Essay vol1.英語が分かると分かること

 

あやぼーはコドモの頃から本当に英語が好きだったんですが、小学校の高学年から英語の授業があるという学校に通っていながら、英語の成績はずーーーっと、からっきしダメなままでした。どこかでも書いてますが、当時の教科書にもいっぱい書き込みがしてあって、熱心に辞書を引いていたんだなあと今更ながら感心するくらい勉強していたのに、です。

その頃から、こんなことやっててもなー、英語は喋れるようになれないぞー、と分かってはいたんだけど(だって、先生からして喋れないんだもん♪)、当時は英会話教室なんてものもそのへんにいくらでもあるって感じじゃなかったし、今よりもずっと授業料とかも高かったんだね。それでなんとなくそのままになってて、でもいつかは英語を喋れるようになりたい!! とゆー気持ちはずっと抱き続けていたらしい。

そんな私が、ある日出会ったのがココでも紹介している「英会話110番シリーズ」でした。確かあれはユーリズミックスのコンサートに出かけてった時だったと思うんだけど、コンサートに行く前にちょっと本屋さんに寄ったんだな。当時は英国の音楽を聴き狂ってた時だったんで、やっぱり英語が分かるようになりたぁぁぁいっ!!! という気持ちが、かなり強くなっていたんでしょう。で、英会話本をあれこれ見るうち、偶然ぶつかったのがあの本だったわけです。これは私が常々、英語が分かるようになるにはこういう勉強をすべきだ、と思っていたニーズを100%満たすものだったので、そこで一念発起。よしやるぞ、となけなしの根性を入れて、まずこの本の丸暗記に挑戦したのでありました。

これがけっこう面白かったんで、日常会話篇のあと日本紹介篇、そしてシリーズ全てを丸暗記しまくるという方法で徐々に基礎をつんでゆき、基礎が磐石になってきてから中学の参考書なんかを引っ張り出して、文法の勉強も始めたのでした。英会話110番を覚えまくってから文法をぼちぼち始めたら、学校で習ってた時よかずっとすんなり理解できたので、やはり基礎が入ってない状態でリクツを云々するのは間違っとると、改めて思いましたね。だって、日本語だって口語文法ってのがあるけど、日常使ってる日本語でさえ「文法」というリクツの域に入ると、ワケわかんなくなっちゃうじゃないですか。それなのに外国語である英語を、理解の素地もないのにワケ分かんないとこから始めたら、理解できる方が不思議よね???

最近、「あやぼーの文法教室」も始めましたが、基礎確認篇はだいたい中学で習うような基礎文法を網羅するつもりで作っています。この辺りでは、文法のリクツをあれこれ覚えるよりも、主に例文丸暗記を徹底的にやって欲しいと思います。リクツより例文丸暗記、丸暗記したフレーズが蓄積してゆくにつれ、リクツも「ああ、こういうことか」とすんなり分かるようになってゆくはずです。

ともあれ、今から一生懸命勉強していた時のノートなんか見ると、いやー、こんなに頑張ってたんだなあと、自分を褒めてあげたくなってしまいますが、それはもう過酷なまでの猛勉強をしていた痕跡が残っています。別に辛いとか思ってたわけじゃなくて、あやぼーのことだから面白くてやってたんでしょうけど、当時はとにかく忙しくて、家に帰るのが11時とかなることもよくあったのに、一日も欠かさず決めた分だけのスケジュールはこなしてたんだから、本当に根性入れてたってことですね。だから言い切れる。英語の習得に特別な才能なんかいらん。ひたすら毎日続けることだけが、勝利への道である、と!! ただ、毎日前進を続けるにしても、目的地に対して正しい道を辿らなければ何にもなりませんけどね。

 

さて、石の上にも三年という諺があります。こういう勉強も三年続くとかなり成果らしきものが見えてきて、ペーパーバックを読んだりも出来るようになりましたが、多少英語が分かるようになってきて何よりも驚いたのが、当時特に好きだった英国の音楽の底の深さでした。それまで単なる「キレイな音」でしかなかったものが、歌詞まで注意してよく聴くようになると、「なんかすごいこと考えてるな、このヒトたちは」って感じで、常々抱いていた「なんで日本の芸能人はあんなにみっともないんだろう、海外のアーティストってこんなにカッコいいのに」とゆー、究極の疑問のナゾが解かれたような気がしました。つまり、根性の入り方が全然違うというこの真実。あちらはアーティストである限り皆さん、自分の歌ってることに人生かけてますからね。

例えば、ヒ〜ロ〜になるとき〜、それはいま〜とかゆー、脳天気な歌があるじゃないですか。まあ、あれはあれで歌謡曲としてはそれなりってことでいいと思うんですけど、結局何の深いイミもないでしょう? 日本の場合、そういうのが多い。もちろん例外だってありますけど、一般にあれでロックなつもりなんだから困る。でも、英国の場合、I don't wanna be a hero.とかなるわけで、これはJohnny Hates Jazz というバンドのヒット曲なんですが、どういう内容の歌かというと、「戦争に行ってヒトを殺すくらいなら、ヒーローになんかなりたくない」って歌で、「聞いたこともないような国に銃を持たせて送り出し、帰って来たら人を殺さなかったという罪で裁くのか」とまあ、キレイなメロディなのに歌詞はシビアでシリアスな内容なわけです。英国のロックやポップスなんて、まともなのはこんなんばっかり。こういう、社会に対してマジメにコミットする姿勢ってゆーんですか、そういうのが彼らのカッコよさの源泉だったのねと、英語が分かるようになって初めて知ることができました。中でも私が崇拝しているフェリーさんなんかは詩人としても天才的なので、これ全部マジなんだなあと思うと、けっこう感動させられます。

ま、英語に限らず外国語を習得するということは、その言葉が使われている場所の文化を理解できる素地を持てるということでもあるんですね。これはけっこう面白いことです。

また逆に、英語は今や世界共通語のようなものですから、英語圏以外でも話せる方は沢山いますし、いろんな国の方とお話する機会を得ると、しょせん人間はどこの国でも根本的に同じよねということにも気がつくと思います。確かに文化的な慣習の違いというのはありますが、根底にある「人間性」というものは良くも悪くも自国民と大して変わりない。どこの国にも、よく出来た礼儀正しいヒトもいれば情の厚いヒトもいる、逆にロクでもないバカもいるってことですね。まあこれは、元々あやぼーが自分を「地球人」だと思ってて、しかも徹底した個人主義者だから余計感じることかもしれませんけど。

ともあれ、外国語がひとつ分かるようになると、それまでと全く違う視点からモノを見る視野を得ることが出来るということは大きなメリットであると思います。話が通じれば「同じ人間」と思えるものなのに、言葉が分からないからといって反目しあうようなことになるのは悲しいことです。広い視野を持つキッカケとして、うちのお客さんには皆さん、英語くらいスイスイ分かるようになって頂きたい。そういう願いをこめて、お英語教室を作ってゆきたいと思っています。

 

2007.9.23.

>> Essay Vol2. 日本人と英語の不幸な関係・その1