母の側を離れた心もとなさと、今までとはかなり違う新しい生活が始まる一抹の不安に不覚にも涙してしまったデュアンだったが、祖父が気使っていろいろと楽しい話をしてくれることもあって、次第に元気が出て来たようだ。自分でも、ぼくとしたことがと思ったらしく、ベントレーが屋敷に着く頃にはいつものパワーを取り戻しつつあった。

一方、屋敷ではロベールとどっちこっちと言うほど跡取りを迎えるこの日を心待ちにしていたアーネストが、いつもの落ち着きもどこへやらでハリキリまくっている。もちろんそれは家政婦長のマーサたち古株も全員同様で、その気分が伝わるのか若い者まで巻き込まれて、"お着き"の号令一下、えらい騒ぎで皆がエントランスに突進してゆくという、ふだんは優雅なモルガーナ家にして未曾有の光景が繰り広げられた。しかし、さすが名門大家の威信にかけて、車が前庭に滑り込んで来る頃には四十人を下らない家の者、今度ばかりは一人残らず全員が整然と整列し、一糸乱れぬ様子でお迎えの態勢を整え終えていたのである。

これについては特にロベールもディもアーネストに差し止めるようなことは言っていなかったのだが、車の窓からその様子を見たロベールは、孫が怯えるのではないかとちょっと心配になった。しかし、デュアンもこういう"お出迎え"にいささか慣れてきていたようで、しかも今回は見知った顔も多いとあって、お、来たな、という様子で笑顔を浮かべている。ファーンにこういう場合の"なりきり"対処法を教わっていたことも大きいだろう。つまりは皆が期待している通り"王子さま"になりきってやればよいということで、言うなればデュアンにとってはこれが"王子さま役初舞台"というところだ。

車がエントランスに止まると、運転席からスチュアートが降りるのを待つまでもなくアーネストが近づいて行ってドアを開け、恭しく、お帰りなさいませと一礼した。彼がドアを支えてくれる横でディ、デュアン、ロベールの順で三人は車を降りたが、アーネストはデュアンが降りる時に嬉しそうに、お待ちしておりました、と言った。デュアンもそれに微笑み返して、有難う、と言っている。

「皆も、デュアンさまがお見えになるのを心待ちにしていたのですよ」

アーネストが言うのに応えるように一同は揃って頭を下げた。皆の表情からそれがお仕着せではなく本当に歓迎されているということが分かったのだろう。それにデュアンは力を得たようで、父と祖父が見守る中、壮観に居並ぶ家人の一団に向けてにっこりと元気よく言った。

「どうも有難う。今日からお世話になります、どうぞヨロシク」

これがデュアン流の挨拶というわけだ。格式張らないモノ言いは彼の育ちから言って当然なのだが、この子に限ってはそれが"野育ち"という印象を与えるものにはならず、返って場を和ませる方向に働くのは、彼の物怖じしない前向きな性質と、鬼でも顔を緩ませるに違いない可愛らしさゆえだろう。それに育ちや物言いに頼るまでもなく、その存在そのものが場をさらってしまう、まさにそれはディゆずりの生来の貴族的資質とスター性を明らかに示していると言えた。

ロベールはその様子を見て自分の心配がまるっきりの杞憂であったことを悟り、うんうん、この調子なら大して問題はないだろうと満足そうに笑っている。ディはと言えば、彼自身が格式だの貴族的慣習だの、めんどくさいものは回避したいタイプだから、引き取ったとはいえデュアンを立場に相応しく変えようなどとはツユほども思っていない。もともと、今のままのこの子で十分すぎるくらい気に入っているのだ。それに、デュアンの頭の回転の速さなら、慣れも手伝ってココ一番というところではそれなり対処するようになるだろうくらいハナから分かってもいた。案の定、その挨拶に緊張ぎみだった皆の気分も和んだようで、和気あいあいの雰囲気の中、父と祖父に伴われてデュアンは今日から彼の家となった豪壮華麗な大邸宅の中に入って行った。

「じゃ、荷物は部屋に運んでおいてくれるから、先にアトリエに寄ってくれるかな。アーネストが主だった者にだけはきっちり紹介しておきたいと言ってたんだ」

ディに言われてデュアンは、はいと答えている。それで二人がロベールを伴ってアトリエに落ち着くと、しばらくしてアーネストがマーサとデュアンづきのメイド、厨房や庭といった屋敷の各部分の責任者など、つごう8人の大部隊を引き連れてやって来た。いきなり家の者全員の顔と名前を覚えろと言っても無理だろうということで、これでも最小限に抑えられての人数だ。

「デュアン坊ちゃまにはご面倒でも、まずは主だった者だけなりと覚えておいて頂きませんと返ってご不便をおかけすることになりかねませんので」

「ええ、アーネストさん」

「坊ちゃま」

「はい?」

「恐れ入りますが、これからは私のことはアーネスト、とお呼び捨て下さいませ。他の者についてもご同様にお願い致したく存じます」

「え...」

言ってデュアンは思わずディを見た。母の躾が行き届いているデュアンには、自分よりはるかに年長のアーネストたちを呼び捨てにするなどということは、失礼な行為以外の何者でもないのだ。その戸惑いを察して、ディが言っている。

「アーネストはうちの主(ぬし)だからね。何でも彼の言う通りにしておけば間違いはないよ」

「旦那さま」

また、何をとんでもないことを、と抗議するように執事が言うと、ディは笑って続けた。

「ぼくですら、アーネストには昔から教わることばかりでね。今でも彼がいないと分からないことはいくらもある。まあ、きみもここの跡取りという役を引き受けてくれたんだから、役柄に相応しく振舞って欲しいということさ。それでも抵抗があるなら、家族と思えばいいんじゃないかな。家族に"さん"付けはおかしいだろ?」

そう言われてやっと納得したようで、デュアンは分かりました、と答えた。

「じゃ、アーネスト。皆さんを紹介して下さい」

「かしこまりました、では。マーサのことはもうご存知かと思いますが、その横は主に坊ちゃまの身の回りのお世話をさせて頂くミランダ、そして、お部屋回りの用事やミランダのサポートをいたしますマリーヌとシャロンでございます」

呼ばれた三人のメイドたちはそれぞれデュアンに丁寧に一礼して見せた。ダークブロンドをきれいに結い上げて、落ち着いた優しい雰囲気のミランダは二十代半ばくらいだろう。明るいブロンドの巻き毛をしたマリーヌは活発そうで二十歳そこそこというところ。シャロンはブルネットの長い髪を両側で三つ編みにした、まだ十代らしいおとなしそうな少女だ。

「この三人のうち誰かが坊ちゃまに一番近い所に常に詰めておりますので、何なりとお申し付け下さいませ」

「ええ」

「それから、こちらももうご存知の厨房を束ねますジェームズ、その横は庭師、馬丁など、外回りの者を束ねますチャールズ、そして、スチュアートはショーファーを勤めますと同時に、当家の五十台を超えるヴィンテージカーの管理を任されており、皆、それぞれの分野のエキスパートと言えます」

これまでもいろいろクルマがあることは見て知っているつもりだったが、五十台を超えると聞いて内心デュアンはぶっ飛んでいる。しかし、ここでそれに驚いていては"お坊ちゃま役"の沽券に関ると感じてか、ポーカーフェイスのにこにこ顔でなんとか流した。ちなみにジェームズは周知の通り既に六十を超えるクランドル料理界の重鎮、チャールズも先代が目をかけていた人物なのでどっこいの年で、現在では造園家として著名だ。にも関らず、二人とも未だにモルガーナ家を去ろうとしないのは、筋金入りの芸術家気質を持つ彼らにとって、ここはよほど居心地がいいということだろう。スチュアートは彼らに比べれば三十代とかなり若いが、古いクルマのデリケートで複雑な内燃機関や構造に精通していて、膨大なコレクションを有するモルガーナ家には居なくてはならない人物だ。

「それから最後は私のサポートをしてくれておりますアドリアン。私がお側に見当たりませんようでしたら、彼が何でも心得ていてくれますのでお尋ね下さいませ」

アドリアンはスチュアートと同じくらいの年齢で、物静かな長身の青年だった。紹介された者は順に一礼したが、それが終わるとデュアンはアーネストに頷き、それから皆の方を見て言った。

「マーサ、ミランダ、マリーヌ、シャロン、それからジェームズ、チャールズ、スチュアート、アドリアン。これからいろいろ教えてもらわなければならないと思いますので、どうぞよしなに」

半数はもともと知っているとはいえ、紹介された八人それぞれに目を向けながら、その名前をすらすらと諳んじて見せてデュアンはにっこりした。最後にちょっとユーモアで古い言い回しを加えたこともあって、これは特にジェームズやチャールズといったじいさん連中にウケたようだ。また、一方で若いメイドたちは改めて間近に見るデュアンの可愛さに、ことのほか感銘を受けたと見えたし、表の仕事をしているスチュアートやアドリアンとはもとより顔見知り、何度も話したことがあって気心も知れている。

ともあれ、それで一段落したと見てディが言った。

「まあ、とりあえずこれだけ覚えておいてくれれば不自由はないんじゃないかな。後はおいおいにでいいから」

「はい」

「落ち着いたら、誰かに家の中や庭を案内してもらうといいよ」

「そうですね。知らないで歩いたら、迷子になっちゃいそうだし」

あながち冗談でもなさそうにデュアンは言った。なにしろ、この屋敷ときたら"家の中で遭難"などという話があっても不思議はないくらい広いのだ。ましてや庭ときては、特に裏庭ともなると本格的に"森"以外の何者でもない。事実、新しく入ったメイドなどが道に迷って戻って来れず、捜索隊を出すという騒動がごくたまにだがあるほどなのだ。

お目通りを終えて皆は自分の仕事に戻って行ったが、ミランダは残り、アーネストの指示でデュアンが部屋に届いている荷物をほどくのを手伝うことになった。そうしてデュアンたちも出て行ってしまうと、アトリエにはディとロベールだけが残った。

「ま、つつがなく、というところだな。大して心配することはなさそうで良かった」

「ええ。とにかくアーネストとマーサが既にデュアンを気に入りまくってますし、あの子も懐いてますからね。ぼくあたりがああだこうだ言うまでもなく、彼らが必要なことは何でも教えてくれるでしょう」

「おまえより、二人の方がよほど頼りになるからな」

からかい半分で笑って言ったロベールに、ディは、自覚してますと答えた。

「ということで、やっとデュアンも来てくれたし、次はいよいよお披露目だ。招待状の方はどうなってる?」

「もう準備は出来てますよ。表向きは打ち合わせてた通り、バカンス後のちょっとした集まりということにしてますが、折りを見てレイあたりに多少の情報は流しておこうと思っています。あの放送局に耳打ちしておけば、これが実際にはかなり重要な集まりだということを、みんな暗に了解してくれると思いますから」

それに頷きながらロベールが言った。

「いい手だな。まさか、招待状に"隠し子をお披露目"と書くわけにもいかんし」

ロベールの冗談にディも笑っている。

二人とも長いつきあいのあるレイチェル・ロクスター侯爵夫人は、ロベールの妻となったベアトリスや、現在のアルフレッド・ロウエル侯爵夫人エリザベスとともに、若い頃はクランドル社交界の三輪の名花と名高かった女性で、今ではリーディング・レディ的存在でもある。そのため友人も多く、実際、彼女が知ったウワサはほんの数日で社交界つづうらうらまで知れ渡ると言うほどの、まさに"放送局"なのだ。

「じゃ、デュアンの方が落ち着いたら食事にするか」

「ええ」

「私は部屋にいるから、始める時に呼んでくれ」

「分かりました」

こうして、ひと月もすればクランドルのみならずヨーロッパ社交界までも激震させるはずのお披露目の準備は、密かに、しかし着々と進みつつあるのだった。

original text : 2010.2.27.〜3.5.

  

© 2008-2010 Ayako Tachibana