秋の陽射しが爽やかに降り注ぐ吉日、今日はいよいよデュアンを跡取りとしてモルガーナ家に迎えることのできる良き日である。基本的な問題は全て片づいているので、まあこんなもんだろうと落ち着いているディと、大喜びで朝から顔がひとりでに笑ってしまうのを止められないロベールを乗せたベントレーは、約束の時間より少し早くカトリーヌの部屋があるアパートメント・ビルに乗りつけていた。今の時点ではあまり目立つのも良くないということで、打ち合わせていた通りに地下にある来客用の駐車スペースでクルマを待たせ、二人はエレベータで最上階へ登って行った。

ディがチャイムを鳴らすと、それに応じてエントランスに出て来たカトリーヌが言っている。

「いらっしゃい。お迎え、ご苦労さま」

「やあ」

「でも、ごめんなさい、デュアンはまだ支度中なの。中で少し待ってて下さる?」

「うん、それは構わないんだけど、実はうちの父が一緒に来ちゃってて...」

「えっ」

「今、そこにいるんだけど」

「ちょっ、ちょっと待って待って。私、仕事明けでボロボロよ。見せられないわよ、こんな顔!」

「大丈夫、大丈夫。そのままで十分お美しいですから」

「冗談言ってないで。一緒にいらっしゃるなら先に教えておいてくれればいいのに、もぉ」

「いや、置いて来ようとは思ったんだよ? でも、勝手について来ちゃったんだから」

「とにかく待って。すぐデュアンを呼ぶから」

言うとカトリーヌは大慌てで奥に飛び込んで行きながら、デュアン、デュアン、ちょっと来て〜と叫んでいる。それへデュアンの何?と答えるのも聞こえて来た。

「ディと一緒におじいさまも見えてるの。お通しして、ちょっとお相手してて。5分ね、5分でいいから」

デュアンはどうやら母が何を慌てているのか察したようで、しばらくしてエントランスに出てくるとディを見て、お父さん、いらっしゃい、とにっこりした。どうやらこちらは出かける準備は殆ど整っているらしく、秋らしいシックなブラウンベースのスーツに −ただし、ショートジャケットに半ズボン−濃い色のシャツと、それへ今日はおとなっぽくタイをしめている。

「お邪魔するよ」

「ええ、で、おじいさまは?」

デュアンが尋ねるのへ頷いて見せ、ディはエレベーターホールの窓から外を眺めて待っていた父を呼んで来た。

「あ、おじいさま! 夏休みはお世話になりました!」

「やあ、デュアン。その後どうだ? 元気にやってるか?」

「もちろんです。どうぞ、入って下さい。ママ、殆ど徹夜明けなもんでロクに化粧もしてなくて慌てたみたい。失礼しちゃって」

「いやいや、構わんよ。いきなり来た私が悪いんだ」

デュアンは扉を大きく開けて二人を通し、リヴィングルームに案内した。入って行きながら、一面の窓の、眼下に広がる都市の光景をロベールは目に留めたようだ。

「これは、なかなか素晴らしい眺めだな」

「でしょ? ぼくも気に入ってるんです。じゃ、お茶入れてきますから座ってて下さいね」

言われて二人がソファにかけるとデュアンはキチンへ歩いて行った。それを見送って、ディが言っている。

「だから、家にいて下さいって言ったのに」

「そういうわけにはいかんさ。無理を言ってデュアンを引き取らせてもらうんだから、私からもきっちり挨拶をしないとな。おまえだけに任せてはおけん。しかし、事前に知らせておべきではあったな」

二人がそんな話をしているうちに、さすがと言うべきか速攻5分でメイクと着替えを終えたカトリーヌが姿を見せて、失礼してしまってごめんなさい、ロベール、と挨拶しながらソファに腰を降ろした。

「こちらこそ、女性を訪問するのに連絡もせずとは私としたことがすまないことをしてしまった。おお、今日も美しいね、カトリーヌ」

先日のディナー以来、ディやデュアンの予言通りすっかり意気投合した二人は、その後もお披露目の打ち合わせや逃亡計画の件で話す機会が何度もあったこともあって、今やロベール、カトリーヌと呼び合う仲にまで発展しているのだ。特にロベールの方はもうすっかり娘が出来た気分らしい。

「いえ、もう慌てるもので何がなんだか。どこか、おかしくありません?」

ここしばらく徹夜徹夜で意識が朦朧としているところへ持ってきて、今日は最愛の息子を手放す日とあって、さすがしっかり者の彼女も少々パニクっているらしかった。

「そんなことはないよ。それより、今日は本当に有難う。デュアンを引き取らせてもらうに当たって、どうしても、もう一度お礼を言いたくてね」

それへカトリーヌは微笑して答えた。

「そう言って頂けると決心した甲斐があったと思えますわ。あの子にとっても、それが一番いいことだと分かってはいたんですけど、なかなか...」

「無理もない。私がきみの立場でも、決心できたかどうかは疑わしいよ。しかし、この前も言ったが、私もディもデュアンを取り上げてしまおうというつもりは毛頭ないし、あの子が主に住むところがこちらになるというだけで、他は今まで通りと思ってもらえれば」

「そうですわね」

そうこうするところへ、デュアンがキチンからお茶の用意を乗せたワゴンを押して戻って来た。カトリーヌは今日の主役の息子をソファにかけさせて、代わって自分が皆にお茶をサーブしてから自分もその横にかけ、改めてディとロベールを見て言った。

「では、デュアンのこと、どうぞよろしくお願いします」

彼女の改まった様子にロベールは笑い、どんと任せなさい、と言って胸を叩いている。

「まあ、立場が立場だけにいろいろと覚えてもらわなければならないこともあるし、今までより忙しい思いをさせてしまうかもしれないが、しかし、大丈夫。デュアンは強い子だからな」

孫に目をやって言った祖父に、応えるようにデュアンはにっこりして頷いた。

「それに、私もディもついているし、めったなことにはせんよ」

「ええ。私も決心がついてしまうと、これで本当に良かったんだと思えますの。なによりロベール、デュアンにあなたのようなおじいさまが出来たことを思えば」

カトリーヌの言うのを聞いて、ロベールは嬉しそうな笑顔になった。

それからデュアンが少し残っている荷物を整える間、三人はお披露目のことやカトリーヌがこれから過ごす休暇の話などでひとしきり盛り上がっていたが、用意が整うといよいよ出発の時がやって来た。殆どの荷物は既に送ってあるとはいえ、デュアン的に他人に任せられない大事なものもいろいろあるらしく、スーツケースひとつと、今ではすっかり一番の気に入りになっているロベールから贈られたウサギのぬいぐるみが彼のお供につくようだ。件のうさぎポシェットを肩から斜めにかけ、スーツケースを持ってデュアンが部屋から出てくると、ディは立ち上がって代わりにケースを持ってやり、ロベールとカトリーヌを振り返って、じゃ、そろそろ、と言った。それを受けて、ロベールも立ち上がりながら言っている。

「では、カトリーヌ。デュアンのこと、私とディが責任をもって預かりますからな」

「はい」

駐車場まで送るというカトリーヌと一緒に三人はエレベータに乗り、地下まで降りた。四人の姿を見て、エレベータのすぐ近くに駐まっていたベントレーからショーファーのスチュアートが降りてくると、後席のドアを開けて皆に一礼している。それから彼はディの持っていたスーツケースに気がついたようで、それを受け取るとトランクにしまった。その横で、まずロベールが乗り、それからデュアン、そしてディは車に乗る前にカトリーヌを振り返って、良い休暇を、と言った。

「ええ」

彼女の答えに頷いてディが車に乗りこむと、スチュアートはドアを閉めて運転席に回った。大好きな祖父と父の間に座って、しかし、それでもデュアンは母のところから去るということが最後の最後で実感として迫ってきてしまったのだろう。さしも強いこの子をして思わず泣き出してしまったのを、ロベールが肩を叩いて抱き寄せ、何か言った。それへデュアンは頷いて窓の向こうの母に目をやると、頬に流れる涙を手で拭って、気丈に彼女に笑いかけ、手を振って見せた。ロベールはハンカチを貸してやりながら、孫の気持ちを宥めるように優しく肩をたたいてやっている。

その様子を見てカトリーヌも少し涙を浮かべていたが、車のエンジンがかかり、動き出す気配を見せると一歩引いて息子に手を振った。動き始めた車の窓から、ディもカトリーヌに頷きかけている。そうするうちにベントレーはゆるやかに彼女から遠ざかり、リア・ウィンドウからまだ母に手を振るデュアンを乗せて、ゆっくりと地上へのスロープを上がって行った。

カトリーヌは車が視界から消えてしまっても、そのままそこに立ち尽くしているしかない気分だったようだ。しかし、しばらくして小さく溜め息をつくと、エレベータに戻ってそこに止まったままだったものに乗り込んだ。上昇してゆくにつれ、シースルーになった周囲の視界が開けて眼下に見慣れた都市が広がってゆくが、今の彼女にはまるで目に入っていない様子で、あーあ、本当にデュアンいなくなっちゃったんだぁ、と思いながらまた溜め息をついている。デュアンのことだから、そのうち元気よく学校帰りや週末に飛び込んでくるのは間違いないと分かってはいるが、それにしてもとりあえずのところ息子がモルガーナ伯爵家の跡取りなどというとんでもないものになってしまって、あまつさえこれからはあちらに住むことも事実なのである。それを考えると、やっぱりあんな男に惚れなきゃ良かったと、恨み言のひとつも蒸し返したくなるのは仕方がない。

しかし、こうして実際にデュアンが行ってしまったのに、思っていたより落ち込みが軽いのはロベールの気遣いのせいだろうと彼女は思っている。少なくとも彼やディが、自分の気持ちを察してくれているというだけで、救われる気がするのだ。

そんなこんな思い巡らしながらカトリーヌは部屋に戻り、しばらくぼーっと居間に突っ立ったままだったが、ふいに思いついてデュアンの部屋の扉を開けて入って行った。その部屋は小学校に入った頃、デュアンが言い出して改装したもので、天上と壁は濃いブルーに塗られ、壁には流れる雲が沢山描かれている。小さいベッドにはカラフルなリネンがかかり、そのベッドのアイアンのヘッドボードも、木製の机や本棚もブルーとマッチングの良い白だ。イラストレーター志望の彼女の息子は、その年の頃から既にインテリアにうるさかったものである。

どうせ頻繁に泊まりにくるのだからと、ここはそのままにしておくことになっているのだが、それでもさすがにあったはずの荷物の大半が無くなり、すっきりと片付いている様子がまた彼女に溜め息をつかせた。特に、デュアンお気に入りのぬいぐるみ軍団が大挙して引っ越して行ってしまった空白は大きい。そのあたり一帯がすっかりモヌケのカラになっていて、お伽の国のように賑やかだった室内がなんとなくよそよそしく落ち着いてしまったように見えるのである。それは、お祭りの後の光景によく似ていた。

カトリーヌはベッドに腰を降ろし、室内を見回している。

子供は大きくなるものだし、いずれは自分の手を離れてゆくことは最初から分かっていた。けれどもまだデュアンは十歳にもなっておらず、本当ならもうしばらく彼女の側にいてくれるはずだったのだ。その成長を身近で見守っていれば、次第に自分もそれなり子離れしてゆけたのだろうが、カトリーヌに取って何より痛いのは、デュアンのいないことに徐々に馴れる時間が全くと言って良いほど無かったことだろう。

しばし思い出に浸りながら、彼女はまだ残っている山積みの仕事に手をつける気力も湧いてこないまま、日が暮れてしまうまでそこでぼんやりとしていた。

original text : 2010.2.22.〜2.25.

  

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