次の朝、快晴の空から降り注ぐ陽光を浴びて、二人は約束通りピクニックがてらの遠乗りに出かけた。大樹の緑に木洩れ陽が遊び、初夏の風が優しく吹き抜けでゆく。ウォルターは自分で言うほど馬に乗るのが下手ではなく、綾が無茶をしなければ、ついて行くのは難しくないようだった。

かなり遠くまで来たと思ったのに、まだ敷地の中なのには彼も呆れかえるしかなかったが、 それよりもウォルターが目を奪われていたのは綾の操るサラブレッドの見事なまでの走る様子だ。まるで馬と一緒に生まれて来たみたいに自在で、かなり重いはずのその四肢は信じられないくらい軽く、走るというより舞うように駆けさせる。 しかもこれが昨日の夜、高慢な口をきいていた姫君だなどとは夢にも思えないくらい彼女の表情は無邪気で、それでいてひとつひとつが鮮烈にウォルターの心に残った。

このまだかわいらしいと言っていい十七才の少女の頭の中に、垣間見ただけでも複雑で皮肉とわかる論理が構築されていること自体が驚きだったが、 それと同時に彼に笑いかける笑顔も馬に話しかける声も透明なくらい生き生きとして明るさに満ち、ダンが言っていた通りの野生児らしい綾の素顔は、 決して傲慢にも冷酷にもウォルターには映らなかった。

光と闇 ―― 綾にはその二つの側面がある。そしてそのどちらもが本当の彼女だ。

十七歳の少女にそれが混在することが奇跡に等しいことだったが、それだからこそウォルターにとっても綾は二人いる女の子ではなかった。そして綾の方もこの十七年間、過去にたった一度だけしか感じたことのない共鳴をウォルターのおかげで思い出しているのも事実だった。

十三才の時に彼女は一生に一度しかお目にかかれないような男に惚れて ―― しかも二十才以上年の離れた   ―― 気が狂ったみたいになっていたことがある。

彼の方も綾に夢中で当然行く所まで行きついてしまったが、年のことを抜きにしても、あらゆる事情が絶対にデッド・エンド以外を許さなかった。たった一週間だけ休暇を一緒に過ごし、このまま死んだほうがましだと思うような別れ方をしてから、立ち直るのに一年は軽くかかったほどだ。

それ以来何人もいつどうなってもおかしくないような相手に不自由しなかったにもかかわらず、彼の方に恋人がいたり、こいつはお友達にしておきたいと思うような奴だったりで、 幸か不幸か恋愛までは結びつかなかった。けれども多分、ウォルターが綾にとって特別になりえたのは、十三才の頃に恋した男と正反対の性質だったからだ。

早くに両親を亡くし他人の中で育って、しかもニューヨークのような厳しい現実の中で生きて来て、 決して明るい側面ばかり見て来たのではないはずなのに彼は本当に優しい。綾にはそれが彼の曲を聞いているだけでわかる。そして同時に彼の曲には、どれほど力強いメロディ・ラインにも哀しみが同居していないものはない。それがウォルターの言う、 淋しい"部分なのだろうということも簡単に理解できた。

綾と同じように人間という生き物に失望させられていることは確かなのに、それでも彼はそれを許すのだ。綾は本能的にそれと戦ってしまう。だから彼女にとってウォルターは安息の陽だまりには成りえたが、それだからこそ二人に未来はありえなかった。

「もうひとつ見せたい所があるんだけど、行く?」

「いいよ」

昼下がりの木陰でシェフ特製のピクニック・ランチを美味しくいただき、一休みしていると綾が言う。二人はまた馬に乗って、流れる水面に戯れる光や風の渡る音色を楽しみながら、 ゆっくりと馬を進めて行った。

十分くらい行くと小道の向こうから花々の甘い香りが漂って来た。

「シークレット・ガーデン」

綾がいたずらそうに笑って言った。

「ここに遊びに来るゲストでもね、これを見せることはめったにないんだ」

綾は言って馬から降りると門を両側へ開いて馬に戻った。

ウォルターを促して中に入ると、彼が正真正銘言葉もないほど驚いているのへ満足そうに微笑んでいる。

「どう」

「すごい・・・。これ、全部バラ?」

「そう。殆どがオールド・ローズやイングリッシュ・ローズ。花屋のバラとは大違いだろ。手は入れてるけど気候に合ったのか野生化しててさ、香りもすごいんだ」

「・・・・・」

繊細な細工を施したブロンズの門にはかわいらしいピンクのヒーロが絡まっている。

そして視界の遥かかなたまであふれかえるように咲き誇っている花々は幾重にも重なった花びらが見事な真紅のブレイス・ウエイト、気品のあるグラハム・トーマスのイエロー、 葉よりも花の数の方が多いほど華やかなピンクのオールド・ブラッシュ、純白の野バラ、それにかすみ草のように小さな花弁のバレリーナもやはりバラの一種だ。 数えあげてゆけば、おそらくきりがないだろう。

「庭師の話だとね、四〜五百種のバラがあるって言うよ」

「五百って、・・・バラってそんなに種類があるのっ」

「らしいね。今は丁度花が一番見ごろな時期だし。・・・花期はどれも長くって、クリスマス近くまで咲いてるのもあるっていうけど・・・」

馬を厩舎につなぎ食べさせてやってから、二人はしばらく広いバラ園を散歩することにした。

鳥の囀りと時おりの羽ばたき、風が葉を揺らす音、それくらいしか聞こえてこない庭園に、むせかえるようなバラの芳香が満ちている。まるで侵入者の影など意に介さず楽園の平穏を享受する花々はあまりにも美しく高雅で、空気の流れを乱すのさえ罪のように思えた。

「どのくらい広いの」

「さあ・・・。4〜5ヘクタールくらいはこの調子だって聞いた気がする」

「信じられない。でも本当にすごくきれいだ」

造園の妙と咲き乱れる花々を楽しみながらしばらく歩いていると、ふいに綾が言った。

「お茶にしない?」

「お茶って・・・」

ウォルターが不思議そうな顔をすると、綾は笑って少し先を指さした。木々の緑に隠れるようにして小さな建物が見える。

綾について行ってみると、現れたのはひっそりと佇む小邸宅で、純白の外装は本邸の計算されつくした壮麗な様子とは逆にギリシア様式の素朴な色彩を持ち、 その描線は人ではなく自然が描いたもののように背景に溶けこんでいた。ハイダウエイと言うのにこれくらい相応しい建物もきっとないだろう。木の淡いブルーに塗られた扉もすでに色あせていて、時の経過を伝えている。中に入ってみるとそれほど天井も高くなく、木のフロアも踏みしめられてすっかり光沢を失っていた。 内壁も無造作にモルタルを塗りつけただけのような荒い仕上げに白いペイントをほどこしてあるだけだが、それも所々欠け落ちている。

けれども本邸の華麗なロココ様式に少々圧倒されて辟易していなくもないウォルターの目には、この素朴なカントリー・スタイルの古い家が妙に新鮮に感じられた。何よりもあのオールド・ローズがあふれるほどの庭園に最も相応しいのは、計算されつくした美を誇る建物よりも、放置されて時と自然が護(まも)って来たようなこんな家なのに違いない。

「昔はね、庭師のための建物だったらしくてこんなはずれにあるみたい。でもあんまりこの庭にぴったりなんで手直ししたんだって。だから部屋もそんなに多くないよ」

言って綾はウォルターを促しダイニングらしいスペースに案内した。テラスへ通じるドアを開けて空気を入れ換えながら、綾は座ってて、と椅子を指した。シンプルな鋳鉄のシャンデリアには蝋燭が何十本も立てられていて、カップボードもテーブルや椅子も飾りけのない、しかも古い木製のものだ。 それにエナメルをほどこしたアンティークなセラミックのストーブが見える。

綾はケトルを火にかけて、カップボードからティ・セットを出しながら言っていた。

「アッサムとダージリン、あ、ローズ・ティもあるな。どれにする」

「綾の好きなのでいい」

「じゃあ、アッサムにする」

しばらくしてお茶が入ると彼女はティ・セットをテーブルに運び、サーヴしてから彼の向かいの椅子にかけた。

「どうぞ」

「ありがとう。・・・わあ、いい香りだ」

ウォルターは嬉しそうに笑ってしばらくその香りを楽しんでいたが、ふいに表情を曇らせて深いため息をつくと綾を見た。

「ね、綾」

「ん?」

「昨日まではね、ぼくってすごく幸運だなって思ってたんだけど・・・」

「昨日まで?」

「・・・言っちゃおうかな。笑わないって約束してくれる?」

「何なの」

「約束してくれないと、とても言えるようなことじゃない」

「いいよ、わかった。笑わないから言ってごらん」

「本当?」

「うん」

「じゃあ言うけど、初めて本当に好きになった女の子が手の届かない人だなんて、やっぱりぼくってすごく不運なのかも・・・」

「・・・・・」

「って、思ってさ」

「それって・・・」

綾は驚いた顔で彼を見ている。

「ほんと言うとね、初めてヴィレッジのライヴ・ハウスで綾を見た時からだったんだと思う。言っただろ、きみはぼくの夢の実体化だったって。 わからないかも知れないけど・・・。つまり、ふつう人種って見ると大体わかるじゃない。東洋人か西洋人か、それともアフリカの方とかアラブの方とか、 そういうはっきりした外見上の差っていうのはさ」

「・・・うん」

「でもそれと同じくらいはっきり精神性の差が見えるっていうの・・・、わからない? きみは日本人でぼくはアメリカで生まれて、育った環境も言葉もまるっきり違うはずなのに、同じアメリカ人よりもずっときみの方がぼくに近いというか。 それこそ外国の言葉も通じない人ゴミの中で、突然英語が聞こえて来たみたいな感じだったんだ。初めて綾を見た時ね」

「・・・・・」

「国が文化を共有する人たちの集まりだとするなら、ぼくと同じ文化をきみは共有している、というか・・・。うまく言えないな、ごめん」

綾は首を横に振って微笑した。

「わかるよ、それ」

「え・・・」

「ぼくも同じこと考えてた。昔からぼく自身がそんな風に人間を二つに分けてるから。ウォルターはこっち側だって直感的に思ったよ。 そうじゃなかったら、バックアップなんて引き受けない」

「綾」

「でも、それで?さっきの運が悪いって話、どうして」

「そりゃ決まってるじゃない。きみってRMCの会長のお嬢さんだろ。それってここへ来るまで実感なかったからさ、あまり気にもしてなかったんだけど、参るよね。 それがこんなお城を持ってるってことだとなると。・・・ごめん、忘れて。つまんないこと言った」

「ふうん・・・」

「なに」

「そんなにあっさりあきらめられたら、女の子としては立つ瀬がないよね」

「どうして」

「ね、ウォルター。ぼくが素直でかわいらしい性質してないくらいわかるだろ」

「なんとなくは・・・」

「自分から迫れるってタイプでもないし。そこまで言ってくれといて忘れてって言われちゃったら、どうすればいいわけ」

「どうって・・・」

綾は意地の悪い微笑を浮かべてウォルターの側まで歩いて来ると、テーブルにもたれた。

「そんなに自分に自信がないの」

「そおいう問題じゃないでしょう」

「そうかな」

「ぼくに自信があるとすれば曲を書くことと歌うことだけ。それだけあればじゅぅぶん世の中渡ってゆけるとは思ってるけど、 ・・・ぼくがきみにしてあげらけることなんてきっとそんなに多くはないし」

「そんなのわかんないだろ」

「今より幸せにしてあげられる自信もないのに無責任なこと言えないよ。そりゃ普通の女の子だったら、ぼくにだっていろいろ...」

「スクエア」

「ごめんね。こういう性格なんだ」

綾はいたずらそうに笑うと彼の額に短くくちづけした。ウォルターはびっくりして何も言えない様子だったが、 しばらくしてやっと、自分から迫れないって言わなかった、と尋ねた。

「そういう経験がないだけ。やってみるとできるかもしれない」

「へえ、じゃ、今までの彼ってみんな向こうから来てくれたってことなんだ」

ウォルターは不機嫌そうに言っている。

「一人だよ」

「え」

「一人だけ」

「うそだ」

「残念ながら本当です」

「他はみんなふったんじゃないの」

綾は笑ってその質問には答えなかった。

「もう四年前になるのかな。好きな人がいてね、別れるくらいなら死んだ方がましなくらい好きだった。でもどうしようもない相手だったから」

ウォルターは深いため息をついて、四年前?、と尋ね返した。

「そう」

当時の綾の年齢を、ウォルターは計算してみているようだ。

「さっきウォルター言っただろ。外国の言葉もわからない人ごみにいるって。ぼくが昨日言ったのもそういう感じ。 同じ空間にいるのにパラレル・ワールドみたいに平行線、っていうの。 ぼくを完全に理解できるなんて彼くらいしかいないって思ってたし、だからそれからずっと淋しいままなんだ、長いこと」

「なるほど」

「ウォルターだったら、とか思ってたんだけどな。あきらめられちゃうなんて残念」

「ほんとに?」

「うん。だから迫ってみようかな、と」

「ね、綾」

「何ですか」

「ということは、きみもぼくが好きってことなんだ」

綾は頷いた。ウォルターはまたため息をついた。

「・・・今までね、いつもぼくは女の子とつきあうと失敗しちゃうんだ。つい自分のイメージの中にある理想の女の子と重ねちゃって、で自分で失望する。 どの子も本当のところ普通の女の子でしかなくって、かわいくてよく笑って優しくて、でも頭の中はからっぽで何も考えてなくて・・・。 それにぼく自身も彼女たちの望むようなボーイフレンドにはなってあげられない。その繰り返し」

「ふうん・・・」

「何?」

「じゃ、これまで何人もガールフレンドいたわけなんだ」

ウォルターは口を滑らせたかな、と思ったが、ぼくももう二十四才ですから、と言いわけした。綾は笑っているが、彼の方はふいに真面目な顔になって尋ねた。

「きみにしてあげられることが、ぼくにはあるのかな」

「あるよ」

「どんなこと」

ウォルターの耳もとに唇を近づけると、綾は側にいて、と囁いた。

昼下がりの陽光があふれるアンティークなダイニングルームで二人は初めてくちづけを交わし、その夜はどちらも城には戻らなかった。

      

Book1 original text : 1996.10.15〜1997.1.15.

revise : 2008.8.26.

revise : 2010.11.28.

  

© 1996 Ayako Tachibana