Natty Design or grand illusion?

NME magazine - September 1982

Interview by Chris Bohn

 

PART 1

 

インタヴューに先立つ週末、スクリッティ・ポリッティのグリーン・ガートサイドはトップ・オブ・ザ・ポップス初出演のために衣装を買いに出かけた。実現はその週「アサイラムズ・イン・エルサレム」がトップ40をブレイク出来るかどうかにかかっていたのだ。

しかし我々は彼が何を着るつもりだったのか、それを見る機会を逸することになった。そのシングルはチャートを滑り落ち、結果的にグループの掴みにくいファースト・ヒットへの希望も潰えたのである。チャート・リターンというこのシステム ― インディペンデントには不利な点だが ― その他に「アサイラム...」が外される理由は考えられなかった。

マーケティング・キャンペーンはラフ・トレードには珍しい力の入れかただったし、今までのところ7インチと12インチのピクチャー・ディスクがリリースされ、後者はサイン入りポスターが付く限定版でさえあったのだ! ディスクのパッケージングも決して悪くはなかった。

ラジオでも結構オン・エアされていたし、スクリッティ・ポリッティは音楽誌の表紙を飾るなどでプレスにも受け入れられていたのである。遅ればせながらレイディオ・ワンではピーター・パウエル・セッションにも出演、そのレコーディン中にスタジオに顔を出したパウエルは、彼らにその曲のヒットを請負ったほどだった。

それなのに何がうまくいかなかったのか? 結局、単純なことだが大衆に受け入れられなかったということなのだろう。彼らの言いたいことはわかると思う。否定の余地がない程スイートなグリーンの声、全くこの上なく美しく柔らかい、グレゴリー・アイザックやアート・ガーファンクルにも匹敵するその声やスクリッティ・ポリッティのポップ/AORへの根底的な接近にもかかわらず、彼らの曲はグリーンが常々口にしているような同時代的な共鳴に欠けていたのだ。

つまりグリーン、きみが歌っている言葉が問題なんだよ。きみはいったい誰の人生について語っているんだろうか? そんなにはっきりとさせる必要はないのだが、すばらしいポップ・ミュージックというものは意図せずとも人々に日常のあれこれを想起させるものだ。その根底には誰かのロマンスや話題になったニュースなどの片鱗を感じさせるものなのである。

ジャック・デリダやエルサレムの精神病院について歌った歌などというものは、明らかに限定的な響きがする。その他のことでは彼らはパーフェクトですらあるのに、言葉だけが余分な要素となっているのだ。とにかくあまりにも言葉が多すぎて、あれこれ騒々しい効果を生み出す役にしか立っていない。グリーンのスイートな声に支えられてはいるが、その騒々しい様相がスクリッティのレコードを全く窮屈なものにしてしまっているのである。グループとしては「彼らの」考えるポビュラー・ミュージックに焦点をあてているつもりなのかもしれないが、それでもなお彼らのシングルは世の通説から激しくズレてしまっていると言っていい。

もしグリーンが切望しているように、アレサ・フランクリンやランディ・クロフォードとの共作をリリースするとしたら ― 「ロッド・テンパートンがマイケル・ジャクソンとやれるくらいなんだから、可能性はあるだろ?」 ― またグレゴリー・アイザックやクラフトワークと仕事を出来るとしたら ― 「クラフトワークには異なるスタイルの有機的統一という点において大きく影響されている。」 ― 他のアーティストに曲を書くという試みを通して、彼の曲も更に磨かれ、シンプルなものになるのだろうが...。

しかし今のところ大騒ぎのわりには帰着点が見える状態にない。もし彼らにそのつもりがなければいいのだが ― パーフェクトとも言える「フェイスレス」、このクールで「ザ・スイーテスト・ガール」から発展したような大胆な曲はどちらにせよ流行るだろうが ― しかし大型店でビッグ・セールスを達成していながら、スクリッティ・ポリッティの曲は基本的な所で失敗しているのである。ゴミみたいなものかもしれないが、曲の生産とマーケティングを結びつけたポップスが売れるという事実を証明したABCとは違う。しかしそれは耳ざわりがいいし確かに売れる。それに共鳴さえ感じさせるのである。

*****

さて、どちらかと言えば我々のスクリッティ・ポリッティとの初インタヴューは険悪な雰囲気で始まった。と言うのも私の書いた「アサイラムズ・イン・エルサレム」のレヴューを読んだばかりのグリーンが、なぜその中で彼のことを「ブリリアントだが全くの役立たず」などと評したのか、しきりに知りたがったからだ。

「全くの役立たずだって? それが誰だろうと全くの役立たずなんてことがあるとは信じられないね。いったいどうしてぼくが全くの役立たずだなんて書くことが出来たんだい?」と彼はしつこく尋ねて来た。

私はただSF的な現実離れしたアタマ、つまり実際にやって見せられもしないことについてあれこれ考えることは出来ても、何の手段も持ち合わせないことのアナロジーとして言及するための、特定の文脈の中でその言葉を使っただけだと説明した。

しかし彼の不機嫌はその後のフォト・セッションになっても続いていて、―「なんで動けなんて言うの? どうせぼくは全くの役立たずなんだろ!」 ― これもマーケティング・キャンペーンの一環だというのに、である。それに自分達のやり方を押し通すために、アントン・コービンの指示には反抗するし。

グリーンはグループの中でのヒエラルキーを否定してはいるが彼が明らかにけんか腰なので、アントンがドラム・プログラマーのトムに前に出るように指示した時など、トムはナーバスになって「えっと、グリーンが真中の方がいいんじゃないかな」とぶつぶつ言う。グリーンもどうやらそう思っているらしい。アントンが最後の写真で誰も前に出ないようにと支持すると、グリーンは彼らが如何に奇妙な取り合わせであるか、見る人全てに伝わるようにみんなが全景に納まるように撮れと言う。(みんなというのは恐ろしく背の高いグリーンと、トムやベーシストのジョー・カング、三人のバックアップシンガーはロレンザ、マエ、ジャッキーで、皆ウエスト・エンドのバックグラウンドを持つ。)

「それじゃあフォトグラファーを雇えよ」とアントンはつっぱねた。とまあこんな具合で、セッションが終わった時アントンは今までにこんな疲れた撮影もないとこぼしていたくらいである。

その後何週間かの間に私とグリーンは二度ほど会う機会に恵まれた。エゴイスティックですさまじくセンシティヴな彼は、どうしてみんながスクリッティ・ポリッティに疑念を抱くのか全く理解できないようだった。それではこれがグループをメジャーからメインストリームに押し上げようとする偏った改正論から来るものなのだ。

かつてスクリッティ・ポリッティの変革は身売りとまで評されたものだった。しかし今日ではそれはビジネス・センスの賜物であり、グリーンの能弁さにも助けられて音に対する求心的な決断であると見られている。かつてスクリッティ・ポリッティが自らを規定していた、極端に知的な枠の中に棲みつづけることの無意味さを認識するのは本質的に間違っていない。特に当時の彼らは曲を演奏すらする前に、音楽そっちのけで内容について論争し始めるという始末だったのだから。

しかしその過激さや初期の音楽的実験について詳細に論じるような極端な批評性をこうも完璧に犠牲にしてしまうことは、基本的には個性の欠落や匿名性に通じ、ある種の無条件降伏と見られるかもしれない。初期スクリッティ・ポリッティの作品が稀少であるのは残念なことだ。その時期からは2枚のまとまりのないEPが残っているのにすぎない。メロディは剥き出しで飾り気がなく、荒削りなリズムの曲の中で、グリーンの声だけが、その頃既に光っている。たとえそれが笑いをさそうカンタベリー訛りに損なわれていようとも、だ。懐古趣味的な魅力の変わりに今の彼らの曲には、評判になった狂暴でさえある情熱や初期のライヴに見られるような強烈な創造性が欠落している。

ともあれそれら激烈な集中力や近親相姦的な閉塞性は結果的にグリーンを疲弊させてしまい、彼はウエールズに帰郷することになる。そこで彼はスクリッティを停止に追い込んだイデオロギーの袋小路から自身を救い出すために、大部な一巻をまとめることになったのだ。そしてそれは同時に将来のスクリッティにとって、その基盤となるものでもあったのである。メンバーに方針の変更を納得させるために長い時間をかけるなどということは、部外者にとってはバカげたことのように思える。一体そうした段階を踏まねばならないほど、何が彼らをそうまで強く結びつけていたのか。

「わからないな」とグリーンは困惑する。「奇妙な話だよね。今から振り返ってみると確かにものすごく親近感を持っていたけれど、でもフォーマルな関係だったよ。論理や分析が尊重されてはいたけど、それ自体のためというわけではなくて、代案を持つということがある種の堕落や放埓さを意味するもののように思えたからだ。自分の過去における進程や作品のコンディションを理解し、自身を規定する必要性から生まれたものだと言える。自分に働きかけている力を認識して蓄積すること、ものごとがどのように解読され、どのように聞こえてくるのか考察することが必要だ。」

「そうしなければ見当違いの方向に閉じ込められるように思えていたんだろうね。政治的な重要性を認識しなければならない。そしてもしその重要性が常識の枠を越えていたり厳格な信念からはずれていたりすれぱ、それを処理するために何らかの分析法が必要になる。ぼくらが常に親密でありながら論証を大切にしていたのは、そういう理由によるものだったと思うよ。それ以外のやり方は間が抜けているとさえ感じていたんだろうな。でもいずれはこうなることを予測しておくべきだった。つまり調和を欠いて自己崩壊を引き起こすことをね。」

私はグリーン自身に彼の説明や言い訳、セオリーといったものよりもずっと心ひかれる。どれほどグリーンの観察が正確なものであろうとも、それは結局彼らが作ろうとしているポップミュージックを認識することから、スクリッティ・ポリッティをはるかに引き離す役にしか立たないのだ。

ともあれ私の言いたいことはこれで全てである。あとはグリーンに譲ろう。

 

2001.5.31.

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