― そして夏。

初夏の陽射しがいよいよ強く降り注ぐ季節を迎える頃、メリルは約束通りこの休暇を祖父のところで過ごすために、休みに入るとすぐヨーロッパにあるラファイエット共和国に来ていた。ロベールは日ごろ、仕事や社交の都合で街にある屋敷の方で過ごすことが多い。しかし、首都の南西に位置するローデン地方が本来シャンタン家の本拠であり、今メリルが滞在している城は、元は緑豊かなこの地に13世紀初頭に立てられたものである。

左右に両翼を広げる三層構造は堂々たる威容を誇るものだが、白を基調に殆ど黒に近い藍色の屋根が乗るその姿には、まさに繊細優美という形容こそ相応しい。もちろん広大な敷地にはよく手入れされた緑の庭園が広がり、ところどころにゆったりとした運河の流れも見受けられる。

かつて、大きな革命の時期には、ご多分にもれずその騒憂に巻き込まれもしたが、当時のシャンタン家当主はこの国を疲弊させる原因のひとつともなった大方の貴族たちのように無闇と領民を搾取することを好まず、領地をよく治め、人々の信任も厚かったため、革命とそれに続く混乱期を乗り切って来ることが出来たのだろう。ローマ時代以前に遡れば、現在のラファイエット共和国はケルト人の版図ガリアであり、その本拠であるクランドルとも遠くないローデン地方は、大古代からの高い啓蒙度と哲学性を未だ強く受継いでいたのかもしれない。

「お帰りなさいませ、メリルさま。お散歩は如何でしたか?」

「ええ。どこもとても素晴らしい景色なので、すっかりスケッチに夢中になってしまって」

「それは宜しゅうございました。そういえば先ほど、メリルさまあてに荷物が届いておりましたが」

「ああ。こっちに来る前に母に頼んでおいたものだと思います。おじいさまへのプレゼントなので、お見えになるまでぼくの部屋に置いておいてもらえますか?」

「かしこまりました」

言って、老執事は丁寧に一礼して見せた。メリルは一週間ほど前にここに来たので、この調子で"大貴族のご令息"扱いされることや、豪壮華麗な城と贅沢な調度、美術品に囲まれた環境にもそろそろ慣れつつある。

この城を管理する執事であるクロードはもう八十に近い高齢だが、ロベールが若い頃から長年頼りにして来た人物で、十年ほど前までは首都にある屋敷の方で家政を取り仕切っていた。ロベールより5つほど上で、もとはこの地方の生まれだ。彼の父が先代の執事であったこともあって、若い頃からロベールをサポートしてくれていて、そのため長いこと生まれた土地を離れてもいたのである。しかし、七十にも届こうかという年齢になる頃、ロベールがその長年の労に報いて、そろそろ引退してはどうかと奨めた。もちろん、高齢だからといって仕事に支障が出るようなことは全くなかったし、ロベールにしても彼に引退して欲しくはなかったのだが、執事というのもこれでなかなかの激務だ。従って、ロベールとしてはそれを気遣っての奨めだった。

始めは仕事がなくなると一気に老け込むような気がすると言って渋っていたクロードだが、当時すでにこちらの本邸では彼の息子が執事として家政を預かり、主の信頼も得ていたので、それと入れ替わりでということならと承知したのである。

街なかの屋敷と比べればここは来客も少なく、のんびりした環境ではあるが、やることが無くなるというほどでもない。一方、彼の息子の方は、特にその奥方がどちらかといえば田舎のローデンよりは、一度は賑やかな都市で生活してみたいと望んでいたこともあってすんなり話がまとまり、親子が交代して引き続きシャンタン家の家政をみるということになったのだった。

そんなわけなので、モルガーナ家のアーネスト同様、クロードも主家にやっとのことで跡取りとなる子供たちが現れたことに狂喜している。もちろん、メリルは後継者という地位こそ放棄しているが、ロベールお気に入りの孫であることに変わりはない。しかも、ここに滞在し始めてほんの2、3日も経った頃、見せてもらったメリルのスケッチの素晴らしさに感動し、主が密かに"あの子は天才"と言っていたことにも納得していた。それに、メリルがまたその生来の頑固さゆえか、お坊ちゃま扱いされても一向に態度を変えず、年長者に対する礼儀をきっちりわきまえて接してくることにも感心していて、今では自分の孫のようにすら思ってくれているらしい。

ここにはよく文人や画家などが滞在することもあるし、そのためクロードを始めとする家人も芸術家というものの扱いに慣れているから、必要としない時に煩わされることもなく、与えられたスイートの一室をアトリエとして快適な生活を送りながら、メリルは朝に昼に夕に、思う存分絵を描きまくる至福の日々を送っているのである。

「だんなさまも、2、3日のうちにはこちらに見えるとご連絡頂いておりますし、他の坊ちゃま方も再来週あたりにはおいでになるそうでございます」

「そうですか」

「ひと休みなさるようでしたら、お部屋にお茶を運ばせますが?」

「ええ。じゃ、お願いします」

言って、メリルはつけ加えた。

「できれば、ビスケットもね」

それににっこりして見せて、クロードは答えている。

「焼きたてを、お持ちいたします」

もうすっかり仲良くなっている執事に微笑を返してから、メリルは既に馴染んでいる様子で城の奥にある自分の部屋の方へ歩いて行った。

長年に渡って踏みしめられてきた白亜の大理石の廊下は、しかしよく手入れされていて今も重々しく鈍い光沢を放っている。そして、廊下の両側には素晴らしい名画や彫刻の数々が飾られていることもモルガーナ家と変わりがない。ロベールは、おそらくは孫がそれらの先達の遺産からまた多くを学び取り、ここにいる間に画家として一階梯登るだろうと楽しく確信している。それゆえ、回廊に飾られているものばかりではなく、厳重に保管されている全ての美術品、宝飾品などを、いつでも好きな時に鑑賞できるよう取り計らってやってあった。

メリルはさまざまな作品から技法を学ぶばかりではなく、芸術家の心をも読み取る心眼に生まれつき恵まれている。それで実際、ここに来てからというもの、ルーブルもかくやというシャンタン家のコレクションを眺めては、日々、溜め息をつく毎日なのだ。貴族の家柄というものにもし彼が羨望を抱く部分があるとすれば、代々の蒐集によって多くの歴史的美術品を所有し、それらを日常的に眺めて暮せることそのものくらいだろう。"所有"という部分に関してはともかく、まるで美術館に住んでいるような生活は、メリルにとってまさに桃源郷とも言って良いようなものだった。

部屋に入ると次の間を通り過ぎ、居間のソファに抱えていたスケッチブックを置いた。フランス窓にかかるレースのカーテンの向こうに広がる昼下がりの庭園に見るともなく目をやり、軽い溜め息をついている。その窓の側にはイーゼルが立てられ、メリルが滞在中に仕上げるつもりの風景画が、下絵の入ったばかりの状態で掛けられていた。

幼い頃から"ずっと絵を描いていたい"という望みが強く、必然的にそれは将来画家になるということと繋がらざるを得なかったわけだが、もともとメリルは"画家"という職業につけるかどうかにそれほど強い願望があるわけではない。マイラが言っていたように、なれようがなれるまいが一生絵を描いていることだけは、メリル自身も確信している。むしろ、社会的な成功に付随してくる名声や過ぎた富は、この子の性質から見て返って煩わしいだけだろう。

こうやって一日中、絵のことだけを考えていればいい生活を実際に送ってみると、これで一生ゆけたらどんなにいいだろうと改めて思うのも彼の才能ゆえだが、だからと言って生活の糧を親の財産に頼るなどということは、メリルの考える最後のことでもある。そうなるとやはり、画家になることが一番の道なんだろうけど、と改めて思いながら、ふと父はどうだったのかなと考えてみた。

祖父と親しくなってから頻繁にメールや電話でやりとりしているメリルは、父の子供の頃のことについても折に触れてロベールから聞くようになっている。これまでは、なにしろ今の自分とそう変わらない年の頃に巨匠バーンスタインのお声がかりがあるほどの才能と、際限なく絵に打ち込んでいても何も困らない経済的背景、それらのせいで何の苦労もしないで今の地位に登ったかのようなイメージを持っていた。しかし、祖父の話によれば彼の父は子供の頃、ヒマさえあれば際限なく絵を描いていたとか、あれこれの美術品を眺めては、延々とその薀蓄を語りたがるので回りはウンザリだったとか、まるで今の自分を見るような有様だっだことが徐々に判明して来ている。しかも、あまりにも若くしてセンセーショナルなデヴューを飾ったものだから、否定的な評論家の攻撃とも戦わなければならず、それがやっと落ち着いたのはここ十年ばかりのことだろうとも祖父から聞いた。

それらの新しいデータを加えて考えてみると、自分の父はそう悪くないヤツかもしれないという気もしてくると同時に、画家として成功するということは漠然と思っていたより遥かに大変そうだとも思えるのである。

あと、ほんの二、三年もすればアートスクールに進んで、更には美大を目指すということを、今まではそんなに深く考えてみたこともないままだったが、父のような一流の画家として認められるまでにはさまざまな困難を超えてゆかなければならない現実を認識するくらいには、メリルも大人になりつつあるということなのだろう。

メリルが庭を眺めながら、そんなことを考えるともなく考えていると、ノックの音がして、お茶をお持ちしました、というメイドの声が聞こえてきた。

「あ、はい。どうぞ、入って」

答えに応じて静々とワゴンを押して入って来たのは、メリルがここに来てからずっと身の回りの世話をしてくれているテレーズだ。二十代の半ばくらいの優しげな雰囲気を持つ女性で、まっ直ぐな淡いブロンドと翡翠のような緑の瞳を持っている。服装が、スカートのふんわりした黒いロングワンピースに白いエプロンというオーソドックスなメイドスタイルなせいか、楚々とした印象すらあってなかなか美しい。十八の頃からこの城に勤めているためによく躾けられて立ち居振る舞いも優雅だし、数十名いるメイドたちの中でも最も優秀なうちの一人だとクロードが言っていた。外国からも客人の多い家だから、彼女くらい長く勤めているメイドになると三か国語や五か国語は解してしまうので、メリルも全く不自由を感じることはなかった。ちなみに、クロードは実に十か国語以上を解するそうだ。

ローデンは緑豊かでゆったりとした良い土地だが、働き口となると大きな街よりはかなり限られてきてしまう。そんな環境であるから、たとえメイドとはいえお伽噺に出てくるようなお城で暮せるという特典までついている仕事は、特にテレーズのような若い女性に大人気なのだ。シャンタン家はこの国でも名門中の名門である上に代々評判の良い家柄だから、欠員が出たなどということになると応募者殺到していつも大変なことになる。しかし、ここは勤める者にとっても相当居心地が良いらしく、その欠員ですらめったに出ることはないくらいで、それもあって皆のプロ意識も高く、一糸乱れぬチームワークで一流ホテル以上のサービスを提供してくれている。客の中には"永遠に住みたい"と言い出す者さえ出るほどだ。この点、モルガーナ家も同様と言えるだろうが、今どきは、貴族の家柄と言えども、ここまでのクオリティを維持しているところは数えるほどしかないのに違いない。

「お茶と、いつものビスケットですわ。それに、マカロンとブラウニーも出来たてでしたの」

「ああ、美味しそうだ。有難う」

メリルがクリームたっぷりのケーキよりあっさりしたビスケットやクッキー類を好むことはもう厨房でもすっかり心得ている。お茶は最上の葉で淹れたアッサムだ。

「お散歩はいかがでした? スケッチは捗りまして?」

ソファにかけ、テレーズがテーブルにお茶とお菓子をセットしてくれるのを眺めながら、メリルはにっこりして答えた。

「ええ。この辺りは本当にきれいなところで、絵にしたいと思う風景に事欠きません」

「そうなんですけれどねえ。ここで生まれて育った者には、それがかえって退屈なんですわ」

「それは贅沢というものだと思うな。ぼくなんか、このままここにずっと住みたいと思うくらいなのに」

テレーズはそれに笑って、画家や作家の方は皆さんそうおっしゃいますわね、と言った。

「へえ、そうなの?」

「はい。だんなさまがそちらの方面に大変広い交流をお持ちですので、ここには都会の喧騒を逃れて仕事に打ち込みたいと仰る芸術家の方がよくいらっしゃいますの」

「そう」

それから彼女はカップにお茶を注ぎ、ポットをテーブルに置いた。アッサムの良い香りが立ち上ってくる。

「お邪魔になってはいけませんのでこれで下がらせて頂きますけれど、ご用がありましたらいつでもお声をおかけ下さいませね」

「ええ」

テレーズが優雅に一礼して下がってしまうと、また部屋の中は静かになった。しかしそれは、窓の外から聞こえてくる小鳥の囀りや風にそよぐ大木の葉のさやさやというざわめき、窓辺に遊ぶ光の乱舞など、メリルの大好きなものに満たされた生命ある静寂だ。

お茶を口に運びながら、すっかり満足して幸せに浸っているメリルの頭の中では、散歩の途中で目にして来た様々な風景が次々とフラッシュバックしている。それらはいずれ総じてひとつの印象に集約され、またロベールを感動させるような名画に仕立て上げられてゆくのに間違いはなかった。

original text : 2009.10.6.+10.8.〜10.9.

  

© 2008-2009 Ayako Tachibana