ディが絵筆を置いてふと気づくと、窓の外には冬の明るい昼下がりが広がっていた。時計を見ると三時を回っている。もう、そんな時間なんだなと思いながら、彼はテーブルの上のインタコムのボタンを押した。待つほどのこともなく、アーネストの声が返って来る。

 ― はい、だんなさま

「一段落ついたんだ。お茶を入れてくれないかな。スパイスを効かせて」

 ― かしこまりました。すぐにお持ちいたします。

「それと、デュアンがそろそろ学校から帰って来る頃なんじゃないか?」

 ― 左様でございますね。もう30分もすればお戻りになるのではないかと存知ますが、今日はなんですか学校でグループ研究の発表会がお近いそうで、この週末はそれの総まとめが追い込みだとかおっしゃって、ベンソン様のお嬢さまをご一緒されると伺っております。

「そう。じゃあ、後でもいいかな」

 ― 坊ちゃまに、何かご用がおありに?

「いや。特に急ぐ用というわけじゃない。ただ、新しい絵が完成したから、早く見たいかと思ってね」

 ― それはお喜びになると思いますよ。お戻りになられたらすぐにお伝えいたしましょう。

「うん。見たいならちょっとアトリエに寄りなさいと言っておいて」

 ― はい、そのように。

通話を終わるとディはまたキャンバスの前に戻ってきて、煙草に火をつけながら完成したばかりの絵を眺めていた。

前に個展を開いたのは既に一昨年のことになるので、初夏までにはまた一度開きたいと思っている。ここしばらく彼の興味は古代ケルト伝承に向いていて、それにまつわる絵をシリーズで描いているのだが、女神や妖精、姫ぎみや騎士など、童話の挿絵のようなロマンティックな題材を、ディならではの華やかな色彩と構図で描いた一連の作品は、既にデュアンの大の気に入りとなっている。

彼の作品で物語を絵画に仕立てたものというと、ごく初期の頃のシェイクスピアのシリーズが名高いが、十代後半から二十代前半にかけて描いたそれよりも、今度の方が色彩もテーマもより深みを増していることは疑いを入れない。ともあれ、発表されればまた、世界中の彼の熱狂的なファンたちを深く感嘆させることになるだろう。

作品の出来栄えをもう一度検分してみて納得すると、ディは庭に面したフランス窓の方に歩いて行って、そこに据えられたソファに身を沈めた。1月も半ばを過ぎて寒い盛りのはずなのだが、今日はよく陽が照っていて外は暖かそうだ。しかし、春にはまだしばらく間がある。煙草をふかしながらのどかな庭を眺めるともなく眺めていると、ノックの音がしてアーネストの声が聞こえてきた。

「だんなさま、お茶をお持ちしました」

「入っていいよ」

アーネストは入ってくるとディのいるソファの方へ歩いて来て、テーブルにお茶のセットを並べた。ポットから器に注ぎながら言っている。

「良いお天気ですね」

「うん。仕事も一段落ついたし、いい気分だ」

テーブルのカップからスパイスの効いたお茶の香りが立ちのぼってくる。

「そろそろ、個展の準備もなさらないとなりませんのでは?」

「そうだね。やっと数もそろったし、夏までには開きたいと思ってるよ」

「新作は、これでございますか」

まだイーゼルに立てられたままの完成したばかりの大きな絵に目を留めてアーネストが言った。熱心な蒐集家だったディの祖父、先代のモルガーナ伯爵の頃からこの家に仕えている彼は、これでなかなかけっこうな目利きだ。おびただしい数の真筆に日常的に触れているせいもあって、ヘタな美術評論家では足元にも寄れないような知識と鑑賞眼も持っている。ディのすすめで、ここ何年かの間にペンネームで研究書なども出版しているが、それはどれも専門家の間で広く読まれていた。

「そう。どう?」

ディが生まれた頃には既にこの家にいて、ついに結婚しなかったアーネストにとって、彼は実の息子以上の存在だ。その才能にも一も二もなく惚れ込んでいる。アーネストが自身、評論家や作家として成功することもできるはずの力を持ちながら、執事という職に甘んじて来たのもそのせいだろう。この頑固者は、ディがすすめなければコツコツと書きためている論文なども決して表に出そうとはしなかったのに違いない。

尋ねられてアーネストは絵の近くまで寄って行くとじっくりと検分している。ディからは見えないが、既に満面笑みの得たりという表情で、殆ど親バカ状態だ。しかし、振り返ってディのところまで戻ってくる時には、既に生真面目な執事の顔に戻っていた。

「お見事でございます」

「それだけ?」

「私ごときが、これ以上は申し上げることなどございませんよ。いつもながら、お見事、としか」

その答えにディは笑っている。

「きみがそう言うなら太鼓判だな。自信を持って発表できるよ」

「何をおっしゃいますやら」

執事が一礼して下がってからも、ディはしばらくお茶を飲みながらのんびり庭を眺めていた。いつもなら新作完成と聞いて飛び込んでくるはずのデュアンも、まだ学校から帰らない。

実際、デュアンを引き取ってからというもの、ディの生活も随分変化してきたと言っていい。デュアンがいることを考えるとあまり外泊ばかりして淋しがらせるのも可哀想だと思うから夜遊びもほどほどになったし、以前のディなら真夜中の白河夜船な時間にデュアンが学校に行くものだから、なんとなく自分も一緒に目が覚めてしまうことが多い。それまでは彼にとって午前中などというものは、例え身体は縦になっていてもアタマが目を覚ましていなくて、殆ど使いモノにならない状態だったものだが、今の彼の起床時間はだいたい十時前後に改善されてきていて、だからこんな時間に絵を描いていたりもできるのだ。デュアンが早く帰ってこないかなと思うともなく思いながら、ディは新作が完成したあとののんびりした開放的な気分を、気に入りのお茶の香りと一緒に楽しんでいた。

original text : 2008.2.29.〜3.1.

  

© 2008 Ayako Tachibana