「だんなさま、ロベール・ド・シャンタン伯爵とご子息のデュアン・モルガーナ伯爵がお見えになりました」

「おお、そうか。朝から楽しみに待っておったんだ。デイヴィス、早くお通ししなさい」

執事の先触れを受けて、自室の居間でくつろいでいたウィリアム・クロフォードは嬉しそうに言って急かした。

「かしこまりました」

既に95才という齢を重ねる先代公爵は、しかしファーンが言っていた通りその年齢とはとても思えないほど矍鑠としている。かつてはダンディで鳴らしただけあって、髪こそ白くなりはしたが、若い頃はさぞかしハンサムだったろうと思わせる顔立ちは今も聡明な印象を少しも損なわず、長身と、いつも何かを面白がっているような澄んだ青い瞳も昔の彼そのままだ。現代医学の恩恵か記憶にもそれほどあやふやなところはないし、取り立てて患っているような病もない。とはいえ、やはりこの年齢ともなると総体に身体が弱っていることは否めず、広い屋敷の中を移動するのは億劫になりがちではある。それで、十五年ほど前に息子に爵位を譲って完全に引退してからは、プライヴェートな客に会う時に限られるが、彼が隠居所と定めているこの一画の居間に通す習慣になっていた。

それほど広い空間ではないものの、深いブラウンを基調にして、クランドル貴族らしく奢侈を排して瀟洒にまとめられたインテリアが、この部屋の主の趣味の良さを物語っている。しかし、見る者が見れば、それがどれほど贅沢な部屋であるかは一目瞭然だ。アンティークな家具調度もさることながら、例えば、壁にかかる数枚の絵画、どれも高価な真筆には違いないが、中でも特筆すべきはダニエル・バーンスタインのごく初期作"山上のキリスト"だろう。そのタイトルの通りイエスを描いたものだが、しかし、その印象は多くの宗教画に描かれているものとは全く違う。 強い意志力を秘めた挑戦的な表情は、その瞳に、悲哀、慈愛、憐憫ばかりではなく、侮蔑、嫌悪、怒りなど、彼の、いや、神々の人間に対するありとあらゆる複雑な洞察が内包されて重なり、それは純粋な神性と繊細でありながら豪胆な内面性さえ感じさせる、かつてないほど生命力豊かなイエス像に仕上がっている。後に彼は、このモチーフを発展させた作品"晩餐"で世界的な名声を確固たるものにしたのであり、それはヨーロッパ思想史の底辺で続けられて来た芸術的レジスタンスに、ひとつの解答を与えた革命的な作品として今に至るも彼の初期代表作とされている。 

バーンスタインは生涯を通じて作品を手放すことに消極的だったが、若い頃はその傾向が極めて激しかったため、特にその初期作品を所有する蒐集家は少ない。現在では、彼が最期まで手元に残した全作品の現在の所有者であるディの意向で、多くが美術館に展示されているので、広く鑑賞の機会が与えられてはいる。しかし、それらでさえディは売却せず貸与という形を取っているために、一般の蒐集家が手に入れることの出来る機会は全くと言っていいほどないのだ。従ってここにかかるこの絵は、ウィリアムがまだずっと若かったころに頭角を現し始めたばかりだったバーンスタインの才能に惚れこみ、その知己を得て譲り受けたものなのである。当時の価格は現在に比べれば大したものではなかったろうが、今それに値を付けるとしたら天文学的なものになることは間違いない。しかし、ディ同様、ウィリアムも真に優れた絵画の価値が金では測れないことをよく知っている種類の人間だった。

時折り、最もプライヴェートな部屋に飾ったこの絵を見るたび、彼は自分が若かった頃、そして、理想が高く、天才であり孤高であった年少の友人のことを懐かしく思い出す。その頃から彼は、若く、優れた者の成長を見守るのが好きだ。だから今は、曾孫たちがその最大の興味の対象であり、中でも既にズバ抜けた可能性の片鱗を示しているファーンは、一番の気に入りなのだ。

「お邪魔しますぞ、公爵」

執事に案内され、ディを従えて部屋に入ってゆきながらロベールが言うと、ウィリアムは満面笑みになって答えた。

「久しぶりだな、ロベール。よく来てくれた。しかし、爵位は息子に譲って久しい。だから、ウィリアムで構わんぞ。ああ、座ったままで失礼するが、遠慮なくこっちに来てそこにかけてくれたまえ。今や、もうすっかり足腰が弱くなってしまってな。立ち座りがなかなかかなわんのだ」

それへロベールは頷き、息子を促してウィリアムの示した彼の向かいのソファにかけた。

「しかし、畏れ多いですな。公爵のことを"ウィリアム"とは」

ロベールが笑って言うのへ、相手は構わん構わんと答えた。

「きみも私もトシを取った。もう、爵位だなんだと、世のしがらみに拘るのはよそうじゃないか。そう思わんか」

「確かに、おっしゃる通りです。では、ウィリアム。紹介させて頂きたいが、これは私の不肖の一人息子、デュアンです」

「はじめまして」

「おお、ウワサは聞いておるよ。会えて光栄だ」

「こちらこそ」

「なるほど、ファーンの父親はきみだったか。アンナが絶対に誰か明かそうとしないものだから、おそらく名のある男だろうとは思っていたが、やはりそうだったな」

いきなり切り込んできたウィリアムに、ディは動ずる様子もなく優雅に微笑を返している。

「全く、こいつに関してだけは親の私も何を考えとるのかと思うことがよくありましてね。今度のことも話を聞いて、ほとほと呆れ果てました。申し訳ない、ウィリアム。もっと早くに知ってさえいれば、ファーンのことで永らくお世話をかけることもなかったのに」

「おいおい、とんでもないぞ。ファーンの父親が誰であれ、あの子は私の気に入りでな。曾孫たちは皆、よい子たちばかりだが、中でもあれは秀でておる。こんな楽しみを与えてもらって、礼を言わねばならんのはこちらの方だ」

「それこそ、とんでもない。そんなふうに言われると、恐縮してしまいますよ。しかも、このたびはあつかましく、私の跡取りにもらいたいというような申し出までしているんですから」

「いや、その話にしてもだよ。うちでは代々、よほどの理由が無い限り、爵位は直系の長子が継ぐと決まっているからね。まあ、争いを起こさないための昔からの用心のようなものだ。それに、アンナは私の三人の孫のうちでは末娘になるから、ファーンはクロフォード家の中ではどうしても末席ということになる。しかし、それはあれの器から見てもったいないことだといつも思っていたんだよ。それもあるし、シャンタン家となればヨーロッパ社交界でも名門中の名門だ。きみが跡目を取らせてくれるというのなら、もちろんあれにとって願ってもないことだと思う」

「そう仰っていただくと...」

「ただな、今も言ったがファーンは曾孫たちの中でも私の一番の気に入りだ。それを今、手元から連れてゆかれるというのは辛い。アンナやあれの祖父母も、それに家族みんなも可愛がっておるしな」

やはりそういう話になるかとロベールは思ったが、ディからそのあたりの事情は聞いていたから、だいたいの答えは用意していた。

「それはもちろん、これまでのこともありますし、そうまでおっしゃって下さるならこちらに引き取るのはあの子が成人してからということで私は全く構わないんですよ。跡取りが決まってさえいれば、私の方は肩の荷が降ろせますからな」

「そうか。では、それまでファーンは今のまま、私たちのところに置いておいてくれるか」

「ええ。正直なところ、それほど皆さんから可愛がられているとは、幸せな子だと思います。それに、学校にしても、今変わるとなればいくぶん学業に差し支えるということがないとも限りませんからな。それも考え合わせて、少なくとも大学進学が近づくまではこのままでいる方があの子にとっても良いことでしょう。ただこちらは、息子に責任のあることなのに何もかもお世話になることが心苦しいと言えば言えますがね」

「そんなことは気にせんでいい。私は曾孫たちがみな成人するまではとこうやって頑張っているようなわけでな。こうなるとファーンが立派にきみの後を継げる年になるのを見届けるのが楽しみなくらいだよ。あれは本当に賢くていい子だぞ。まあ、宜しく頼む」

ウィリアムはファーンをいつシャンタン家に連れてゆかれてしまうのか、そのことを一番気に病んでいたらしく、ロベールの答えを聞くとほっとして、一段リラックスした様子になった。ちょうど執事のデイヴィスがお茶を運んで来たこともあり、彼は客たちに茶をすすめ、自分も一口飲んでから笑って言った。

「ま、きみにとっても孫だ。折にふれてきみのところにも行かせるようにはするが、こちらの都合でわがままを言わせてもらうこともあるんだし、きみもいつでもうちを訪ねてくれ。それに私も今日、久しぶりにきみの顔を見て、いろいろ昔のことを思い出していてな。こんな縁もあったことだし、これからはヒマがあれば思い出話につきあいに来てくれると嬉しいぞ」

「それはもう」

「アンナもきみに挨拶がしたいと言っていたし、ディナーも用意してある。ぜひ、今日はゆっくりして行って欲しいな」

「そう仰って下さるなら、もちろん。お言葉にあまえさせて頂きます」

ロベールのその答えにウィリアムは嬉しそうに頷き、今度はディに矛先を向けて来た。

「ところで、私も若い頃はよく遊んだものだが、きみもなかなかのものだな」

それへディは、にっこりして答えた。

「ファーンからお噂は伺っています」

「しかし、そんなことより、きみの画家としての名声はもちろん私の耳にも届いておるよ。さっき、光栄だと言ったのは社交辞令でもなんでもない。きみがダニエルの秘蔵っ子だったことも聞いているしね」

意外なところで意外な名前を聞いて、ディはちょっと驚いたようだ。

「お知り合いだったんですか?」

「彼が、うんと若い頃な」

「そうですか」

言って、ふとディは壁に飾ってある絵に気がついたようだ。それはどう見てもダニエル・バーンスタインのスタイルでしかあり得ないのだが、彼の記憶にはない作品だった。

「あれは?」

「さすがだね。そうだ、ダニエルの作品だよ。ごくごく初期のものだ」

ディは頷いている。

「初期の作品には、リストにないものもあるようですからね」

「だろうな。しかし、まごうことなき真筆だよ」

ごく幼い頃からその画家と親しいつきあいのあったディは、彼が作品を譲るのはよほど芸術に理解があり、鑑賞眼も持ち合わせている人物に限られるということをよく知っている。それで、改めてウィリアム・クロフォードの人柄に興味を覚えたようだ。確かに、あれでなかなか才女で鋭く、芸術に造詣も深いアンナの祖父であるのだから、なまなかな人物ではないだろうと予測していたが、なるほど父の言っていた通り、見た目の優しげな様子に関わらず"傑物"らしい。

「絵がお好きとは存知上げませんでした」

「私のは単なる道楽だがね。美しいものは何でも好きだよ。絵画も、女性も」

ちょっといたずらな微笑を浮かべてウィリアムは言った。どうやら彼は、ディのことが気に入っているらしい。元から芸術家としての資質を認めていることも確かだろうが、そのプレイボーイぶりが昔の自分を思い出させて微笑ましい気がするのもあるだろう。彼のその表情から、口にはしないがある種の共感を感じ取って、ディも微笑を返している。

「そうそう。美しいと言えば、ロベール、こうやって彼を間近で見ているとベアトリス嬢を思い出すな」

「似ておりますからな」

「いやあ、美しかったなあ、彼女は。私は社交界を離れてもうかなりになるが、少なくとも私の知る限り、あれほど美しくて、しかも心ばえの高い少女は他にいるものではなかったよ。さすがにモルガーナ家の姫ぎみだけあって教養も深かったし、少女の頃でさえ既に芸術にも造詣があった。まさに社交界の華そのものだったな。結婚さえしていなければきみに渡すものではなかったんだが、いかんせん、彼女に釣り合うには私は年を取りすぎていた」

「私は幸運だったというわけですな」

「幸運も幸運、まさか彼女がまだ十八にもなる前にかっさらってゆかれるとはなあ...。なにしろ、あの気立てと美しさだったから、あと数年もすればと皆が虎視眈々と狙いながら牽制し合っているスキにだよ。きみと婚約、というニュースが流れて、地団太踏んだ男は1ダースや2ダースではきかなかったと思うぞ」

「おかげで後が大変でしたよ、あっちでもこっちでも苛められて」

「それくらいは当然だ。全く、きみは幸せなヤツだよ。あれほど理想的な女性を妻にし、あまつさえ、これほど彼女によく似ていて、しかも才能のある息子を授かるとはな」

ロベールはそれに笑って言った。

「確かにそれはそうなんですがね。その"才能"とやらのせいなのかどうなのか、どうもこいつはやることが普通じゃないもので、親としては何かと戸惑わされまして」

それへウィリアムも声を上げて笑い、いやいや、天才とはそういうものさ、と答えた。ディとしては老獪なじいさん二人にサカナにされている感がしないでもなかったが、まあ、ここは老人たちに花を持たせてと、余裕で聞き流している。

そうするうちに執事を先触れに立ててアンナが顔を出した。ファーンと同じダークブロンドを今日はシニョンに結い上げて、仕立ての良い淡い色の、袖がふくらんだクラシックなドレスをまとっている。その様子はまさに絵に描いたように優雅な貴婦人だ。既に四十代の半ばは過ぎるはずだが、どう見ても三十を大きく越すようには見えなかった。

彼女を加えてそこでまた話がひとはずみし、それをそのまま持ち越す形で4人はディナーの席に移った。テーブルは少人数が落ち着けるように、居間のごく近くのこじんまりした部屋に用意されている。しかし、皆の話の焦点であるファーンは、春休みを終えて寄宿学校に戻ったばかりなので姿がない。

最上の料理にとっておきのワインを出させ、ウィリアムは上機嫌だ。なにしろ、可愛い曾孫の将来が磐石になったことに加えて、一番心配していた"いつ"という問題についても自分の希望通りに話が進んだのだからそれも無理はなかっただろう。それに、もともと商才に長け、情も深いロベールのことは若い頃から気に入っていたようで、彼に再会できたこともとても嬉しいようだった。

ディはウィリアムの話を聞きながら、この年とはとても思えないほど彼が昨今の世情に通じていることに驚いていたが、引退したとはいえ七十代の頃まではロベールの言っていた通り"クランドル経済界のドン"とまで称された彼は、今も様々な方面の最新情報についてアップデートすることにかけて余念がないようだ。中でもやはり政治経済と芸術に関してはアンテナを張っていて、これが引退した老人かと疑ってしまうほど鋭い指摘や洞察を披露してくれた。目が弱くなってからは毎日の新聞に目を通すのもなかなか大変なので、それらについてはピックアップされた記事を部屋づきのメイドに読ませたり、興味を持った人物は分野を問わず家に招いて親しく話す機会を作ったり、引退してからも側に置いている秘書に直近の経済や政治動向をレクチャーさせたりと、そのおかげで未だ知識、判断力ともに現役で十分通る。いや、事実、彼の息子や孫たちは、重要な問題や決定事項が持ち上がるたびに、今でも彼の助言を求めてくるくらいなのだ。

ウィリアムは、はなからディに良い印象を持っていたようだが、ディの方もダニエルの絵の件があったし、その上これを見てはやはり彼に好意と尊敬を寄せないわけにはゆかない。

老いてなお気勢未だ衰えず、飲みかつ語るじいさん二人につきあいながら、ディは自分もトシを取ったらこうなりたいものだと思っていた。もちろんそれは、アンナにしても同じ気持ちだったのに違いない。

食事の後は居間に戻ってディジェスチフを楽しみながら、思い出話のみならず、最新の話題も次から次へと持ち出してウィリアムはなかなか二人を帰したがらなかったので、彼をあまり疲れさせてはと心配したロベールが、必ずすぐまたお邪魔するからと約束してディとクロフォード家を後にしたのは夜も十時近くなってからのことだった。

ロベールとディを送って出たアンナが居間に戻ってくると、ウィリアムはさっきまでのままソファにかけて楽しそうに考え事をしていたようだ。

「おじいさま」

「おお、アンナか。二人は帰ったかね?」

「はい、いましがた」

「そうか。いやあ、久しぶりに楽しい夜だった」

「お二人もそうおっしゃっていましたわ。ディがおじいさまに、宜しく伝えて欲しいと。それから、シャンタン伯爵が、今度来る時には今日のお礼に最上のワインをお持ちするとおっしゃっていました」

「ほお、それは楽しみだ。彼のカーヴにはとっておきが相当眠っていそうだからな」

「でも、おじいさま。今日はちょっとお飲みになりすぎでしたわよ? よくよく、お止めしようかと思ったくらいでしたもの」

「おまえは、キビシイからなぁ...。しかし、ふだん我慢させられているんだから、こういう時くらいは好きなだけ飲ませておくれ」

「そう思って控えておりましたけれど」

「うん、まあな。じゃ、おまえを心配させないように、今度からはすこーし気をつけるとしようか」

「お約束して下さいます?」

「分かった、分かった」

ウィリアムは笑って言い、それからふと思い出したように続けた。

「しかしそれにしても、あれはなかなか腹の据わった男だな。さすがにロベールの息子だけのことはある」

「おじいさまもそう思われまして?」

「うん。普通、ああいうシチュエーションでは多少居心地の悪い思いをするものだろうに、私がちょっと切り込んだくらいでは顔色ひとつ変わらなかったよ。かと言って、変に尊大なところもなくてな」

「そういう人ですの」

アンナの答えに、にっこりしてウィリアムは言った。

「クリスの時もそうだったが、さすがにおまえはつまらない男は選ばんということだな、天晴れ、天晴れ」

それへアンナは艶然と微笑んで見せただけだ。

「さ、おじいさま。お話がはずんですっかり遅くなってしまいましたわ。もうお休みにならないと、明日が辛ろうございましてよ?」

「おお、そうだな。では、そろそろ寝るとするか」

「はい。じゃあ、あちらに」

言って、アンナはメイドを呼ぶ手間もかけずに自分で祖父が立ち上がるのに手を貸し、そのまま寝室へ付き添って行った。そうして居間には誰もいなくなったが、壁にかかる絵の中のイエスだけが変わらず悠久の時を見据えて、そこに在った。

original text : 2009.3.2.〜3.24.

  

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