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1984年から1988年までデヴィッド・ギャムソンはスクリッティにおいてキーボードを担当、同時にグリーンと共同でソングライティングにも携わっていた。音大で学んでいたので、グリーンやフレッドより遥かに音楽的な教育を受けていることになる。彼の父親も音楽家だが、イタリアでオペラに携わり、その後ニューヨーク・フィルハーモニックでレオナルド・バーンスタインのアシスタントとなった。

フレッドのその頃のガールフレンドがデイヴと同じ大学に通っていたため、それが彼らの出会うきっかけとなったようだ。

彼はスクリッティ以前にバンドに参加したことはなく作曲家になりたかったらしいが、クラシック界の状況は彼にとって好ましいものとは言えなかった。

大学を辞めた後、ニューヨークで16トラック・スタジオのアシスタントとして働き始める。このスタジオは企業のためにオーディオ・ヴィジュアル・プレゼンテーションを制作していたが、ここで彼は約一年音響効果のライブラリ作りをやっている。それは小さなリール式のカートリッジテープの音をチェックして、ラベルと合わせる仕事だったそうだ。

ちょうどそのスタジオに16トラック・マシンがあり、彼は気まぐれにジ・アーチーズの“シュガー・シュガー”を録音してみたが、それにはフレッドも参加していた。

フレッドがそれをズィー・レコードに持って行ってみることを提案したためデイヴはその通りにしたが、ズィーのスタイルには合わなかったようで結局ラフ・トレードからリリースされることになった。つまりこれがこの二人とグリーンの出会いのきっかけになったわけだ。デイヴが休暇でロンドンに出かけた時、初めてグリーンを紹介されたという。

またデイヴは“ノー・ターン・オン・レッド”もリリースしたが、これはNMEのコンピレーション・カセットでお目見えした。

デイヴの書いた曲をグリーンが歌うという組み合わせで録音されたのが、後のスモール・トークであるが、デイヴの曲でありながらスクリッティでのリリースとなったのは、このバンドがすでにファンをつかんでいたからである。しかしナイル・ロジャースをリミキサーに迎え、収録に大変長い時間がかかったこの曲は、グリーンがマネージメントを変える決心をし、ラフ・トレードから去ったためリリースを見合わせなければならなくなった。グリーン、デヴィッド、フレッドというスクリッティ・ポリッティのラインナップが出来上がったのはこの頃のことである。

グリーンとデイヴはラフ・トレードで“エル・イズ・フォー・ア・ラヴァー”という曲も収録しているが、同じ理由でリリースはされていない。その後、この曲はアル・ジャロウのアルバムに提供された。グリーンによると自分でリリースするには、歌詞の面でしっくり来なかったからだと言う。スモール・トークの方は、後に“キューピッド & サイケ85”の中に収録され、また90年代の始め、英国でマーキュリー・フォンカードのCMにも使用された。

スクリッティ以降、デイヴは多くのアーティストとソングライティングを手がけ、プロデューサーとしても活躍しているが、最近ではミシェル・ンデゲオチェロの作品などがよく知られている。ワーナー・ブラザースでスタッフ・プロデューサーの仕事をしていた時期を経て、現在はワールドズ・エンド・プロデューサー・マネージメント・カンパニーに籍を置く。

デイヴの音楽性がスクリッティにもたらした影響は大きく、その後、彼が関係した作品の中にも、スクリッティ時代のキーボード・サウンドが生きているものがある。例えば1988年から1989年にかけてのものがそれだが、スクリッティ以外にデイヴが関わった音楽プロジェクトはそうした意味でも大いに一聴の価値があるだろう。関連作品についてはこちらをご参考のほど。

 

(この文章は SCRITTI POLITTI UKの原文テキストに一部加筆したものです。)

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