<洋楽ファンのひとりごと>

 

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歌詞については、私もかなり信を持って言えることだけしか書かないつもりですけど、

ただ、ココで書いてることは、あくまで私個人の歌詞解釈にもとづいてますので、

絶対それが正しいとは現時点では言い切れません。

その点どうぞあらかじめ、おふくみ下さいませ。

 

 

 

 

2008.9.27.update!!!

NEW!!

2008.9.26.

★赤はどこから?★

共産主義者を指す"アカ"というコトバは、日本では蔑称として用いられることが多いようですが、Red Wedgeとか、King Crimsonとか、英国では誇りを持って堂々と名乗られてたりしますね。これはそもそも英語のredに「極左の、無政府主義の、革命的な」などの意味があり、これと関連して「共産主義の、ソ連の」などとゆーイミにも用いられるからでしょう。

で、私は以前、「そういえば社会主義とか共産主義とかの思想は、キリスト教圏で生まれたもの(歴史的にみれば比較的最近)なんだから、キリスト教思想と不可分ではないよな」みたいなことをどこかで書いて、その時から、じゃあ、そもそもその"赤"ってのはどこから来たんだ? とか考えるともなく考えてたわけです。

それでふと気づいたのが、スタンダールの「赤と黒」。ご存知の方も多いように、この話に共産主義とかは全然関係ありません。だいたいのストーリーはジュリアン・ソレルという貧乏な若者がいて、ある日、王をもひざまずかせる僧侶の権力に感動し、自分もいつかは宗教家として偉くなってみせる! と頑張るんですが、いろいろあって結局その道は挫折。いいとこのお嬢さんと結婚してそのツテで軍人として成功しかかるところを、昔ひっかけた人妻のオバさんに足をすくわれて破滅する、とゆーよーな話だった、はずだ。

ともかく、そのストーリーそのものはどうでもいいんですけど、このタイトルの「赤」ね。これは偉い宗教家が着る僧服の色から来ていて、このタイトルでは宗教世界そのものを象徴しているとか聞いたことがあります。要するにカトリックの偉い坊さんが着てる服の色が「赤」らしいんだな。

う〜ん、これは?????

欧米の、特にヨーロッパや英国の芸術は「ユダヤ・キリスト教思想と不可分である」というのはタダの事実なんですが、例えばディケンズのクリスマス・キャロルのように、キリスト教思想に肯定的な作品が表向きは芸術史を構成しているようでいて(何がカンドーなんだ、あんなもん)、その実、本当に優れた作品は「アンチ・クリスチャンである」という裏の事情がある。しかし、キリスト教思想の寄って立つ大元がイエスであるということも合わせて考えると、これは殆ど内輪モメの世界。つまり、何をもって「キリスト教思想」とするか、これがその内輪モメの原因だと私は思ってるんですけど。

まあ、あんまりそのへん深く追求すると思わぬ墓穴を掘るんでこのくらいにしときますが、ともかくそれも考え合わせてゆくと、社会・共産主義と、一般に考えられるキリスト教思想にある「自己犠牲の精神」などは、どちらも「全体主義的である」という点で共通しているのではないか。それぞれの思想にくっついてる様々な装飾や修辞を徹底的に省いたら、出てくる本質は? というモンダイなんですが、そうすると「赤」がどこからやって来たのかも明らかになるような気も。

かつてレーガンはソ連を指して「悪の帝国」とか言ったそうですが、それ考えるとそのオオモトって? な世界ではありますな。いずれ言うべき時がくれば言うかもしれないけど、私だってイノチは惜しいから今ははっきりとは言うまい。でも、以前から書いてる通り、私は徹底した個人主義者なので、そうすると少なくとも私にとって何が「悪の帝国」であるかは分かってもらえるんではないかとゆー、お話でした♪ 

 

 

ここから↓は更新前までの分でーす!

 

2008.4.26.

★やればできるんじゃないか★

連載するとかなんとか言っといて、また大変間が空いてしまいまして申し訳ありません。Ayapooでも書いてましたが、約4ヵ月もの間冬眠状態だったんです。この"冬眠"というのは本人がやりたくてやってるわけではなく、私の脳が自主的に殆ど活動停止するというような具合いのものなので、自分ではどーにもなりません。こうなると、生物として生体機能はかろうじて維持していても、「複雑なことを考える」という知的作業が一切止まってしまうんです。

佐藤史生さんの作品に「やどり木」というのがありまして、この中に、ミスルトという植物を摂取し続けることによって、通常の脳の中にもうひとつ超優秀なCPUがくっついた状態になるという"植脳人"ってのが出てきます。私の場合、自前でくっついてるそのいくらかマシな方のCPUが活動を停止することによって、その補助でやっと動いてる通常脳までが普段以上に使い物にならなくなり、結果として身動きできない=冬眠ってことになる感じですね。このマトモな方のCPUがいつ活動し、いつ停止するかは本人の意志では全くコントロールできません。でもまあ、なんとか徐々に復活しつつあるようなので、ここもやっと更新できます。

さて、いろいろ書きたいことはあるんですが、以前、「最近できたファッション&グルメビルは、見かけの高級感ばっかり強調して中身がなってない」みたいなことを書いてたと思います。梅田でもハービスとかヒルトンプラザ・ウエストとか、そういうのがあんまり情けないデキなんで「土地のもんは行かん」とか言ってたでしょ? まあ、たぶんそういう意見が多かったんだろうなとは思うんですけど、先日、ほぼ1年ぶりくらいにハービスに行ってみたら、入ってるお店がなかなか面白くなってて、かなり本気でテコ入れしたみたいだったんで、へぇぇぇぇ〜、なかなか良くなってるじゃん、て思いました。あのへんに無意味に立ってた警備員さんもいなくなってたしね。

それで、思い切りケナしたことでもあるし、逆にその変化はご報告しておかなければいけないかなと思ったんです。一度行ってみたことがあって、同じように思っておられた方があれば、現時点では再度行ってみる値打ちはあるかもってとこかな。まあ、やればできるんですよねえ、やれば。私は一眼デジカメを買う計画があるので、一緒にVAIOも買おうかなと思って、実物見たくてここにあるSONYの販売店兼ショールームみたいなとこを目当てに行ったんですけど、全体に前行った時よかけっこうお客さんも増えてたような感じしたし、活気が出てたように思いますね。ただ、開店直後とか、改装したばかりって時は気合い入っててそれなり面白いんだけど、そのうちまた良いお店がひとつ抜け、ふたつ抜けして、あれ? と思うくらい面白くなくなってるってことがままあるので、このまま維持して行けるかどうかは疑問ですけど、せっかくあれだけの建物なんだから頑張って更に良くしてって欲しいです。

ともあれ、梅田ってほんっとーに、ゆっくりランチ出来る手ごろな良い店ってのが少なかったので、今度はこちらで良さそうなお店を物色してみたいと思ってます。

 

★実力とは何か?★

前回の更新では「実力をつけよう」とか言ってて、じゃ、「実力ってなに?」みたいなとこで終わってましたよね。で、今日は、そのへんを考えてみたいと思います。とは言っても、ホント簡単なことで、読んで字のごとく「実際的に有効な力」のことなんですが、高度成長期以来、どーゆーわけか、このカンタンなことが分かんなくなっちゃってるんですよね、日本人って。

90年代以降の日本のことを、私は「カラオケ・ツーショット民族のごっこ遊び社会」と名づけていると書いてましたが、まさにコレは「実力社会」とは正反対のところに成立する状況で、「見掛けだおし」とか「肩書き社会」とか、要するに中身がなくて器の小さい人間がノサばりやすい状況ってことです。まあねえ、これで世の中、繁栄すれば不思議ですよ。

「ごっこ遊び」ってのは、当然のことですが実力伴わなくてもできる遊びで、精神的コスプレとゆーか、「なりきり」の世界ですよね。例えば70年代あたりまでの商社マンと言えば、エリート中のエリートで、それは本モノの「実力」あるエリートだったわけで、その「実力」は学歴ではなくて彼らの自助努力によって培われたものだったはずです。そういう、世の中動かすだけの「本当の力」ってものを持ってる「個人」が中枢を占めていた経済界ってのは、だからこそ経済界自体がその集積としての「実力」を持ってたと言えるでしょう。それは政界も同じです。そしてそれらがかつての日本の繁栄の礎となっていた。しかし、今はどうか?学歴はあるけど自助努力なんて何もしない「個人」に実力なんてあれば不思議。結果として経済界そのものにも政界そのものにも、世の中動かすだけの実質的な力はない。「政治家」だの、「商社マン」だの言っても、お医者さんごっこのお医者さんと同じってことだな。ごっこ遊びのお医者さんに本当の病気を治せないのと同じに、ごっこ遊びの「経済人」だの「政治家」だのに、国を繁栄させる力なんてなくて当然。ね? カンタンでしょ? 社会というところが個人の集積である限り、その全体的な状況は、個人のレベルの問題だってことです。

もう随分前になりますが、阪神大震災の時に被害を受けた某有名大学が、授業を行わずに生徒に単位を与えたという話があります。で、実際に勉強もせずに単位もらった学生自身から聞いた話ですが、喜んでるんですよね、コレをその本人が。私はアホかと思いましたが、大学に対して金払ってんでしょ? それを授業も行わずに、つまり何も教えずに = 払ったお金分の知識も与えずに単位やってんですよ。はっきり言ってサギじゃないですか、これ。違う? バカか、こいつは、少しは怒れよってのが私の感想でしたが、なんでこーゆーバカが怒らずに喜ぶのかも当然よく分かります。それは彼らが金払ってまで欲しいと思ってるのは「単位→卒業証書」であって「知識」ではないからです。これをつきつめてゆけば、日本で大学に行く多くの人たちのニーズは「卒業したという事実」にのみあって、「知識を得る」という本来最も重要な部分はどーでもいーってことなんですね。

本当に一生懸命勉強して大学を卒業した人たちももちろんいると思うし、だからみんながみんなこんなバカだとは思わないけど、そういうヒトはちゃんと実力たくわえてるから世の中どーなろーとあんまり困ったりしない。でも、明らかにこの勉強もせずに単位もらえたって喜んでるような学生に、実力なんてあるわけないでしょ? でも、それでも「○○大学卒業生」という肩書きだけはあるわけよ、こんなのにも。それを喜んで「一流ぶりっこ」の企業が採用はするが、こんなんばっかり集まったらどーゆーことになるか、それは今更言うまでもなくここ20年ほどの間に皆さん、きっちり目の当たりにして来ましたよね?

私は、「社会的弱者」とは「先天的及び後天的不可抗力により、通常の社会生活を送ることが困難な人たち」と定義していますが、アフリカ各国のように社会機構そのものがぐちゃぐちゃの場所ならともかく、今の日本では自分の考えナシで努力もせずに社会の底辺に落ちこんでる人間なんてものはこの範疇には絶対に入らないし、入れる必要もない。あまやかしてもらえないと思ったら、少しは根性入るでしょうよ、そーゆーバカにも。はっきり言っちゃえば、私は努力して来た人の努力は、彼ら自身に反映されれば良いのであって、努力もせずにカッコだけつけてきたバカが将来ホームレスになったとしてもそれは自分の責任。かまってやる義務なしと結論してます。野垂れ死にでもなんでも勝手にして下さい。こういうことは、さっさとはっきり言っといてやるのが親切ってもんで、実際、どー頑張ったって少数の人間の力で大多数のバカを養ってゆくなんて出来るわけはないんだし、そもそもその義務もない。そうなる前に少しは自分の無能と考えの無さを自覚した方が、いくらかでもマシな人生送れると思いますから。

で、ココが大事なところなんですが、突き詰めて言うと「実力をつける」とは、「本当に出来ることや分かることを増やす」ということで、医者なら学校で教えてくれることの何倍も自分で知識を蓄える研究や勉強をしなけれぱ名医(実力のあるお医者さん)にはなれないし、ビジネスマンなら学校で教えてくれることの何倍も自分で勉強して、より広い知識を身につける努力をしなきゃ大きな商売はできない。実際、「ビジネスマン」なんていう限りは、最低3ヶ国語は出来て当たり前なんだ。国際的なビジネス世界での成功を目指したいなら、今だと英語は当然として、中国語、スペイン語、アラビア語なんてちょっとひねったのが出来ると将来的に有利かもしれませんね。言葉もロクに分からないと相手にナメられたら、有利なものも不利になるんですから。それに世界各国の歴史、政治、文化、地理、その他もろもろの膨大な知識、そういうものを徹底的に吸収する努力を楽しいと思えないようなら、「ビジネスマン」なんて気取ろうと思うなよってことよね。

まあ、実際今の世の中は、はっきり言ってそういう「頑張ろうとする人」にとって、決して良い状況とは言えなくて、「努力する人」や「できる人」が煙たがられるってゆーか、そういうのは嫌味を言ったりイジメたりして排除しようとする卑しいイキモノがのさばり返ってるのも事実ですが、結局そーゆーのは、行き先見えてるでしょ? 逆に言えば、嫌がらせしたり、苛めるという行為に出ること自体が、無能力者のカナシイ断末魔の抵抗ってことなんだから、気にしたら負けです。結局、最後は力のあるモノの天下なんだから、そんなのはハナで笑ってやりましょう。出来るからとか、アタマがいいからってハナにかけてるとか言われてもいーじゃないですか。自分が不当に他人をバカにしたりしないというスタンスをしっかり持っていれば良いことです。不当に他人を貶めようとしてるのは、そーゆーことやってるクズどもの方で、彼らは、無意識のうちに自分が無能で、将来ロクな生活ができっこないと悟ってるから、そうはならないで済みそうな人間に八つ当たりしてんです。そしてそうすることで、なけなしの自尊心を保とうとしてるだけなんだから、カワイソウな人たちじゃないですか。同情くらいしてあげましょうや。

それに自分の将来考えるなら、そんなのに遠慮したりつきあってやったりして一緒に自滅することないし、結局、国が傾いて困るのも、それにぶら下がって生きるしかないそーゆー連中なんですから、力のある人間に本気で見捨てられたらどーゆーことになるか、いっぺん経験させてやるのも楽しいかもしれません。それっくらいのよゆーを持ってりゃ、バカのやることなんていちいち気にならないもんです。

で、今回のまとめですが、「実力をつけるとは、本当に出来ることや分かることを増やす」ということであり、「そのためには人一倍努力しなければならない」。将来何かなりたいものがある人は、その職業について実際に実績を上げてゆくためにはどんな知識や技術が必要なのかを知り、それらを単に資格だとか学歴だとかで留めずに実際に有効に機能する力として育てる努力をする必要があるってことですね。この力の実社会での有効度が高ければ高いほど社会にとって有用な存在になれるわけで、結果として「いい商売になる」ってことでしょう。「いい商売になる」人間が増えれば、社会全体にも活気や経済的潤いが齎されるはずなんですが、逆に「ごっこ遊び社会」ってのは突き詰めて言えば、資格や学歴で終わってる人たちが「できるつもり」でノサばってる社会のことで、こういうジャマなゴミがたまりまくってる今の日本なんてものは、終戦直後よりはるかに困難な状況であると言えるかもしれません。だって、終戦直後ってのは社会機構が根本的に破壊されたおかげで、こーゆー生ゴミだけは殆ど無くなってたけど、今はコレの排除から始めなきゃならないんだもんなあ。私はそんなしんどい上に親切なことしてやるつもり全然ないんで(自分さえ良ければいいんだもん)、まあ頑張って下さいって感じですけどね。

 

 

2007.11.18.+11.30.

★実力をつけよう★

最近、つくづく思うんですけど、これからの世の中は皆さん、本当に実力だけが頼りですよって。あんまり暗い話はしたかないんですが、特に十代とか、二十代とか、まだまだ間に合うヒトにほど言っといてあげるのが親切かな、と思ったのでゆー。もうこれは所謂ところの「老婆心」とかってやつになってるかもしれないんですけど、間に合ううちに「努力しなきゃ、道は開けないんだ」という当たり前なコトをですね、今じゃもういいオトナですらそれ分かってないのがいるから困るんですが、重く受け止めてもらいたい。

実際、そのバカなオトナのせいで既に日本はこんななっちゃってるんだし、我々の親世代がバカでこんな世の中にしちゃったんだから、そのツケ回されるのはぜーんぶ我々なんだってことですね。

例えば、年金制度にしたってね。国民皆保険なんかにしたせいで、今はいいかもしれませんよ、歳入が増えて。でもさ、今まで加入しなくっても良かったヒトたちにまで無理矢理掛け金払わせてんですよ。そうすると、将来的に当然の権利として「払ったんだから返してよっ!!」って人間がその分大幅に増えるわけよね。その時、どーすんのよ? って話ですよ。健康保険にしたって、加入者が多くなれば歳出も増えるとゆーこの現実をですね、一時的に歳入が増えるという目先の利益にのみ飛びついてすっかり忘れている。しかもこの先、どんどん高齢化してゆくわけで、これじゃ将来的にバランス取れっこないのが当たり前でしょう? なんでこんな無理が出ているかというと、実力もないのに社会的にこれまでと同様の扱いを受けるのが当然と考えるバカが激増しているからっ!!

だいたいさあ、国に金がないために、保険制度どころかインフラでさえ危ないって国が世界中にはなんぼでもあるのよ。病気にかかれば安く医者にかかれるのが当たり前と考えてるから、その状態を維持するために歳入を増やす必要が生じる→加入者を増やすしかない→保険を使って医者にかかるヒトが増える、これは所謂ひとつの「悪循環」というやつですな。医療なんてそもそも高価なものなんだから、面倒見きれないなら見きれないで、それこそ命に関わるような大病以外は自己負担させればいいんじゃなかったかと思わない? それが今のこの国の経済力の限界なら、そのレベルを上げることのできない国民全てにこそその非はある。だから、医療制度が破綻しようが、年金制度が破綻しようが、それは我々自身の無能のツケなんだってことですね。

90年代以降を私は「カラオケ・ツーショット民族のごっこ遊び社会」と名付けているんですが、ありとあらゆるところでコドモのごっこ遊びのごとき有名無実なヒトがえらそーにしてるじゃないですか。政治家しかり、経済人しかり、一番怖いのは「医者」しかりってとこで(ヒトの命にかかわるだけに)、ついでにコレも怖いが「教師」しかり。我々の親世代がバカで、こーゆーことにしてしまったんだよ。そりゃ、名医も中にはいらっしゃると思いますけど、問題はスタンダード値が限りなく低くなってるってことで、つきあいとか横の関係とかコネとか、更に言えばお金のあるヒトはそういう名医にかかれる確率が高くなるでしょうけど、どこの病院に行っても当たりハズレなくいいお医者さんにかかれる確率が限りなく低くなりつつあるってことね。昔もそれはある程度あったと思うけど、それがかなりひどくなってないか? 実際、今どきはもう、危なくって医者にもかかれんって世の中になりつつあるような気がする。

あやぼーは昔、いっぺん死にかかったことがあるとか言ってたと思いますけど、その当時、私を救って下さったお医者さんは評判の名医お二人で、なんかやっぱり見るからに「頼りがいがあるお医者さま」だったもんです。しかし、最近の医者とゆーものは、「大丈夫か?」と思わず言いたくなるようなのがボロボロいるんだもんなあ。そのへんの様変わりたるや、唖然とさせられるものがある。病院そのものは同じ市民病院の話ですよ。全く同じ病院。世代交代した結果がそれ。もちろん広い世の中には、「珍しいくらい名医」な方もいらっしゃるけど、そういう方が「珍しい」ってことそのものがもう既に怖いと思うの。ことほど左様に、 資格だの肩書きだのはあるけど、実力なし! な連中があまりに増えた。もうこれは「究極的危機」の段階にとっくにどっぷりハマりこんでる状態だぞ。

まあ、実際その「資格社会」みたいなものにも問題はあるんだよな。「資格」というのは出発点であって到達点ではないということを使う方も使われる方も分かってない。資格から始まって、実務で経験を積んで一人前になるとゆーことが、社会全体として分からなくなってんじゃないかという気もするしね。使う側としては、「即戦力」と言うと聞こえはいいが、じゃ、その「戦力」になる人材をいったい誰が育てるのか、ってことですよ。 これまでは社会そのものがもちつもたれつで社員教員をちゃんとやってたから、ヨソやめて来てくれるヒトと、自分とこヤメてくヒトの能力バランスが取れてたってとこあると思う。ところが、昨今の企業は「即戦力」とか言って、自分とこで社員教育しようって気がそもそもない。これも「格差社会」の大きな要因のひとつではあるね。これと、派遣会社が労働力の使い捨てを可能にしたことも相乗して、社会が人材を育てることをやめてしまった。結果として、「資格」ってことになるんだろうけど、それは個人が自己負担で「即戦力」になる力をつけよ、ということと同じ。でも、いくら資格があっても、実務で経験を積まなかったら、結局「戦力」になんかなりゃしないじゃないですか。だから、そのへんが分かってないと言うのよね。

また逆に使われる方の意識を言えば、そのヘンに私が「我々の親世代がこんなにしちゃった」と言う理由もあるんですけど、

・ 右も左も分からないコドモをおだてあげて不毛な受験戦争に駆り立て、たかが大学に入ったくらいで勝利者扱いして天下取ったような気分にさせてしまった

・ 購買力があるからといって若い世代がさも世の中の中心であるかのように錯覚させてしまった

これらは、「実力もないのに偉くなったような気分」でふんぞりかえってるバカを激増させた大きな要因の一部だと思う。結果として、せっかくいい企業に入ってもすぐヤメてしまう(自分を過大評価しているから、最下層の平社員としての待遇が我慢できないとか、自分の立場がもう既におだててもらえるコドモではないのだということに気がつかないとか)、熱心に仕事を覚えようとしない、仕事に対して責任感を持たない、そういう新入社員を増やしてしまった。これはもう周知の事実だな。

ましてやこういうあまえたのが生活してゆける事情、つまり会社ヤメても親が面倒見てくれるという状況があって、ますます自己改革とか、実力を伸ばすとか、現実を直視するとか、いいトシしてそーゆーこともできないでも食うだけは困らないという、でも、これはかえってその人が現状に気づくには手遅れになるというとても不幸な結果をすら招いてしまう。親だっていつまでもいてくれるわけじゃないし、莫大な資産を残してくれる親ばかりじゃないし、財産があればあったでモメるネタにはなるし、相続税は払わなきゃならないし、家屋敷は維持費が大変だし、親が生きてりゃ生きてるで介護してあげなきゃならなくなるし。後になって、どーーーーん、と問題が降りかかってくる。そのことに気づけないままずるずる行くのはあまりに不幸というものじゃないですか?

まあ、それなりアタマのいいコドモはそんなおだてに乗らないで、ちゃんとやることやって来てるからそれほど困らないけど、だから、考えのないバカほど年取るに従って困ることになってくってことよね。

ま、私はおおっぴらに「自分さえ良ければいいんだ」と宣言しているヒトなんで、今更、世の中がどーなろーが知ったこっちゃない、自分さえシアワセならいいんですけど(本気で言ってます)、ただ、あんまりバカが増えると暮らしにくくなるのが困る。だから出てこうか〜♪ってことになるんだけど、実際ね、誰にも他人の人生肩代わりしてやる義務なんかないんだから、「まず自分」という考えは持つべきですよ。何故、それが大切かというと、自分で自分の面倒見れないあまえた人間が激増してるから「格差社会」なんてことになるんでしょう? いや、さっきもちょっと書いたけど、確かに現代の格差発生のメカニズムはそれだけでもないんですが、今それゆーと長くなるから置いとく。この話の始末は後日つける。ともあれ先天的であれ、後天的であれ、不可抗力によって通常の社会生活を営むのが困難な、本当の意味での「社会的弱者」に対して福祉の充実を図るというのは大事なことです。ただ、自分がナマケてて社会の底辺に落ち込んだ人間の面倒まで見なきゃならないなんてことになったら、そういう本当に助けが必要なヒトに行くはずの分まで食いつぶされちゃうじゃないですか。バカ養うための税金なんか、私は一銭も払わんぞ。

五体満足健康なら、自分の面倒は自分でみる。これが基本だと思うのね。他人のことをどーだこーだ言うのは、それからの話だよ。てめーの面倒見れるだけの実力もないやつが、えらそーにキレイなこと言うなってつくづく思うもん。

とにもかくにも現実を直視すればもう明らかだと思いますが、今やもう困難な時代を通りこして断末魔ですから、自分の面倒は自分で見れるだけの実力を、早くからつけるよう努力しましょーねってことよね。これは誰より私自身が自分に対して言ってることでもありますが、ともかく今やごっこ遊びではもう生き残れない。現実はキビシイのだ!! でも、それにちゃんと気がつきさえすれば、みんなまだまだ間に合うと思うからね。

ただ、問題は「実力」ってなに?」ってことで、上でも書いたけどそれはもう資格や学歴じゃないことはだけは確か。そんなもんいくら持ってても、それだけではダメだから、こんな世の中なってんですから。でも、長くなっちゃったんで、その話はまたこの次、ということにしときましょう。

  

2007.11.5.

★たまには言ってもいいよね? ・その1★

洋楽というのは日本の歌謡曲と違って、優れたものほどとんでもない思想性を内包していたりするので、ある種の洋楽ファンというのはリクツ屋になってしまったりする。音楽なんだから四の五の言わずに聴いてりゃいいようなもんなんだけど、考えるだけ無駄なよーなことを、あれこれ考える頭を持ってる者ほどこういう傾向に陥りやすいな。ま、持ったが病とも言うし、たまにはそういう種類のヨタ話もしていいとは思うが、そういうのに興味のない方はここから先は、読まないで下さい。マトモな思考を持っておられる方に、悪影響を与えたくありませんから。


Ayapoo で「阪急と阪神が合併する」なんて話を書いてましたが、90年代以降の日本文化の「庶民化」についていろいろ考えてたことがあるので書いてみようと思う。そもそもは、なぜ「究極的民主主義は衆愚にゆきつくのか?」という問題なんだな。

日本が現在、民主主義の理想から大きくはずれて確実に「衆愚」と化しているのは、賢明かつ聡明なうちの読者の皆さまならとっくにお分かりのことでしょう。しかもそれは、「底辺の意識が社会主義化している」という事実と表裏一体で、従って例の憲法改正問題ね、ああいうのが起こってくること自体が非常にヤバい状態である。だから徹底した個人主義者であるところの私は、この先絶対、この国はヤバくなるからさっさと出てった方がいい、と切実に思うようになってるわけです。冷たく聞こえるかもしれませんが、バカ(カバ?)の暴走に立ちはだかろうなんて考えるのは命落とすだけのことだもん。放っときゃ自滅してそのうちおとなしくなるんだから、避難する方が賢明ってものよね。

さてまず、以前も書いてましたが、民主主義ってのは社会主義同様、論理的欠陥を内包している。それは人間の能力を「定数」として構築されている思想だって点ですね。でも、人間の能力・性質っていうのは現実問題として千差万別の「変数」である。それは「主権者として政治家を選ぶ」という、元来大変な知識と教養を必要とする行為に対して、一般的にそれに値する知性を持っている人間がどのくらいいるのかという問題と直結してくる。つまり、傲慢に聞こえるかもしれませんが、「一般的な人間のアタマには、果たして思想や哲学や政治が理解できる素地があるのか?」という根本的な問題が生じてくるということなんだね。

そもそも従来の哲学者が根本的に誤っているのは、人間が全部自分たちのような啓蒙された存在たりうると最初にカン違いしてしまっている点で、これを現実に即して糺すとすれば、哲学者たりうる性質を生まれつき持っている人間は全人類の中でもごくごく僅かしかいない。仮にこれを「啓蒙種」とすれば、残りの大半は「非啓蒙種」、つまり放っておけば何をするか分からない「むちもーまい無神経」の民であると、これが傲慢と言われようとどうしようと、イヤでもなんでも直視せざるをえない現実なんだってことです。もちろん、そうまっぷたつに分かれてしまっているというわけでもなく、中間に「準啓蒙種」みたいなヒトたちもいて、それは学習によって啓蒙されることが可能な人たち。大雑把ですけど、現実問題として人類はこの三種に大別できるんじゃないかな。だからこそ、古来から哲学者はこの「非啓蒙種」を啓蒙する努力を連綿と続けているわけで、例えば世界四大宗教がみんな、この目的を持ってることは、分かるヒトには分かることだよね。

だって、ユダヤ経の十戒なんてそのものだし、情けないのは、それだけ古くからこういう教えがあってなお、現代人には未だ「法律」が必要だってことだ。だから宗教的戒律であれ、法律であれ、規制するものがなかったら、元来人間はどんなことでもするイキモノなんだというのが、直視するべき現実だと指摘したいね、私は。それほど「現実はキビシイ」のよ、お分かり? だから、ちゅーとハンパに「人間が好き」とか「ヒトのために」とか言ってるヤツ見ると「現実を見ろ」と叫びたくなるんだな。それは目先のことじゃなく、その背景にあって、あらゆる問題を引き起こしている「超現実」とでも言うべきもので、どうせ言ってもムダだから日常は黙ってるけど、無責任に情緒的な連中は、この世の混沌の多くが人間から出ているという、これほど明々白々な現実でさえ、なんだかんだ言ってキレイに無視してくれる。

でも、そもそもは「啓蒙種」だから偉いってもんじゃなく、根本的にこの大宇宙は上も下もない「概念不在の無限世界」なんだから、そういう「非啓蒙種」が存在すること自体は良くも悪くもない。他の動物、植物、微生物などか存在するのと同じこと。自分も含めて「この世に存在するあらゆるものは無価値である点において等価」、これも哲学者が必ず持つべき根本認識であり、バランス感覚だな。だって、「価値観」というのは「概念」であって、人間が後天的に定めたものでしかないんだから、原初においては存在していないものなのよね。こういう0起点を明確にしたニュートラル状態でなきゃそもそも概念構築なんて出来るわけないじゃん。

世界のもともとの姿が「概念不在の無限世界である」という大モトを誤ってるヤツは問題外として、まるっきり何の概念も存在しない空間、だから善も悪もそのままでは存在すらしないんだけど、哲学者というのはそこに何らかの目的を持って座標軸を立てる知的作業をする人のこと、そしてその仕事は「概念創出」=「哲学の構築」ということになるんだね。だから、どの哲学基盤を持つかによって、その社会における「善悪」もある程度定まってくる。

これまでのその「啓蒙する努力」は、「非啓蒙種」を野放しにしておくことによって生ずる事態を憂いて、彼らを啓蒙しようとする努力であったんだけれども、でも向こうにしてみたら「大きなお世話、偉そうな顔すんな」だったりするかもしれない。で、それは全くご尤も。シマウマを食ってるライオンに、だれが「きみ、それはいかんよ」なんて言う資格があるよ? ヒトを啓蒙しようとする努力は、まさしくこれと同じくらい無謀だし、大きなお世話でもあるわけだから、それをあえてやろうとする者にそもそも正義なんかない。もう、これは現実問題として結局「力と力の戦い」なのよね。だから、自分が善の側に位置しているというセルフイメージに自己とーすいしてるようなの見るとウンザリする。

まあそれはおいといて、「民主主義」が「ヒト」と考える内面性や知性を、予め持ってる人間が数少ないのは現実だと思う。だから結局、「衆愚」こそが民主主義の究極の形である、てなことになっちゃうんだね。本来は、せめて「教育」を経てでもいいから民主主義社会の主権者として求められる教養を、全ての有権者が持たねばならないわけだけど、正直な話、現実問題としてそれ、可能だと思う? コレに対しては道義上、明確なコメント控えさせていただきます♪

ま、それほどにそもそもが無謀な思想なのよね、民主主義であれ、社会主義であれ。

しかしそれでも歴史的に封建社会からの脱却には、どちらも有効ではあった。しかし一旦脱却してしまうと、今度は「非啓蒙種」の元来の資質が、社会に対して大きく影響してくる事態が生じている。それが、今の日本社会には非常に顕著であると言わねばならないでしょう。

う〜ん、これは長くなるな。よし、このページも長いこと更新止まってたから、見て下さってる皆さまのために連載ということにしよう。以前から書きたかったことでもあるしね。以下は、ずいぶん前に書いてあったんだけど、出しそびれてた話です。ヒマだったら読んで下さい。

 

2007.6.1.

★土地のもんは行かへんで★

ちょっと前に梅田の町にハービス大阪ってなもんがぶっ立ったのを関西の方はご存知かと思います。劇団四季の劇場とかも入ってて、ブルガリとかの高級ブランド店もいろいろ入ってるってとこね。まあ、東京で言えば六本木ヒルズあたりのステイタスじゃないかと思いますが、これがねえ、どうもねえ、土地のもんには??? なんだな。

なにしろ梅田なんて、私、赤んぼの頃から親につれられて日常的に行ってた街です。大昔はあのへんの服屋でバイトしてたこともあるし、よくよく知ってる街なんだよなあ。それだけにどうもな、 ???? なんだわ。

そういえば、その六本木ヒルズですが、私の好きな某女流作家さん、この方は東京生まれの東京育ちで生粋の東京人、しかも六本木周辺は庭という方ですが、彼女が六本木ヒルズに行ってみて「一回で十分だった」と書いてらした。私もあのハービスについては、ってゆーか、ヒルトンプラザ・ウエストとかいうのもひっくるめて、最近建ったようなファッションビル全般に対して、「一回で十分だった」という印象があるんですよね。

それで、どうしてそう感じるのか考えてみたんですが、結論は「いったいなんなんだ、あのハンパな高級感は???」というもののようです。なんか器だけ、つまり建物だけはすっごい豪華なんですよ。で、エントランスには警備員さんとか立ってたりしてさ。同じような存在でも、ホテルのドアマンってのは実用を伴って立ってると思うんですけど、あの警備員さんは「高級感」を出すためにわざわざ立ててるっていう感じで、あれがハヤリらしいんだな、昨今の。どうせならドアマン立てとく方がサービスじゃないか? って気がするけどな、私は。

だっていったい誰がっっっ、あんなとこで警備員さんが走ってこなきゃならないよーな騒ぎ起こす? 今までになんか実際にあったんか、と言いたくなってしまうよ、私は。

それに老舗の高級品はまあそれなりなんでしょうが、一般に高くっても欲しいってものが見当たらないし、それに、ロクな食いもんがない。最近は「フードコーディネーター」とかゆー職業もあるというのに、あれだけ高級感出してる店で、なんであんなもんが出てくるかなとゆーよーな、そんなのを出されたのには驚きを通り越して呆れたぞ。街場の喫茶店の方がよほど美味しい。ことほど左様にやたら高いか、やたらまずいかのどっちかしかない感じもやだ。大阪だよ、大阪。何はともあれ、食うもんだけは美味しいのが大阪じゃなかったんかい。

まあ、ファッションセンスがドツボだとゆーのは、最近どこ行ってもおんなじで、これがなんでそんな値段するよってなモノが高級ブランドの名前付いて法外な値段で売られてたりするもんあ...。ジェーンなんか、その十分の一で、仕立ても素材の工夫もきっちりしてあるのに...。いや、そもそも服の場合、海外ブランドはジャンニ・ヴェルサーチ亡き後、デザイナーが殆どどーしよーもないのが多いので、昔の栄光いまいずこみたいな状態だと思うのに、未だに名前だけで売れるらしいのが日本国民の情けないところか。

それで、その情けない国民性にアピールするのが、あの「ハンパな高級感」なんだなと、そう考えるとなんか納得がいく。つまり、あれは「高級感」をテーマにした、単なるテーマパークなのだな。うん、それならよく分かる。あの豪華な建物は、まさに遊園地仕様とも言うべき「見世物」的な視覚性を追求している。しかし、そのテーマパークからして、儲かってるのはディズニー・ランドだけで、他は殆どつぶれるか、つぶれかけてるかどっちかだってゆーし、つまり「一回で十分だった」という感じは、ハリボテなテーマパークに対する、総体的な客の感想であるのかもしれない。

まっ、どっちにせよ、二回目に行った時は、どこの店にも入る気がしなくて、結局阪神まで戻って、古巣のアフタヌーンティに腰を落ち着けてほっとしたとゆー、たぶんそういう土地のヒトは多いんではないかとゆー気がするんだな。結局、やっぱり強いのは、そういう土地のもんに愛される、そこそこな店ってことなのかなあ...。

 

2007.5.10.

★神々の世界★

Ayapoo Diary でシュミで書いてる自作の小説の話をしてるんですが、私の小説って結局「神々の世界」なのねって思ったりしたので、そのことを書こう。本当はAypooで書くべきネタなんですけど、あっちは「良い子のあやぼー」がやってるほのぼのした世界なんで、そっちにあんまり「悪いコのあやぼー」を持ち込みたくない。従って、このネタは悪いコ担当のこっちのページで書く。

そもそも書いてる本人が、人間的なちまちました世界ってのが大キライで、だから日本の純文も大キライなんですが、無能な人間がつまんないコトでちまちまちまちま苦悩してる図なんてものは見られたもんじゃねーとゆーか、そもそも問題外なんだな、私にとってそーゆーのは。

Ayapoo で書いてる話、あれは"The ultimate kingdom(邦題「至福の園」)"というタイトルに最近やっと決まったんですが、この壮大なタイトルが示す通り、ああいうタイプの話でも世に言うヤ××だとか、BLだとかの世界とは根本が違ってる。ヤ××の代表作家、栗本薫さんでさえ「あれはハーレクインロマンスの世界だ」とかおっしゃってるんですが、まあ、そこまで謙遜しなくてもとは思いますけど、つまりはとても人間的な世界らしいのよね。私は栗本さんの作品はたいてい読んでて、レヴューも書いてる「朝日のあたる家」とか「真夜中の天使」とかも大好きなんですけど、でも、ああいう世界ともウチは根本的に全然違う。

あのテの話かそうでないかに関わらず、私は自分の小説を世の中の既存のどのようなジャンルにも属さないと考えているので既に「新ロマン主義」と自分でカテゴライズしてあります。で、これがどうやら「神々の世界」らしいんだな。従って、人間の共感なんてものは始めっから期待してないと言ってもいいかもしれない。私の小説に興味を持たれる方がもしあるとすれば、それはたぶんアタマが生まれつきバークレイ博士してるタイプのヒトだろうなと思うし。そういうわけで、私のは日本文学から一滴の血も引いていない、あえて言うならオスカー・ワイルドが直系のご先祖みたいなもんですね。更に言えばそれを包含する英国文学とかね。英国的な詩世界という点では、そりゃ当然フェリーさんからも大いに影響されてるし、とゆーことは彼やオスカーが学んできた先達の世界にも間接的に影響されてるってことにもなるな。そうするとつきつめて言えば芸術史全般からってことか。そりゃ、「神々の世界」にもなるわ。言っとくけど、日本純文学なんて、私に言わせれば少数の例外を除いて、芸術史から見れば傍系にもあたらない一般ぴーぷるのカン違い世界ですからね。あれこそ単なるゴラクよ。

ま、従って人間には人間の悩みがあるかもしれないが、人界にあってはオールマイティな神サマたちにも、神々には神々の悩みがあるってことですかね。実際、例えばそのフェリーさんにしてもさ、アレが単なる俗物だったら、大スターさまさまで今更何の悩みがあるよ。地位、金、名声、人気、おまけに離婚はしたけど人間的に素晴らしい奥様と4人のご子息。これで満足しないなんて人間じゃないよ。だってふつー人間が欲しがるようなもん何でも持ってんだから、もうなーんも悩みなんかなくってハッピー、で当然なヒトじゃん。それなのに、それなのに。先生ってばやっぱりアーティストなのよね。

で、そのへんどーゆーコトかというのは、以下の一節をお読み頂くと少しは分かるかもしんない。"The ultimate kingdom"からの抜粋です。ちなみに、この話について始めから読みたい方は、専用の STORY INDEX をご参照下さい。

***

「この八年で彼の父が予想した通り、アレクははるかに広い視野を持った大人に成長していた。かつては政界、財界に大した興味もなく、自由でいたいことと、出来れば海で暮らしたいという、どちらかというと今考えれば子供っぽい希望もあって軍に入ることを選んだ。しかし、今の彼はこの世界の中枢を動かしている力と、そのパワーゲームに関心を持ち始めてもいる。八年という軍での暮らしは、彼に世界の現実を目のあたりにする機会をもたらしたからだ。

それまで彼は、いかに自分の資質に合わないと思い、決して馴染めない世界と思っていたとしても、結局のところ、恵まれた育ちの公爵家の令息でしかなかった。主につきあう友人たちも、ディのように彼の生まれ育ったその階層の範疇にある者が殆どだったのだ。しかし、ここ(軍)は全く違う。

始めのうち申し分ないエリート士官として着任したアレクのことを、ましてや大公爵家の子息であるということが知れるとなおのこと、従おうとしなくなる部下には手をやいた。けれども彼が名のみの指揮官ではなく、文武ともに優れ、思慮深く、決してエリート意識に凝り固まってなどいないということがはっきりしてくると、今度は彼を慕う者が多くなり始めた。もちろんそこに至るまでにはアレクの根気の良い努力があったことは言うまでもない。しかしアレクにとってこれは、どこへ行っても結局お馴染みの展開であるとも言えた。

ともあれ、彼はそうやって次第に仲良くなった部下たちと親しく話してみるにつけ、しばしば驚かされたものだ。彼らの様々な生い立ちや日常を知るにつけ、始めのうちなぜ彼らが自分にあれほどの本能的とも言える反感を抱いたのか、それも全く当然のことのように思われた。

もちろんアレクには、彼自身が例え意識していなくても命令し慣れた者の有無を言わせない威厳があったし、それを抜きにしても、人の上に立つべく生まれついた生来の資質というものもある。それらのために次第に彼の下す命令は徹頭徹尾、即座に遂行されるようになっていったが、それ以外では、その元々の身分からは考えられないほどお高くとまるということがなく、気さくで陽気なアレクは、今ではすっかり部下からも上官からも特別愛されていると言っていい。ディなどが見ていたら、また神さまはアレクばかり贔屓すると苦笑したことだろう。

身分は違っても、世界でも最も豊かな国のひとつであるクランドルの同国人でさえそれだったのだ。寄港する世界のさまざまな国の、それぞれ異なった様子にアレクが心を動かされないはずはなかった。

アレクも当然それまで海外へは何度も旅したことがある。しかしそれもロウエル家の別邸があるような避暑地やリゾートといった贅の限りを尽くしたような華やかな土地が多かったのだ。しかし、世界には実に様々な種類の人の暮らしがある。彼がそれまで知っていたのは、そのごくごく上層の、神々のごとき身分の人々の暮らしぶりでしかなかった。机上で学んで、自分はよく世界の様相に通じていると思っていたことがあまりにも愚かに思えるほど、その数値化されたデータが実態として彼の視界に日々飛び込んで来るのだ。

そうして実際的な経験を積んでみると、彼は改めて政治や経済、そして軍事の在り方に興味を持たざるを得なくなった。

かつて政界か財界に入るか入らないかと悩んだ時、それはあくまで彼個人の選択の問題でしかなかったが、実際にはそれはこうして関わる目前の、一人一人の人間の生活や将来に責任を持つことでもあると知ったからである。そして、父や兄たちは、どこまでこれらの現状を認識しているのかとも考えてみたりした。支配階級に生まれつくということ、そしてその定められた道を歩むということについてもだ。そしてそれは、まごうことなく統治者階級の思考だった。

決してそれはアレクが実質的支配階級の出身であるからということではなく、彼自身に元来、統治者たる者になくてはならない視野が生まれつき備わっているということでもある。

人間というものは普通、このような大局的観点から世界を見渡すようには生まれついていない。彼らの意識にとっての全世界とは、その日常の生活に関わる範囲でしかないのだ。だから彼らは、それより外の世界で何が起こっていようと気に留めない。生まれつきその視力を持っていない種なのだから当然ではあるが、彼らの視点は地上とその日常とする概念世界に固定され、それを絶対不変と信じて生涯疑うことすらないのだ。しかし、アレクのような人間は、彼の得てきた様々な知識にも裏付けされて、たやすく歴史的観点に視点を移すことができる。

人間を取り巻く世界とは、概念の集積によって構築されているわけだが、概念とはその全てが例外なく人間の思考から発生している。つまりこれらには全て絶対性というものが全くないのだ。だからこそ歴史はこれまでその概念体系を差し替えることによって様々な様相の社会を現出させてきた。

通常の人間はそもそもそのような視野を持たないので、彼らの身の回りで、生まれた時から定められている概念に疑問すら持たずに従うが、唯一、真の統治者階級のみがそのような視力を得、この世の生きとし生けるものの未来への動向と運命を展望する位置に置かれているのだ。

それは生来の資質の問題であって、これも歴史的には所詮、流動的な概念のひとつでしかないたかだか人界の身分のことではない。例え王家に生まれつこうとも、その視力を持たない者は真の統治者たりえないし、歴史上、たかが血縁をあまりにも重んじたために崩壊して行った国家など数限りなくあるだろう。

アレクはここ何年か、折にふれて様々なことを考えるともなく考えていたが、だからと言ってまだ具体的に自分が何をするべきなのかについては、はっきりとした結論は見えてこない。ただ八年前に父が、将来的に財界、ということは必然的に政界へでも構わないわけだが、アレクが元来期待されていた通りの道に戻ることも選択肢として残しておくように命じたのは、こういう時のためだったのかと少しずつ分かりかけてはいた。

考えてみれば当時、彼は本当にまだ子供でしかなかったのだ。

自分に苦手なことや困難なことではあっても、そして他にいくらでも楽な道に進める可能性があるとしても、敢て選ばなければならない道があるなどということは、考えてみることすらなかった。

彼は自身が軍人ということもあって、世界情勢には常に気を配っているし、父の言いつけもよく守ってきたので、もしその気になるなら、今これからでも、どんな道でも選び直すことが出来る立場にある。何と言ってもまだまだ若いのだ。この八年間など回り道のうちにすら入らない。第一、この経験が無かったら、今のような視野を得ることが出来たかどうか疑わしい。(後略)」

***

とまあ、こんな感じですね。このお話の4人の主人公のうちの一人であるアレクは、大公爵家のぼんぼんで何不自由ないお育ちしてる。アタマはいいし美形だし、しかもこれだけ書いただけでも分かると思うが性格がすこぶる良いので(良すぎるのかもしれないが)、親兄弟から友人知人、みんなから好かれてこんなシアワセなヒトはないだろうって存在なんだな。しかも現在では自分で選んで入った軍という世界の中でも上からは可愛がられ、下からは慕われるとゆー、申し分ない成功も収めている。もちろんそれは彼が誠実に努力して来たからですけどね。そういう状態を築き上げて、それで敢て、まだまだ自分には出来ることがあるんじゃないだろーかと悩む。このへんが「神々」の資質というもんだと私は思っているのだな。要は「視野」の問題なのよ、視野の。ま、つまらんことでちまちまちまちま、悩む必要がない力を生まれつき持ってるから、より大きな問題に直面させられるのかもしれませんけどね。

で、こーゆー男が選ぶ恋人ってのも当然、生粋の神々の血を引く存在でなければならないわけで、元々アレクは自分のことふつーって思ってるから(謙虚なのか、マが抜けてるのか知らんが)、まーと出会うまでは、そりゃそもそももてまくるし、女のコともけっこういっぱいおつきあいしてて、ディからは、「アレクってけっこうプレイボーイ」とまで言われてたりする。しかし女のコの方は、あんまりアレクが自分に夢中になってくれないので、結局「アレクは私より海の方が好きなのよ」と彼女たちの方から引いたりして、したがって本人は「いつでもふられてるのはおれの方」と思ってたらしい。だから、まさかに自分が「プレイボーイ」なんて言われたら心外もいいところなんだけど、ともあれ結局、まーに出会うまでは本当には誰にも恋してないヤツだったんだな。つきあってた女の子に「他にボーイフレンド作ったわ」とあてつけ言われても、嫉妬すらしたことなかったし。だから別れた彼女たちからは相当恨まれてますね、本人気づいてませんけど。

ちなみにアレクに元々そっち方面のシュミが全然ないのがなぜ明白かというと、彼がディと長年ふつーにトモダチづきあい出来てきたという厳然たる事実があるからです。幼い頃から枚挙にいとまがないほどディにそういう興味を持つ連中を目のあたりにしてても、アレクにとってディを恋愛の対象にするなんぞは、まずもって想像すらできないコトだったんですから。だから、アレクはまーが女の子でも男の子でも、そもそもどっちでもいいんですね、まーがまーでありさえすれば。

ところで私が、自分の小説世界って結局「神々の世界」なのかと納得したのは↓のような一節を書いてた時です。

***

「アリシアにしてみると、二人ほど完璧な恋人どうしというのも、他に在るものではないという気すらするのである。

生きて、動いて、喋っているというのが不思議に感じるほど神秘的なマーティアの美しさは、けれども少しも女性的な弱々しさがない。ナルシスというより、ディの言葉通りルシフェル ― 今はまだ小ルシフェルと言うべきかもしれないが ― それほど根源的な魔力をも秘めた美しさなのだ。一方、アレクの方はこれまた非の打ちどころのない貴公子で、しかも彼の美貌はその内在する強い意志力にこそ裏打ちされている。それは正に太陽神の精神性と言ってよかった。

その二人が恋人どうしとして一緒にいるところは、誇りやかな神々の恋の香気をすら感じさせて、威風あたりを払うほど堂々としている。この美しい恋人たちを見て、それに感嘆せずにいられる人間などいようとは思われないほどだ。」

***

これはもう、完全にヤ××とかの世界とはまるっきり違うってことが、この描写でお分かり頂けることかと存じます。

ただ、大事なところなんで付け加えておくと、私やアレク、バークレイ博士、まーたちにとって「神さま」というのは、一般に考えられているように人間の形をして人間のように考える存在では決してなく、もっとずっと絶対的で宇宙的な形のない存在、あえて言うなら「絶対摂理」みたいなものなんで、私の言う「神々の世界」というのは、これをふまえた上でのギリシア神話の世界みたいなもんだと思って頂くと近いかもしれません。私にしたって、いくらなんでも「そこ」( どこ ? ) まで、傲慢じゃありませんからね。念のため。

 

2007.4.25.

★楽園とは?★

ずっと考えてたんですけど、「楽園」という概念、アレは本当に人間にとって究極的な理想社会なんでしょうか? つまり、我々が「楽園」というコトバから連想する「争いのない世界」とか「みんなが平等で仲良く生きている世界」とか「働かずに生活できる社会」みたいな、いわゆるユートピアとか天国みたいな状態ですね。それって、実はものすごく不健全な精神から生み出されているんじゃないかってゆー気がするんだな、私は。

結局そういう「争わないで済む」とか「働かずに済む」、そういうラクな状態を「天国」とか「ゴクラク」とかみんな思うからそれを「楽園」と言うのであって...、けけけけけ♪、そうそう、だから「ラク園」なんだね。いえ、いま私、特にゴロ合わせようと思って書いてたわけじゃなくて、「ラクな状態」とか書いてて、そういえば「ラク」=「楽」だな、と思って可笑しくなっちゃったんです。まあつまり、楽して生きたい、それが世界共通に「楽園」のああいうイメージになって現れてるってことなんでしょう。しかしですね、それってやっぱり不健全ですよ。努力するのがイヤだから、逃避してるだけって感じがするな。本当にはそんなので満足できないことを、多くの人間は心の底では知ってるんだという気もするし。

人間っていうのは、何か一生懸命努力して成し遂げる、これ無くしては本当には満足できないし、幸福にもなれないんじゃないでしょうか。だって、今の日本人の一般的な生活様式は、例えば18世紀の王侯貴族と比べて、すっごい贅沢で快適な状態なんですよ。冷蔵庫、給湯器、冷暖房にクルマなんて当たり前、旅行しようとすれば飛行機に新幹線、古今東西の美味しいものだっていくらでも食べられる。みんなこういうのを当然と思ってるから、これをそれほど有難いとか贅沢してるって思わないけど、18世紀の貴族って言ったらわざとお風呂入らなかったりとかしたし(それが高貴なことと考えられていたらしい)、旅行ったって乗り心地の悪い馬車に悪路でしょう? 当然、冷蔵庫も給湯器もなきゃ、セントラルヒーティングもない。電灯すらない。わたし、今、マリー・アントワネットにしてやるって言われたって、ぜったいっ、18世紀のフランスなんか行きたくないわっ。日本の一般ピープルで結構よっっっっ♪

貴族と比べてさえそうなんだから、当時の一般人から見たら今の我々の生活はすさまじい贅沢に見えるだろう。でも、そういう「快適な生活」でさえ私たちは「当たり前」にしてしまって、そこから幸福感を得ることが出来ないんだね。まあ、無知でバカだと、過去、現在に存在した(する)他の世界と比較することすら出来ないんだから、自分たちがどれほど多くを持ってるかということについて認識すらできない。従って、そこから幸福感を得ることもできない。バカってそういうとこも憐れですけどさ。

それはそれとして、なんでも誰でもが持ってるとそれがあってもちっとも人間は幸せと感じられないものみたいなんだな(私はそこまでバカではないが)。「みんな同じように豊か」というのは=「普通」ということになってしまって、もうそれを有難がらなくなるし、従ってそこから満足感を引き出すことも出来ないんだよ。それがモノだけじゃなく、「民主主義」だったり「選挙権」だったりしても同じ。軍事政権に掌握されていて、選挙制度もないって国はまだまだいくらでもあるし、そういう所で理想に燃えて民主化を進めようとしてる人たちから見たら、日本なんて自分たちが目指す理想郷にすら見えるかもしれない。でも、当の日本人は「選挙権」なんつっても、もう関心すら示さない人が多いじゃないですか。「選挙権」どころか「教育」もか。「教育が受けられる」というのは昔の日本人にしたら「贅沢」だったから、高度成長期に多くの人が自分の子供を大学に行かせたがったのは、大半、その「贅沢感」を自分も手に入れられると思ってのことだったろうと言うのは、前にもどこかで書いたような気がするが、でも「学校に行けるのが当たり前」な中で育って来たコドモたちは「学校なんか行きたくない、勉強なんかしたくない」ってことになっちゃう。ね? みんなが教育を受けられるなら、もうそれは特別でも何でもないから、そこから誇りや満足感も得られなくなっちゃうわけ。まあこれは、一般論ですけどね。知的レベルが低い人たちほど、この法則に当てはまりやすいというのはあると思う。

ことほど左様に、人間の自尊心というのは(知的レベルが低いほど)、どうしても「人より上」という実感を持つことが出来た時にのみ満たされるもののようで、これを超えるためには、やはり人間は沢山努力して、それなりに自分が満足のゆく状況を手に入れるというステップを必要とするんじゃないのかな。一生懸命やってきて、自分的にそれなりの理想を実現して、更にそこで初めて「自分なんかまだ小さい」という謙虚さを持つとか、「人のために何かしたい」と思うならそれは人間的な成長というもので、とても喜ばしいことなんですけどね。

ま、これだけ言えばお分かりかと思いますが、例えば共産主義(者)は人間と人間性に対する考察があまりにも甘い。何もかもおんなじにして投げ与えとけばいー、ってか?

実際、「みんなおんなじ」=「楽園」と考えるのは典型的な「アカ」の本質で、共産主義どころかその「アカ」の究極ってばやっぱりキリスト教か。当然だな、そもそも社会主義だの共産主義だのの根底にあるのは、キリスト教的な自己犠牲精神とか平等の概念とかなんだし(それがいかんと言ってるんではない。教えてる方がその本質について誤解してるのが問題なだけ)、まさしくその思想圏で生まれた考えなんですから、カンケイないわけがないよね。しかしそれは、すっごい落とし穴だと思うんですよ。

民主主義も共産主義も、封建社会からの脱却には役に立つ思想ではあったんだけど、しかし問題は、それが究極思想ではないということと、それによって実現される社会が一般的な人間にとっての楽園ではありえないってことなんだな。これらは人間の内面性を殆ど計算に入れてなくて、ただ社会制度をどうこうしようとしてるだけなんだから、足りないものだらけだし。それに先んじてキリスト教(大乗思想もそうだけど)が広く普及した背景には、貧しすぎて未来なんて夢見れないから、せめて死後の世界ででも「ラクしたい」(笑)というヒトたちがめちゃくちゃ多かった歴史的状況とも関係してるよね。だからある意味、これらの思想は歴史的にひとつのステップではあった。しかし今は、特に先進諸国ではもう状況がこれだけ変わって来ているので、それではもう人間を救うのに間に合わなくなってるんだと思う。

ちょっと話が飛びますが、救世主信仰だとか大乗思想だとかは、この歴史的背景に加えて、「誰か自分のこの悲惨な現状を救ってくれないだろうか」という、「他依存の激しい、無責任で自ら努力することがイヤな」人間性とも多いに関わってる。思うにこういうヒトたちは、「少しでも努力して自分がヒトを救えるようになろう」なんて上等なことは夢にも考えないイキモノで、何にもしないで助けてくれって思ってるだけなのだな。ちょっと考えてみれば分かると思うが、そんなのどこの神さまだって見放すんじゃないか? 壊滅的にそういう連中が多いから、「アカ」的なエセ理想は一般的に人気があって「良いこと」と考えられがち。つまり、これを信じれば助けてもらえるとか刹那的にでも思えるから、そういう他依存激しい人間性にアピールすんのよ、そういう思想は。でも、突き詰めてくと、結局そういう種類の「理想社会」が実現しても、人間は満足しないだろう。もっともっとって何を欲しがるかといえば、「ヒトより上」な何か、なのよね、そういう連中に限って。救われないよ、それは。結局、人間はそういうあさましい原点から、個々の努力によって個人の人間性そのものを改善し、階梯を登ってゆくことでしか、本当には幸せにはなれないものなんじゃないか。まあそれが、「悟り」に至る道ってものなのかもしれませんけど、エセ理想家っていうのはその過程を省いて、「努力しなくても幸せになれますよー」とか「助けてもらえますよー」って宣伝するのが常なんだな、昔から。だから私は宗教家ってキライなんだよ。大ウソツキなくせに、立派なことばっか言ってえらそーなんだもん。それをまた「ラクしたい」ってバカが信じるんだから困る。

それはともかく、これまであった「楽園」という概念について考えるにつけ、「働かなくても生活できること」はそんないいことか? 「みんな同じ」とはそんなにいいことか? 「争いがない」とはそんなにいいことか? とか思うっちゃうんだな。もちろん「争い」についてはその種類にもよると思うけど、切磋琢磨から生じる争いならそれは素晴らしいことで、だって誰もオリンピックで金メダルめざして頑張ってるスポーツ選手を醜いとは思わないじゃないですか。競争がなければ進歩もないっていうし。確かに戦争のように絶対止めないといけない種類の争いもあるけど、それとこれとをいっしょくたにするのは如何なもんかと思うしね。本質が全然違うんだから。

まあ、これは現代の、様々な面で「究極的に豊か」な社会を実現してしまった日本の、そのまた一番豊かな物質文化の中で育った人間だからこそ至る心境かもしれませんが、全世界的に社会制度の改善が進んでゆけば、いずれは全人類的な課題になることでもあるという気はするな。つまり、「真の楽園」とは何か? ってことがですよ。本当の豊かさとか、本当の幸福とか、そういうものがね。それが分からないために、今の日本人って迷走してますもん、新興宗教走ったりとかいろいろ。危なくって当然だよね、どっち向いて走ればいいのか分かんなくなっちゃってんだから。

 

 

2007.3.26.

★大きな誤解★

草刈正雄さん主演のTVシリーズ「華麗なる刑事」のDVDが毎月1巻ずつ出ているので、楽しみに見ているという話をAyapoo でしてたと思いますが、その中にひとつロックバンドを扱った話があったんです。これは当時、世間一般に「ロック」とか「ロックバンド」ってものが、どんなふうに見られていたかというひとつの典型的な例じゃないかと思いますが、ストーリーが、う〜ん、と今にして思うと唸りたくなるようなものを含んでるんだな。ま、30年前の認識だから、今はちょっとはマシかもしれないけど、あんまり変わってないような気もするなあ...。

で、そのストーリーですけど、これに出てくるロックバンドは、裏で強盗やって活動資金を稼いでたりとかしてて、たまたま不審尋問をした刑事さんを寄ってたかって殴り殺しちゃうんですね。で、事件だってことになるんですけど、問題なのはコイツらが「悪いことをやってるという意識が全然ない」という描写のされ方をしてることで、これは世間一般の「ロックやってる若いヤツらなんて、何を考えているか分からない」みたいな認識を反映した描写だったようです。実際、当時は福生なんかにそういう無軌道な若いのが集まってゴタゴタしてるってのが社会問題にもなってたりしたって話ですけどね。

ともあれ、「ロック = 反社会的」みたいな認識がこの背景にはあるわけで、まあ当時コドモだった私のロックに対する認識も「うるさくてキライ」という程度のもんでしたから偉そうなことは言えませんが、今にして思えば、全くそれは「大きな誤解」だったなとつくづく思います。だって、77年というと英国ではそろそろパンクが出てこようかという時期だったし、そうするとパンクってのは何だったんだってことになるわけで、未だ貴族制度が温存されている英国の事情があったからこそ、社会主義だの共産主義(REDね)だのを掲げたパンクバンドの活動もありえた。しかし、日本ではそういう背景は全然認識されていない。これはもう、当時日本で「ロックやってるつもり」な若モノそのものが、全く分かってなかったことなんじゃないかという気もするな。まあ、もちろん、そういう理論的な所も認識して活動していたバンドが絶無とまでは思わないけど、一般的ではなかったのは確かじゃないかな。

確かに、保守的な世の中から見れば、社会主義を掲げることそのものが「反社会的」ではあるわけだけれど、しかしそれは、「ヒトを殴り殺して平気」という種類の反社会性とは全然違うものでしょう。逆に、社会主義に走るというのは、そもそもが社会的な意識が高いということで、だからこそその意識は自国内の問題ばかりではなく、例えばボノが影響を受けたというクラッシュみたいに、アフリカの現状を扱った歌とかも存在しえたんだと思う。

今から振り返って見ると、ロキシーは「最初のパンクバンド」と言える要素を多く持っているにもかかわらず、78年当時、フェリーさんがパンクから敵視されたのは、彼のイメージがエレガントだったり、プレイボーイだったりという、「裕福な保守層」を連想させるものだったことが大きいでしょうね。それは社会主義の観点からは「反社会的」と見られるものだったわけだし。でも、それは当時は今よりもさえ遥かに彼の音楽やそこで歌われていることが一般に理解されていなかったからで、実際には彼の作品は社会主義あたりの、私に言わせれば「現実に使いモノにならない理屈」に比べて、遥か向こうにぶっ飛んだ考えを歌っていたのよね。パンクは結局これに追いつけないまま、ニューウエーブに移行したわけだ。

70年代以前の音楽史については、まだまだ知識も足りないし、研究の余地が十二分にあることなので私も偉そうなことは言えないが、しかし、パンク以降に限って言うと、始めは自分の周りの封建的環境への反発だったものが、後に世界的な問題へ意識が発展してゆき、さらに変革を求める人たちの思考は「社会制度を変革するだけでは根本的な解決にならない」という結論に達さざるをえず、従って概念的な方向へ向かうことになったのじゃないかという、ひとつの流れを感じ取ることは出来ると思うんだな。

もちろん全ての英国のバンドがそんな高い意識を持ってたというわけでもないだろうし、単なるゴラクでウケたってのも少なからずあるでしょう。でも、芸術的に優れた作品を残しているバンドの多くは、そういう要素を持ったものが多かったんじゃないかとは思うし、ビートルズにしても歌詞はジョン・レノンだったから、優れた概念世界というのは確かに内在していて、そのあたりが英国の音楽が第一次、第二次のブリティッシュ・インベージョンを巻き起こすほど台頭したことと、深い関わりがあるのじゃないか、とゆーよーな、気もする。

高い社会意識というのは、つきつめてゆくと結局、より抽象的な概念世界を扱わざるをえなくなるもので、それは根源的な問題を突き詰めようとする要求の行き着く先と言えるでしょうね。始めは世の中がどーのこーの、革命がどーのこーの言ってたパンクロッカーが、後に「愛とは〜♪」とか歌い出した原因もそこにあるわけで、思うに、グリーンとか、ポール・ウエラーは明らかにこのクチだな。

さて、例えばU2は疑いの余地を入れないバリバリのロックバンドとして広く知られているわけですけど、ボノなんて「反社会的」とは正反対のヒトだよねえ。最近、日本にもアフリカへの援助を求めて来てましたけど、彼のアフリカに関する問題意識を見て「反社会的」と感じるひとはないじゃないですか。その活動も「ヒトを殴り殺して平気」という種類の反社会性とは正反対のところにあるし、彼がアフリカの実態を知るきっかけになったのはクラッシュだったという話もある。本当のロックとかロックバンドってのはそういう流れの中にあるもので、もちろんロキシーもそうなんですけど、これは当然、更に大きな芸術史の流れの一部であるわけで、つきつめれば大局的な見地から世界を俯瞰する視野を持っているのが、この種の本モノのアーティストだってことじゃないかな。そのくらいでないと、世界的には結局なれないものなのよ。一般に日本のロックなんてものが少数の例外を除いて、どーやってもこーやってもそういうのに太刀打ちできないのは当然よね。知性のレベルがサルと神さまほど違うんだもん。

話が飛びますけど、初めてフェリーさんの写真を雑誌で見たとき、まず「作家かな」というイメージがあって、それからロックバンドのリーダーだと知って、「なんでこんなステキなひとがロックなんか...」と呆然としたという話は前にもしましたが、ま、私の当時のロックに関する認識なんてのも、その程度のもんでした。しかしまあ、フェリーさんとかグリーンのおかげで、それは「大きな誤解」であったと後に悟りましたねえ...。どこかでも書きましたが、何事も一歩踏み込んでみると全く違ったように理解されてくるってことはあるものです。

デヴュー当時のロキシーの表向きのスタイルだけ見ていたら、それこそ「何を考えてるか分かんない若いヤツら」の典型に見えたんじゃないかという気もするが、しかし、実態は緻密に考え抜かれて計画、実行されたアーティストのパフォーマンスだったわけで、皮相的とは程遠い存在だったんだよね。それに、もともと私はフュージョン系の明るくてキレイな音楽が好きなので、例えばロキシーのファースト、セカンドなんて全然好きな音じゃない(爆)はずなんだけどな。なのに、フェリーさんが何考えて音楽作ってるか分かってきてからは、その真価というものを認識するようになって、いいなあとか凄いなあとか思うようになったもんなあ。

概念には絶対性がないので、善悪も相対的なものであるとは、以前から書いてることですけど、保守的であることが封建的であることと通底するならば、それに対して反社会的であることは、逆に民主的な観点からの正義ということになりうる。また逆に、封建制や保守的であることが善とされるテリトリーにおいては、民主主義でさえ悪と認識されうる。結局、概念ってのはそういうものなんだろうな。

ところで、最初に書いた「華麗なる刑事」の中にあったお話では、最後で主人公の高村刑事も南郷刑事もブチ切れて、捕まえた犯人にピストルぶっ放してましたけどね。ヒトの命を何だと思ってるんだって感じで。もちろん死なない程度に、ですけど、犯人の方は相当ビビってたな(自分が殺されかけたらビビるくらいなら、人殺しなんかするな。みっともないヤツらだ)。このへん、本当の「怒り」ってのは、こういうもんだろうなと思ったりもしながら見ておりました。そうすると高村さんや南郷さんの方が「ロック」だったりするんだよね。面白かったぞ♪

 

 

2007.3.11.

★リリースされました★

フェリーさんの約5年ぶりの新作、ついにリリースされましたね。既に聴かれた方もあるかと思いますが、今回は、前にも書いてた通りボブ・ディランのカバー集ということで、相変わらずフェリー・クオリティの素晴らしい仕上がりになっています。あやぼー的に特に嬉しいのは、ボブ・ディランの曲ばかりということもあって、フェリーさんのハーモニカが存分に聴けることです。ふつーは、たまにしか吹いてくれませんが、今回はいっぱい聴ける。

あやぼーはもー、フェリーさんのやることだったら何でもいいわって熱狂的ファンなんで、全曲、つくづく深いなあとまたまたまた、感嘆のため息をつきつつ、ただひたすら耳を傾けて聴き入ってしまいましたが、これからMDに落として、しばらく聴き狂うのではないかと思われます。元々、アップテンポな曲が好きな私としては、一曲目、二曲目と、のっけから、きゃーきゃーきゃー状態。どの曲がいいとか悪いとか、そういうモンダイではなくて、とにかくやっぱり全曲ハズレなし。フェリーさんのヴォーカルはもちろんですけど、音の饗宴というか、参加しているミュージシャンが皆さん素晴らしいので、どの曲も楽曲として非常に聴き応えがあります。

As Time Goes By 以降、フェリーさんの大のお気に入りで私も大好きなピアニストのコリン・グッドは、今回もプレイヤーとしてばかりではなく、アソシエイト・プロデューサーも務めているようで、プロデューサーはレット・ディヴィス&ブライアン・フェリー、Mixed by ボブ・クリアマウンテンと、もうこのへんはお馴染みのフェリー・ファミリーの面々でしょう。イーノも一曲参加してるわけですが、ココでわたくし、おや、と思いました。なぜと言って、この曲でエレクトロニクス担当にイーノと名を連ねているのがフェリーさんちの問題児、次男のアイザック・フェリーくんだったからです。きゃはははは。

いや、ご存知の方もあるかと思いますが、例の離婚騒動の頃に、このコはコンピュータ・ウィルスをバラまいたとかなんとかで、とんでもない騒動を起こして大問題になり、結局逮捕されちゃったなんてコトがあったんですねえ。で、まあ時期が時期だったんで、これはもう「パパを困らせてやる〜」だろうなと私は思いまして、確かに悪いことには違いないんですが、「大丈夫か?」とか思いながらも、どこか微笑ましいものを感じたりしてたわけです。まあ、パパが大好きなんだろうな、とですね。

何年か前に、フェリーさんが乗ってた飛行機がハイジャックされて墜落しかかったってコトがあったじゃないですか。あの時は、休暇中の家族旅行の最中だったようで、一緒にアイザックくんも乗ってたらしい。で、無事に着陸してからインタヴューされてるんですけど、その時に「もう、みんな悲鳴上げちゃって大騒ぎだったよ。パパ以外はね。パパはぼくにも、しゃんとしてろって言ったよ」とか自慢そうに答えてたんだな。ま、それほど大好きで自慢のパパがスキャンダルで離婚騒動なんてことになったら、やったことは悪いけど気持ちは分かるなってもんでしょう。

ともあれそんな騒ぎ起こすくらいですからアタマは悪くないに決まってるし(親が親だけに...)、ちょっと親父の仕事を手伝わせてやったりとかしたら落ち着くだろうになと思ってたんですが、その「親父」も同じ結論に達したのかもしれませんね。スタジオ・アシスタントなんてとこにも名前載ってるし。とはいえ、フェリーさんはいくら自分の息子でも、才能のない人間を自分の作品に関与させるようなヒトではないし、イーノが一緒にやっちゃってるっていうのを見ても、これはなかなか、やっぱりタダモノではないかなという感じもしますよね。もうそろそろ二十歳過ぎるくらいにはなってると思うけど、こっち方面に進むのかな、楽しみだな。実は、私、フェリーさんの4人のご子息には以前からけっこう興味あって、だからよけい今回のアイザックくんの参加は面白いなと思ったりしたのでした。ちなみに、今回の作品は三男のマーリンくんに贈られているみたい。前作は四男のタラくんだった。

ということで、ちょっと裏話になってしまいましたが、今度はアートワークのお話をちょっと。今回、フェリーさん、自分でアート・ディレクターやってますね。で、またこのジャケットの写真がさー、フェリーさんだなあってゆーか、私なんかはもう、まず必ず「きゃーきゃーきゃー、すてき〜♪」とか、なってしまうわけですが(ここで既にフェリーさんの術中に陥っている)、同時にこうクールっぽく決められるとね、またこのカッコつけちゃって〜、とゆーか、まあそれも一面ではあるんですけど、本質的にクールとは正反対なヒトだから笑っちゃったりもする。で、そういうのをジャケット写真にしておいて、それでブックレットの中にはこんな写真も載せるんだから困るよなー、って(アルバム買って見てね)。クールっぽくカッコつけてる写真よか、こっちの方が弱いんだよな、私は。

さて、参考までに、収録曲は以下の通りです。

Just Like Tom Thumb's Blues

Simple Twist Of Fate

Make You Feel My Love

The Times They Are A-Changin'

All I Really Wanna Do

Knockin' On Heaven's Door

Positively 4th Street

If Not For You

Baby Let Me Follow You Down

Gates Of Eden

All Along The Watchtower

 

フェリーさんの作品は、アルバムによっては思い切り「ツウ向け」みたいなのもあって、いきなりそういうのを聴くと何がなんだか分からないということもあり得ると思うんですが、今回のは比較的、入りやすい作品集ではないかなと思います。ま、オリジナルでもカバーでも、音楽としてのクオリティの高さは全く変わりませんけどね。

それにしても、ソロをカバーでまとめたってことは、ROXYの方にオリジナル固めたいってこともあるのかな。うー、なんかそのへん物凄く楽しみですね。As Time Goes By以降、それまで以上に完全主義が冴え渡ってるって感じするんですが、それがやはりすごいことなんだよな。今年、62才ですよ。それでまだアーティストとして伸びるんだもの。やっぱり、フェリーさん以外に我が師と呼べるヒトはいませんな。

 

 

2007.2.19.

★曲げる信念すらない★

ひとこと。

欧米には「信念を曲げて、単に金のためにレコードを作る人たちなんていくらでもいる」そうだ。しかし、日本のレコード業界には「曲げる信念すらない」人たちがいくらでもいる。もし、先生がこの事実を知ったら、どんな顔をするだろう。いや、知ってるのかもしれないが、単に論外なだけかもしれないな...。

 

 

2007.1.31.

★ご無沙汰しました★

約8ヶ月のご無沙汰となってしまいましたが、皆さま如何お過ごしでしたでしょうか。昨年、グリーンはとうとう日本でもライヴを披露してくれたようで、私は残念ながら行けませんでしたが聴きに行かれた幸運な方も中にはあるのではないかと思います。その後も秋冬にかけてアメリカを回り、先日はBBCでもセッションを披露するなど、コンスタントなライヴ活動を続けているようです。そのへん、いろいろウワサは聞いていたんですが、Magazine Workshop のページ作りが忙しくて、なかなかこのページを書いてるヒマがなかったのが残念です。ともあれ、新作にはスタッフにアリス・ガートサイドというお名前がありましたので、手にされた方は既に気づかれたかと思いますが、ココでもちょっと書いていた「グリーンさまがご成婚なされたらしい」といウワサはやっぱり本当だったようで、これは影ながらもやはりお祝い申し上げなくてはと思います。なにしろ、奥さまとは80年代とかそのへんからの長いおつきあいだったみたいで、こういう場合、私などは旦那よか奥さまが偉いなあと思うんですけど、才能豊かな芸術家気質の恋人なんてものと結婚もせずに長いことおつきあいできる女性というのは、やっぱりよく出来た方なんだろうと思うからなんですね。どうぞ末永く、お幸せに♪

ニュー・アルバムは、あやぼー的にはちょっとおとなしかったかなという印象もありましたが、音楽的なクオリティは相変わらずで、グリーンのライヴなんて空前のオマケまで付いてたわけですから、これからの活動にも大いに期待したいところです。

さて、今度はフェリーさんのお話ですが、英国で3月にソロ・アルバムがリリースされる運びとなっているようです。日本でのリリースがいつかはちょっとまだ調べてないんですけど、そんなに間は空かないんじゃないかな。今回のはボブ・ディランのカバー集だそうで、ロキシーの新作レコーディングからちょっと小休止を取って作られたものみたい。ま、これもフェリーさんのひとつのパターンと化している現象かもしれません。オリジナルで煮詰まるとカバーで休養を取るってやつですね。ただ、フェリーさんの場合、ご存知のようにカバーをやったところで決してハンパなものは作りませんから、それにディランのカバーは前作"Frantic" でもやっててすごく良かったし、彼としては70年代からディランのカバー集を作ってみたいねとか言ってたらしいし、私としてもリリースがとても楽しみです。既にこの新作のプロモーションのためのライヴも決まっていて、3月から4月にかけて英国内とヨーロッパを中心にびっしりスケジュールが組まれています。それはそれでいいんだけど、今年で62だしなあ...、あんまり忙しすぎるってのは見てると心配で心配で。ま、昨年も夏はロキシーでツアーして回って全然平気だったみたいだし、大丈夫だとは思いますけど、そのへん気をつけてもらいたいものです。どうも本人にトシとってるという意識があるのかないのかってとこもなきにしもあらずだからな。

それはそうと、今回のニュー・アルバム、ミュージシャンはコリン・グッドとかクリス・スペディングとか、再編後のロキシーのツアーでお馴染みのメンバーが殆どなとこへ持ってきて、ひとつ笑っちゃうのはなんと!! ロキシーのオリジナルメンバーの中ではイーノだけが参加してるらしいってコトなんです。"Mamouna"はまあ、ああいう音自体がアバンギャルドな仕立てでしたから分かるとしても、ボブ・ディランのカバーでしょ? で、イーノってなにそれ? って感じするじゃないですか。いや、悪いイミじゃなくて、イーノがどんなふうに参加してるのかなあってすっごい興味あるってことです。ともあれ、これはもうロキシーの新作にもイーノ参加は確実と思っていいかもしれません。あと、他にはアンディ・ニューマークとかポール・キャラックも参加してるみたい。アンディ・ニューマークがロキシーに参加してたことはよく知られてますが、ポール・キャラックも確かManifesto以降の頃に一緒にやってた時期があったと記憶してます。そんなこんなで殆どお馴染みメンバーって感じですが、なかなか興味深いラインナップでもあると思いませんか?

ってコトで、実にタイムリーだったなと思うんですけど、Magazine WorkshopでROXY関連の写真やフェリーさんの昔のインタヴューを掲載し始めました。ひとつのサイトとしてまとめようとしてたんですがなかなか出来上がらないので、Magazine Workshopの更新スケジュールに入れて定期的に内容を増やし、ある程度まとまったら独立させるというやり方でいこうってことにした。既に見て下さった方もあるかもしれませんが、ぜひそちらもチェックしてみて下さい。どんどんページが増えると思います。

で、今日も新しく77年のインタヴューを追加したんですけど、その中でこれはもうフェリーさんの作品作りの真髄だなというような発言がありますので、抜粋しておきたいと思います。

 

「信念を曲げて単に金のためにレコードを作る人たちなんていくらでもいるし、ビルボードを1冊買ってチャートを見さえすればそういう人たちのリストは延々と続いてるよ。一方では作品としてすばらしいレコードで商業的にも大きく成功しているものもあって、それは全く悪いことじゃないとぼくは思う。アーティストにとって妥協しないで仕事が出来るというのはすばらしいことだと思うし、お金をたくさん稼ぐことばかりじゃなく、誰とでもその素晴らしさを共有出来るということ、それがぼくにとっては一番大切なことなんだ。多くのオーディエンスを得ることができる、だからぼくはこの世界に入ったんだよ。― ひとつには、自分の才能を沢山の人と共有し、大きなオーディエンスを得ようとすることが目的だった。そうでなければぼくはどこかの屋根裏でとてもエキセントリックなレコードを作り、毎年10人とか12人くらいを相手のプライヴェートなコンサートででも聞かせてる方がずっといい。そういうところから、ぼくは出て来たわけだけどね。フィル・スペクターは明確なアーティストとしての姿勢を示し、それで大きな商業的成功を得た人のいい例だと思う。そういうのがぼくの目標とするような成功なんだ。それはどんな時にも自分を確固として崩さないということなんだよ。」

Bryan Ferry -Trouser Press 1977 Nov.

 

これは本当に彼の実際に貫いてきたアーティストとしての姿勢だと思う。口先だけじゃなくて、苦労しまくってもコレでやってきてるってとこがやっぱり先生のすごいとこだなあと訳を編集してて改めて思いましたね。ロキシーがデヴューした頃といえば、英国でもロックなんてコドモ向けのゴラクみたいに思われてたわけで、でもフェリーさんを含めて優れたアーティストがこういう姿勢で妥協せずにちゃんと「音楽」を作ってきたことが、現在では英国のロックやポップがアーティスティックな表現媒体と認識されたり、理解されたりしている要因のひとつなんじゃないですか。

「芸術は芸術の目的を持つ」と私なんかは思ってるんですけど、それは一般に求められる娯楽としての音楽の目的と明らかに違ったもので、大局的に言えばそれは全人類的な目的とも言えるので「人間」からかけ離れたものではないですけど、かと言って単なる娯楽が到達しうる域にあるようなものでもなく、それを遥かに超えたものであるとも言えます。フェリーさんの場合、なんだかんだ言われながらも、その両方を満たす活動を続けてきたわけで、彼のようなヒトにとってはそれこそ「ポップアートの大家」みたいな大先生になって、一般的な社会からは距離を置いたところで泰然自若としてる方がよっぽどラクなことだと思うのに、それをあえてこういう世界で苦労しながらやってるわけですから、偉いなあというか、そのへんが愛しいというか。

とゆーことで、ROXY 関連のページを増やしてゆくかたわら、このページもぼちぼち更新再開したいと思ってますので宜しくお願いします。

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