エントランスでまや子夫人がにこにこ見送ってくれている。綾はそれへリモの窓から手を振っていたが、横では修三氏がむつかしい顔をして考えごとをしていた。ゆっくりと車は発進して門までの長い石畳を重々しく進んでゆく。

加納家には自家用にリムジンが三台あるが、これはそのうちの一台で修三さん専用のストレッチ・リモだ。キャディ二台分のシャシをつないだ六メートルを越える巨体は特殊鋼板と厚さ数十ミリの防弾ガラスに護られ、車内もさすがに贅沢でゆったりとしている。運転手の神崎さんはこれでもう三十年近く修三氏のショーファーを勤めるが、この神経質でわがままなご主人に文句を言わせずこのリモを動かせるのは彼くらいしかいないだろう。修三さんは生まれてこのかた車のステアリングになど触れたこと自体が殆どないのだ。

ヒスパノスイザやロールスのようなヴィンテージ・カーも数多く所有しているが、どちらかと言えばコレクションの域を出ない。それとは逆に綾には十四才の頃から溺愛している愛車があって、いつもはそれで出かけるのだが、時おり修三さんにとっ捕まると無理矢理このリモに乗せられたりする。

「綾」

「何?」

「昨日は大変ご苦労さまでしたね」

修三さんが言うのへ綾は意味のありそうな微笑を向けたが何も言わなかった。

「しかし強硬策とはいえ危ない橋だな。我ながら感心できない」

「やばいのはわかってたけど・・・。他に方法もないし」

「スティーヴは?」

「手間取ってる」

「どうしたものかな」

「待つしかないんじゃないの。あいつでだめならぼくも頼るところがないからさ」

「・・・そうだな」

言った後で彼はつけ足した。

「きみは彼と仲がいい、ずいぶん」

「そりゃ、まあ。・・・十年来の親友だから」

「私の方がきみとのつきあいは長かったはずだが」

綾は彼が何をいいたいのか分かったようで、複雑な表情をしている。

「違ったかな」

「また」 

「ん?」

「またそおいう嫉妬のしかたをする。ぼくとスティーヴは何でもありませんってば」

「きみが何でもないと思っているだけかもしれない」

「・・・修三さん」

「何ですか」

「ぼくと貴方が清廉潔白なのと同じくらい、ぼくとスティーヴは何でもないのっ」

「ほお」

「まだ何か言いたいの」

「実に微妙な表現だな、今のは」

綾はお手上げだというような顔をして中空を仰いだ。

スティーヴ・ロジャースというのは綾が言った通り少なくとも彼女にとっては最も信頼している親友であることに間違いはない。もとは傭兵として南米や北アフリカを渡り歩いていたような戦争屋だが、その腕を買われて企業がらみのオペレーションにも参加するようになり、現在ではそうした仕事の方を主に請負っている。綾より年は十二、三上で、気のいい頼りになる男だ。しかし、今綾が彼に頼んでいる仕事は彼の本職からはちょっとはずれていて、調査活動という方が正しい。実はこれにはかなり複雑な背景があるのだ。

つい二週間ほど前、ニューヨークタイムズのヘッドラインを飾ったのはフランス人大使の狙撃事件だった。ライフルの弾丸たった一発で標的にされた大使は即死状態だったという。未だに犯人の背景すら明らかにされていないが、これがそれに先立つ一連の事故や事件から派生しているとは当事者たち以外誰にも想像がつかない以上、それも当然と言えたかもしれない。

そして昨日、都心にあるホテル・グリフィンの庭園でイギリスの海運王と言われるノーマン・レスターが狙撃された。新聞によるとこれも見事な仕事で、弾丸は全く狂いなく脳を撃ち抜いていたそうだ。

「まあ、ともあれ」

修三氏が言っている。

「戒厳令はしばらく撤回できそうにないな」

「うん」

綾はしかめっつらをして頷いた。

      

*****

       

帝国全土が戒厳令下に入って既にほぼ一年になる。

始めは加納家とは全く関係のない企業の一連の事故という何の変哲もない日常の中にその根は埋もれていた。しかし国際線でのいくつかの偶発事故やホテル火災、生産量の多い一般普及車の部品トラブル、果てはいくつか重なった日本人の海外での誘拐や事故死、中にはとても事故とは思えないものもあったが、とにかくそういうその時点では大して際立っていないけれども偶発にしては多すぎる日本企業の事故やトラブルの多発が綾にはどうにも気にかかって仕方なかった。

そこで彼女は麾下の調査機関を通じてそれらのデータを集め始めたが、その矢先、今度はついに乗客二百数十名を乗せた国際線のボーイング機が墜落するという大惨事が引き起こされた。調べてみるとこれが単なる事故としては奇妙な点が多く、過去のいくつかのトラブルをつきあわせると意図性さえ感じさせるほど共通点が多いのである。

更に調べてゆくにつれて浮き上がって来たのが、実態の不明な "Shadows of Snow Strom" という機関の名前だった。しかもその中枢にあるメンバーが、ヨーロッパにおいてはかなりな地位にある人たちではないかとまで囁かれているらしいのだ。ただしはさすがにそのプロテクトが完璧で、彼女の調査網でさえひっかかって来たのは中央からは程遠いメンバーの名前ばかりだった。

始めは自分たちとは無関連だと思っていた事故の数々も、これがもし日本の企業をターゲットにしたものであるとすれば他人事ではない。そういう目的性があるとするなら、遅かれ早かれ加納家が標的にされるのは目に見えていたからだ。なにしろ図体がばかでかい。狙いうちにされたらどこだって当たってしまうのである。

とりあえずそうした意図性に対処すべく戒厳令をしいたのだが、それから間もなく事が起こり始めた。その中でも最大の事件、それがアメリカで稼動している原子力発電所のひとつで熱伝導装置のパイプに亀裂が発見されたという報告書だった。万全を期して通常のメンテナンスに加えて新しい点検方式を導入した結果だったから、リアクター自体が緊急停止するまでには至らずにすんだが、ほんの数週間前のインスペクションでは確かに異常なしとされていたものだった。点検方式から来る齟齬であるならまだしも救いはあるが、元々のデータが改竄されていた可能性も捨てきれない。どちらにせよ万が一にも騒ぎになれば事故に至らなくても世論がだまってはいないだろう。さすがにこれには綾も血の気が引いた。

しかし同様のことがエアラインにもホテル関係にも多発し始めるに至っては、ことに多くの人を巻きこむ恐れのあることでもあり、座視できることではなくなって来たのである。

加納家の調査網だけではどうやらそれが限界のようだったので、綾はスティーヴにその経緯を話して調べてくれるように頼んだわけだ。調査活動というのは本来彼の専門ではないが、この場合視点と人脈を変えてみれば別の角度から何かわかるかも、と綾は思っていた。スティーヴには綾に頼まれるとイヤとは言えない理由がいくつかあって引き受けてくれたのだが、なかなかどうして敵も尻尾をつかませない。それでもフランス人大使アンリ・フュッセやノーマン・レスターの名前を引き出して来てくれたのはスティーヴだ。しかしそれより上がどうにもわからない。

そうこうするうちにもあらゆる方面での妨害が荒れ狂い、防ぎきれなかったところで"事故"による犠牲者も一人、二人ではなくなってくると悠長にかまえているわけにもいかなくなって来たのだ。事によっては余計相手を刺激することになりかねないのは分かっていたが、もともとやられっ放しでじっとしているのが性に合わないのは綾ばかりではない。

修三氏も綾もよくよく考えたのだが、反撃に出ることに意見が一致したのはひと月ほど前のことだった。

prologue original text : 1996.9.9〜10.15.

revise : 2009.5.6.+6.13.

revise : 2010.11.29.

   

  

© 1996 Ayako Tachibana