第5回 テーブルマナーのおはなし

 

このヨモも、なんと既に第5回ということで一年以上連載してるっつーことになるんですね。なんだかんだ言ってもSPのサイトを初めて世に出して以来2年と8ヶ月、いやこれがリリースされる10/10には2年9ヶ月になるんですが、それだけやってるとこうして連載モノもたまってくるんだなあ、とちょっと感慨。ネット出版のいいところっていうのは、アナログ界の雑誌みたいにせいぜい1ヶ月かそこらで書店に並ばなくなっちゃうんじゃなくて、長期に渡って読んでいただける状態に置いておけるってことですよね。それだけに書きがいもあるというものです。さてそんなこんなの第5回、今回はテーブルマナーのお話をいたしましょう。

何故テーブル・マナーについて取り上げる気になったかというと、実は先日あるティ・ルームでお茶飲んでまして、横のテーブルの人たちが帰ったので特に意識せずにそちらを向いて、そのテーブルの上の惨状にびっくり。20代くらいのわりと若い女性二人のお客さんだったと思ったんですが、ここまで酷いのもめずらしいというくらいの有様で、食べ残しはひっくり返って散乱してるわ、フォークやナイフ、スプーンはあっちこっち散らばってるわ、食べこぼしは酷いわ、まるでマトモに躾されてない幼稚園児の軍団が去ったあとのファミレスのテーブルかなんかみたいな状態だったんです。それで以前から、ちょっと思ってることとかもあったんで、やっぱ言っとこうかな、という気になったというワケです。

特に20代とか30代の女性の中で(あやぼーだって、まだその範疇だい!!)、たぶんちゃんとした躾とかされないで(育ちの良くない環境で)育ったからカン違いするんだろうと思うんだけど、食べ物を残すのが習慣になってるようなヒト、いませんか? それも食べきれないくらい多いとか、不味かったとか、体調が悪かったとかではなくて、「全部食べてしまってお皿がカラになってる状態は恥ずかしい」というカン違いから残すというヒトね。まあどうせどっかのアホな女性週刊誌かなんかが、ヘンな「マナー」を捏造したってのもアリかもしれないんだけど、本人はそれが「マナー」だとでも信じこんでやってるんだろうな、と思うようなヒトをよく見かけるんですよ。

この「育ち」ってことについて誤解のないように先に言っとかないといけないんですけど、昨今の日本のたいていの自称「金持ち」というヒトたちは所詮、成金上がりですから、少々小金があってでかい家に住んでるとかじゃ文化レベルまでは到底どうしようもないんですよね。だから私の言う「育ちがいい」というのは決して金持ちとかそういうイミじゃなくて、親がきちんとした人で、ちゃんと子供に「やって良いこと悪いこと」をしつけておられるご家庭ということです。逆にヘンに成金なんて人たちほどムダを贅沢とカン違いして恥ずかしいコトになってると思うんですが、どちらかというと由緒正しいおうちほど、奢侈や見せびらかしのムダを嫌うものだと思います。だから「育ち」というのは、お金持ちかそうでないかとは関係なしに、親が人間としてきちんとしているかどうかということですよね、問題は。また例えそうでなかったとしても、自分自身が人間として最低限の礼儀をわきまえていれば、同様の恥はかかなくて済むわけですけれどね。

で、その食べ物を残すという話に戻りますが、私は幼稚園の頃「お弁当を全部残さず食べなければ、昼休みの遊びに行ってはだめ」という環境で育ちましたから、「食べるものをムダにするのは良くない」と叩き込まれているわけです。マトモなお年寄りとかなら、やっぱりその通りだと言われると思いますよ。「時代が違う」と言えば何でもかんでも許されると思ったら大間違いです。時代もへったくれもない話ですが、現代でさえ地球上の三分の一は飢餓から脱却できていないという現実をそうひうヒトたちは知っているんでしょうか。それを知っていれば、わざとらしく毎日「食前の祈り」なんかしなくても自分の食卓に毎日食べられるものが並ぶ有難さくらい実感できると思うんですが、結局そういうことも認識していない人間を私は「教養がない」と言うんだと思います。(怒)

ま、キビシイ話になってしまいましたが、ともあれ「まともな躾」の世界では、食べ物を理由無く残すのはみっともないことなんです。でもどうもそのへん、特に高度成長期以降の「成金大国・にっぽん」では、おおいにカン違いされている部分でもあり、各ご家庭で改善して頂きたい点のひとつでもありますね。もともと日本という国の美的なところというのは、まあ「和のミニマリズム」という観点からみても古来「奢侈に流れない」ところじゃなかったでしょうか。十分にあってもムダをしないという、心理的余裕のある贅の世界なんですよね。こういうトコは70〜80年代あたりにかけて見事に破壊されつくしてしまったわけですが、それはとても残念なことです。で、ひとつそういうヘンな「マナー」を身につけてしまっている、育ちが悪い上に最低限の配慮をするだけの知恵もないお嬢さんがたに(キツいな、私も)言っときたいんですが、それはマトモな感覚では「みっともない」ので(とは言っても今の日本の一般常識がマトモじゃないんだから仕方がないが)、ちょっとでも「お嬢さまぶりたい」気持ちがあるなら、ちゃんとした「マナー」を身に付けられるべきだと思います。少しでもよく見られたいからこそ「残す」という行動に出てるんでしょうしね。それとも「赤信号、みんなで渡れば怖くない」で押し切りますか。ま、それもいいでしょう。

しかしそこではた、と「これではいけない」と思われるとか、「確かにそうだ」とご賛同頂ける方のみ、先をお読み下さい。

野田岩次郎氏著「テーブル・マナー」

光文社刊(カッパ・ブックス)・680円

 

「ヘンなマナーの捏造」ってコトで、何より先に思い出すのが私の子供の頃よく言われていた「ライスはフォークの背に乗せて食べる」ってやつですね。もう古い話なんで、そんなアホなことは今では教えてないと思いますが、実際、例えばマトモなフランス料理で「ライス」が出るなんてことそのものがまずありません。西洋料理全体から見れば、米を使った料理というのはいろいろあるようですが、それも野菜の一種として調理されているのであって、日本の感覚で考える「白いご飯」がそのまま出て来ることなんてないのです。それをフォークの背にのせるのどーのって、何考えてんだ? の世界でしょ? ことほど左様に「まことしやかなウソ」ってのはどこの世界にもある話なんですが、ま、当時は正式の席でさえライスが出るという「うそっこ西洋料理」が「高級」とか「贅沢」と考えられていたという事情もあるんでしょう。そんなあれこれのウソに騙されて窮屈な思いをしないために、私がテーブルマナーと言ってオススメしたい本、これは初版が昭和43年らしいんで相当古い本なんですが、当時のホテル オークラ会長だった野田岩次郎氏が書かれたテーブルマナーの本です。大体テーブルマナーというと「あれしちゃいけない、これしちゃいけない」とか「ああしなきゃダメ、こうしなきゃダメ」のゆわえる「べからず集」で、著者の野田氏もそういう「正式の晩餐で恥をかかなくてすむ」ためのマナーではなく、「どうしたら料理を美味しく食べられるか」に焦点をあてたマナー集をと考えて、この本と取り組まれたということです。確かに当時とはレストラン事情もいろいろと変わっていますが、基本的に「料理を楽しむ」ためのマナーとしては、今でも根本的なところはあまり変わっていないと思いますからお役に立つでしょう。また単にマナー本というだけに留まらず、著者ご自身の経験や失敗談なども交えてあり、読み物としても興味深いものとなっています。紀伊国屋で調べたら在庫としては置いていませんでしたが、取り寄せ可能ということでした。

それにしても昭和43年当時と現在とで、ちょっとでも一般的なマナーが向上してるのか、というと、前出のティ・ルームの話なんかもあるのでそのへんはアヤシイなあ、と思わないでもないのですが...。90年代は特に悪くなってる気もするしなあ...。

ところで私もフランス料理は大好きだったので、20代始めから10年くらいよく三ツ星に通ったりしてましたが、おかげで一流と二流の区別というのを、きっちりつけられるようになりました。「本当の意味のマナーとは」という観点から、その辺りについてもちょっとお話しておきますね。まずお客様を緊張させてしまう店は二流です。何も知らなくていきなりフランス料理を食べに行っても気持ちよく食べさせてくれる店、そういう店こそが一流と言えるでしょう。分からないことを聞いてもプロのサーヴィスなら「ご存じないのが当然です」という態度できちんと教えてくれる、「そんなことも知らないのか」という態度に出る店はサーヴィスの躾が行き届いていないってことです。一流ぶってても最悪なのになるとバイト使ってたりとかね。

この「サーヴィスの躾」っていうのは、やはりシェフやオーナーがどれだけ料理に打ち込んでいるか、ということの現れでもあります。かつて神戸でアラン・シャペル氏にお目通りした時のことですが、初めてお目にかかるのでお花をお持ちしたら大変喜んで下さって、お礼に食前のシャンパンを出して下さったことがありました。三ツ星の大シェフともなれば大変高名な方なわけですが、その他にもいろいろと気を使って下さり、「自分の創造した料理を食べに来てくれるお客様」に対して、表現者としての純粋な感謝の気持ちというのがおありになるんだなと感服させられました。まあ「芸術家」というものは元来そういうものなんですが、そうしたシェフの心意気というか気持ちがあってこそ、サーヴィスに対する躾も行き届くというものなのです。逆に世間がチヤホヤしてくれるのをいいことに「私はスター・シェフだ」なんてとこでふんぞり返っている人間は、所詮フランスで修行しようと、コンテストで優勝しようと単なる「俗物」で、大した料理も作れないと思います。もちろんどれだけ資金力のバックアップがあっても、そういう「店に対する愛情」のないところに「一流」は育ちません。要するにシェフやオーナーの「料理に対する愛情」こそが一流の店を作るということでしょうか。ですから、それを食べに行く方も、相応のマナーを心得ているのが当然なんでしょうね。それは食べに行く側の「料理に対する愛情」なんだとも思います。その辺りの互いの心配りがマナーを形式的なだけのものにせず、本当の意味で「食事を楽しめる環境」を作り出す基本としてくれるのです。

ですから「何も知らないでいきなり行く」とは言っても、人間としての礼儀は最低限持ち合わせているのが原則でしょう。そもそも「マナー」というのは、「みんなが気持ちよく食事するため」にあるもので、逆に言えば「(サーヴィスも含めた)周囲を不愉快にさせないため」のものでもあるのです。そう考えれば食事中にタバコを喫わない(周囲の迷惑になるばかりではなく、自分が食べる料理の味も変わってしまう)とか、必要以上の大声で話さないとか、席を立って歩き回らないとか、食器をカチャカチャ言わせないとか、音を立ててものを食べないとか、なにも仰々しく「テーブル・マナー」なんて言わなくても当然のことだと思うんですけどね。あとは食後にみっともないテーブルの惨状を晒さないためもあるんですが、食事が終わったらナイフやフォークは揃えて置くとかね。これもマナーという点では「ナイフ・フォークを揃えて置いたら、例え食べ物が残っていても皿を下げてよいという合図になる」ということもあるんですが、配慮ということでいくと、サーヴィスの方が戸惑わずに片づけられるようにという「人間としての礼儀」からして当然の行為でもあると思います。何故それがマナーとして定着しているのか、それを理解すれば、マナーとは決して堅苦しい形式ばったものではないということが分かるはずです。野田氏の著書は、その意味でも是非皆さんに一読頂きたい名著であると思います。

さてそう考えてゆくと「テーブルにおけるみっともなさ」とかホントの「恥」というのは、周囲のお客さんや、サーヴィスの方たちも含めた「回りへの配慮のなさ」なのかもしれませんね。そして「本当の意味のマナー」とは、「周囲への愛ある心配り」なのではないでしょうか。ま、皆さまも思わない所で馬脚を晒さないためにも、きちんとしたマナー、身に付けておいた方が良いと思いませんか?

2002.9.5.+9.8.+10.10.

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