Essay vol2.英語と日本人の不幸な関係・その2

 

さて、前章では日本の学校で一般的に行われている英語教育が実用的な語学力に繋がらないという不幸についてお話しました。そこで、今度はそれはいったい何故なのか? について考えてみることにしましょう。

まず、80年代以降、多くの学校がネイティヴの講師などを迎えて語学教育を活性化しようとする動きはあったようです。しかしちょっと困ったちゃんなお話なんですが、これははっきり言ってかなりな部分「表向き」とか、先進的な教育をしているという「アピール」とか「ポーズ」に過ぎない動きだったように思います。例えば実際、あやぼーが通っていた学校では、小学校高学年から英語教えてたし、立派なL.L.教室まであったけど、今から思うに実用というよりまるっきり「ポーズ」で、「あるだけ」の世界だったもんなあ。あやぼーも含めて、その学校で9年間英語の授業を受けて、「だれひとり」英語が話せるようになったヤツはいなかった...。今でもそれは変わってないだろう。それに、「日本の学校は、帰国子女にとって決して良い環境ではない」というひとつの通説のようなものがあって、このあたりに一般的な日本人の英語に対する物凄く歪んだ感情を見てとることができるんですね。

 

こんな話を聞いたことがあります。あるネイティヴの英語講師の方が、海外から帰国した英語の達者な生徒に「あなたは私と話しているときはちゃんとした発音で話すのに、なぜ教室では同じようにしないの? 」と尋ねたことがあるそうです。彼女の答えは「英語らしい発音で話すと、いじめられるからです。」

多くのヒトが本当は英語が分かるようになりたいし、外国人と自在に英会話できるひとはカッコいいと思っているし、自分もそうなりたいと思っている。羨ましいなあという気持ちが、「よし、努力して私もそうなろう」というポジティヴな方向に出る人はいずれそうなれるでしょうが、問題は思いながらも努力する気がなく、自分が「できない」ことから来る劣等感や嫉妬を、「できる人」にイジメとして反映させてしまう人たちなんです。私が「英語に対する物凄く歪んだ感情」と言うのは、こういう人たちの精神構造からくるもので、こういった傾向は困ったことに子供の間だけではなく、教師を含めた大人の間にも蔓延しているみたい。これは残念ながら英語に限ったことではありませんが、ともかく表向きは先進的な教育をしているというポーズは取りたいが、「できる子供」は他の生徒からも、更には教師からも敵視されるという内部構造が多くの学校にあるということです。

また、日本の語学教育の歴史を顧みると分かることですが、昔の日本では英語はよほどのエリートを目指す人ででもなければ日常生活に必要のないものだったので、80年代以降では社会的に実用的な語学力が求められながらも、学校も国も効果的なノウハウを持っていないという現実がある。「話せなくても英語教師になれる」という状況が全てを語っていると思いますが、既に資格を与えてしまっているものを剥奪もできないし、いや、本来ならこういう人たちは基本は理解しているはずですから、半年〜一年、国や職場が費用の一部を負担して留学させてあげさえすれば、根本的に改善されうることなんですけど、これまたそういうことはしようともしない。こういう教師のいる所へ、ペラペラ話す帰国子女なんかが現れてごらんなさい、そりゃ、面目丸つぶれ。人間ができてないヤツほど、努力して自己を改善しようとはせず、面目つぶされたってことで生徒を恨むようになっちゃったりするのよね。で、いぢめる。

それにこれだけ英語の社会的ニーズのみが先行して高まってしまうと、それまでは「できなくて当たり前」とのんきに構えていられた人たちまでが、「できない」ということにヘンな劣等感を持つようにならざるをえなくなってしまい、そこでとりあえずポーズでもいいから「英会話教室に通っている」という既成事実を作ってカッコだけはつけようとする。でも、その頼みの英会話教室でさえ、実用的な語学力をつけるノウハウを持っているようなところは極々わずかなんで、これまた実質的な語学力に繋がってゆかない。

ある英会話教室の講師の方から聞いた話ですが、「日本人が英会話教室に来るのはファッションなんだね」なんてことを言ってました。つまり、本当には夢にも自分が英語を話せるようになるとは思っていないし、努力をする気もないんだけど、「いちおうみんな行ってるし、外国人と友達づきあいしてるようなポーズはカッコよく見える」という実に浅はかなミエの世界で通うから「ファッション」ってことになるんだな。あなたは、こういうバカになりたいですか? 

あやぼーは一時期、なりふりかまわず英語を勉強しまくっていたことがあって、ペーパーバックなんかも僅かな時間がある限りドコだろうと読みまくっていたものですが、私はできないからこそ一生懸命勉強しているだけなのに、コレが気に入らなくて妬んだ挙句「英会話教室に入学する」という、あやぼーから見れば超・お笑いなことをやったヤツが何人もいました。こういう結論を下すということ自体がもう何をか況やで、勝手にやってて下さいって感じでしたが、コレも「既成事実を作って自己満足したい人」の典型的な行動でしょう。まあ、私の場合は、「他人にどー思われよーと知ったこっちゃない」という先天性ナルシストですから、こーゆー事態もまるっきり気にしていませんでしたけど、世の中こういうどーしよーもないのがいるので、それにひっかかるのがイヤなら密かに努力するってテもあります。

  

とにかく英語を取り巻く国内の状況は、このようにハッキリ言って八方ふさがりと言ってもよく、本当に痛切に「使える語学力が欲しい」と思っているマジメな学習者の皆さんにただひとつ言えることは、実力とは結局「努力しなければ得られないものなのだ」ということです。けれども、他の芸術やスポーツなどの習い事とは違って、英語に特別な才能はいりません。だから、正しい方法で努力しさえすれば、目標達成まで個人差はあるとしても、着実に実力をつけてゆくことが出来ます。年齢的にも、確かに子供の頃からやらせておくに越したことはありませんけど、トシとったからってダメってもんでもありません。事実、私が本格的に勉強し始めたのは20才も過ぎてからのことでした。

ということで、少しでも「英語が分かるようになりたい」と思われたら、今日から一歩を踏み出しましょう。こんな世の中なんですから、なんなりと実力をつけておきませんと、将来的に大変キビシイのではないかと思ったりいたします。ミエで終わらせるか、実力にするか、選ぶならいま!! ですよ〜ん♪

 

2007.10.8.

Essay Vol2. 英語と日本人の不幸な関係・その1 <<