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各制作年代における傾向

T.初期の作品 Early Work

ミュシャがパリで独立独歩の活動を展開し始めるのは、彼のパトロンが定期的な仕送りを停止したときからであった。ミュシャの前に開かれていた領域のひとつが挿絵であり、彼の友人ルジュク・マロルドもまたこの挿絵の仕事で名をなしたのであった。

1890年以来、ミュシャの絵はフランスやチェコの雑誌に定期的に登場するようになった。作品はきわめて入念に制作されており、描かれた場面は様式化がいっさい排除され、物語の個々の出来事と関連づけられている。しかし次第により独創的な調子が現われてくる ― 木々の葉、草、花といった植物の装飾的効果に対する関心、超自然的存在が地上の並の生き物とは異なるスケールで描かれているといった情景に対する関心が増大する。

個々の挿絵の構図にも変化が現われ始める。ミュシャは、しばしば常軌を逸して配された空白の部分と図柄との間に生まれる緊張感を利用するようになった。彼の挿絵は疑いもなく公衆と出版者の双方の認めるところとなり、その結果、シャルル・セニョボスの著書『ドイツの歴史の諸場面とエピソード』の挿絵の制作を依頼されることにもなった。これは当時の最も著名なフランスの挿絵画家ジョルジュ・ロシュグロスとの競作であった。この本は結局1898年にようやく出版される。この時ミュシャはすでにポスター作家として名をなしていたのだが、しかしこの中のいくつかの挿絵の制作は1892年にまでさかのぼる。

 

 

U.フランス時代

@ポスターおよびポスターの下絵 Posters and designs for posters

ミュシャのポスターはほとんど一夜で有名になった。この分野で知られた最初の作品は『ジスモンダ』を演ずるサラ・ベルナールのためのポスターである。ミュシャを一躍有名にし、公衆の関心を誘ったこのポスターによって、彼は様式化のもつ力に、そして単身像のとる仕草の効果に思いいたったのである。『ジスモンダ』のポスターは、その後、制作される一連のポスターすべてが依拠すべき規準となった。これらすべてのポスターの中には、同じ構図上の原理が認められる。すなわち上部と下部には文字を配するスペースがあり、中央部の単身像は印象的な不動のポーズで描かれている。衣裳は大抵、文字のために用意された下の部分にまで入り込み、写実的な細部と様式化され強調された全体の輪郭とを結びつけている。動きを表現しようとする当時の傾向とは対照的に、ミュシャは「止まれ、そして見よ!」と命ずる静的なメッセージを選びとった。

こうしたポスターにおいてはすべてが洗練されたものとなっており、苛立たせ混乱させるものはなにもない。確かにこの一連のポスターの最初に属するものが演劇用であったということは幸運であった。演劇はミュシャの常に変わらぬ関心事であり、そのために彼には心の準備ができており、仕事をうまくこなすことができたのである。ミュシャはすでにヴァリエーションを展開することのできる、依拠するにたると思われる原型を発見してはいたものの、さらによりいっそう洗練された原型を見出すことができ、様々なヴァリアントを開拓してポスターの古典的概念に一大変革をもたらしたのであった。それはもはや演劇とか商品自体を描いたものではなく、そのいずれをも魅力あるものとするミュシャの神秘的で常に物思わしげな美女たちによるパブリシティだというのが事実であった。ミュシャは宣伝の巨匠 ― 自らの才能をさえも宣伝する巨匠 ― だったといえるかもしれない。

ミュシャの芸術は、当世の歴史画家、挿絵画家というさなぎの中から思いもかけずその姿を現わしたようにも思われたが、そのルーツというのはどこにあるのだろうか? まず第一にハンス・マカルトを挙げることがてぎよう。マカルトの手になる女性像の明るく優雅な構図と姿態は、ミュシャの作品の中にその痕跡を認めることができる。また、最も著名なフランスの二人のポスター作家、ジュール・シェレ(1836-1932)とウジェーヌ・グラッセ(1845-1917)の影響も認められる。さらにまた重要な教訓となったのはラファエル前派から得られたものである。こうした同時代の作例の他に、ミュシャの芸術は多くのビザンチン的特徴(モザイクの背景、人物の聖職者のごとき姿態、重々しい壮麗な衣裳と華美な装身具に対する偏愛)やイベリア=スペイン芸術の要素(円形区分の使用やいくつかの装飾的要素)を含んでいた。それに、当時はだれもが日本の影響を受けていたのであって、ミュシャもまた日本美術の中から、全体の輪郭と自然主義的な細部とのバランスを保つ方法のインスピレーションを得たのであった。最後に挙げることができるのは彼の才能の根本的な資質であって、それは自然主義的要素と様式化された要素とを融合する装飾のセンスであり、また、空間をそうした装飾で極端なまでに埋め尽くす勇気であった。その豊かな装飾された構図の中でミュシャは、強調する最も重要な線と、雰囲気を表現するために微妙に使われる二義的線とを常に首尾よく見極めることができたのである。

その最も幸福な歳月の中で、彼は己れの才能にまったく身を任せ、その時代に決定的な造形的影響を与えた作品を生み出したのである。

 

 

A装飾パネルおよび装飾パネルの下絵 Decorative panels and their designs

出版業者シャンプノワは、サラ・ベルナールのためのポスターによって築かれたミュシャの人気のもつ有効性に気づくや、その人気を利用して、このエキゾチックな外国人の手になる作品を求める公衆の要望に応えようとの腹を決めた。シャンプノワは1896年に最初の装飾パネルをミュシャに発注した。それが<四季>連作である。続いていくつかの連作が制作されたが、それは演劇用ポスターに由来するすでに証明ずみのパターンに基づいている ― すなわち、写実的細部をもちつつ装飾的アラベスクで縁取られた女性単身像が描かれている、縦に長く引き伸ばされたフォーマット。しかしポスターとは異なり、人物は大抵風景の中に配されている。風景は人物の表徴として用いられ、また雰囲気を設定する役割を担っている。頻繁に繰り返されるモチーフに女性の頭部の背後に配された円形があるが、ミュシャはそのモチーフのもつ概念よりもその形の方により関心があるのだということを、われわれはポスターの時以上にこの装飾パネルにおいて感得することができる。いくつか異論をとなえることもできるのだが、にもかかわらずわれわれはその夢見るような横顔の純粋さに、流れる髪に、素晴らしい装身具に、そしてその姿の美しさを高める衣裳の襞に、いつも心を奪われてしまう。

花、髪の毛、身体、背景の抽象的な曲線 ― すべてが魅惑的な装飾を形づくっている。ミュシャの最大の強みは、彼の描く線のもつ驚くほどの純粋さと内的な秩序にある。これはしばしば指摘されるような、ミュシャの祖国チェコスロヴァキアの民芸から直接転用された装飾自体のことを言っているのではなく、その装飾を画面に配する彼の巧みさや、モラヴィアの民芸にきわめて典型的に見られる自然主義的要素と様式化された要素とのバランス感覚のことである。彼はこの内的な性向を祖国から受け継いだのであり、彼の真の才能をなしていたものであった。それはミュシャにとって生来のものであったがために、彼自身はその真価がわからず、時に浪費さえしたのだった。ミュシャの手になるすべての装飾パネルは、観念や事物の擬人的表現を好む同時代の傾向から得るところがあった。それは世紀の変り目の生活様式の研究に寄与するものであり、それについて多くのことをわれわれに語ってくれる。

 

 

B挿絵と素描 Illustrations and free drawings

挿絵画家として前途洋々たる歩みも、ポスターや装飾作品の注文が殺到するために中断される破目となった。それというのも流行に敏感なパリが「ミュシャ・スタイル」の魅力にとりつかれたからである。とはいえ、彼は画家としての、挿絵画家としての仕事を永久に放棄しようなどとは考えてもみなかった。今や彼は種々の本の中から自分が挿絵を描きたいと思うものを選べる立場にあり、かくして ― 時事的な雑誌向けの挿絵はともかく ― 自らの欲するところに従って作品を描き、本のもつ芸術としての領域を広げることができた。このようにしていくつかの愛書家向けの版が生まれたわけだが、それらは今日もなお当時の最も美しい本とみなされている。

まず第一にロベール・ド・フレールの『トリポリの姫君イルゼ』を挙げることができ、そこでは主題とその処理の仕方が完全なバランスを形づくっている。さらに聖書の中の主禱文に挿絵をつけ、注釈をほどこした『主の祈り』、エミール・ゲバールの『クリスマスの鐘と復活祭の鐘』を挙げることができる。また、アナトール・フランスの『クリオ』には数多くの重要な美しい挿絵が含まれている。ここでは最も忘れ難い数点のみを列挙するにとどめるが、こうした本の中でミュシャは通常、テキストを花や蔓や動物の姿などの縁取りで取り囲み、彼の惜しみない幻想は創意に富んだ数限りないヴァリエーションを生み出している。ポスターや装飾パネルと同じようにこの分野においてもミュシャはパリ滞在期に、その時代像の形成に寄与するのみならず、あらゆる時代に偉大な芸術品として残る作品を制作することに成功したのだった。

 

 

C彫刻と応用芸術 Sculpture and applied art

パリ時代のミュシャの創作活動の中に、とりわれ彫刻が含まれる。この種の独立した作品としては、坐る裸婦の小さなブロンズ像があり、その感受性に富んだ肉付けは、友人である彫刻家オーギュスト・ロダンの作品に対して抱いたミュシャの大きな賞賛の念を示している。ミュシャのデザインによる最も美しい彫塑作品は1900年のパリ万国博とロワイヤル街の装身具商フーケの店の装飾とに関連するものである。フーケの店ではミュシャは店のファサードから始まって、ショーケースのひとつひとつやソファのカヴァーに至るまでアール・ヌーヴォー室内装飾の完璧な作例をつくり出したのであった。大部分の彫刻には、ミュシャとともにもうひとりの彫刻家オーギュスト・セスの署名がほどこされているが、このセスのアトリエにおいてミュシャが彫刻の技術の秘訣を体得していったことはよく知られている。

ミュシャの作品がかちえた名声のために、彼のモチーフは数限りない日用品に用いられるようになった。<四季>、<一日の四つの刻(とき)>、あるいは<ビザンチン風の頭部>のモチーフのある衝立を買い求めることができたばかりでなく、同じモチーフを使ったランプかさや室内装飾用品も入手することができたのである。ルフェーヴル=ユティル商会は、そのパブリシティのために多くの著名な芸術家を雇ったが、暦の他にもミュシャによってデザインされた同商会の有名なビスケット用の美麗な箱も作っている。

 

 

 

D『装飾資料集』と『装飾人物集』および準備素描 

Documents décoratifs, figures décoratives and preparatory drawings

工芸においてミュシャが収めた成功は、彼のデザインを求める傾向をますます増大させる結果となった。しかしそうしたこまごました注文は彼が世紀の変り目に心を抱いていた、より大きな計画に必要とされる時間をかなり奪うことにもなった。そこでミュシャは、家具やガラス器や陶芸器や装身具、それに本の装丁にまでいたる彼のデザインを収録した図版集を出そうというリブレリ・サントラール・デ・ボザール社の提案を、喜んで受け入れた。この図版集は『装飾資料集(ドキュマン・デコラティフ)』の題名で1902年に出版され、全72ページに多種多様な主題を含んでいる。

3年後、同出版社は図版集『装飾人物集(フィギュール・デコラティーヴ)』を発行、全40ページにミュシャは星形や半月形や三角形等々、しばしば通常とは著しく異なる形の枠組みの中で構図を組み立てる際に人物像を用いる「200以上」もの可能なやり方を提供した。

 

 

 

V.アメリカ時代

1900年、ミュシャの名声は頂点を極めた ― その証左となるのが、パリ万国博でのボスニア=ヘルツェゴヴィナ館の装飾を以来されたことである。ここでミュシャは彼が常に心に抱いていた主題 ― すなわち、スラヴ民族の歴史、その偉大な過去と、そして同じく偉大な未来 ― を描くことによって自らの見解を表明する願ってもない機会に恵まれたわけである。この仕事は一時的なもので装飾的性格をもっていたとはいえ、工芸の分野での栄達をかなぐり捨ててひたすら絵画に専念したいというミュシャの常に変わらぬ思いを掻き立てた。パリにおいてはこまごました注文の洪水や社会的義務のために絵画に精力を集中することができなかった。そこで彼はアメリカの富裕な、影響力をもった幾人かの友人の招待を受け入れ、渡米することにした。彼は故国に帰って心に抱いていたある壮大な計画に、とらわれることなく取り組むことのできる充分な資金を、このアメリカで短期間のうちに得ることができると思ったのである。

1904年以来、彼はかなり長い期間に渡って定期的にアメリカを訪れた。しかしそこでも制作に必要な平安を見出すことは出来なかった。彼の名声が彼のあとについてきた ― いや、むしろ名声が彼に先んじてアメリカに渡ったからである。彼は商業上の注文で明け暮れた。しかもアメリカ上流社会の婦人の肖像を描くことによっても期待したような結果を得ることができなかった。彼はやむなく、ニューヨーク、シカゴ、フィラデルフィアなどの美術学校で教壇に立つことを引き受けざるをえなかった。やがて20枚の壁画の大作を描くという彼の考えが心の中で熟した時、彼は制作の資金援助をしてくれるパトロンを探し始めた。そして遂にチャールズ・R・クレインとの間に了解ができたが、最終的な合意をみたのはようやく1910年になってからのことであった。クレインのおかげでミュシャはボヘミアに戻り、<スラヴ叙事詩>と呼ぶことになる作品の制作に取り掛かることができたのである。

 

 

W.祖国のための作品 Work for his homeland

ミュシャは自らの生の根本的な動機をなしているもの ― すなわち全精力を祖国とスラヴ民族の大義のために捧げること ― を決して忘れることはなかった。彼はチェコの雑誌『ズラター・プラハ』と『スヴェトゾル』に定期的に作品を寄稿し、チェコの出版社のために挿絵を描き、また求められればボヘミアで行われる展覧会などの行事のためのポスターを喜んでデザインした。1910年、プラハの中心部の大きな社会文化施設の建設が完成に近づいた時、ミュシャはプラハ市民会館となるこの施設の市長ホールの装飾を委嘱された。第一次大戦の終わりに新しいチェコスロヴァキア共和国が誕生した時は、自らの偉大な芸術的、実践的経験を当局に提供し、最初の銀行券や切手、チェコスロヴァキアの国章をデザインしたのだった。1931年にはプラハ城内の聖ヴィタ大聖堂のステンド・グラスの窓が、彼のデザインによって制作された。

しかし彼の主要な努力は壁画<スラヴ叙事詩>に注がれ、制作には1910年から1928年にいたる、18年を要した。

 

 

 

Y.油彩画とパステル画 Oil paintings and pastels

芸術家としての経歴の始めから、アルフォンス・ミュシャは画家であることを望んだ。彼の最初の作品として知られるものはフルショヴァニー城のための衝立であるが、そこでは彼の画家としての野望が、紛れもないその装飾に対する才能と融合している。後年、彼はこの装飾に対する才能で名声を得ることになるのである。

彼の有名なポスター『ジスモンダ』が世に出た1895年以前の作品は、ほんのわずかしか残されていない。それよりも多少多くの作品は雑誌類の複製から知ることができるが、それは大抵歴史画である。歴史画は若い芸術家にとってはサロンへの扉を開いてくれるものであった。しかし運命は異なる決定を下した。1895年以後、彼はポスターや挿絵や装飾作品のデザイナーとして働くことを余儀なくされ、これによって彼は殆ど一夜にして名をなしたのである。長い年月が経過してミュシャはどうにか殺到する注文をこなし、再び絵を始めることができるようになった。

まず最初にもっぱら肖像が、若い女の絵や自らの装飾パネルのレプリカが描かれた。それからのちのアメリカ時代に彼は数多くの肖像画とともに、いくつかの非常にすぐれた寓意的作品をものした(たとえば、現在プラハ国立美術館にある「スラヴィア」に扮したクレイン=ブラッドリー夫人の絵)。故国に帰った後、<スラヴ叙事詩>を手掛けるかたわら、彼はいくつかの小品を制作した。そこにはミュシャの晩年に典型的な、主に2つの明確なタイプが認められる。女性の肖像画において彼は自らの永遠のテーマ、女と花をたたえた。結び合わさったこの女と花は、彼にとって美の化身を表すものであった。パリ時代のとは異なり、モデルは今や素朴な田舎娘となる。裸体はごくわずかしかなく、全体の雰囲気は以前よりもまじめで、物思いに沈む気配がある。第二のタイプは寓意画であって、《ミューズ》《リブシェ》《宿命》などのような象徴的な想像を喚び起こす愛国的主題に関連した作品である。

 

 

Z.晩年の作品 Last Work

晩年、とりわけ1928年の<スラヴ叙事詩>完成以後、ミュシャの心はあたかも彼が最高の名声をかちえた時代にまで逆戻りしたようにも思われる。洗練され、ノスタルジックな調子をもったヴァリエーションを展開する中で、彼はパリ時代の主題に立ち返り、その結果、穏やかに描かれ彩られた婦人や少女の素描が生まれた。その発想源として彼はしばしば、パリのモデルを自分で写した古い写真を利用した。

また彼があれほど愛したパリは、1936年に彼の回顧展を開催した。同年、ミュシャは3点の大壁画からなる新たな意欲的計画に取り掛かったが、その予備的習作を完成したにとどまった。それはミュシャの遺言をなすものであって《理性の時代》《英知の時代》《愛の時代》は現在と未来の人類に対する彼のヴィジョンを表わしている。愛のメッセージをもったこれらの習作が第二次大戦の前夜に生まれたというのは悲劇的なパラドックスである。第二次大戦が勃発するほんの2ヶ月前、ミュシャはプラハでその生涯を閉じた。

 

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*この解説は1983年3月〜11月に、プラハ国立美術館及びアルフォンス・ミュシャ展開催委員会を主催者として、日本の主要都市で行われた「アール・ヌーヴォーの華―アルフォンス・ミュシャ展」図録より引用させて頂いております。あくまで文化振興を目的とし、ミュシャの業績を広く皆さんに知って頂くために掲載させて頂いておりますが、著作権者のご要望があれば即座に削除いたしますので、メールにてサイト・オーナーまでお知らせ下さいませ。著作権者様のご理解を賜れれば、これに勝る喜びはございません。また読者の皆さまにおかれましても、著作権に十分ご配慮頂き、商用利用等、不正な引用はご遠慮下さいますよう、宜しくお願い致します。

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