「どうしたの、ダン。浮かない顔ね」

夜になってダンが部屋のテラスで一杯やりながら考えごとをしていると、ドリーがやって来て声をかけた。

「そう見えるかい、やっぱり」

「ええ」

ドリーはもうひとつの椅子にかけながら答えた。

「ベンは?」

「寝ちゃったわよ。もう真っ黒に日に灼(や)けちゃって。いい夏休みよ、あの子は」

「だろうな」

「で、貴方は何を気にしてるの」

「姫のことだよ」

「と、ウォルターの」

「そう」

「責任感じてるんでしょう」

彼は頷いてため息をつくと、椅子に深くかけ直してドリーを見た。

「正直、姫がああまでマジで調子狂っちまうなんて思ってもみなかったもんな」

「綾ってああいう子だもの、ウォルターの性格もああだし・・・。この際行くとこまで行かなきゃどうしようもないわよ。いいんじゃないの、若いんだから」

「ドリー。姫が普通のお嬢さまだったらこんなに心配してないよ。少なくともおれには彼女が仕事・・・、いや親父さんを捨てられるとは思えないんだ。しかも彼の方は明らかにウォルターが気に入っていない。そのせいで姫は休暇を取らされたんだから」

「もう親離れしたっていい年頃よ、姫も」

「楽観的だよ、それは」

「どうして」

「きみは加納修三を知らないからそういうことが言えるんだ」

「どういうこと」

「考えてもみろよ。休暇を取りなさい、だぜ。しかもウォルターのレコーディングが終わるまで、ときた」

「それが何なの」

「はじめっから見切ってるよ、彼は。つまり姫が必ず自分から帰って来るって疑いもしてない」

「そうかしら」

「決まってるだろ。あの親子の仲の良さは、はたで見てても羨ましいくらいで、姫が思いっきりファザコンなのと同じくらい彼の方は彼女を溺愛してる。それが自分に隠れて男とできあがっちまって、あまつさえそいつと寝てるってどうせ知ってるのに決まってて、帰って来いとか別れろと言う代わりに考えてみなさい、だ。少しでもやばいと思ってりゃ、どんなことしたってひきずり戻してるよ。彼はそういう男だ。穏やかなのは外見だけだからな」

「そうかしら」

「ああ。確かに姫の落ちこみかたは普通じゃないし、それだけ本当にウォルターに惚れてるからだってのはわかるよ、でもさ・・・」

ダンはまた小さくため息をついてから続けた。

「上出来だろ、今度の仕事」

「そうね」

「正直おれだってウォルターの奴がここまでやるとは思ってなかったし、デヴュー・アルバムなんてかわいらしいもんじゃなくなって来たからな。だけどそれもこれも姫がいるからだろ。確かにあいつには才能がある。いい歌が歌えるだけの蓄積もある。でもな、今のあいつにとってはオーディエンスは姫ひとりなんだ。彼女のことしか考えてない」

「・・・・・」

「それはそれでもいいさ。そういうのも歌としちゃ聞けるからな。でももし姫が親父さんのところへ帰ったらどうなるか目に見えてるじゃないか。ウォルターがそれほど弱くないのを祈るしかないっての、わからないか」

ドリーはしばらく考えていたが、ふいに尋ねた。

「何故そうまで絶対続かないって決めつけてるの。貴方にしては一方的に不安がってるとしか思えないわ。何かもっと別に理由があるんじゃないの」

ダンは彼女を見たが何か言おうとしかけて、いや、いいよ、と言った。

「何なの」

「思いすごしだよ、おれの。いいんだ、どちらにしたってこっちは心配するしか出来ないんだから」

彼は苦笑してそう言い、視界に広がる夜の海に目をやった。

ドリーと話しながらダンが考えていたのは、しばらく前まだパリでレコーディングをやっていた頃の、ほんの短な幕間劇だった。綾とウォルター、そしてその頃レコーディングに加わっていた何人かが庭でセッションをやろう、という話になった。澄み渡った空の下でダンとドリーをオーディエンスにして演奏するのはきっと気持ちがいいだろうね、とウォルターが言い出したのだ。

城の中庭にある手入れの行き届いた芝生の上に機材を持ち出し、それを丁度眺められるような場所にダンはディレクター・チェアを据えて落ち着いた。ドリーはその側に寄り添って聞いていたが、ベンがおとなしくしているわけがなく、ウォルターの側にじゃれついて行ってちゃっかりエレクトリック・グランドの椅子に這い登っていた。

誰にとってもそれは一点の曇りもない空と同じくらい澄みきった幸福の中にあった午後だ。ウォルターのレコーディングは言うことのない順調さで進んでいたし、ダンにしても多少の心配はしていたものの綾の様子はいつも通りで、それほど深刻にもなりそうな気はしていなかった。その綾はウォルターのエレクトリック・グランドの側で彼の歌を聞いている。ダンが屋外のライヴも結構いいかもな、と思うくらいウォルターの声は伸びがあって力強く、本当に素直に前に聞こえてくる。それは彼の性質そのもののような歌い方と言っても良かった。

何曲か終わるとウォルターが何か綾に言っている。

「ね、綾、何でもいいから歌わない」

「えー、やだよっ」

「ちゃんと教えただろ、声の出しかた。練習してみよう」

「だって」

「聞きたいんだ」

「引き立て役にするつもりだろ」

「きみにはけっこう素質があります。先生が言ってるんだよ、信じなさい」

「んー」

「一曲だけでいいから」

綾はしぶしぶ承知した。

「あとで笑わないって約束する?」

「する」

「じゃあ・・・」

曲を決めて綾が歌い始めたのを見て、ドリーがびっくりしていた。

「あらやだ。綾が歌ってる」

「ウォルターが教えたんだ。いい声だろ、よく伸びてる」

「あらー」

しばらく聞いてから彼女は言った。

「百万ドルの歌声ね。デヴューする気はないかしら」

「言うだけ無駄だろ」

「もったいないなあ」

「それにさ、百万ドルで姫が買えると思う?安すぎだよ」

それは綾が歌い終わるまでのほんの数分の間のことだった。ドリーが先に気づいてダンの腕をつついたのだ。彼が振り返ると彼女はすぐ上の二階にある窓を指さした。ダンが見上げてみると窓の側に立って庭にいる連中を眺めていたのは他ならない加納修三だった。

別にそれ自体は何の不思議もない話である。もともとこの城は彼が所有しているものなのだ。彼がいたって何もおかしくはない。けれどもダンがふいに不安になったのは彼の表情のせいだった。、と言うよりも無表情と言った方が正しいかもしれない。彫像のように整った端整な顔からは何の感情も受け取ることが出来なかったからだ。少なくとも娘とその恋人を見ている父親の表情ではなかったし、かと言って二人のことを何も知らずに偶然来合わせたという様子でもなかった。

ダンがそのまま見ていると、それに気づいた彼は全く儀礼的な微笑を浮かべ、軽く一揖して見せた。それへ二人が吊り込まれるように返礼を返すと、彼はすい、と部屋の中に消えた。ただ、それだけの話である。

ドリーが横で言っている。

「いつもながら優雅でらっしゃるわねえ。それにため息が出るくらいハンサム」

ダンが我知らず呆然としているのには気づかずに、ドリーが窓を見上げたまま続けた。

「やっぱり心配してらっしゃるわけだ。姫も女の子だから」

「・・・ああ、そうだな」

ダンはうわの空で返事した。

けれどもその夜の夕食のダイニングに修三氏は現れなかった。翌日になってダンが綾に親父さんどうしてるんだ、と訪ねると、ここひと月くらい東欧の視察に回ってるけど、そろそろ東京に帰ってるんじゃないかな、と言っていた。

ダンはそれ以上何も聞かなかった。

   

Book1 original text : 1996.10.15〜1997.1.15.

revise : 2008.9.23

revise : 2010.11.29..

 

© 1996 Ayako Tachibana