時ならない伯爵家からの迎えの車にベンソン夫妻は最初驚いたようだったが、当家の主がご夫妻とお話したいことがあると申しておりますので、と丁重ながらも有無を言わせない調子で言われては、無碍に断ることもできかねたのだろう。何かあったのかもしれないという勘も働いたらしく、とるものもとりあえずという様子で二人はモルガーナ家を訪れた。

事情を聞いて夫妻がびっくり仰天したのは当然だったが、だからと言ってエヴァを預かる格好になっていたディをやみくもに責めるような言動に出ないでくれたのは助かった。彼らにとっても犯人がデュアンを目的に連れ去ったことは明らかだったし、従って、娘を取り戻すためには警察と、それにディの力にすがるしかないということが言われなくても分かったのだろう。この夫妻は市内でわりと大きな雑貨店を経営しているが、聡明な夫妻のようで、ディのことが明らかになる前から、娘の友達ということもあって、デュアンのことをとても可愛がってくれていたようだ。それで娘のことは当然として、ごく幼い頃からよく知っているデュアンのことも一緒に気に病んでくれているようだった。

ディには、とにかく今は犯人からの連絡を待ち、事件の性質を把握してから救出に全力を尽くすと約束する以外言えることはない。しかし、その晩と翌日、殆ど寝ずに待っても、犯人からの連絡はなかった。

そしてその翌日の早朝、二晩たっても犯人から何の接触もないことに皆が焦燥を隠せない様子の応接室に、そっと入って来たアーネストが、マーティアさまからご連絡が入っております、とディに耳打ちした。ディはマーティアと聞いて何かピンとくるものがあったらしい。回りにはちょっと、とだけ言って席をはずした。応接室を出ると、一緒に出て来たアーネストに尋ねている。

「マーティアはどっちでかけてきてる?通常回線の方?」

「いえ、ホットラインの方です。緊急にお話になりたいことがあるとおっしゃっていました」

「分かった」

それだけ言うとディは私室に戻り、机の向こうのハイバック・チェアにかけると机上のモニターをONにした。

「やあ、マーティア。何があった?」

「挨拶なしで悪いけど、デュアンがいないだろう?」

「やっぱり、そっち絡みだったんだな。2日前に誘拐されて、犯人からの連絡すらまだないよ。」

「その連絡はこっちに来てる。それがかなり厄介でね」

「どこで何が絡まったのか、教えてくれるかな?」

「もちろん。デュアンを連れ去ったのは銀の十字架という狂信的カトリック信者の集団だ」

「狙いは?」

「ディは、十二、三年前に起こったミロワール枢機卿の辞任騒ぎのことは知ってる?」

「いや、微かに聞いたことがあるような気もするけど?」

「彼は当時のバチカンで最も教皇の信任が厚いと言われ、信者の信望も厚くて、次期とは言わないまでも、いずれ教皇に選ばれる可能性が高いと言われていた人物なんだ」

「うん」

「それがいきなりヤメると言い出したんだから、それだけでも騒ぎだよ。最終的には表向き健康上の理由で枢機卿の重責をまっとうできないということでなんとか落ち着いたけど、実際には思想上の理由、つまり、カトリックの教義に疑義を見出したというのが最大の原因だったのさ」

「それはまた、とんでもないね。枢機卿まで行った人物なんだろう?」

「そう。で、その後、聖職者としては完全に引退状態だったんだけど、始めはごくごく内輪で出された彼の論文、これが大問題になってね。元々そういう人物だから内輪でコトが済まなくて、その中の記述の一部があちこちの狂信的な信者集団の逆鱗に触れたというわけ」

「なるほど、なんだか分かってきたぞ。それで?」

「もともとローマ教皇庁の起源は326年にコンスタンティヌス帝が使徒ペテロの墓所と定めたことに端を発する。それは知ってるよね?」

「知ってるよ」

「だから、教皇のことを使徒座とも言うように、使徒ペテロの後継者と考えられているわけさ、カトリックの世界では」

「うん」

「ところがさ、使徒かイエスか、これは昔からキリスト教に内在している問題で、それは聖書の中にはイエスの言葉が収められているけれど、それをまとめて後の世に伝えたのは使徒である、というこの事情が、聖書の論理的二重構造の原因になっているからなんだ。その上、バチカンが成立するまでの300年は長いよ。その間に、相等の変質も起こっている。それで「イエス自身はキリスト教徒ではない」、これについて指摘する聖書学者はこれまでもいたけど、結論としてこれには悲観的ではあるが、たいていの場合、カトリックがそのベースとしている使徒と聖書の信頼性や重要性、権威を疑わせるようなことは言わなかった。要は価値の重要性をどの点に置くかということだけどね」

「で、それを言ったんだな、その、もと枢機卿は」

「その通り。その「聖書と神学の実際」という論文の中で彼は、私は常にイエスに忠実な信徒である、とはっきり書いている。それは受け取りようによっては、これまでの一般的な聖書学者のスタンスとは反対に、暗に使徒を否定しているということになるね」

「そういうことか。しかし、それがどこでどうきみたちと絡まって来ちゃったんだ?」

「実はそのミロワール氏とアルフレッド・ロウエル侯爵が旧知の間柄というやつでね。侯爵が若い頃、旅行に行った先で知り合ったとかで、その後もずっとつきあいがあったらしいんだ。その論文が問題になってから、それに同調した聖書学者が何人か行方不明になったり、殺されたりしたもんで、侯爵、つまりアレクの親父さんが心配してアレクに相談したというわけ。こっちとしても、はっきり言っておれたちにとっては分かりきってるコトじゃない、そんなの。その立場でそんなこと言わなきゃいーのにってなもんなんだけど、コトがコトだからほっとくわけにもいかなくてね。ところがこのミロワール氏ってのが厄介なことに頑固一徹のじいさんでさ、そういうヒトだからこそクソまじめに聖書を研究した挙句、気づかなくてもいいことに気がついて、それを黙ってられなくて言わなくてもいいこと言っちゃったんだろうけど、侯爵とアレクがIGDで保護すると言うのを、正しいと思うことを言っただけなのだから、逃げ隠れするつもりはありません、とか言っちゃってさ。仕方がないんでおれが、貴方が自滅するのは勝手だけど、それで回りにまで危害が及んだらどうするつもりか、テロリストなんてものはところかまわず爆弾投げ込む連中なんだぞって脅してやっと納得させたんだ」

「それはいちいちご尤もだね」

「以来、彼はおれのことをクソなまいきなガキと思ってるらしくて、ああ、それ言ったの、七、八年ほど前のことだったからね、おれもまだハタチそこそこだったし。顔見るたびにグチるわ、論争はふっかけてくるわ、うるさくってたまんないよ」

マーティアが言うのに、ディは笑っている。

「気に入られたんだろ、それは」

「さあね。まあ、ともかくそんなわけで、うちが彼を極秘でかくまってるんだけど、どこでどう嗅ぎつけたのか、それとも、これだけ完璧に人一人の足跡を消すことが出来る組織なんてそうはないってことなのかもしれないけど、何年か前から引き渡せって言って来てたんだよ、そのうっとおしい信者集団は。こっちはそんなヒト知りませんってつっぱねてたけどね。他にもっと世のため、人のためになることはいくらもあると思うのに、全くロクでもない連中だよ」

「まあ、ぼくの絵も彼らには不評だけどなあ、昔から」

「ああ、それを考えると、今回のことは言いたかないけどディに対する警告もあるのかもしれないよ。ディがおれたちと浅からない関係にあるってことは誰知らない者もないにせよね」

「あんまりヘンな絵を描くな、ってかい?」

「少なくとも奴らにとっては、かな? まあ、そもそもクランドルは独立教会とか開き直って、我が道を行ってる国じゃない? 離婚OKとか、けっこうお気楽だしさ。それに歴史的、地理的事情から古代ケルト文化の影響も未だに濃いし、ディやおれのようなのが出やすい国なんだよ。だからもともと気に入られちゃいないだろうな」

「で、要求はそれだけ?」

「なかなかどうして、それだけじゃおさまりませんよ。行きがけの駄賃だか余禄だか知らないけど、ミロワール氏の身柄と1億ドルとふっかけられた」

金額を聞いてディは思わず口笛を吹き、それはまた豪勢な、と言った。

「だろ? まあそのくらい、うちとしては大した金額じゃないけど、相手が相手だけに渡したりしたらそれを何に使うか分かり切ってるじゃない。テロ活動の拡大に繋がるような資金を渡せるわけがない。それに一度でもそんな要求に屈したら、同じことが起こるのは100%確実と考えないと。おまけに、あのじいさんにこんな話をしようものなら、また出て行くのなんの駄々こねるに決まってるんだから。そんなこんなでおれたちの結論はどちらに対してもNO、但し、当然デュアンは救い出す。その方法は選ばない」

「それしか、ないだろうな」

「それで今、相手には引渡しの条件だの場所だの、いろいろ理由をつけて交渉続行中。これで時間を引き延ばしながら、既にうちの調査課がデュアンたちの所在を追ってるから、あと半日もあれば結果が出ると思うよ」

「ひとつ、きみたちは知らないかもしれないんで言っとかなきゃならないんだけど、デュアンの友達でエヴァという女の子が一緒に連れて行かれてる」

「本当? それは聞いてなかった」

「事件が発生したのは一昨日の夕方だから、そろそろ36時間は経ってることになるな。エヴァの家族に何も知らせないわけにもゆかなかったので、ご両親にはこちらに来てもらって、ぼくから事情を説明してある。もちろん、ぼくだって詳しいことは今聞いたばかりだから、説明と言ってもデュアンたちが誘拐されたらしいってことしか言えなかったわけだけど」

「それはそうだろうね」

「それと、報道管制は敷かせているけど、うちのクルマが大破して発見されたりしたもので、既に警察が動き出してるんだよ」

「分かってる。それはこっちで引き上げさせる。どうあれこれは警察程度のレベルでカタのつく問題じゃない。そもそも子供たちの居場所が特定できないだろうし、たとえ出来たとしてもSWATなんか踏み込んだが最後、皆殺しだよ。だからアレクが今、使える連中に召集をかけてくれてるはずだ。彼も手配が済み次第すぐそちらに行くと言ってたから、もうそろそろ着くんじゃないかな」

「アレクが?」

「彼が偶然今クランドルにいてくれたんで、話が早くて助かった。とにかくおれとアリシアもすぐにそっちに飛ぶ。心配するなと言っても無理だろうけど、24時間以内に良い結果を出すから、ベンソン夫妻にもそのままそこにいてもらってくれないか。今一番怖いのは、情報がリークすることなんだ」

「うん、ぼくもそのつもりだ」

「じゃあ、あとで」

言ってマーティアは通話を切った。モニターは自動的にOFFになったが、ディはしばらくそのままそこで考えに沈んでいた。少なくとも事件の背景が明らかになったことと、場合によっては協力を頼まなくてはならなくなるかと思っていたマーティアたちの方から動き出してくれたことで、さっきまでよりはだいぶ気が楽になっている。しかし、コトは思っていた以上に重大で危険なようだ。しばらくして考えをまとめてから彼はアーネストを呼んだが、それは何はともあれ彼には事態を把握しておいてもらう必要があると思ったからだ。二人が話している間に、窓の外ではデュアンたちが連れ去られてから2回目の朝が動き出そうとしていた。

original text : 2008.3.1.

revise : 2010.1.25.

 

   

© 2008 Ayako Tachibana