このコーナーではサロンでお出ししているテーマの中から主に「21世紀、日本はこうなる、もしくはなってほしい」と、「インターネットの可能性」という二つのテーマについてあやぼーの思う所を語ってゆこうと思う。それらは連鎖的な関係のあるテーマだからだ。

そもそもは「カフェにおける論争」という無責任なお楽しみ的要素の強い発想で始めたサロンなので、言ってることに絶対性なんかないし責任も持てない。知識の限界だってあるし、一般メディアで流れている情報が真実とも限らない。それに所詮、人間の考えなんてものは人それぞれで千差万別、ある視点から見れば当たってたり正しかったりするが、ある視点から見れば間違っていることもしばしばなのだ。諸行無常な世の中に絶対正しいなんてことも、また絶対間違ってるなんてことも滅多にはないものなのである。そういうわけで、ひとつの見方として楽しんでもらえれば幸いである。

 

 

Vol.5. ガキをノサばらせるな!!

おお、とうとう出たか、このフレーズ、と思う方も多いのではないだろうか。

いつの頃からか知らんが、ハタチ過ぎればオジサンだのオバサンだの、何を根拠にバカで無教養なガキがノサばるようになったのか、今回はコイツについて分析してみたいと思う。はっきり言ってうっとおしいからな、この際はっきりさせとこうじゃん。日本経済の凋落もここまで来ちゃ、いつまでもアホをおだててたって始まりゃしないんだから。それに保守化、空洞化なんて冗談じゃない。そんなの結局誰のためにもならないんだよ。

まず、いつ頃からこんなバカげた言い分がまかり通るようになったのか考えてみよう。80年代はまだそうでもなかったと思う。私がまだコドモの域にあった頃は一応オトナとコドモの区別というのはちゃんとあったし、私のようなクソ生意気なガキでも、それなりに大人に対して三歩下がるくらいの接し方はしていた。特にこの「ガキがノサばる」という状況が顕著になり、つまり自分の無力や無能も認識せずに、さも自分が偉い者のようにカン違いして振る舞い出したのは明らかに90年代以降だ。それでは何故そのような事態が起こりえたのか。それには二つの大きな要素が絡んでいる。

第一に、80年代後半から90年代にかけて飛躍的に拡大したファスト・フードやコンビニ産業が大量のアルバイト雇用を必要とし、雇用枠を高校生あたりまで広げたことだ。つまりガキが手軽なアルバイトで小遣い銭を稼げるようになったこと。マトモに働いている人間からみればコドモがアルバイトで得られる金額などハシタ金とも呼べないような額だが、そこが畜生の浅ましさ、いや失礼、現実を知らないガキの憐れさで、それまで親にもらっていたお小遣から考えればバイト代は相当な大金に思えたことだろう。人間、イイ大人でも大金を持つと気が大きくなる。実際には大金でも何でもないんだが、持ったこともないような金額を自由に使えると思えばコドモが何か偉くなったように錯覚しても仕方があるまい。そこへ持って来て、その稼ぎに目をつけたのがマスコミである。親に食わせてもらって生活費が一切かからないコドモの手にあるバイト代なんて言ってみればアブク銭だ。一番いろいろ欲しい時期だし、差し迫って生活に必要でもないから金離れはいい。モノを知らないからマスコミに煽られれば無価値なものにもヒトタマリもなく騙されるわけで、つまり当世のガキなんてものは一番カモりやすいイナカもんだったというコトだ。(これを言うとカン違いされかねないので付け加えておくが、私が使う「イナカもの」というコトバは、別に地方在住の方や、その出身者という意味では全くない。「世界が狭く、客観的なものの見方が出来ない」人間を総じてそう呼んでいるだけなので、気に障る方がいらしたらお許し願いたい。) ともあれそのコドモの稼ぎを当てこんだマスコミは後先考えずに連中の潜在消費力めがけて尻尾を振りまくった。それが「ハタチすぎればオジサン、オバサン」などという風潮を生み出し、さも「若ければ偉い」という可笑しな、しかも何の根拠もないバカげた錯覚までも定着させてしまったのである。おまけに2SHOTなんてものまでハヤったもんだから、女子大生のおねーちゃんで飽き足らなくなったオヤジが十代のおじょーちゃんにまで手を出すようになって、挙句オトナもコドモもあったもんじゃない世の中になっちまったんじゃないか。まあ他にも原因はいろいろあるだろうけどな。

しかしマトモに働いて税金払ってるオトナより、役立たずのコドモの方がデカいツラするって、それは全くバカげきった冗談以外の何者でもない。だからこそここらでしっかり連中に現実をつきつけておいてやるべきだ。彼らが将来、立派なホームレスになるのは勝手だが、マジメにやってる人間が「福祉」とかの名目で連中を食わしてやるハメに陥るようなことだけはお断りだ。まあ知らなかったからと言って野垂死にってのもカワイソウだし、誰も教えてくれないんだろうから言っとくだけは言っといてやる。所詮、流行や風潮を鵜呑みにし、はした金で気が大きくなるようなバカは金額のケタがデカくなればビビる。金でしかモノの値打ちが測れないヤツが、カネモチに尻尾振るのと同じことだ。

そういうわけで現実をつきつけるにはこれが一番いいんじゃないだろうか。「普通に生活してゆくのに、どのくらいの金額がかかるのか」、これについてハッキリさせれば、親に世話になってバイト代で好きなもん買ってるガキより、自分で税金や家賃を払ってるお兄さま、お姉さまの方がどれだけ偉いか、ちょっとは理解できるかもしれない。そんなことも分かんなきゃ、将来はホームレス決定だな。

まず家賃。親が死んでも親の持ち家があるって? 言っとくけど家ってものは、いつまでも新しいままではいない。メンテナンス費用を湯水のごとく注ぎ込まなくては、十年もたずにアバラ家だ。ある程度の規模の家なら屋根や外壁の補修費用だけでも7〜8年ごとに200万、300万とかかってしまう。ともあれ今、ひとりでワン・ルーム暮らしという最低限の生活をするとしても家賃だけで月5〜6万はかかると思う。最近それも安くなっているとはいえ、そこそこの建物なら、まず5万は下るまい。これだけでもコドモのバイト料じゃ、賄えたもんじゃないな。それに食費と光熱費、その他雑費で5万というところ。これ、ハッキリ言って最低限の生活だけで掛かる金額だよ。着るもん持つもんなんか何も入ってない。これにクルマ一台の維持費なんて加わってみろ、それだけでも最低でプラス5万はかかるしな。しかもこれだけ稼ごうと思ったら、それに上乗せて税金分、保険料分も稼ぎ出さなきゃならないのだ。月に15万のお給料もらっても、残るのって11〜12万くらいじゃなかったっけ? その中で、お兄さま、お姉さま方、おじさま、おばさま方は、皆さんコツコツと生活しておられるのだ。税金ったって、ただ払ってんじゃないぞ。税金が何に使われるかくらい小学校で教えてるよね。例えば毎日当たり前にアスファルト舗装された道をタダでみんな歩いてると思うけど、それだってカネがかかっているのだ!! その舗装費用、アスファルトばかりじゃない、街のインフラ、その他もろもろ、なんでもかんでも全てにカネがかかっているわけだが、それはマジメに働いている皆さんが税金という形で出して下さっているものなのだ!! だからそれも払ってないガキは、道の端っこを遠慮しながら歩いてもらいたいね。間違ってもデカいツラして真中をのさばり歩くなんてヤメてくれる。道が減るわっ!!

そして愚かなガキの最大の誤算、それが「いつまでも、あると思うな、親と金」である。コドモが一生食えるだけの資産を残せる親はこの際許す。自分がバカなコドモしか育てられなかったことのツケは払ってるわけだからね。しかし残念ながらそんな有難い親ばかりというわけにはいかない。それどころか、夫妻が老後そこそこの生活を続けてゆくだけでも大変な金額がかかるのだ。ちょっと聞くけど、いったい将来の自分の食いぶち、誰が賄ってくれると思ってるんだ。マジで謎だな。で、彼らコドモがこういう「誤算」をしているについては、こんな例からも計り知ることが出来る。何ヶ月か前タイム誌で読んだのだが(日本に関する記事には最近ロクなもんがない)、最低限の身の回り品だけで「家出」している少女たちが新宿だか六本木だかにウロウロしてるそうだ。で、コイツらはケイタイを持ってるんで、厳密には「家出」ではない、単に一定期間家に帰らないだけだそうなんだな。親の方でもケイタイでいつでも連絡が取れるから警察に「家出」として届けるようなコトはしていない。コドモの方でも親元を完全に出てしまって先行きのレールを踏み外すつもりは全くない、つまりいずれもう少し年を取ったら売春まがいのコトをやってたなんて過去には口を拭って家に帰り、人並みの人生が歩めると思っているわけだ。ケイタイ!!! 全く、泣かせるじゃありませんか、このみっともなさと根性のなさ。甘えと愚かさもここまで行ったら表彰もんだな。私だって自分が「模範的な良い子」だったなんて大ウソはとてもつけないし、やりたい放題、好き放題は信条のようなもんだが、しかしそれでも親の言うように生きない以上、てめーの力だけで生活していくくらいのハラは括ってたぞ。だから中途ハンパだと言うんだ。そういうコドモに取ってケイタイは「安定した社会」への命綱なんだろうけど、じゃあそのキミたちが戻るつもりの「安定したオトナの社会」なんてものが、絶対不動にいつまでもあると思ってるのか。どこかで「社会ってとこは人間を養うためにあるのではなく人間が養わなくては存続しないものだ」と書いたと思う。見てみろ、そんな根性の人間がボロボロ増えたもんだから、日本という社会は既に安定なんてものとは無縁な存在になっちまったじゃないか。「いつまでも、あると思うな、親と金」、親が亡くなるだけならまだ摂理というものだが、それも包含した「社会」そのものが既にチリと化そうとしているのが現代なのだ。そんな中で、いったい誰がキミたちの将来の食いブチを賄ってくれるのかね。いくら悪いアタマでも、たまには使ってやれよ!! これだけ言ってやってんだから、自分の薄給と実力の無さにいい加減目覚めてもらいたいもんだな。しっかり焦ってくれ!! そうすれば今からでも少しはマシな将来を手に入れるのに間に合うかもしれない。


 

言いたい放題言ってしまったが、もちろん私は徹底した個人主義者なんで世の中そんなことも分からないバカなガキばかりだと思っているわけではない。こんな世の中でもコツコツとマジメにやってるコも多いだろうし、バイトにしても目標があってしていることなら、とても良いことだと思う。ただハッキリさせておきたいのは、あくまでそれは社会的に「底辺の仕事」であるということだ。もちろん人間の貴賎を職業で決めるなんてもっての他だ。しかし「アルバイト」という暫定的な形態で提供される仕事は、それは職業とは言えない。「フリーター」なんてコトバが定着してしまったおかげで、それを職業とカン違いしている連中も増えたが、そもそもそのフリーターというのだってピンからキリまである。これは私がちょっと知ってる女の子なんだが、このコがまた凄い。あれこれバイトで月に40万も50万も稼ぎまくり、「将来はお店を持つのがユメ」と、しっかり目標を立てて頑張っている。こういうコこそ「フリーター」と言って差し支えないんだろうが、しかしこういうのは稀で大抵はマトモに就職出来ないもんだから「フリーターです」と言って誤魔化してるだけなんじゃないのか。さっき「底辺の仕事」と書いたが、それは「職業以前」と言うことでもある。簡単で誰でも出来る、スキルも経験も必要ない、しかしそれで一生行けるつもりなんだろうか。言い換えれば、「職業以前」なんだから、いずれはどこかで「職業」と言えるものをせしめなきゃならない。十代というのは将来その「自分の職業」と言えるものをせしめるためのネタを一番仕込める時期なのだ。そこで力を蓄えておくか否かで、よほど特別な才能でもない限り一生が決まってしまう。その時期にマスコミに煽られて、つまらん消費に回すために最低の金額で使われて、オトナから見れば生活費にもならないような額で自分の時間を売り渡している。この点に関しては、よくよく考えてバイトでもなんでもやらないと、さっきも言ったようにタチの悪いオトナに「カモられる」だけで終わってしまうよ、ってことだな。それにも気づかず高校、大学と過ぎてっちゃったヒトたちが、結局のところ社会に出てモノの役に立ったかどうかは、日経平均でも眺めてりゃ一目瞭然なんだがな。まあ、ある程度は年を取らないといくら言われても理解できないのがコドモの悲しさで、手遅れにならないうちに気がつくことを一応は祈っておいてやるとしよう。ただ、十代にネタを仕込むと言ったって学校行って勉強して大学に入ればいいというもんでも特に近頃はないしな。そもそも大学出ても英語ひとつマトモに使えないって、それは既に教育そのものが破綻してるってコトだしさ。そうなって来るとドラスティックかつダイナミックな発想で立ち回れる奴以外、お先真っ暗なのが現実なのかな...。ご愁傷さまなコトだね、これは。

それはそうと、90年代そんなにコドモがノサばるようになってしまったのには、先に言ったような第一のメカニズムが働いてしまったことは確かだと思うけど、同時にそれを留めることもせずに、まかり通してしまった大人の方にも大いにに責任はあると思う。言ってみれば「オジサン、オバサン」と言われて、ノサばるガキと煽るマスコミに怒ることも改めさせることも出来なかった、そのある意味では「無責任」がこのような事態を招いた第二の原因ではないだろうか。しかし、それはいくらかわからないでもない事情はある。だからと言って許されるとも思えないが、60年代〜70年代までに十代をやっていた一般的なオトナ、つまり90年代の親世代やそれ以前の世代というのはコドモを怖がる理由があったように思う。例えば90年代に驚異的発展を見たコンピュータ、これに対する順応力ひとつ取ってもコドモの方が遥かに早かったのだ。しかも70年代までは日本は未だにビンボーを引きずっていたから、何かとコドモの方が贅沢も知っているし、ヘンな所で雑学もある。クソの役にも立たないわりには無責任に難しい教育カリキュラムを、学校を出て随分経ったオトナたちには理解できないという引け目もあっただろう。また、大昔に「独身貴族」なんてコトバがあったが、それは家庭にお金がかからない分、自由に使える額が多かったというだけで、90年代のコドモに当てはめると生活にお金がかからないから自由に使える額が多かったというだけの話なんだけど、それでも値段の張るものをコドモが持っていたりすると、それこそ金のタカでしかモノの価値が計れないようなバカなオトナほど、それが偉い者のように見えちゃうんだろうな。まあ、最近思うんだがオトナだコドモだ言ったって、所詮トシ取ればみんな悟りが開けるんなら世の中カンタンなわけで、トシとってもバカはバカってことかもね。同時にコドモにしたって向上心もなく漫然と生きることしかしないなら、所詮は「オジサン、オバサン予備軍」だということだ。「世代」などと言うと随分違ったもののように聞こえるが、この両者、案外大した差はないのかもしれない。そう考えていくと一番良くないのは、「今の若いヒトは...」などというコトバで尤もらしいことを言いながら、その実、相手を理解しようともしないで放り出している、そのことそのものだったようにも思う。

個人主義者としてあらためて断っておきたいが、もちろんこれらはあくまで社会をある一方向から見た見解であって、そういうワナにはまらないでうまくやってるヒトはやってるんだけど、社会現象として出ちゃうというコトはそういうワナにはまっちゃってるヒトも多いということでもあるよね。

で、こういう事態を是正したいと思えば、正しい平衡感覚を取り戻す必要がやはりある。70年代までのオトナには難しくても、80年代に十代をやってた連中というのはちょっと事情が違って来るから、そういうコトも出来るかもしれない。80年代バブル期に十代〜二十代前半あたりをやってたヒトなら分かると思うけど、それって言ってみれば戦後の日本の「お貴族サマ世代」と言っても過言じゃないと思う。何しろ、したいだけ贅沢が出来る時代だったわけだから、その浪費ぶりというのも90年代のハンパなガキの比ではない。それだけにバカもやってるし、いい加減トシも取って来てるから過去の自分たちの愚かさにも気がついて来ているはずだ。そもそもバブル期と言ったって、それこそ今のコドモはどんなもんだったのか想像もつかないだろうけど、ハタチそこそこのお嬢ちゃんがAMEXのゴールド・カードで(それも親の家族会員とかじゃなく)、ワン・シーズンに50万も100万もブランドもの買ってクレジット切りまくって、ほんの数年で一千万からのコレクション作って、まあその他にもいろいろあるが「そんなの当たり前」って顔してられた時代。で、それがまた特別なことでもなくて、わりと誰でもやってるコトだったんだな。つまりバブルとはそういう恐ろしい時代だったのだ。ホントはオトナとコドモの地位が逆転してしまったのは、この時代あたりからだったのかも知れないけどね。しかしそういう浪費をとことんやって来た我々は、同時に文化的にも古きよき時代を享受出来た最後の世代でもある。まだまだマトモな出版物も出ていたし、ラジオでFMのひとつもつければクラシックからジャズ、ポップ、ロックに至るまで、本当に良いものが聴けた。そうした様々な点で90年代とは比べ物にならない質の良い環境で育った我々が、経済的にも文化的にもビンボーな90年代以降のコドモを怖がる理由は何一つないのだ。前世代までのオジサン、オバサンと同じだとは思ってもらうまい。はっきり言って、ここらでいっぺんシメないといかん時期だ!! しかし同時に正しい平衡感覚を失わず、コツコツと努力している若い人たちには是非ともそのまま頑張ってもらいたい。それには貴方がたの将来のみならず、日本そのものの将来だってかかっているのだから。

 


 

かつてセルジュ・ゲーンスブールが60歳の時、あるインタヴュアーが、その年齢では芸術家として限界を感じることがないかという質問をしたことがある。それに対して彼は「60歳と言えば、あと20年は生きられるってことなんだぜ。戦争が終わってオレが音楽を始めたのは40歳の時だった。それを考えれば今から何か新しいことを始めたって成功させられるだけの時間があるんだ。」

「若さ」というのは「可能性」だと思う。してみれば、「可能性」を捨てた時に人間は「老いる」ということなのかもしれない。

何の努力もせず「やったって同じ」とタカを括って、将来の夢や希望ひとつ持つ手間をかけない人たちは、十代でもりっぱな老人、いや廃人だ。廃人にオジサンだのオバサンだの言われる筋合いは、誰にだってないだろう。

 

2002.4.14.-4.17.+7.17.-18.

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