「何で今頃降りて来るんだ。JALの203便」

綾はスイスに飛ぶ予定で成田までバイクを飛ばし、セイレーンに辿りつくやいなや野村機長にわめいていた。ウォルターと別れて家へ戻ってからすでに一年が過ぎようとしていた頃の事だ。

「天候の関係でコースを変えてたんですよ。大回りになってかなり遅れてるみたいですね。それがどうかしましたか」

「・・・・・」

「綾さん?」

「友達が乗ってるんだ。とおの昔に都心に着いてなくちゃならないのに・・・」

言いながら彼女は側の受話器をひっつかむと203便で成田に着くはずだったウォルターを迎えに行かせていたリモにかけてみた。ショーファーの答えでは思った通り到着が遅れていて未だに空港の側で待っているということだった。

実は今日、もう数時間もすれば日本でのウォルターのコンサート・ツアーの初日が都心のホールで始まってしまうことになっている。なのに彼はまだ会場どころか成田を出てさえいない。そんな無茶なスケジュール展開になったのは、例の大規模なライヴ・エイドのイヴェントに急にウォルターが二か所で参加することになったからに他ならない。

ファースト・アルバムのあとセカンドも軽くミリオン・セラーを超えて売れまくっていたが、次に発表されたサード・アルバムはついにUKチャートでも数週間に渡ってトップを独走し、その結果としてニューヨークでのライヴの他にロンドンでもステージをやることになってしまったのだ。ウォルターの性格上、ぜひ、と言われて、しかもこんな稀有のイヴェントともなれば、行けませんと言えるわけがない。ぎりぎりのところでスケジュール調整したものだから、おかげさまでスタッフはともかくウォルターだけ東京に着くのがコンサートの数時間前という信じられないようなことになってしまった。

綾も話を聞いて、どーしよーもない奴だな、と思ったが、そういうウォルターだから特別扱いもしてしまうらしい。そう考えてプライヴェート・ジェットを回そうかと言ったのだが、コマーシャルで飛んでも同じだからとウォルターが言うので成田までリモをやるだけに留めたのである。ところがこの結果だ。しかも都心の慢性状態の渋滞を考えると、とても時間までにホールに着けるわけがない。綾が考えている側で野村機長が言っていた。

「綾さん、すぐ飛べますよ。お急ぎでしょう」

「待っててくれる。友達送ったらすぐ戻るから」

「戻るって・・・。でも今から飛んでもジュネーヴでの会議に時間ぎりぎりにしか着けませんよ」

「わかってる」

「お友達ならお車か何か・・・」

「間に合うもんか。都心に近づいたが最後、渋滞に巻きこまれる」

綾自身ジャガーではなくBMWを出して来たのは車で時間に間に合うように空港に着くのが不可能だったからだ。さっさとバイクのキィだけ持ってセイレーンを降りようとする綾に機長が言った。

「綾さん。でも申し上げておきますが都心まで行って帰って何時間かかると思ってらっしゃるんです。今すぐ飛ばないと取り返しがつきませんよ。飛行機だって限界があるんですから」

「機長」

「はい」

「ぼくは待ってろと言ったんだ。聞こえなかったのか」

綾がこういう言い方をする時は逆らったって無駄なのだ。長年つきあっているとそのくらいわかるようになる。ひどい時には管制塔が濃霧で視界がきかないから引き返せと言うのを、降りろと言ったら降りろで押し切られて離れわざのランディングをやらされたことだってある。悟りはとおに開いているのだ。

彼は素直に頷いて何も言い返さなかった。綾が満足して出て行くのを見送ってから、機長の側にいたまだ若いコ・パイロットが言った。

「いつもながら本当にお父さまにそっくりですね」

「一言も反論させずに言うことを聞かせるんだものなあ」

彼は首を傾げて言い足した。

「まあ、それでいてこっちも素直に聞く気になるんだからねえ・・・。確かによく似てらっしゃるよ、全く」

もう十数年セイレーンを預かっている野村機長は言いながら笑っていた。

     

*****

     

「ウォルター」

綾はバイクをパーキングから出して来てリムジンの側でやっとウォルターを見つけると捕まえた。

「綾、どうしたの。こんなところにいるなんて・・・」

「送るから乗って、うしろ」

「え・・・」

「さっさとしろよ、間に合わないだろ」

「え、でも。荷物もあるし・・・」

「なにを悠長なこと言ってるんだっ、そんなもの車に放りこんどけっ」

「でもバイクなんてそんな恐ろしいもの・・・」

「ウォルター、あのね。東京のこの時間の渋滞がどんなもんか、その目でしっかり見せてやるから、さっさと乗れってば」

それでも彼は気の進まない様子だったが、不承不承尋ねた。

「スピード出さないでくれるかい」

まるで慌てた様子もなく言うウォルターに、綾は既にキレかかっている。

「綾ってば」

「ぼくが怒る前に言う事を聞かないとっ」

あきれかえりかけてヘルメットを投げてよこした綾の様子にウォルターはやっと覚悟を決めた。

ずいぶん前に彼は綾に言ったことがあるが、スピードの出る乗りものがとにかく苦手だ。未だにニューヨーク住まいをいいことに車さえ運転しないのだからバイクなんてとんでもない。けれどもこの場合、方法はひとつしかなかった。走り出してしばらくすると案の定ウォルターはわめいている。

「いやだーっ、綾、スピード落としてくれっ」

「わめくなっ」

「きみはぼくを殺す気かっ」

「誰があんたと心中したいもんか! 死にたくなかったらしっかりつかまって目でもつむっておとなしくしてろっ」

この五年前、修三さんにジャガーを買ってもらうまで綾はどこに行くにもバイクを乗り回していた。子供の頃の自転車代わりの50CCから始まって少しずつ大きなものに乗り換え、ジャガーが気を悪くしてるから≠ニ言ってBMWR65LSをガレージにしまいこんでしまうまでの数年間、バイクは彼女の身体の一部と言っても良かった。

ウォルターは綾が車やバイクのみならず、モーターボートからヘリ、セスナまで動かせると聞いて絶句していたものだ。まだこの頃は綾はジェットまで扱えなかったが、その後それの操縦を教えてくれたのは他ならない野村機長だった。ヘリは別だがセスナももともと彼に教わっている。言ってみれば野村機長にとっても綾は娘みたいに可愛い存在なのだ。

ともあれウォルターはまさかこうしてその綾のバイクに乗せてもらうハメになるとは思ってもみていなかったが、覚悟を決めてしまうと不思議に幸せな気分だった。ずうっと降りたくないなという気にさえなってくる。目を閉じて風の駆け去ってゆく音だけ聞きながら、彼は泣き出しそうだった。もう二度と触れることさえ出来ないと思っていた彼女の華奢な身体を両腕で抱いて、心中してもいいかな、とふとウォルターは思わないでもなかった。

そして、やっと二人がコンサートホールのがらんとした殺風景な裏手へ乗りつけた時には、開演の直前と言っていい時間になっていた。コンクリートの地面は午前中の雨でまだひんやりと湿っている。重い鉄の扉の前に機材用のトレーラー・トラックが何台か駐められて、無機質な光彩を放っていた。

「冗談だろっ。あと三十分もないっ。ウォルター動けるっ?!」

綾はホールの裏手へバイクを滑りこませるが早いか腕時計を見て大声を出した。

「なんとか・・・」

「じゃあ走れっ、間に合わなくなるぞ。あの扉(ドア)だから」

彼女はヘルメットを取りながら答えたウォルターに楽屋口を指さした。

「・・・ありがとう、と言うべきなんだろうな、この場合」

「だろうと思うけど」

「バイクじゃなかったら素直に言えたのに」

「あのねっ」

「うそうそ、冗談」

彼はくすくす笑って言うとバイクを降りて彼女の肩を抱き、頬にくちづけした。

「ありがとう」

「さっさと行けったらっ」

彼はドアのところまで駆けて行ってノヴに手をかけてから振り返った。

「聞いててくれるの」

「今日はだめ。飛行機待たせてるんだ」

一瞬淋しそうな顔をしてから頷いて、彼は扉の向こうへ消えた。

彼を待っているのがホールを満たした人々の喝采であることを綾はよく知っていた。けれども彼が待っているのはたった一人の賞賛であることを彼女は知らない。そして確実にスーパースターへの階段を登ってゆく彼と、実業家としての多忙に埋没して行く彼女の将来が決して重なりあうことなどないことを二人ともよく知っている。

綾は彼が行ってしまうのを見送るとバイクを反転させて空港への道を戻って行った。

    

*****

     

「大幅な遅刻だな。悲惨と言うより他ないね」

「だから申し上げたでしょう。押し切ったのは貴女ですよ」

ジュネーヴに着いたことを知らせに機長がサロンに顔を出すと、綾がかけていた電話を終えて彼を見た。

「はいはい、私(わたくし)がすべて悪いんです。よく知ってます」

「どうなさるおつもりですか。私もめいっぱい努力しましたが、・・・三時間以上の大遅刻ですよ。みなさんお忙しい方たちばかりなのに」

「んー」

言いながら彼女はブリーフケースを持ってドアへ歩いて行った。

「まあ、この際、飛行機が故障したとでも言っとくしかないな」

「綾さん」

「なに?」

「私たちのせいにされては困ります。まじめに仕事してるんですから。全く貴女もお父さまも・・・」

「機長」

「はい」

綾はにっこりして彼を見ると言った。

「今度一杯おごるからさ」

「・・・・・」

「じゃーな」

言って彼女がブリーフケースを持ち、出て行こうとするのを機長が呼び止めた。

「綾さん」

「ん?」

「マーテルのエキストラ五本で手を打ちましょうか」

「・・・・・」

「いかがです?」

重ねて尋ねられて綾は不承不承返事した。

「送っとくよ」

綾が出て行くのを見送って彼はにこにこしている。

「大丈夫ですか、機長。綾さんにあんなこと言って」

横で聞いていたパーサーが心配してくれるのへ彼はまあね、といたずらそうに笑っている。

「でも・・・」

「以前会長がね、大事な会議に思いきり遅刻されたことがあったんだ」

「はい」

「どうしてだったと思う」

「さあ・・・」

「恋人につかまって離してもらえなかったんだ」

「なるほど」

「おかげで出席者全員のスケジュールが狂いきってねえ・・・。それはもう大変だったんだよ。で、さすがに会長も言いわけしなくてはならなくなって」

「はあ・・・」

「それからもよく故障するんだなあ、このセイレーンはどういうわけか。・・・あの時はね、ヘネシーを送って下さったが。あ、そうだ。綾さんが送ってくれたらきみにも一本あげるからね。楽しみにしてなさい」

これが綾をして彼のことをタヌキ親父と言わせしめるゆえんなのだが、実際これくらいしたたかでないと修三さんや綾とはつきあえないのである。

実は野村機長が言っていたのは例の財団の集まりで、世界中から著名人の集まると言われるルネッサンス会議の時のことだった。普段の御膳会議なら遅れて申し訳なかったね、の一言で威厳を保っていればすむのだが、この時ばかりはそういうわけにゆかなかった。窮地に陥った修三さんはとっさに飛行機の話を持ち出したのだが、その頃セイレーンの機長に就任したばかりだった野村機長が機転を利かせてもっともらしく話を合わせてくれたらしい。

後になってそのとき帰路をセイレーンで送った出席者の一人からそのことを聞かされた修三さんはいたく感激し、野村機長が数週間後休暇で自宅へ帰ってみるとヘネシーのエクストラ・オールドが1ダースばかり届けられていた。

、というエピソードは十五年以上前の話だが、彼が結婚するまでしばらくの間そういうことが頻繁にあった。

お父さまが落ち着かれたと思ったら今度はお嬢さまか、やれやれ、と野村機長は思ったが、口に出してはこんなことを言っていた。

「マーテル五本はまけすぎたかな。もっとふっかければ良かった」

おかげでセイレーンはしばしば故障することで悪名が高いが、そんなわけもあって加納家は安泰なのである。

     

Book1 original text : 1996.10.15〜1997.1.15.

revise : 2008.11.17.

revise  : 2010.11.29.

 

© 1996 Ayako Tachibana