夢のような一日のしめくくりに豪華なリモで丁重に送り届けられて、デュアンは家に帰ってもまだその日あったことが信じられないくらいフワフワした気分だった。連絡は受けていたものの、随分遅くなっていたのでカトリーヌは息子の姿を見てほっとした様子で、おかえりなさいと言った。なんとなく、もしこのままデュアンが帰ってこなかったらどうしようという不安な気持ちがずっと続いていたからだ。後になってデュアンがモルガーナ家を継ぐことになり、彼女から離れてゆく日が来ることを、カトリーヌはこの時既に予感していたのかもしれない。

「それで、どうだったのよ、憧れのヒトに初めて会った感想は?」

居間に落ち着いて、それでも彼女はいつもと変わりない調子でデュアンに尋ねた。

「ああ、もう夢みたい」

胸に両手を当てて、深い溜め息とともに言ったデュアンにカトリーヌは笑っている。

「自分でも何喋ったんだか、全然覚えてない。ヘンなこと言わなかったかなあって心配なくらいなんだけど、とにかくもうめちゃくちゃ素敵なんだもの、ただひたすら見とれちゃって」

「まあ、ねえ。あんな男だけど、確かに外見は鑑賞に値するからね」

「もお、ママったら。だってさ...。お父さん...、そうなんだよね、お父さんなんだよね、ぼくの。お父さんって呼んでいいって言ってもらったし、いいよね、もうそう呼んでも?」

「はいはい。ディが気にしないって言うんなら別に構わないわよ」

「お父さんの絵とか、他のコレクションとかもいっぱい見せてもらって、それはもう素晴らしいんだよ。話には聞いていたけど、モルガーナ家の美術品や絵のコレクションって本当に美術館なみなんだね。どれもこれもいちいち感動ものなんだけど、でも、いっちばんキレイだったのはね」

「ん?」

「お父さんだった」

言われてカトリーヌは吹き出している。

「だってさ、ママだって思わない? 美貌もあのレベルまで行くと既に芸術品だって」

「そうねえ」

「ああ、なんで世の中にはあんなに素敵なヒトがいるんだろう。ぼく、なにしろ大画家だし、伯爵さまだし、とにかく偉いヒトじゃない? だからもっとなんていうか怖いひとかなってイメージあったんだけど。画家としては相当気難しいとも聞いてたし。でも、全然優しいの。ちっとも尊大なとこなんてないし、それでぼく余計素敵だなあって」

「うん、ディはそうね、昔から。確かに画家としては芸術家気質というか、気難しいなんてレベルのもんじゃないと思うけど、ふだんはちっともそういうの出さないわよ。あれは私も天晴れだと思う」

「またね、遊びにおいでって言ってくれたんだよ、お父さん。それに電話番号も教えてもらったし。これ、直通でお父さんの部屋にかかるんだって」

言って、デュアンはポケットからディが番号を書いてくれたキレイなカードを取り出してカトリーヌに見せている。彼女はそれを見て、懐かしい番号ね、と言った。ディとつきあっていた頃は、彼女も時々使っていた番号だが、別れてからはけじめをつけて屋敷の代表番号にかけるようにしている。

デュアンが手渡したカードを眺めながら、これを教えたということは、ディも初めて会った自分の息子を随分気に入ったということなのだろうとカトリーヌは思っていた。受け入れる人間と受け入れない人間の区別が身もフタもないくらいはっきりしている彼は、よほどのことが無い限り自分の部屋に直接電話をかけてくることなんて許さない。

「それにさあ、ぼくね、お父さんのアトリエにまで入れてもらったんだよ!」

「あら」

「すごいでしょう?」

「やな子ねぇ、私でさえ入ったことなんてないのにぃ、自分だけ」

「え? 本当?」

「あたりまえじゃないの。あなた、無理言ったんじゃないでしょうね」

「言わないよぉ。ぼく、ちょっとお願いするだけだって怖れ多くって、言ってから嫌われたらどうしようって固まってたのに。でも、お父さん、わりとあっさりいいよって言ってくれて、ちっとも気を悪くしたようなところもなかったよ?」

それを聞いて、カトリーヌはこれは本格的にディはこの子を気に入ったらしいと悟っていた。彼女もつきあっていた頃、ディナーに招待されたりして何度かモルガーナ家を訪れているし、その時、膨大な美術コレクションも快く見せてもらったことはある。しかし、それですら特別待遇と言ってもいいくらい、彼が相当気に入っている者しか与れない僥倖だ。ましてやアトリエだけは、彼女の方で見たいとどうしても言い出すことすら出来なかった。それほど、ディのアトリエというのは彼を知る者にとって、伝説的に不許不可侵の聖域なのである。

しかし、そこまでこの子が気に入られたとなると、彼女としてはちょっとした不安が首をもたげてこないこともない。何故なら、ディがまだ結婚していないために、モルガーナ家には正式な跡継ぎが未だないという事実があるからである。しかも、社交界の事情通なら誰でも知っているように、モルガーナ家ばかりではなく、彼の父方のシャンタン伯爵家、こちらもディが祖父からモルガーナ家を継いだために、まだ後継者がいない状態にあるのだ。このふたつの家と爵位、これはどちらも中世から続く名家なだけに、ディにしてもおいそれと血を絶やすというわけにはいかないだろう。

カトリーヌはディに他にもう二人、デュアンより年上の子供がいることは知っている。そもそも、つきあっている時にディがついうっかり口を滑らせてそれを言ったので、彼女もそれなら私も、という気になって子供が欲しいとねだったのだ。そうでもなければ、とても言い出せないどころか、思いつきもしないようなことだった。

ともあれ、これまではデュアンは三番目なんだし、そんなこともないだろうとタカをくくっていたのだが、しかし、二番目の子供はクランドルでもモルガーナ家と並ぶ名家の令嬢 - ディとつきあっていた当時、既に未亡人ではあったが - が産んでいるし、もちろん、その一族として育てられているはずだ。そうなるとその子は、母方の方で手放すかどうか分からない。そんな事情だったから、まさかとは思うが、ディがそれほどデュアンを気に入ったとすると引き取るなどという話が出て来ないとも限らないなと考えて初めて、カトリーヌは自分がこの十年近く、一度もディに個人的には連絡を取らなかった理由が分かったような気がした。自分でも気づいてはいなかったが、彼女は何かの拍子にデュアンを取り上げられるのが怖かったのだ。

カトリーヌのそんなふとした不安も知らずに、デュアンが無邪気に言っている。

「ねえ、ママ」

「ん?」

「またそのうち、お父さんのところに遊びに行ってもいいよね? あんまり迷惑になるほど、頻繁にはならないように気をつけるから」

それに微笑して、彼女は頷いた。

「いいわよ。でもね」

「なに?」

息子を抱き寄せて、カトリーヌは何がなししんみりした気分に浸りながら言った。

「デュアンはずっと私といてくれるわよね、これからも」

言われてデュアンは笑っている。

「当たり前じゃない。ぼくがどこに行くっていうの?」

「そうよね」

「第一、ママってばぼくがいなきゃ家の中のどこに何があるかも分からないんじゃない。ママをほっといてなんて、ぼくはどこにも行けないよ」

どっちが保護者なんだか、という調子で言うデュアンに、カトリーヌは笑ってこいつ、なまいきだぞ、と言った。

「あ、そうだ、のんびりなんてしてられないんだわ。明日までの仕事、まだもう一つ残ってるのよ」

「まだ、終わってなかったの?」

「そうなの。ちゃっちゃっと済ませなきゃ寝られやしない。でも、デュアンはもう遅いから寝なさいね」

「うん。でも、ちょっと眠れそうにないなあ。今日はいろんなことがあったもの」

「ま、ともかく着替えてベッドに入りなさい。明日、学校あるんだからね」

「はい」

カトリーヌはいつもの調子を取り戻して言い、それからデュアンを部屋へ追い立てた。リヴィングから出て行く息子を見送りながら、彼女はなにがなし、いつまでもこんな風に暮らせますようにと祈るような気持ちになっていた。デュアンは彼女にとってこの九年間、何にも変えがたい宝物であり、支えでもあったからだ。デュアンが出て行ってしまうとちょっともの思いに沈みかけたカトリーヌだったが、まだディが何も言ってきてはいないのに、おセンチになるなんてどうかしてるわねと思って、彼女はさあ仕事、仕事と言ってソファを立ち、アトリエの方へ歩いて行った。

original text : 2008.6.5.+6.10.

  

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