からこの闘争ってのはずーっと続いてるってことなんだろうなあ...、解決つかないままに。それ考えると日本ってな、あの言語が物語る通りの太平楽な世界ってことか...。いや、それはそれで日本文化の美徳に基づくものかもとさえ思いますけどね、私は。そんな屈折した方法を創出しなきゃならない必要がないくらい、良くも悪くもまとまってるってコトなんでしょうから。実際、明治維新以前の日本文化の中には凄いものがいっぱいあるんだし、ヘンに欧米崇拝に偏重するのも、それは全く分かってないのと同じことだと思うし。

それはそれとして、私としては究極的な思想犯ってのは、やっぱりカッコいいなあって思うのよね。そりゃ、中途ハンパなのはもお全然問題外よ。だいたい思想の世界って複雑なように見えて実は単純な一本道だから、その思想的闘争のテーマってゆーのも根源的なものはたった一つと言っても過言じゃないと思うな。だけどその一本道の始点に立つのはカンタンだけど、終点まではなかなか着かないもんだから、思想史が複雑怪奇になっちゃってるのは踏み迷ったヒトたちの苦悩の足跡ってことなんだろうね。だから哲学書も何でも読めばいいってもんでもない。シロウトさんが、入らなくてもいいのに賢いつもりでそんなとこ迷い込むと、もちろんその枝分かれした袋小路に入り込んじゃって、まるっきりカン違いしたことしか出来ないか、最悪自分で自分のクビくくることになっちゃったりする。つまり、そういうのを中途ハンパってゆー。(ちなみにココで言う「シロウトさん」とは、古いヤクザさん用語で言う「善良な市民の方々」というイミです。なにしろ私ら思想犯で極道ですから...。)

だけどそのへんきっちり終点まで行き着けるってゆーのは、それだけでも哲学的天才なわけで、あまつさえそれがどれほど絶望的な戦争か分かってて戦ってるなんてのは...。と、思うとやっぱりフェリーさんにしてもグリーンにしてもカッコいいなあ...って。もちろんそゆことやってるのは彼らだけじゃないわけで、そもそもそーゆー思想的スケールの大きさがあるから、ある種の洋楽ってどこかの国のかよー曲あたりとは根本的にケタや迫力が違うんだろね。

 

 

2003.12.22.-12.27.

★Both Ends Burning★

例の「よいこ」「わるいこ」分裂状態のお話をしようと思って、どのへんから始めよっかなーっと考えてたんですけど、presumption ってコトバあるでしょう? 一般に「仮定、推定」というイミですけど、ついでに言えば「厚かましさ、ずうずうしさ、無遠慮」などとゆーイミもあります。

以前ちょっとデリダ氏のインタヴューを紹介してたと思うんですけど、あれに「差異に敏感でありたいと思う」という発言があったの読まれた方覚えておられますか。何故「差異に敏感」であらねばならないのか。人間は何ごとかを論じる時に、常に「あらかじめ仮定してはならないこと」を無意識に前提の中に滑り込ませてしまうという過ちを犯しがちだからです。前提条件に確定されていない要素が滑りこんだ場合、結果として導かれる結論に誤りが含まれる危険性が大きくなるのは当然ですよね。「差異に敏感」でない場合、その「あらかじめ仮定してはならないこと」を「当然含まれるべき条件」として確定してしまう危険も大きくなります。論題というのは様々な論理要素の複合体であるわけですから、それを構成する要素ひとつひとつについて常に、確定された条件であるか、未確定であるか、細かく判断してゆく必要が生じます。構成要素としての論理の僅かな食い違いが、理解の食い違いを生み、最終的には結論の食い違いをも生む結果となるからです。presumptionとは、まさにそのような状態で何事かが仮定された場合に用いられる言葉でもあります。

さて、例えばよくこーゆー厚かましいコトを当然のように言うヒトたちっていませんか? 「強い者が弱い者を助けるのは当たり前のことである」。

一見正しそうに聞こえるでしょ? でも私に言わせれば、こういうのを ダブルでpresumption とゆーんです。「厚かましい仮定」、ですわね、まあ言えば。では「弱い者」は助けられるのが当然ですか? と言うコトは、「強い者」は「弱い者」の奉仕者であらねばならないんですか?  「弱い者」は常に「強い者」にのしかかる権利があるとでも言うんですか? 人間は「平等」じゃなかったんですか?

もともと「平等」の定義からして多くの論理大系においては誤りがあるし、また同時に「あらかじめ仮定してはならないこと」、つまり「人間」という変数として扱うべき要素を定数と仮定して論理展開を進めるという愚を犯している。これはどこかでも以前書いたことですが、何故なら、「人間」という要素は生まれながらにして個体ごとに性質、能力など様々な差異をあらかじめ内包している存在だからです。それを一方的にその構成要素すらもはっきりさせないままに、画一的要素として確定してしまうことは当然のことながら現実からの遊離を引起こします。人間が「個体ごとに性質、能力など様々な差異をあらかじめ内包している」、この現実を無視したところに、どのような論理を構築しても実際には機能しないということです。

まずこれも始めにハッキリさせておかなくてはならないことなんですが、「社会」というものはそれぞれの基盤となる概念大系の上に構築されているもので、けれども、その概念大系そのものに「絶対性」はありません。概念大系とは、元来「無」の平原である地球上(もしくは宇宙)に、人知が構築した文明という建造物の基礎であるわけですが、それそのものも人間によって「作られた」ものでしかないということです。逆に言えば、だからこそ歴史は常にその概念大系における構成要素を入れ替えることによって様々な社会を現出させて来た。哲学とは、正にその文明の礎を無から生じさせしめる、という点において「芸術」と言えると思います。もっとも哲学者として大した能力を持たない者が構築した概念大系を基盤として選択してしまった場合、それは多くの人間を不幸のどん底に突き落とすことになりますが...。だからこそ、思想哲学は劇薬、少量用いれば薬になるものも、処方を誤まったらえらいことに...、なってますね、あちこちで。

まあともかく残念ながら、人間の中には生まれつき「強者」と「弱者」がどうしても混在してしまうのが現実で、そしてその事実を無視して双方に納得のいく社会も構築出来まいということです。私個人としては、能力のある者、強い者は驕るべきではないし、またその力を他者のために役立てるべきでもある、とは考えますが、しかしながら 「強い者が弱い者を助けるのは当たり前のことである」、こーゆー厚かましいコトをさも当然のように言い放たれると、おい、ちょっと待て、と言わざるを得ない。そもそも人間というものは大抵の場合、いくら生まれつきの能力があっても社会的強者であるためには相応の努力をしているものです。それを努力もせず、自らは能力がないことを理由に(もしくはそう思い込んでいるために)他者に対する慈悲心も持たず、あまつさえのしかかって助けてもらうことしか考えない。もともとがどんな神サマのような慈悲深いヒトでも、そういうのばかり目の当たりにさせられればサジも投げたくなるのが当然だと思いませんか? 慈善が底なし沼になりがちなのは、逆に言えば助けられる側がそれを当然のこととして漫然と甘んじているか、自らに与えられた問題の解決を怠っているか、もしくはその両方か、そのどれかに原因がある場合が多いと思います。所謂「楽園」という概念にしても、何もせずに遊んで暮らせる常春状態を「楽園」と考えることそのものが、多くの人間の怠惰や他依存の激しい性質を物語っているように私には思えてなりません。果たしてそのような「救われるのをただ待っているだけ」の生き物に、救うだけの値打ちが本当にあるのでしょうか? 理想家というのは、始めは当然人間を救われるべき存在と考えるからこそ、社会の現状における不条理に疑問も持てば怒りもする。そしてそれを改善しようと努力もする。しかし考えれば考えるほど、どうしても引っかからざるを得ないのが、「この混沌の原因は一体何なのか」ということで、すると突き詰めてゆけばココが人間によって構成される社会である限り、その混沌の原因も結局「人間」そのものの中にしか在り得ないと気付く時も来る。

つまり「よいこ」と「わるいこ」の分裂は、たいていの場合「人間に救う価値があるのか、人間こそがこの混沌を生み出している大モトではないのか」、この疑惑を打ち消せなくなった時に生じるのではないかと少なくとも私は思っています。同時に、自分を犠牲にするということは、他者にもその同じ犠牲を強いるということであり、そのような「理想的な人間像」というものが如何に元来自由であるはずの人間を縛りつけて身動き出来なくするものか。また「人間」にとっての真の自由と幸福を追求しようとすればするほど、その「The Right Stuff」こそがそれを妨げるものであることに気付かざるを得ない。結果として、これらを含めた様々な要素に納得のゆく論理的決着がつくまで、自我の中では「理想を支持するよいこ」と「人間にとって究極たりうる真理、救い、変革を求めるわるいこ」が真っ二つに分かれて激論を交わすことになる。つまりそれが"Still falls the rain"、そして"Both ends burning"状態なんです。でも、この「わるいこ」は通常よく考えられるように単なる堕落したワガママなヤツではなく、「唯我独尊こそ真理への糸口である」と知っている大変重要な存在でもある。だからよけい双方一歩も引かない状態で議論が拮抗してしまうんですね。

もともとこのBoth ends burning (up)という表現は、相反する見解を支持する正反対の論陣が、一歩も譲らずに激論を交わしている様子を表現するのに用いられるものでもあります。これはフェリーさんの作品のタイトルにも使われてますが、グリーンも"A &B "の中でコーラス部分に使ってますよ。まあ、どちらもそういう状態だってことですよね。で、先生の作品の方ですけど、"Both ends burning,  will the fires meet, Somewhere  deep in my soul tonight?"、ね? つまりこの「両側で燃えている」のは、"deep in my soul" ですから、どちらも彼自身の中にあるものなんです。それがひとつにまとまることがあるんだろうか、って歌なんですよね、これは。それが分かんないヒトたちは、たいていこの両側にいるのを恋愛中の男女だって思っちゃうらしい。それでどーやって、この歌詞全体の起承転結つけるのか、いっぺん聞いてみたいもんですが、原作がちゃんとイミを持って書かれている以上、その一行一行が何を意味し全体として何を言わんとしているかが分からなければ作品を理解したとは言えないと思います。それも出来ていない状態で正しい訳が書ければ不思議ですよね。ともかく、うちの先生は、そんな分裂しまくったような無意味なコトバの羅列をズラズラ続けるようなヒトじゃないことだけは確かですから。

話をもとに戻しますが、そういう人間に対する不信や疑惑に対するひとつの解答として私が挙げられるのは、他者を犠牲にしないためには自らも犠牲になるべきではない、また逆に誰にでも自分の人生を切り開く義務と権利が平等に与えられるべきだと思うので、他人の問題を肩代わりしてやるようなことはすべきではないし、また、される方もさせるべきではない。何故なら、人間は問題を解決することによって成長し、それによってのみ自ら切り開いた人生の恩恵を受けることが出来るからです。この前提のもとにであれば、問題解決の過程で求められる妥当な援助は為されても差し支えないとは思いますがね。怠惰、怠慢によって救われない現状がもたらされたのなら、それを改善するのもまたその現状をもたらした人たち自身でなければならない。我々がして良いのは、求められた時に妥当と思われる援助を与えることで、家畜でもあるまいに同じ人間に対して何もかもを肩代わりしてやるなんてコトは、過保護もいいトコだと少なくとも私は思います。それにそれは彼ら自身の潜在能力をも低く見積もっているということでもある。また、そういうやり方は当然あのバカげたpresumption、つまり「強い者が弱い者を助けるのは当たり前のことである」なんて無責任な理屈を正当化する。「強者」がそう考えるのは決して間違ってないと思いますけど、「弱者」がそう考えて、あまつさえ自分では何もしないでいるのは、単なるカンちがいの怠慢でしかない。それでは結局、究極的な問題解決には成り得ないんじゃないですか?

もちろんこれも、私個人が提出しうる解決策のひとつでしかなく、絶対性は全くありません。しかしながら、実際、世界がこんな状態にあることの元凶が人間以外の何にあるというのでしょうか? 自分たちの手では何もしようとせず、「救世主」とかそーゆー誰かが犠牲になって自分たちに楽させてくれるとかの、甘い根性で生きてるからどこまで行っても、どん底のたうち回ることになるんじゃありませんか? 冷たい言い方かもしれませんが、そんな連中にいくら手放しで援助を与えても、感謝も改善の努力もなくただただ食い尽くすだけ。それこそ救いのない底なし沼にしかなりません。第一、解決策は彼ら自身の文化の中にも既にある。なのに偉大な先達がどんなに大事なことを教えてくれていても、そういう連中は結局自分たちの解釈したいようにしか解釈しないし、何を言っても聞きやしない。例えば彼らは自分たちの信じるとする宗教ですら、長いこと正しく認識しようとはしないで来た。結論としては、彼ら自身がそれに気づいて改善の努力を始めるまで、どれだけの屍が積み重ねられようとも、やりたいようにさせておく以外あるでしょうか。それでもどうにかしたいと思うなら、状況を正確に把握し、限られた力をより有効に使う方法論から模索する必要があります。またもちろん、根本的な解決に要する時間は膨大なものになることも覚悟すべきでしょう。

さて、この分裂した"Both Ends Burning"状態、これをまとめる理屈、ひとつあるにはあるんですが、フェリーさん、強情だからな...。自分で辿り付くまで、きっと納得しないんじゃないかなー? ちなみに"Both Ends Burning"の歌詞はこちらでご参照頂けます。

 

 

★今年最後の言いたいほーだい★

たぶん今年はこれが最後の更新になると思うので、言いたい放題の打ち上げをしよーかなー。これでもけっこう私、気を使ってんですよ。これまでいろいろキツいことを言いたいだけ言っとるな、こいつは、と思われてるかもしれませんが、それでも譲歩に譲歩を重ね、推敲に推敲を重ねてですね、最低限のところまでしか言わないで済ましてるんです。そこまでなる前の原稿なんてもー、ふつーに良識のある方には読めたシロモノじゃないです。ま、ともかく今日は今年最後なんで、言いたいだけ言ってやるぞ〜♪

さて以前どこかで、あるフォークシンガーのつもりの歌謡歌手が、愚かにも「洋楽の歌詞ってイミがないから」と、天下無敵のそら恐ろしい無知を披露するようなコトを口走っていたとゆー話をしたことがあったと思うんですけど。

未だに私はそれに関しては「言いたいコトはいっぱいあるぞ」状態なんで、例えばこれがどのように愚かなpresumptionに基づいた発言であるかを分析してみようと思います。つまり人間がいかに「あらかじめ仮定するべきではないこと」をいともカンタンに確定要素としてモノゴトを論じてしまうか、という良い例でもあるんですよね、この発言は。そもそも「洋楽の歌詞」ったっていろいろある。膨大な数の楽曲の歌詞を全て分析するなんて誰だって不可能なことですから、この発言は当然、この発言者が読んだ限られた範囲の楽曲に対する認識を、全体のものとして論じてしまっている点で既に論外です。けれども、その読んだものが全部本当にイミが無かったのか? それだって考察すべき点はいくらもありますね。

まずこの発言の一番大きな前提は、

@「この発言者自身が、洋楽の歌詞を理解しうる知能及び知識が自分にあると思い込んでいる」という点です。このバカは英語もろくに分からない分際で、です。勘違いしないで頂きたいんですが、もちろん私は英語が分からないヤツはバカだと言ってるわけじゃなく、日本人なんだから英語が分かる必要なんかない、これも確かに一理はあることだと思っています。ただ論じる対象が英語圏の文化を基盤とした所にある以上、まずその言語の理解は当然の基本じゃないですか? それもしないで洋楽の歌詞をあーだこーだ言うこと自体が愚だとは確かに言えることでしょう。

また第二に、英語を理解できないヒトたちが歌詞の内容を知るのに何を手掛かりにするかといえば、それはおそらくレコード会社の付けた対訳だと思うんですよね。そりゃ、あれにはイミないですよ。訳してる本人が「詩」としての作品のイミ分かってないこと多いもん。スタンダード系の中学生でも読めるってタイプの歌詞ならいざしらず、フェリーさんやグリーンみたいに知的レベルが高くなればなるほど、言っちゃなんだけど多くの場合、ふつーの対訳者程度のアタマではついてけなくなりますから。傲慢な言い方に聞こえるかもしれませんけど、事実その通りなんだし。そこでこの発言者の次のpresumptionは、

A「レコード会社の付けた対訳は、原作を忠実に再現していると思い込んでいる」

、という点です。

これは、この発言者だけではなく一般に皆さん信じておられることかもしれません。ココにも大きな問題が実は隠されてるんですけど、そもそも我々が対訳を読むのは、「その対訳者が作品をどう解釈したか」を知りたいわけではなく、「原作の歌詞で作者が何を歌っているのか」を知りたいからではないですか? でもレコード会社のこういう対訳をつける洋楽部の多くに、そんな有難い責任意識を期待してはいけません。ある担当などは「解釈の仕方はヒトそれぞれですから」と、これまた無知無能を披露するような発言を、面と向かってして下さいました。つまりこれは自分たちの付けている対訳が、「一貫して原作に基づいているという責任は持っていないし、チェックもかけていない」と言ってるも同じ。あくまで一般に対訳とは、「それを訳したヒトが、この作品をこう受け取りました」という程度のものでしかない場合が多いということです。確かにお客さんはどう解釈しようと自由ですよ。それが音楽ってもんです。そして「評論家」だの「ライター」だのいうヒトたちも許したくないけど、百歩いえ一万歩譲っていいってコトにしといてあげましょう。でもね、この世でたった一人、絶対それやっちゃいけない人間がいる。それが「これが、この原作の内容を日本語にしたものです」と提出してお金もらってご飯食べてる「対訳者」じゃありませんか? その大モトのところで無責任な誤訳を乱発された日には、それを元にしてしか歌詞を理解出来ない評論家だのライターだのも当然マトモな理解が出来るわけないし、お客さんだって更に出来なくなって当然でしょうよ。ちょっとでも「文化に対する責任」ってものを感じてるんでしょうかね、ああいうヒトたちは。私、間違ったこと言ってます? もちろん私は、全部が全部そうだと言ってるわけじゃなく、そのへん認識しておられる方も数は少なくてもあるとは思います。問題は原作の知的レベルが高いために、理解するのに考慮しなきゃならない知識の範囲があまりにも広すぎて、通常の教育カリキュラムでカバーできる範囲を遥かに超えているのが現実だということ、また対訳を発注するレコード会社そのもの、そして多くの対訳者がその現実を認識していないということです。最悪の場合、彼らには自分たちが誤訳を乱発している、という意識すらないでしょう。

実際、Roxyの"Dream Home"にしても、アルバムがCD化された時に付けられた対訳と、後にボーナス・トラックとしてライヴが収録された時に付けられた対訳では、明らかに内容が違います。厳密に言えばどちらも私の解釈とは違いますけど、それでも前者に付けられたものは、納得のいく範囲です。でも後者の方は、「誤訳」とさえ言えない、呆れかえるしかないバカバカしいでっち上げ。どうせなら始めに出したものを、そのまま使えばいいものを、わざわざ訳し直させてこのザマです。チェック入ってないし(もちろん担当者は事務的に発注して印刷に回す程度の仕事しかしないので、チェック能力があるわけなし)、責任意識も持ってないから、こーゆーコトになる。

こういう無責任さは邦題にもよく現れていて、例えば古い曲ですけど、今でもよく知られているものにカーペンターズの"Close to you"という作品があります。これ邦題が「遥かなる影」。どこをどうやって邦題付けてるか明らかですよね。曲の音楽的雰囲気だけから、なんとなく付けてるだけ。歌詞の内容のみならず、原作のタイトルさえ一切無視した無責任な邦題です。"Close to you"は直訳すれば「あなたの近くに」、曲の内容も、この邦題の暗い雰囲気とは正反対で、「あなたは何てステキなの、鳥や花まであなたに恋しているわ、きっとあなたが生まれた時に天使が祝福を与えたのね、ずっとずっと側にいたいわ」ってな、それこそ一目瞭然のカンタンなスタンダード系の歌詞であるにも関わらず、こーゆー邦題の付け方がされているんです。こういうのは根本的な意識の問題ですから、一曲や二曲のことではなく、彼らが扱う作品全般を通して当然のことのように行われている。つまりココで内容を歪曲することを、悪いこととも間違ったコトとも思っておられないんでしょうね。結果として日本人の洋楽への理解そのものが↑の発言のように完全に歪曲されてしまうのが自分たちのやってきたことの結果だともどうせ考えてやしないでしょう。ただ、習慣的にそのようにどこでもやっているから、自分たちもそれに従ってるだけのことなんでしょうから。誰かが徹底的に非難しまくってブレーキかけまくるまでヤメないでしょうよ。いや、もうこの先レコード会社なんてものは衰退するだけですから、今更その必要はないと私は思ってますけど、でもついでだから言わせて貰えば、実質的にはそういうの「公害」も同然ですよ。有害物質の垂れ流しと同じだから。ただ、ふつーの公害は人体を蝕むものなんだけど、このテのやつは文化を蝕むから、これだってすっごい怖いものなのよ? 

ともかくスタンダード系の歌詞でさえこの始末ですから、これが知的レベルの高いロックの歌詞になったら、それこそもう客が分からないのをいいことにして、やりたい放題なるのが当然。いや、一番始末が悪いのは彼らにはやりたい放題のデタラメをやってるという意識がないってことですね。でも、結果として出て来てるものがこの状態だということが問題なんです。やってるつもりです、で泣いて謝って済むのはコドモの世界、かりにもプロなら責任問題なんだから袋タダキが当然なのよ。で、そのような現実を無視して、一般に「レコード会社というものは一流の大企業であるから、まちがったことをするはずがない」、というこれまたpresumptionのもとに、↑のような第2の誤まった前提が為されたのであろうということです。

それ以外で考えられるのは、辞書片手に英語の歌詞を読んでみたはいいけど、イミ理解出来るアタマがなかったってコトでしょうね。どちらにしても、それらの誤まった前提のもとに導き出されたのが「洋楽の歌詞ってイミがないから」、という結論なんでしょう。これだから、私は賢いつもりのバカってだっいキライってゆーの。自分が如何にモノを知らないかさえ考えず、自分じゃ英語も分かんないくせして賢いつもりでこーゆーコトをゆー。何が「フォーク」よ、大の男がタダの低俗・少女シュミな歌謡曲作って恥ずかしげもなく歌ってて。自分じゃそれにすら気づけないよーなおつむで、大局的な視野を含んだ洋楽の、文学的・芸術的伝統を踏襲したインテレクチュアルな歌詞に対して、なんてことゆーのよ。ばーか。キツくない、キツくない。これくらい言われて当然。怒ってんのよ、私は。

まあ、このようにですね、「あらかじめ仮定するべきではないこと」、つまり自分でも気付かず所謂「予断」を人間はしがちなイキモノだということです。それとは逆にある種の人間ってのは、何事かを判断する時に、このへんの細かい要素を考えうる限り落とさず分析の対象として演算を繰り返している。それをもう一瞬にやってしまうんですよね、そういう人間の脳は。↑でも引用した「差異に敏感である」とはこういうことなんですが、結果として、より少ないデータで予断を交えてしか判断出来ない人間の結論と、予断を排除し、より多くの点を考慮して分析し解答を出す人間の結論の間には天と地ほどの差が生じてしまう。実際、それだけ徹底的に考え抜いても現実との間では齟齬が生じるものなのに、それもしなかったら限りなくズレまくって当然ですよね。これは、そうと教えておけば訓練によってある程度補えるとは思いますけど、もともと先天的なものであるのも確かで、残念ながら悲しい現実です。何はともあれ、モノゴトを正しく理解するためには、相応の学習と知識が必要という「今週の教訓」ですわね。「何事も鵜呑みにする前に、自分のアタマでよく考える習慣をつけましょう。」

ってことで、今年はこれでおしまいです。半年間、ご贔屓ありがとうございました。来年も言いたい放題言いまくりますので、どうぞよろしくお願いしまーす♪ では皆さま、良いお年をお迎え下さいませね。(合掌)

 

 

2003.12.19.-12.21.

★the best of both worlds★

この"the best of both worlds"っていうのは、前も話に出ていたマーク・エドワーズ氏の記事のタイトルなんですけど、これには↓のようなキャプションが付いてたんです。

Is Bryan Ferry indecisive? Does the Pope wear a funny hat? But the man whose new LP has been in the works for seven years admits that it's been worth it Maybe...

笑っちゃうなあ、私。Popeって、これもいろいろ意味ありますけど、まあ一般には「ローマ法王」ですよ。特に大文字で始まってるとね。そりゃエドワーズさん、先生のコト言ってんでしょ、この文脈じゃ。

大賢者サマとしてはアーサー王の一件もあるし、彼のケルト伝承へのハマりこみかたも尋常じゃないんで、どっちかってばKingって言うのがしっくりくるんですけど、Popeと言いたい気持ちもよく分かっちゃうのー。だって私、ちょっと前に言ってたでしょ? 私のフェリーさん崇拝ってのは「心酔」通り越して「信仰」まで行ってるって。まあ、そういうコトなんですよね、熱狂的ファンにとっちゃ。"Love is the drug"なんて、このタイトルそのものが聖書一冊分に匹敵して余りあるってゆーか、経文ってゆーか...。なんでかってのは、そりゃこっち側の話なんでオフレコっすよ、当然。だってバラしちゃったら"Hit and run"にならないもの。

なるほど、やっぱりこれだけ作品のイミが分かってる方が、ちゃんといらっしゃるわけだ、先生のごく近いところには。それに、このタイトルの"the best of both worlds"、これからしてからが、まあ、よくお分かりで、みたいなタイトルなんですもん。そもそもこれはこのインタヴューの時にたまたまフェリーさんの古い友人でもあるトマス・パクスレー氏が同席してらして、彼に"That's the trouble with you, you always want the best of both worlds."って言われたところから取られたタイトルなんですよね。言ってみれば彼の作品、表の娯楽性と裏の芸術性、つまりそのどちらもを満足させられるように作られてるわけで、なんでも双方取りしなきゃ気がすまない先生の性質を見事言い当ててるコトバなんです。

彼の作品が常に、大半の人たちに向けられた娯楽性と、少数の人たちにしか理解し得ない芸術性、思想性を同時に内抱してるってのは、そういう彼の困ったちゃんな性格を反映してるってことなんだろうな。ほら、"Boys and Girls"のジャケットに使われてたあのエレガントなカップルの写真ね、例えばあれは当然あの作品の表の顔ですよ。私も今更ながらなるほどねえ、って、可笑しくなるというか、こーゆーコトを長年に渡ってやってるヤツに、私はとうとうこの時期にとっつかまっちゃったんだあ。ご丁寧に、あのLPの裏ジャケって先生の写真を逆さまにしてあるでしょ? 私はCDしか持ってないけど、そのブックレットは少なくともそうしてある。つまり、例えば、あのタイトル曲のエレガントで繊細な音の裏に、ご説明した通り、作者のヨコシマな真意が隠されている、と。それをパッケージングでまで表現してあったわけね。誰が気付く? 全くもお、こーゆーことやるヤツだから悪魔的だってゆーのよ、私は。どーせ、大半の人間は気にも止めないの分かってて、からかってんだから。

実際こーゆー屈折したやり方って"Boys and Girls"だけじゃなくて、彼の作品あっちにもこっちにも見受けられますよ。一見何の変哲もないレコード、ところが歌詞だけじゃなくてタイトルやデザインにまで、何だかんだでイミが重ねてあるものがあるわけ。その彼の仕掛けたミステリー解読にハマりこんじゃうとですね、あまりの面白さにこっちが気ちがいみたいになっちゃう。私、今まで自分の脳が全開でレッドゾーンまで振り切ったってのは、初めて彼の作品の解読してた時っきりありませんよ。最近はもう手のうち読めてるから、そこまでならなくても分かっちゃうけど。で、そんなのと長いことつきあってると、例えばこのエドワーズさんのキャプションにしても、一筋縄でイミ読めないでしょ? "funny"や"wear"って単語だってこれいろいろイミあるんですよね。とどのつまりは先生に影響されちゃって、こーゆーキャプション書いたりしちゃうようになるんだな。性格の悪さが伝染するのか、それとももともとこっちの性格が悪いから共鳴してしまうのか...。全く困ったちゃんな法王サマですよ、あの先生だけは。

 

2002.12.17.-12.21.

★バケてるのか、本質なのか★

↓で、TAXI に使われてた写真の話してましたけど、特に裏側に使われてたやつー。あれ、よくよく考えてみるとフェリーさん、40代半ばの頃の写真だよ。それなのにちょっと見、拗ねた男のコみたいにすら私には見えるんだよな、あれ。もお、だから言っちゃうのよ、カワイイって。

今年58のオジさんつかまえてカワイイってゆー私も私だけど、ほんとそう思うんだから仕方ない。たぶん、私がそう思うのって彼の書いてる歌詞のせいだろうな。例えば"Love is the drug"のラストにしても"dim the light you can guess the rest"、これなんてあの歌詞の全容知ってたら大爆笑もんなんですよね。当然、これだって世の善良な庶民の皆サマが、こう言われて何を想像するか。そんなのよくよく分かっててやってんですよ、わ・ざ・と。でも実はそこで考えがベッドに行くってのが低俗な人間性を物語っているのであって、ホントはもちろん"Dream Home"とか"A Song For Europe"みたいに裏イミ抱えてる作品なんだな、あれも。まあその「低俗な人間性」が行き着く先が、あの低俗な邦題ってわけね。

この曲ばかりじゃなく、特にこの"Siren"に入ってる作品の歌詞ってのは、もう、激烈。私の知る限り、他に比べてここに入ってる歌詞が一番ものすごい。ダブル・ミーニングとメタファーのオン・パレード、結果としてまず大半のリスナーが、あれに深いイミあるとは思いますまいね。でも、ホントはあるから怖い。↑でちょっと"Hit and run" って"Love is the drug"の一節出しましたけど、もお、これだって私,イミ分かった時爆笑しましたもん。これは野球用語の方じゃなくて、どっちかってば「ひき逃げ」の方ね。それにこれには「突然集中攻撃をしかけて、直ちに引き上げる」ってイミもあるわけ。要するにぶん殴られた誰かさんが、殴られたとも気付かないうちに彼の方はさっさと逃げてるってことなんだよね、コレ。何で殴ってる、もしくは攻撃してるかって、だから"Love is the drug"って曲そのもので、ですよ。もちろんココだけじゃなくて、この曲の一見無意味なコトバの羅列に見える他の一行一行にしたって、ちゃんと読んでくときっちりイミが通ります。他の曲も当然同じ。理解出来る人間が絶無に近いと分かっててこーゆーコトをやる。そんなとこがもう殆ど手におえないイタズラっ子だとしか思えない。

まあそういう彼流のユーモアとか、十代の頃のロマンティストの文学少年がそのまんまトシとって、いつのまにか大スターになっちゃってたけど、本人はそのへん特に意に介してなくて中身変わってないってとことか、少なくともそういうとこ見てるとカワイイなあ...って。そう言えば、94年頃、Mamouna"作ってる時、イーノと一緒にやってて、イーノって若い頃とちっとも変わってないなあって思ったってゆーんだよね、先生。で、自分もそうありたいものだ、って。大丈夫、心配しなくても立派に変わってません、先生も。うー、芸術家、特に天才ってのはコドモと同じって、けっこうよく聞くよなあ。やっぱりそーゆーもんなのか。

そう思って見ると、Antonさんみたいな一流の写真家が撮った写真の中には、彼の本質を捉えたものってけっこうあるような気がする。作品と照らし合わせて見てると面白いよね、そういう写真って。

 

 

★半年とはね★

ふと気がつくと年末。7月頃からこのページを作りましたんで、そろそろ半年になるんですねえ...。その間、ずーっとフェリーさんの話をし続けて未だに止まらないとゆー。自分でもびっくりしちゃいますが、よくこんなに喋ることがあったもんだ。でもこの分だと、確実にまだ半年や一年は喋り続けそうだぞ。歌詞の分析にしたって、たった4曲くらいしかやってなかったと思うし。きゃはは、全作ったら100曲やそこらできかないんだよーお。ネタとしては10年でもやれるだけあるな。

それにしても思うに、Scritti のサイト作ってる時も思ったけど、更に活動期間が長くて人脈が入り組んでる Roxy Music みたいな対象をあれこれ調べてると、際限なく面白い研究になるものなあ。道楽には最適。うーん、やはり作品を理解するには人間を知らなくてはということなのか。やっぱりそのへん切に思いますね、最近。フェリーさんのなんて特にそうで、"AVALON"にしたって、あるインタヴュアーなどは(もちろん英語圏の方。このページでは日本の洋楽プレスは問題外と思って下さい。)「あれは一体何なのか」みたいな質問してたけど、分からないのよね、その深遠なテーマが。それに"Mamouna"の中心的なテーマ、あれも10曲中8曲にかかってるテーマなんてものは、よくよく彼の作品知ってないとまるっきり見えないだろーし。

またキツイこと言うって思われるかもしれませんけど、研究対象となる分野での中心的言語、つまりこの場合は英語ですけど、それもよー分からんようなヤツが「評論家」で通用するってな、先進国圏では日本だけじゃないかと思うよ。それって交通標識のイミも分からないのに、教習所の教官やるよーなもん。別にロシア語喋れとか、中国語喋れとか、そんな日常縁のない世界の言語を解せとまで言ってんじゃないじゃないですか。えーごですよ、えーご。学校でも最低6年は勉強させられてる一番親しい外国語で、実質的に最も広い範囲で通用する公用語ですよ。素人だったら別にそれでかまやしません。でもその世界でいやしくも専門家と名乗るなら当然分かって当たり前の言語じゃないですか。私は、ただただ情ない。問題は姿勢ですよ、姿勢。研究対象に向かう姿勢。コトバすら学習しようとしない連中が、ホントに洋楽愛してるとは私絶対、信じない。それに要するにそれが日本の文化レベルだってことよね。そんなのがプロで通用しちゃうんだから、つきつめて言えば、そんなのでプロで通用させてしまうってゆー、一般の知的レベルに対して情なさを感じざるを得ないのよ。もちろん、そんなどーしよーもないのばっかりってワケじゃないでしょうし、クオリティの高いことやってるヒトはやってるんだろうけど、たぶんそういうヒトほど、私と同じ情なさを感じておられると思いますよ、この国の文化レベルに対しては。ともかくその基本中の基本もなしで、いったいどうやって作品とかその文化的、社会的背景を理解するのか、特大のクエスチョン・マークなのよね、少なくとも私は。

まあ確かに一般の知的レベルなんてものはどこの国でも似たよーなもんだと思うけど、この国で一番問題だと思うのは、その上に文化的クオリティをしっかり保持できる知的階層がないってコトなのよね。英国にしたって一般の音楽プレスは日本と似たよ―なもんですよ。でもずーっとその上の方に、作品を芸術的観点から把握して論じられる一流の評論家が存在するのも確かよね。それがあってこそ自浄作用が機能するんだけど、分っくわんないかなー、そのへん。

ともかく私としては、洋楽の世界って、そーゆー細かいとこまで研究してくと一人のアーティストについてだけでも、ものすごく勉強しなきゃならないコトが山積してるってコトに気がつくはずと思うってコトですよ。ましてや異言語、異文化圏っていうハンディ背負ってるんだからね、日本人は。そこからこなさなかったらロクなことになんないのも当たり前。それに、作品にもよるからクオリティの高いものに限られるけど、いやしくもA・R・Tの3文字冠する限り、それはタダのかよー曲と違って時代とか流行とかに左右されない価値を内抱してるってことだから、普遍的なものなのね。だから研究対象としても十二分に興味深いし、価値もあるわけ。そこに欧米の大学でそーゆーのが論文のテーマになったりする要因がある。そう言えば、日本の大学でもロックが講義対象になったりするっていうけど、他の多くのコトと同じようにこれも欧米のカッコだけサル真似状態じゃないことをお祈りしたいですな。そのへんの文化的背景まるっきり分かってないのに? 国際情勢、芸術、哲学、歴史全般の知識すらないのに? 英語すら分からないのに? まさかと思うけど、芸能レポートレベルが大学の講義? もしその程度で自己満足してるんだとしたら、甘く見過ぎてると思わない? ヨーロッパの文化史そのものを...。

 

 

2003.12.12.

★欲しかったのに...★

うーん、なんだかなあ、例の「よいこ」「わるいこ」分裂状態の話をしようと思ってたんですけど、暗いんだよなあ、これがまた。先週に続いてこのテの話をするのは気分が暗くなるので、今週はもっとミーハーな話にしておくことにしよう。

オークションで欲しいものは結構高くなる、という話をしてましたが、実は↓の写真をコースターにしたのがあってさー、すっごい欲しかったのに、終わり近くなると既に$26とかなっちゃってて、こういう場合競ると意地になって、ヘタしたら$50とかまで軽く行きかねないパターンなんだよな。それに丁度その時、手に入れたい雑誌とかも重なってて、仕方ないので諦めざるを得なかったんですけど、これは"TAXI"のブックレットに入ってる写真で、Anton Corbijn氏 撮影によるもの。以前私、フェリーさんの一面が垣間見えるすっごいいい写真だって書いてたやつです。ホントはもっと何枚もあるのよ。

  

こーゆー表情なあ...。これこれ、こーゆーのは、やっぱり頭が軽かったらぜーったい、出来ない表情なのよ〜♪ ああ、もうなんて素敵...。何でこんな私の理想を120%実現したよーな男が実在するのか。奇跡だわっ、まさに奇跡よっっっっ。(今更なような気もするけど、知れば知るほどそう思っちゃうんだもん、仕方ないでしょー)

私って昔からわりとヒトをヒトとも思ってないようなとこがあって、めったに他人を尊敬するとゆーことがなかったんですけど、それで自分でも相当性格悪いなと密かに気にしてたんですけど、でもっ、フェリーさんの存在を知ってからとゆーもの、私にもヒトさまが尊敬できるのだと知って本当に嬉しかったのだ。そお、こーゆー男なら尊敬出来るのよっ、私はっ。女ったらしでも何でも、この際そのへんは関係ないのよ。要するに、それまでこーゆー内面性を持った人間が回りにいなかったというだけのコトだったのね。

もうココでもくどいほど書いてるんで、私がフェリーさんのこと好きなのは外見だけの問題じゃないとお分かり頂いていると思いますが、そもそもどんなに外見が好みでも、彼がああいう音楽作ってなかったらココまでハマりこみませんよ、私だって。ってゆーよか、当時の私の乙女ちっくな好みから言ったら(だからグリーンよね、要するにそれは)、先生ってば美形は美形だけど全然タイプがちがってたんだもん。確かにそのへん、モノともせずに一目惚れしたのは事実ですけど、初めて聴いた"Boys and Girls"だってハッキリ言って、私の好みじゃぜーんぜんなかった。どっちかってばフュージョン系の明るい音楽が好きな私にとって、あれはどっぷり暗すぎたもんな、サウンドそのものが。しかもその頃の私にとってロックなんてものは単にやかましいだけの騒音。まずそのまま続けて他のアルバム聴こうなんて、あの歌詞が気にならなければ、しないで終わってたかもしれない。それが今では...。例外なく、何を聴いても先生の作品だったら幸せよ〜、...だからなあ...。自分でもココまでなるか、と思うけど、なにしろその頃以来でも15年間以上、このヒトは、歌詞の面ではおんなじコトをやり続けた。どこで諦めるか、どこでヤメるかと思いながら見てたけど、今に至るもヤメる気配は一切ない。いやもう、そのドリーマーぶりと根性だけでも尊敬に値しますよ、私には。そのおかげで私もずーっと15年以上に渡って、彼のやってること見守らされ続けたんだよな。

ところで↑はこのTAXIのCDのジャケットの反対側に使われてる写真、これが、またいーんだ。私、彼のヘア・スタイルで一番好きなのは前髪ちょっと降ろしてる時ので、そういうのはなんかフェリーさんの「おっきなコドモ」ってとこがそのまま出てるみたいですっごい好き。きっちり整えてあるとこなんか見ると、くしゃくしゃっとしてやりたくなるんだあぁぁ。(これってもしかして殆どストーカー状態?)

そういえば、以前マーク・エドワーズ氏とのインタヴューで、それは確かカルティエ財団の建物で行われたものだったと思うけど、そこにはロン・アラッドのテーブルのオブジェが飾られててさ、撮影するのにフェリーさん、その上に上がっちゃったのよね。そりゃ彼がやると、しっかり決まっててカッコいい写真になってるんだけど、エドワーズ氏が言うには、家でそんなことやったら3歳のコドモに見えるぞって。だから彼のそーゆーとこって、言われなくても分かっちゃうんじゃないですか、近くで見てるとなんとなく。

うーん、やっぱりそのへんが両方ひっくるめて理想なんだよなあ、深遠な思慮を持った大人と純粋なコドモが同居してるよーなとこが自分でも年取ったって気が全然しないって言ってたけど、それは当然だと思いますよ、私は。頭の中での時間の進み方が、ふつーとはまるで違ってるんだもん。おまけにあの才能、あの天分、あの性格、あのセンス。実在するのが奇跡としか思えないの...。二人といないよね、つくづく素敵だわ...。

 

★よく聴いてみないと分からない、かも★

突然ですが、ちょっと思ったんで...。

"Mamouna"って、一聴しただけでは確かに地味な印象あるかもしれないけど、あれをヘッドフォンで何回も聴いてるとですね、実にゴージャスな音の饗宴をやらかしてると分かってくるんだよ。いっつも思うけど、ほんと細かいとこまで気を使ってあるよねえ、彼の作品って。イーノと一緒にやってるってのが、また良いのよね。

実際ね、あの決裂した当時でさえイーノの方もフェリーさんのことよく分かってんなあ、という発言とかあったりして、友情だなあって。そもそも、あの脱退騒ぎだって最終的にグループを去るって言い出したのは実はイーノの方らしいんだよね。まあご存知のような事情で、いろいろフェリーさんにとっては不都合なこととかあって、でもステージとかで機嫌の悪くなるようなことがあっても彼ってそういうの表に出すようなヒトじゃないから、ステージ終わるとふっと姿消しちゃって、しばらくして現れた時にはもうニコニコしてる。それはイーノが言ってたんだけど、そういうヒトって分かってるから、あるステージのあとで姿消して、そのまま休暇でギリシア行っちゃったって知った時に、イーノの方がこれは相当まずいなって思ったらしいのね。そういうこと、ふつーだったらするヒトじゃないから。で、帰ってきたら話し合わなきゃと思ってて、その通りしたらしいわけ。で、イーノは、気に入らないんだったら、ぼくに出て行けって言ってくれって詰め寄ったんだけど、でもフェリーさんは絶対そこまで言わないでのらりくらりするんだな。このへんも私は彼の性格だなと思って可笑しかったけど、気に入ってるヒトには側にいて欲しいのよね、でも仕事がやりにくいのも困るもんだから、言わないっていうより、自分でも決めかねてて言えなかったんだろーと少なくとも私は思う。でも、ともかくそれで今度はイーノの方がキレちゃって、いいよ、分かった、ぼくが出てく、って言っちゃった、と。

実際フェリーさん、その後もイーノのことに言及するたびに気に入ってたんだろうなあ、と思われるような言い方してるしな。でもRoxy Musicっていうのは、そもそもフェリーさんのキャンバスだったから、二人の画家が1枚のキャンバスを共有することって出来ないよね。彼が特に当時のRoxy Musicにおいて独裁的決定権を持ってるリーダーだったってことについては、否定的に見られることもしばしばあるんだけど、でもそもそもRoxy Musicってフェリーさんのイマジネーションが生み出したもので、彼無くしても成立しないバンドだったんだよな。グループという形態を取ってたから、もっと民主的にやれないのかとか思われちゃうんだろうけど、画家のキャンバスとしてのバンドだったら、それがどうしてもそういうやり方にならざるを得ないって多少は理解出来るんじゃないかと思う。確かにイーノのみならずアンディさんやフィルさんも素晴らしく才能のあるミュージシャンではあるんだけど、フェリーさんってのは、才能って点から言ったらバケものだからさ。一般にそこまで思われてないのは、能あるタカはなんとやらで、彼が自分を出来る限り尊大に見せない努力をしてるからですよ。大スターのくせに、そーゆーとこ絶対表には見せないでしょ?

で、まああの脱退騒ぎにしても、そこらへんのどーでもいーよーなグループの、どーでもいーよーな人気争いの結果と同じだとは絶対思ってもらいたくないんで、私もついつい言っちゃうんだけど。そのへんの裏話知ってみると私はなんかイーノのこともすっごい好きになってきちゃってね。またいちだんと"Mamouna"が愛しくなっちゃうのよー。あれは確かに"Boys and Girls"以来の傑作ですよ。

ところでそのイーノとの話もなんだけど、やっぱりいろいろそういう性格バレてるとこが他にもあるのか、前出のインタヴューで先生、エドワーズさんに、「優柔不断なんですか」って聞かれたりしてた。あのHOROSCOPEでの煮詰まり方見てたら、そうも言いたくなったのかもしれないけど、確かにあるよ、あのヒトには優柔不断なとこ。自分では「優柔不断っていうコトバは聞こえがよくない。どこのレストランに行こうかなんて小さい問題には優柔不断なとこがあるかもしれないけどね。」とか言って否定的に答えてたけど、特に気に入ってるヒトが絡んでる問題の時って、どうしよう、どうしよう、なっちゃうタイプだな。A Fool For Love な王サマだから。そりゃ、決断すべきとこで出来ないようでは、今の地位はないだろうけどね。

 

2003.12.9.

★変えたぞ!!★

へへへ、バック変えたもんね〜♪ なかなか良いでしょ〜、カッコよくなったと自分では思っている。

実は、もともとこのページはAYAPOOでフェリーさんの話をし始めて、どんどんその路線から大幅に外れそうな予感がしたので独立させたものだったので、半年近くバックがAYAPOOのままだったから気になってはいたのだ。でもいいアイデアなくって、どっしよっかな〜、と考えていたのであった。過去ログもコレに変えるんだい。

ところで↓でちょっと言ってた'Miss World Contest'、あれはやっぱり所謂ところの美人コンテストだったんだな。優勝はミス・アイルランドで19才だってさ(危ないなあ...)。2位がミス・カナダ、3位はミス・チャイナだったそーです。日本でも放映とかされたのかもしれないけど、うちテレビ置いてないんで、それはよく分かりません。ま、基本的には先生ってば好きそうだよね、こういうの。そういえば以前、彼のヴィデオになんであんなに美女がてんこもりで出てくるのかという質問された時に、「ぼくが4分間も歌ってるとこなんてみんな見たくないだろうし(私は見たいぞ)、ダンサーとかいろいろ出演させた方が楽しいと思って」、とか答えていた。実際、こーゆー、人が集まって楽しんでるイベントって好きなんじゃないかという気が私はするな。

あと、先日私はeBayでRoxy関係のファンのスクラップブックというのを狙ってたんですけど、50点以上写真とか入ってて絶対欲しかったのにっ、£55でもダメだった。くぅ〜。結局£56.69で落札されてしまったが、あれだけいろいろ集まってるスクラップブックってなかなか出て来ないんで、£100くらい入れるべきだったと大後悔。それにしても、こーゆーのがこんなお値段で落札されるんですから、改めてROXY MUSICって偉大...。古い雑誌とかでも結構お値段上がるものなあ...。

 

 

2003.12.4.-12.6.

★いったい何なんだ...★

フェリーさん、中国で行われる'Miss World Contest'にゲストか何かで行くって話が...。いや、12月6日には、その様子が放映されるっていう話だから、今ごろ行ってんのか。詳しいコトは私もまだ知りませんが、'Miss World Contest'っつーコトは、そういうコンテストなんだろうし、すると先生、趣味と実益だったりしないだろうな。我が師ながら、そーゆーとこはぜっんぜん信用出来ないんだ、あのヒトだけは。それにしたって本国でも最近の恋人について、びっくりされたり呆れられたりしてんのに、敢えてそんなとこ行くってことは開き直ったのか?(彼のそーゆー傾向については最近確かSunday Timesでも書かれた。私、ずっと黙っててあげたのに〜♪ やっぱりバレてんのよね、もともと。)何でもいいけど、無事、帰国されるコトをお祈りしておきましょうね。(合掌)

ところで、以前言ってたカイリー・ミノーグの"Body Language"にグリーンが参加してるって件で、ちょっとまちがったコト書いてたので11/30付けで訂正してます。詳しくはこちらご覧下さいませ。

 

★気が重い...★

↓の"「正義」の大罪"みたいな話を書いてると、なんかどんどん暗くなってくる...。いつもいつもこんなこと考えてるわけじゃない、ってゆーか、こんなことを考えるのは15年がとこ前にはヤメてるってゆーか、だからもうどーでもいい話なんですけどね、私にとっては。ただ、こんなコトを考えていた時もあった、とゆーだけのことで...。

ところで70年代にNHKで放映されたとゆー、年代モノのヴィデオをDVD化したのを最近手に入れました。1976年のストックホルムでのROXYのコンサートと1977年のフェリーさんのソロを東京でやった時の。日本で放映されたものだから、なくてもいいマの抜けた歌詞の字幕とか入ってて、それは見ないようにしながら見てるんですけど(雰囲気が壊れるから)、特に76年のストックホルムの時のはエディ・ジョブソンのヴァイオリン・ソロとか、フィルさんの"Diamond Head"、アンディさんの"Wild Weekend"なんてゆー、ふつーROXYのコンサートではやらないようなのが聴けて特に良かったです。どっちも好きな曲なんだよな。それぞれ40分くらいのDVDですけど、ああいうのもやってたんだねえ、NHK。

それはそうと、↓でフェリーさんがホントはこーゆーとこもあるヒトなんだって話を書いてて改めて思ったんですけど、やっぱりそれってカッコいいよなって(誰も信じてないかもしれないが)。ごちゃごちゃいらん説明はしないで、作品でだけきっちり言うことは言ってるってのが、ホントにクールでダンディってことかもなあ、って。でも日本とか来てると、インタヴュアーがけっこう自分の作品分かってくれてそうって場合に限られるけど、地が出てるっていう言動も見受けられるんだな。で、「ただのいいヒト」だとか言われたりしている...。実際、それって彼のある側面ではあるよね。何事にも気が回りすぎるっていうか、だから敢えて自分に"keep cool"とか言い聞かせてないと、とんでもないことになっちゃうんだろーな。ま、表面的にはふつー思われてる通りでいーんじゃないですか。その方が彼にとっても安全だし。

でも、もし先生の作品がそれだけのもんだったら、まあ芸術史に残るものにはなりえないよね。例えば"Casanova"にしても"Love is the drug"にしても、タダの恋愛症候群患者のプレイボーイが作ったよーなイミしかなかったら、かよー曲と同じよ。AVALON"が20年たっても"名盤と言われるほどのもんにはなってないよ。あの"Casanova"も実は"Still Falls The Rain"系の曲であって、でも大抵のヒトは"Casanova"ってタイトル見ただけで、まさかそこに深遠なイミがあるなんて思ってもみないだろうね。そのへん本人、意識的にやってることだから余計分かんないよーになってるけど、作品っていうものは、ある一定の期間、例えば30年とか50年とかが過ぎると、発表当時よりはずっと高い知的レベルのサークルにその検証が委ねられるようになってるもんなの。例えば音楽の場合、流行歌の中にまじりこんでる間は、チャートとかの形でその価値判断を下すのは遥かに数が多い一般のヒトたちの方よね。"A&B"にしても、評論家からの絶賛を受けながら、商業的には発表当時それほどの成功をおさめてない、っていうのは、一般の知的レベルに対してハイブロウ過ぎたってのを物語ってると少なくとも私は思う。でもさ、SPのアルバムは現在Songs To Rememberまで復活して、4枚全てが廃盤にならずにずっと来てるんだ。それは時間に侵食されない何事かが、作品の中にあるからですよ。80年代以降、廃盤になってるアルバムだってきっと多いと思うのにね。

まあそうやって時間も時代も超えられるもの、っていうのは、単に表から見て単純に理解出来る程度のものではダメってことなのかもしれない。含まれていないといけないものがあるっていうか。SPにしても、フェリーさんの作品にしても、それをちゃんと含んでるから、この先抹消されることはないと思うよ。また例え理解されなくても、それが聴き手に何かを感じさせるってのはあるしと思うしね。ともかく芸術における価値判断の基準というのは、ハッキリ言ってもう、「それだけ」なんだから、「それ」が入ってなかったら、芸術史には残んないの。もう既に"AVALON"あたりの年代の作品はクラシックと言われてるし、この先そういう音楽がClassic Rockと呼ばれるかOld Rockと呼ばれるかはともかくとして、芸術における唯一不可欠のテーマが何かを知ってる層が最終的な価値判断を下してゆくからこそ、芸術の価値は不変ってことよね。時代の価値観に左右されることがないですから。言い換えれば、その「テーマ」っていうのは、いつの時代も芸術家やそれに価値を見出す人たちに取っては、唯一不変のテーマなんでしょうね。だから時代を超えて感動されるんだな。

 

 

2003.12.1.-12.6.

★「正義」の大罪★

「よいこ」、「わるいこ」分裂状態のお話を続けるまえに、"The Right Stuff"の何がそんなに悪いのか、って話をしたくなったのでしちゃいます。なんで「正義」が「残酷」なのか、ってお話です。

例えばですが、なんで戦争が可能か考えたことあります? 基本的にはその多くが殺し合いを避けたいと思う「人間」という生き物を、集団で戦争状態に突入させるには、まずまとまりにくい人心を戦争に駆り立てる必要があります。誰かが自分の利益のためであれ、何かの事情があってであれ戦争を起こしたいと考えたとしますよね(「戦争したい人なんていない」なんてのは、それこそ人間について何も分かっていない無知なヒトたちの戯れ言に他なりませんな)。領土(侵略)欲とか、名誉欲とか、単に富に対する欲望でも他の事情でも何でもいいですけど、そういう「個人」が戦争を引き起こそうとすれば、まずそのための「力」を結集しなくてはなりません。例えば国民、宗教戦争の場合は信者を団結させるというような形でね。それにはこの"The Right Stuff"が大変有効に働くんです。つまり例えば「国家(神)のために生命を賭することこそ正義である」。

戦争やらされてるヒトたちの頭の中には必ずこれ、このテのお題目が叩き込まれてますよ。たいていの人間って救いようがないくらい単純で考えるということをしない、と言うより先天的にその能力がないのかもしれませんが、ともかく、このテの麻薬によってマヒさせられた人間の感覚は、いともたやすく殺人を肯定してしまうんです。一見正しいように見えるこのお題目が、結果的に通常の社会では最も忌むべきとされる殺人を「善」に変えてしまうってコトですね。もちろんこのお題目は、単に愚かなのか、それとも欲が深いのか、場合の差こそあれ支配階層にある「個人」もしくは「個人の集まり」によって提唱されるんですが、基本的には我々と同じ「個人」であるはずの人たちが、どうしてそんな力を持ちうるかといえば、そのバックには"The Right Stuff"が控えてるからに他ならない。まあ、もともとの現世的な権力もあるでしょうけど、それを支えてるのだって"The Right Stuff"ですよ。で、大半の人間は、これに対して論理的反証を展開することが出来ません。タダでさえ、ふだんの論理的思考展開能力にも問題があるのに、あまりに正しそうに見えるこんなものを突きつけられたら、大抵の人間は手も足も出ませんよね。そして戦争という集団殺人を肯定させられてしまう。

でもね、ちょっと考えれば分かると思うんですけど、確かに人間はそれほど平和的な生き物ではないし、日常様々な争いごとを繰り返して生きてはいます。でも個人間の争いなんて、どこをどうまちがっても、最悪その当事者間の殺し合いでケリがつきますよ。まさか関係のない他人を国ごと巻き込んで争うなんてことにはなりえない。それなのに、歴史上これだけ多くの戦争が起こりつづけているのは、それなりのメカニズムが働いているからなんですよね。

よく人間が戦争をやめられないのは、人間の中に争う心があるからだ、なんて嘆くヒトがいますけど、単純すぎますよ、その結論は。これもよく言われることですが、時としてその「争う心」は、人間から実に美しいものを引き出すことがある。それは「努力」であり、「向上心」であり、それらの結果が、様々な歴史上の進歩として現れている例もあります。ですから、この「争う心」を戦争を引き起こすメカニズムの中心に据えるのは単純だと言うんです。歴史のウラ舞台から見た開戦のメカニズムは複雑ですが、そのマニュアルの中には、「当該集団の構成各人による集団殺人の肯定」がなくてはなりません。基本的には「殺してはいけない」という社会で生きている人たちに殺人させるわけですからね。そして、それを肯定させられる最も大きな要因が"The Right Stuff"なんです。例えば日本の戦前の状態ですが、まず一番単純で考えのない連中が乗せられて「お国のために」なんて言い出す。多くの人間がこの一番単純で考えナシな部類に入りますから、それに対して反論しようとする人たちが例えいても、数で負けますわね。ましてやそこへ官憲が出てきたり、「非国民」なんて意識が蔓延したりすれば、もうホントに何も言えない状態に追い込まれますよ。官憲も、この「非国民」という意識そのものも"The Right Stuff"です。そして当時、戦争に反対しようとした人たちが、どんな扱いを受けたかはよくご存知のはず。

またソ連が存在した頃の東欧諸国、共産圏の状態もこれに近いものがあって、国家批判は大罪、そんなことやるヤツは非国民ってコトになった。いや、それは今でも共産圏では多かれ少なかれ無くなってはいないんでしょうけど、つまり"The Right Stuff"というのは、人間が自分で思考し選択する能力と権利を奪ってしまうんです。だから集団行動に走らせるにはとても役立つ理屈として機能しうる。

分かりやすく説明しようとしてるんで単純に聞こえるかもしれませんが、実際には人間の個我の多様性とか、「社会」をどう定義するかとか、さまざまの要素が絡んでくるのでマジで論じようとしたら一大論文にでもせざるを得ないお話です。めんどくさいからそこまでやるつもりはないですけど、よくよく見てゆけば、"The Right Stuff"の罪というのは国家的なもの、宗教的なものの他に、それほど広範囲に影響するものでないのもありますが、いくらでもあると思いますよ。このように例えば戦争という、この世で最も悲惨な愚行のウラにもコイツがいる。そうすると"The Right Stuff"で歌われてる"lion woman with the crooked smile"、 "crooked"というのは「ゆがんだ、心の曲がった、不誠実な」なんてイミなんですけど、まあ言えばそれは「邪悪な笑みを浮かべるライオンのような女」、つまり根性曲がっててロクでもないくせに、めちゃくちゃ強い「ナイルの女王」、これが悲惨な歴史の背景で人類の愚行を嘲弄してるイメージっていうのは、けっこうすごいものがあると思いませんか。すっごい「残酷」でしょ、この女。

この歌詞については、またそのうちに詳しくお話することもあるかもしれませんが、まあ、そういうのと先生はずーっと戦ってるってコトです。それは先生ばかりじゃなくて、芸術史そのものがその戦争の系譜だと言ってもいいでしょうね。もちろん全ての芸術家が、それに気がついてやってるってわけじゃなくて、「芸術」というものは人間の最も美しい部分のひとつである「創造性」に根ざしている。そしてそれは「自我」と直結した所にしか存在しませんよね。だからこそ、それを追求することそのものが結果的に「芸術を啓蒙の砦とする」ことにつながるんです。ともかくフェリーさんとしては、そういうのとマジで戦争してて、でも相手があまりにも不動の存在なのでくじけてしまいそうだから"send me the woman on bended knee" それから"send me the woman to fight for me"なのよね。と言うコトは、当然この歌詞の最初の方で出て来るwomanと、ここで出て来るthe womanは別モノですし、実はこっちのthe womanにしたって大問題なんですけど、そのへんの流れや起承転結が分からないから、あんな情ない対訳...。私は悲しいの...。私だってキツいこと言いたくないんですけど、大好きな先生が半生賭けてやってきてるコトなのよ。いくらなんでも無理解にもホドがある、と怒りたくなって当然じゃないのー。

でもまあいいか。レコード会社なんて、そう遠からず過去の遺物になるんだろうし、そしたら消えてなくなるわよね、あんなの全部。

 

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