このコーナーではサロンでお出ししているテーマの中から主に「21世紀、日本はこうなる、もしくはなってほしい」と、「インターネットの可能性」という二つのテーマについてあやぼーの思う所を語ってゆこうと思う。それらは連鎖的な関係のあるテーマだからだ。

そもそもは「カフェにおける論争」という無責任なお楽しみ的要素の強い発想で始めたサロンなので、言ってることに絶対性なんかないし責任も持てない。知識の限界だってあるし、一般メディアで流れている情報が真実とも限らない。それに所詮、人間の考えなんてものは人それぞれで千差万別、ある視点から見れば当たってたり正しかったりするが、ある視点から見れば間違っていることもしばしばなのだ。諸行無常な世の中に絶対正しいなんてことも、また絶対間違ってるなんてことも滅多にはないものなのである。そういうわけで、ひとつの見方として楽しんでもらえれば幸いである。

 

「インターネットの可能性」というテーマについては社会的かつ歴史的にその構造に関わる側面からと、底辺における国際交流を可能にするということから見た人間の意識に与える影響のふたつから考えてみたいと思うが、とりあえずまずは経済、歴史、社会との構造上の接点を考察してみることにしよう。

Vol.1. ITバブルは本当にはじけたか。

さて、昨今確かに IT株の動きは悪い。昨年評判だったフィディリティ・日本成長株ファンドを参考にして見ると、設定時の99年に1万口1万円だったこのファンドは、2000年春先に約2万円まで上がり投資ブームを大いに刺激した。しかしその後下降線をひた走り、昨年11月頃から目に見えて凋落の一途を辿った結果、3月現在約1万2千円台から1万3千円台という、どん底状態に落ち込んでいる。フィディリティの決算報告書によると、この間やはり IT株には売りの傾向が大きく見られ、まことしやかに「ITバブルもはじけた」などと囁かれるもとにもなっているようだ。しかし本当にそうだろうか。

そもそも一般に日本人はインターネットについて、つきつめて言えば、この新しいメディアが社会的かつ歴史的に、どれだけの可能性を内包しているかについて全く理解しているとは思えない節がある。IT株のここ数年の派手な動きが何から生まれて来たのか、正しく把握出来ている者がどれほどいるだろうか。

これらの株は主にインターネットのシステム部門、つまりプロバイダやハードウエア、ソフト開発など、言わばネットのインフラストラクチャに関連する株であったはずだ。これはネットを利用するにあたっての不可欠な地盤となる要素を提供する企業が、新しいメディアの定着までにもてはやされたのに過ぎない。昨今アメリカではインターネットの主権は既にシリコンバレーからニューヨークなどのデザイナーの手に移っていると言われている。何故か。それはアメリカでは、とおの昔にネットのインフラは定着し、言ってみればインターネットというひとつの街の内部構築に着手されて久しいからである。

上下水道や電気、電話、ガス施設、舗道やビルなどが出来たからと言って、それは街づくりの概要が整っただけでしかないだろう。そこに人が住むなら当然家やオフィス、商店街が並び、さまざまな物が売られ流通する。快適な家を建てるには土木技術の他にエクステリア、インテリアともに機能に合致したデザインが必要となり、物が流通するところには広告も必要となるだろうし、見栄えのいいファッション・ビルやアーケード、公園なども現れるに違いない。そして人の集まるところには必ずアートが生まれて来るものだ。しかしインフラが定着した後の街づくりは残念ながら技術(シリコンバレー)の領域ではなく、想像力から生みだされる創造力(ニューヨーク)の領域にある。これが先ほどのシリコンバレーからニューヨークへ、という主権の移動のメカニズムなのである。海外の注目されるサイトを覗くと、必ずと言っていいほどグラフィックに見るべきものがある。技術的側面と共に、視覚的インパクトはやはり最重要事項であろう。

もうひとつ例え話をしよう。

クルマを開発する場合、まず技術者がシャシやエンジン部分など内部構造に属する部分を構築することは当然だが、それにどのような意匠つまりエクステリアを与えるかはデザイナーの領域だ。エンジニアとデザイナーのコラボレーションが絶妙のバランスで決まった時に、歴史に残る名車が生み出される。そして一人の人間がデザインとエンジニアリングの両方に才能を発揮出来る例は稀であろう。単に信頼に足る技術を確保するのもなかなか大変だが、特に問題なのはイマジネーションから生まれるデザイン、つまりエクステリアの方で、理屈や技術だけではない分、習得しようと言って習得できるものではない。実は日本の今後のインターネット・ビジネスの発展という論題において、一番問題なのが、ここなのだ。

かつてソニーやナショナルがアメリカで映画産業に資本投下したことを記憶しておられる方も多いだろう。ヴィデオなどのハードウエアの普及は映像ソフトの開発とワンセット、しかし、もちろん一部の例外を除いてだが日本は見るに耐える映像ソフトを開発するノウハウが絶無に等しいという状況にあった。つまりロクな映画が作れなかった、ということだ。このようにエンタテイメントの領域においては今に至ってなお、日本という国は絶望的なセンスしか持ち合わせていない。(アニメや漫画など、特に日本で発達して来たエンタテイメントが現在世界で受け入れられているのは、また違ったウラ事情があってのことである。)

しかし、かつてビル・ゲイツは言いはしなかったか。「コンピュータというものはハードウエアではなく、ソフトだ」と。

ハードウエアは第2次産業の領域にあるが、ソフトは第3、第4次産業の領域にある。これが何を意味するか分かるだろうか。

世界経済の大きな胎動を示す傾向として、現在のアメリカもヨーロッパもその中心的産業が工業を中心とする第2次産業からサービス業、エンタテイメントを含む情報産業を主体とする第3、第4次産業へ移行しつつあるということが挙げられる。事実、現在のアメリカに最も大きな歳入をもたらすのはマイクロソフトを始めとするメガベンチャーであると言われているが、何故そのアメリカは「不況のない資本主義」とまで豪語出来るのか。それはこの移行が今までの経済学の基本さえ覆すほどの大きな変化であるからだ。

「資本主義においては不況と好況が交互に訪れる」というのは経済学の基本だが、これは需要と供給のバランスが崩れることから生まれる。しかし、第3、第4次産業においては形のある商品の流通を伴わないため(音楽ソフトなどのエンタテイメントも実質的に売買されるのは内容である)、結果としてこのバランスが崩れることも殆どない。また、サービスや情報の需要は日常的なものであり、長期に渡って使用可能なクルマなどの物販と違って、顧客の需要頻度は事実上無限と言っていい。需要が無限なら供給も無限、経済が停滞する可能性も従来よりはずっと低くなる。しかし、もちろんこれは単純に直線的な観点から述べているだけであって、実際人間の生活は旧来の産業によってその多くが支えられている。これらと歴史的に見て新しいタイプの産業とが、どのようなバランスで経済に影響を与えるかで、実際の様相は当然複雑なものになるだろう。事実、そのアメリカでさえ、ここしばらく堅調に続いて来た好況が崩壊しつつあるとも言われている。逆に言えば、だからこそここ数年に渡って、如何に情報産業の発展が経済に影響を及ぼしていたか、ということだ。

ところで先ほどハードウエアの販売は第2次産業の領域にあると言ったが、言葉どおりのハードウエアばかりではなく、インターネットにおいてはその構造に関わる部分、つまりプロバイダやシステム開発などの技術的側面に属するもの全てが事実上「インターネットにおけるハードウエア」であると考えられる。つまりインターネットの外観を構成する要素だ。これらはある程度普及すると必ず飽和する一点を迎えるざるを得ない。日本の「ITバブルがはじけた」と言われる状況は、現在その一点に日本が到達したということを意味している。つまりある程度潜在していた顧客にインターネットを利用できる環境が行き渡ったということだ。それではソフト面とはどう定義すれば良いか。例えば映像や音楽ソフトにはこのような飽和の限界点が事実上存在しない。良いソフトはどこまでも売れるし、人々は次々と新しいソフトを必要としている。しかし音楽機器やヴィデオ機器となると、そう毎日のように買い換えるわけではない、これはネットにおいても本質的に同じだ。それが2次産業と3,4次産業における需要の頻度の絶対的差異を生み出す。そうした意味から言っても、ネットにおけるソフトとは、やはりサイトの内容そのものにつきるだろう。音楽や映像ソフトと同じで、毎日のように顧客はエンタテイメント要素の強い楽しめるサイトを探しているのだから。これでさっき私がわざわざビル・ゲイツの一言を持ち出した意味がわかってもらえるだろうか。全てはこの需要の頻度に掛かっていると言える。つまりソフトの需要頻度は事実上無制限であるということだ。だから優れたソフトが開発されなければ、ハードの存続もあり得ない。つきつめて言えば日本の今後のインターネットの普及と繁栄は既にこういった意味でのソフト開発に掛かるところまで来ていると言えるだろう。しかし、その意味では確かに「ITバブルははじけた」かも知れない。さっきも言ったように、この国にはあらゆるソフトを開発するアーティスティックなセンスが絶無なのだから。このままでいけば、そのあたりに気付いた企業は、かつてのソニーや松下のように海外にその方法論を求める可能性も充分にある。

ともあれ、ITバブルが本当にはじけてしまうか持ち直すか、それはこれからの日本人のインターネットに対する理解と使い方にかかっているだろう。先ほども書いたが、日本には漫画だのアニメだの、庶民的ゴラクに見るべきものもある。それらが何故世界的に受け入れられているのか、ウラの事情が把握できれば、まだまだこの国にもチャンスはあると思う。そしてもうひとつ重要なことは、ワールドスタンダードに合一するものにスポットを当てることだ。日本人には世界に通用するものが「作れない」わけではない。作っていても「注目されていない」だけなのである。かつてあるテレビ局のディレクターは「アイドルなんか作り出せる」と豪語したが、それはこの日本という「世界のどイナカ」で、ロクに教養もなく、海外事情も知らず、テレビだけが全世界だったみたいな旧時代の日本人に対してのみ可能だったことであって、連中の作った中身のない「アイドル」とやらが世界で商売出来た例は、おそらくない。エンタテイメントに関して世界には既にクオリティ・スタンダードと呼ぶべきものが出来上がっていて、そのスタンダードにおいては例え10代のアイドル歌手でさえマトモに歌が歌えるのが当たり前なのだ。商品のクオリティ、これは元々どのような業界においても重要だか、今後は更に絶対不可欠の要素とされるだろう。

人間に良い部分ばかりがあるわけではない以上、その単なる道具であるインターネットもまた良い部分、悪い部分を持たざるを得ないだろうが、「力」を使うということはプラスとマイナスが表裏一体だということを念頭に置いて、価値のある使い方をして頂きたいものである。また人間には驚愕的な技術よりもずっと必要なものがあるということ、そのへんも今後のサイト開発における課題になるのではないだろうか。

ところで、インターネットの可能性は経済や流通、ビジネスに関するものばかりではない。私がネットに期待する理由は実はそんなものではないのだが、次回は人間の意識にこのメディアが如何なる革命をもたらすか、その可能性についてお話しよう。

2001.3.26.-4.7.

>> Vol.2. インターネットに期待するもの