Natty Design or grand illusion?

NME magazine - September 1982

Interview by Chris Bohn

 

PART 2

 

●スクリッティ・ポリッティは知的側面を強調する一時期を終えたわけですが、今後作品のインスピレーションをどんな所から得るつもりなのですか?

それは自己の内面でのみ許される質問だよ。論理を重要視した時代というのは、得る物もあったけれど自責も残る。それが表面的なものに終わったということ、それは自己否定につながることでもあるんだ。我々が擁立して来た政治論理特有の表現で簡潔化される、原理的説明を超えたものについての自己否定。それは基本的にはポスト・マルクス主義とも言うべきもので...。ああ、またやっちゃったよ。こんな話し方をするつもりじゃないのに。これ、NMEと話す時だけだよ、こうなっちゃうのは...。

 

●私が例の「アサイラム...」のレヴューで書きたかったのは、貴方のアプローチが、聞き手を元来ポピュラー・ミュージックを通して得るべき体験から、引き離すであろうということだったのですが。

いや、そうは思わないな。ぼくはもうこんな風には喋らないし、ぼくらの作っている音楽について、こういう風に考えることもめったに無くなって来ているんだ。ホントだよ!! 本気で努力してるんだから。すべての点においてね。

 

●つまり、ウエールズから帰って来てからということですか。

そう言っていいかどうか...、と言うのはぼくは病院から戻ってきたわけで、そこでは...、えっと。つまり病院にいた時は全てやめてしまうか、新しいことを始めるために戻ってくるかの間で悩みまくっていたわけ。で、そのうち本当にまたやりたいという衝動にかられているのに気がついたんだ。心からやりたいと思っているってことにね。多分実際にはそれまでのスクリッティは、その目的性にもかかわらず、とらえどころの無い地位を築くことしか出来なかったということにも関係してるんだろうな。ぼくにはもうそれが正当なことだとは思えなかったんだ。

 

ぼくが本当にやって来たことと言えばパンクに惹かれてやり始めて、とりとめもなくその政治性について論じることに取り付かれてたってことだけだね。他の連中にとっての方が、それは重要性のあることだったような気がする。例えばベーシストのナイアルなんかは今でも左翼主義者だし。でも戻って来てからは力点が変わったよ。「これがぼくの最後の結論だ! 次に来るものは歌なんだ。やりたいのならやってくれ。やりたくなければ、ぼくは他を探すから!」って風にね。

 

で、まず自分に試験期間を与えたんだ。6ヶ月の間に楽しめるか、うまく行き始めるようなら続けよう、って。で、そうなったのさ。 ロバート・ワイアットや他の人たちと一緒に仕事した「ザ・スイーテスト・ガール」をリリースしただろ。すごく楽しかったんだ。実に面白い挑戦だったよ。

 

●「ザ・スイーテスト・ガール」を引き合いに出すのは、よく考えると大胆ですね。日和見的に ― こんなラヴ・ソング、ぼくが書いたんじゃないよ、みたいな...

そんなつもりは全くないよ。 ― 異種混交というか ― 確かに異質なものや矛盾する要素が盛り込まれてはいる。いろいろ読んだ物から取り入れているものもあるし、また同時にそれ自体で異なった解釈に供してもいるんだ。賭けつなぎ(両方に賭けて丸損を防ぐこと)とか、そういうことをやっているつもりはまるでない。少なくともスイーテスト・ガールを引き合いに出したのには、巧妙な解釈とポップにおける巧みな叙情性を条件付けようとしたからだよ。ね、つまりポップの叙情性に近づこうとするちょっとした試みというか...。作為的みたいな言い方をしたけど、でもそうじゃなくてね。

 

●一連の「ザ・スイーテスト・ガール」におけるプロモーションは、妥当な感じのするものでしたね。ジャケットにもファイン・アートを使ったりして。(ご存知ない方のためにつけ加えると、スクリッティのレコード近作三枚は、煙草や香水、ブランディといった、いわゆる「the good things in life」のパッケージングをパロディにしたものである。)

ファイン・アートじゃないよ。スタイリッシュで消費可能なものばかりだけどね。

 

●そういうのは他人のスタイルをうまく利用しているってことになりませんか。

まさか。ぼくはそうは思わない、ばかげてるよ。デュシャンに向かって「それはあなたの尿瓶じゃありませんね」なんて、余程あつかましくなきゃ言えないじゃない。何でも自分の周りにあるものは、普通躊躇なく取り上げて使うものなんじゃないかな。すでに普及しているものを有機的に統一するということをぼくは好んでやるんだけど、問題はそういった既にある要素をどう関連づけるかだと思うよ。そう何もかもに自分のスタイルだのエゴだの特異性だのを刻みこむ必要はないだろう? ぼくらが使ったパッケージングは充分機能していると思う。あれはスタイリッシュだし、人目を引くものだから持ってきたんだ。それに何か感じさせるものがあるし、気が向けばあれこれ考えを巡らせてみてもいい。それか、ただ皮肉で魅力的なジャケットだと見るのもいいしね。

 

●「Gettin' Havin' Holdin'」にある「男が女を愛するとき...」に顕著なように、よく使われるフレーズを歌詞の中に盛り込むことは、スクリッティらしいエッセンスをもろともに失ってしまう危険性もあるわけですが?

とんでもない。それは自分を抹消してしまうに等しいことだよ! 問題は独自性がそれ自体の表現形態を獲得して残り得るということだ。座って「これは本当に自分だろうか」なんて突き詰める必要なんてどこにもない。もちろんそれは自分の作品で、でもぼくらが以前やっていたように、...それに他の人たちは今でもやってるんだろうけど、それについてあれこれ悩むのは全く無意味なことなんだ。それは独自の思い込みに自分を拘束する役にしか立たないし、退屈なだけだからね。

ああいうラヴ・ソングによくある言葉を使うのには、ちゃんとした理由がある。MORポップのように、長い間にそれが無意味化して、すべてがどこかで聞いたものになっているからなんだ。でもその言葉は真に意味するものを伝える媒体(隠喩)として機能している。表現性と言ってもいいかな。言い換えればそれを取り囲む歴史が既に作られている点から見て、大変重要なものでもあるということだね。それはブラック・ポピュラー・ミュージックにおいては指標であり、歴史の様々なポイントにおいて、きわめて重大な要因でもある。現時点においてそれを使うことは、78/79ごろのぼくらやPiLが意図的にやっていた表現 ― つまりベースをかき鳴らすとかドラムを響かせるとかで表現していたもの、正直に言えば全く機能していなかったやり方だけれども、それを暗号化して語るのには適切な方法だと思ったんだ。

ソウルにおける言葉の中には強さとスタイルとパワーが融合していることがわかる。例えばThe Staple Singersに初めて遭遇した時、それは全くそれまでと違った体験なんだ。彼らの音楽の中にある目に見えない仕掛けが、いろいろなものを聞き手から引き出すんだよ! そのセクシュアリティだのリズムだの言葉だの、全てがパワフルでポピュラーなんだ! それはエレクトリック・ボールルームに固執して、トムトムのリヴァーヴやエコープレックスを通してしゃべくるのよりもずっと効果的なやり方だと思えたんだ。

 

●でもソウルっぽい言葉に後退するのは、自分らしい言葉を使うことに比べてある種の挫折を意味するとは考えなかったんですか。

後退だって?! そりゃ、あまりにもひどい言い方だと思うよ! ぼくは全くそんな風には考えていないんだから。今ぼくらに必要なのは再解釈、つまりジャック・デリダが言うところの再読なんだ。とにかく物事を掘り返すことが絶対に必要なんだよ。「がんばれ、おまえは間違っていたんだ」と自分に言い続けることこそが必要なことなんだ。何もかもが解釈され直して、十の曲が(実際には9曲。少なくともスクリッティのLP 「Songs to Remember」のデモ・テープではそうだった。)、ある意味ではソウルを再検証したもの、つまり当ても無く「何を掘り起こせるか」と悩むようなこととは無関係なものだと言っていい。

昨今、目新しいことが何か出来るのかと考える人は多いよ。でもそれはぼくらのやっていることが目新しいことではないという意味じゃないんだ。だって例えば、ああいう曲をベン・E・キングが歌ってる所なんて想像もつかないだろ? 重要なのはスタイルだのジャンルだのを利用するということなんだ。だからそのソウル特有の言葉に「後退」するという考えは、全くのところ納得できないな。

 

●貴方の曲で物語調のものはめったになくて、一連のイメージを想起させるような作りになっているんですが、それは何か特定の反応を狙ったものなんですか。

うん、物語調になることは殆どないね。でもそれで何か人を変えるような効果を意図しているというわけではないんだ。その方がずっと直感的なひらめきをもたらすものになるとは思うけど。気の効いた曲ってのはあるけど、でも「お利口さん」になりすぎた曲ってのはないな。スクイーズやB・A・ロバートソンだの、それに10ccみたいにね。自意識の強い言葉遊びや議論のようなものでもない。ちょっと歴史に注意を喚起するようなところはあるかもしれないけど、それほど大したものじゃないんだ。

昨日ちょっと聞かれたんだけど、一般的なHaircut 100のシングル以上の要素がぼくらの曲にあるかどうかってね。それに対する大きな解答の一つとして、ぼくはHaircut100のシングルが実際思われている以上の価値を持つものだと思っている。曲を創る時点においては、それを作りたいと願うほど私的なものになるけれども、だからと言ってつまらないアナーキックな相対主義に陥るものでもないと思う...。

 

●では、「Sex, Sex, Sex」についてはどうですか。あれはどういう曲なんでしょうか。

さあね。どれもおかしな曲だと思うけど。まあまさか「ぼくはジャック・デリダに恋している/読めば何をするべきかがわかる/引き裂かれた/ぼくの愛するきみの気持ち...」なんてフレーズを誰も本気に受けとらないよね。そんなのおかしいだろ? で「Sex, Sex, Sex」は「持って回るなよ/分別なんて持ち合わせてないんだから/軽くいこうぜ」って、つまりこれはぼくとポップ・ミュージックというジャンルそのものとの関係をちょっとしたパロディに仕立てたものなんだ。でもそれが主題ってわけでもない。一番大切なのは、いいレコードを作ることだからね...。

 

●形式ばってないですね。

さあ、どうだろうね。確かにおかしな歌だとは思うよ。でもよく出来てるよ。ぼくが書くと実際本当にうまくいってると思う。

 

●以前スクリッティ・ポリッティの曲が、人の人生を変えるような力を持つものになればいいと思うと言ってましたね。

ぼくが出会った音楽が自分に影響したような力をね。ぼくの音楽も、自分が一番好きな種類の音楽が持っているのと同じ影響力のあるパワーを持てれば、とは思う。言葉にするのはとても難しいものだけど。つまり地図をつなぎあわせるように、イデオロギーや精神、リズムやセクシュアリティについて論じることは出来る。それかフェイスのように様式や文化を反映したものについてならね。けれども実際のところポビュラー・ミュージックという現象は、もっとずっと複雑なものなんだ。それらすべての要素がからんでいるわけだから。ぼくはそういうものすべての一部でありたいと思うし、全てを同じレベルで重要視してゆきたいとも思っている。でもそれは意図的な方法論に従ってなしうるものでもない。直感的なものだし、その有効性を予見することは出来てもね。

 

●完全性を追求する上で...

ちょっと待って、それはまずいよ。どうしてぼくらが完全性を追及しているなんて思ってるの?

 

●じゃあLPのセッションのような感じ、音楽の個性がはっきりしない性質のものであることについては...

それは多分誰もスクリッティが何者なのか、まだ分かっていないからじゃないのかな。セッションみたいに感じるのはあのLPが親しい仲間同士のグループで作ったものだからだろうし。でもレコーディングそのものは、そんなものじゃなかったんだよ。ものすごく熱を入れて作ったんだから。

 

●ともかくも、以前のスクリッティから受けた印象と突き合わせてみて、どこにスクリッティらしさを求めればいいんでしょうか?

作っている時点での意図性とコンディションから来るものだと思うよ。誰が作って演奏しているか、とかね。ぼくはあれが理屈抜きでよく出来たレコードだと思っているから。あの作品の個性は、良く出来ているということそのものと、関わった各個人からくるスタイルだと思うんだ。それには常識的な答えをしないとね。そういうものだから...

 

●その常識的なレベルね、それってグリーンがパプリック向けの顔で人前に出て来ているような感じがするんですが。

それはしたくなかったんだよ。でも出てきてすっきりさせる必要は大いにあったからね。前にも言ったけど、もし自分の音楽がポピュラーなものにならなくてもいいんなら、ポピュラー・ミュージックにリップ・サービスして見せる必要なんてないんだ。ポップ・ピックスをやるとか、スマッシュ・ヒッツに歌詞を提供するとか、そういうことをやれと言うなら喜んでやるよ。何の損にもならないことだしね。そういうのを陳腐なやり方だと思われるのはイヤだけど。だってそうじゃないんだから。他のいろんなことに比べて、今のところ一番面白いし、目立つからね。

 

●ここしばらくの間、ポップについて話題にする人が多くて、うんざりして来てるんじゃありませんか。

いい加減あきあきだよね。新しいポップが生まれるなんてヨタ話は既に終わってるよ。始めにぼくらがそういう話をし出した時には、そう悪くない発想で、それをやらなきゃ何をやるのみたいな感じだったもんだけど、今じゃポップがどうのこうの口にしたくもないよ。2年程前なら喜んで話したけどね。

 

●それにスクリッティのパッケージングや売り方を見ていると、ポップのマーケティング・プロセスを重要視しているように思えるんですが。

マーケットに出ている動きに着いて行かないなんてのはバカげてると思うよ! ぼくらは物事を共時的かつ通時的に見ているんだ。マーケットや余暇時間の消費というのは、興味を持つのに大変面白い課題だよ。

 

●お金の話になりますが、スクリッティのLPに入った9曲のうち6曲は既にシングルで発売されていますよね。

珍しくもないことだと思うけど。今までぼくはさんざん人のサイフについて気にして来たけれど、今大事だと思ってるのは別のことだしね。それでも細かい話がしたいんなら、例えばぼくはマイケル・ジャクソンが「オフ・ザ・ウォール」の全曲をシングル発売したとしても、文句を言う気はないよ。誰だってそれが気に入らなきゃレコードを買う必要はないんだから。悩むほどのことでもないだろ。

 

●「アサイラム...」に2000枚の直筆サイン入りポスターをつけたことについてですが、何か重要な意図があったんですか?

ちょっとした洒落っけみたいなもんだよ! だって面白いじゃない。サインして限定版にしたらどうかなって思っただけなんだから(笑)。みんなポスターを欲しがってたしさ、だからあげることにしたんだ。で、サインが入ってるのを見て喜んでくれる人がいるといいな、と。まあマーケティングの面からゆけば、さして効果があると思ってやったことじゃないよ。

 

●ABCのマーケティング重視とスクリッティの間に、何か類似性はあると思いますか。

つまんないやり方だと思うよ。通俗的な連中だよね。

 

●でも彼らは成功しているし...

うん、やり方としてはね。

 

●で、あなた達の場合...

ああ、もう、ぼくはドヴァー・ホーンにスタジオ入りしてもらうべきだったかもね! 彼のやり方が成功してて、ぼくたちのがだめって、そんなのバカげた話だよ。ぼくはトレヴァー・ホーンを雇わなきゃならない立場じゃないし、必要としてもいないんだから。ABCを成功例として挙げるなら、ぼくらの話は食い違ってると思うな。ぼくはぼくなりのやり方でレコードを作っているんであって、トレヴァー・ホーンでもフォノグラムでもないんだ。はっきり言うけど、まるっきり違う話だよ。

 

●何かクオリティの点で明確なこだわりはありますか。

特に無いよ。そんなに重要なことでもないし、特に意図的に禁じているわけでもない。スタンダードを維持することが大事なんじゃなくて、問題は何が自分にぴったり来るかだから。

 

●マイナー(マージナル)かメジャーかという点なんですが、今スクリッティはどういう位置にいると思いますか。

その境目って、はっきりしてないからね。何がマージナルかというのはマーケットの状態やいろいろな原因によって左右されるし。意図的に宣言するか、そういう批評が帰ってくるかでもない限り、自分がマージナルであるかどうか言い切るのは週ごとに難しいことになるよ。

 

●いわゆるマージナルなグループが、それぞれの方法でメインストリームに参入して来ていますね。例えばDAFなどは実際に売れ始めるまで、そのミニマルな音楽が市場でどれくらいの可能性があるか誰も予測出来ませんでした。ドイツの話ですが。

ドイツでDAFがどのくらい特異な存在かはわからないけど、それってぼくが自分らしいやりかたでやってないって言いたいわけ?

 

●あなたの場合、明らかにポップについて参照していますよ。

本当にそう思う? でも十中九まではリズムなんだよ。リズムの法則、それがぼくの重要視しているものだ。四分の四や八分の六でプレイする限り、西洋の音楽史に戻る必要がある。もしそこから根本的に新機軸を生み出すのでない限り、その向かう所はスタイルの羅列に他ならない。

リズムを重要視することが何故大切で、またポップにおいて必須の事項であるかについてあれこれ考えるのは興味深いことだよ。初期のスクリッティは基本的にマージナルなグループだったけど、それは四分の四を避けて通ろうとするようなグループだったからだ。そういった複雑な時間的要素を重要と考え、それを踏まえてプレイしようとしないなら、ぼくらが昔やっていたように騒音を立てるだけで終わってしまう。でもDAFのは騒音じゃないだろ。彼らの音楽には構造とリズムがある。コードさえ使っているんだよ!

 

●毛色の変わったサウンドに対する好奇心は今でもありますか。

もちろんだよ。パンク以前にはアンソニー・ブラクストンはぼくの...、よく彼やその周辺のニューヨークの連中のレコードを買いに行ったもんだし。とにかくうるさいやつをね。ぼくが初めて聞いたのはビートルズだけど、それの良さがわかったのは少しあとになってからかな。初めて手に入れたアルバムは「サージェント・ペッパー」で、それには沢山のノイズがミックスされていた。それから耳慣れたものとノイズとの混交に馴染むようになって、そういうものを好むようになったんだと思うよ。もともとずっとマージナルなものに傾倒していたし。今を除いてね。それには方針の変化だの、自分自身の動向だのいろいろなものが絡んでいるんだけど、でも今だってそういう、うるさくてガンガン響く音って大好きだ。そういうものは確かにずっとぼくらの中にあり続けると思ってるよ...。

 

●アメリカにZ'evという人がいて、最終的に彼は自分を6つの違ったパーソナリティに分割しているんですが、それで様々な種類の音楽を追求することができるんですね。

異種混交ということだね。それがぼく自身ここ2年ほど書いたり歌ったりしていることなんだ。他の考えを犠牲にして、一つに固執するなんてのは良くないと思うよ。でもそれは救いようのない相対主義や感傷的な自由主義に陥るということじゃない。自分の中の異種混交性をちゃんと把握しておけば、それ自体で明らかな方向性を得ることが出来るんだ。おかしいけど、単に相対主義や自由主義に向かうというんじゃなくて...

 

●何もかもが進行中ということですね。

うん。そういうことで終わりにしようか?

 

2001.5.31-6.6.

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