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わが父アルフォンス・ミュシャとアール・ヌーヴォー

イージー・ムハ(作家/アルフォンス・ミュシャ子息)

アール・ヌーヴォーは、さながら父の手になる挿絵《バルバロッサの死》(シャルル・セニョボスの著書『ドイツの歴史の諸場面とエピソード』のための挿絵のひとつ)の中に描かれている根のような、深く暗い沼地から立ち現われる奇妙なもつれた根をもっていた。アール・ヌーヴォーの外見の軽薄さは神秘主義の淵から、世紀末の雰囲気から、古典主義に対する沸き立つ反逆から、そしてまた変転する生き方にしかるべき形式を与える必要性を痛切に感じる心から生まれてきたものである。電球や鋼鉄の橋、蒸気船や飛行機の時代にあっては、過去の時代の様式はことごとく正当性を失った。そうした過去の様式は、初めてできた地下鉄に駆け込み、奇跡のようなシネマトグラフをうっとり見つめる人々には相応しいものではなかった。ちょうどバスの2階がクリノリンをつけたご婦人向きではないのと同様に、ゴシック様式やルネサンス様式はエンジンの音をたてて走る自動車の誇り高い持ち主には受容れがたいものだった。もはや芸術の根源に、生きた植物に、動物や昆虫に立ち返り、同時代の精神の中で造形し始める以外に道はなかった。数限りない新しい消費者が数限りない新しい品物を入手しつつあり、産業革命は日常生活の醜悪さを広めつつあった。もしも芸術が生き残る権利をもっているとするなら、何らかのことを、しかも速やかにしなければならなかった。

現代のわれわれにとって、ウィリアム・モリスの提唱した理念はきわめて明らかなものとなっているために ― おそらくはあまりにも明らかになり過ぎているために ― 、そうした理念が孕んでいる革命的な意味合いをわれわれは理解できなくなっている。しかしながら、人々がすでにすたれてしまった因習の息詰まるような重苦しさから解放されつつあった時代には、「民衆のための芸術」というスローガンは危険な扇動的響きをもち、既成の秩序をむしばむ酸のわずかな痕跡にさえもリトマス試験紙の敏感さで反応する人々を刺激した。アール・ヌーヴォーに対する人々のアレルギーは単にその新しさに由来するのではなく、しばしば元の名称以上に強調される副題が「社会的芸術(アール・ソシアル)」というものだったからである。

時に頽廃的な世紀末の兆候として提示されるこの新様式が政治的にいかなる位置にあったかについては、当初からアール・ヌーヴォーを激しく攻撃した敵対者たちが最も説得力をもって証明する。マックス・ノルダウは1893年に出版されたその著『頽廃(エントアールトゥング)』の中で、アール・ヌーヴォーをラファエル前派、象徴派、社会主義者、ゾラ、ワーグナー、トルストイなどとひとまとめにし、犯罪者一味と呼んで、官憲が直ちに行動を起こすことを要求した。サミュエル・ビングがアール・ヌーヴォーの店をプロヴァンス街とショーシャ街の角の、ルイ・ボニエの手によって改装された家に開店した時、ある批評家はこう書いた。「この店はことごとく、下劣な英国人、麻薬にひたったユダヤ女、それに狡猾なベルギー人といった趣が、あるいはこれら三人の輩(三匹の魚)をいっしょくたに混ぜ合わせた素敵なサラダとでもいった風味がある」と。<大衆の教化のために(プール・ラ・モラリザシオン・デ・マス)>連盟では、アール・ヌーヴォーのポスターの氾濫で自分たちの努力が挫折してしまうことを恐れ、同じ武器で対抗することにした。同連盟では、キャュシーヌ通りで、シェレやロートレックのポスターの踊り子がスカートを捲り上げているその真向かいに、大胆にもュヴィス・ド・シャヴァンヌの作である《聖ジュヌヴィエーヴの生涯》からとられたいくつかの場面をポスターに仕立てて掲示したのであった。

ベルギーではアール・ヌーヴォーは文字通り社会主義者や自由思想家の象徴となり、一方、カトリック教会は ― ヴィクトル・ベイエルが指摘するように ― アール・ヌーヴォーの不倶戴天の敵となった。というのもアール・ヌーヴォーが「感覚的で異教的」だからであって、教会は自らの経営する建築学校でそれを教えることを一切禁じた。トーマス・ウォルタースはアール・ヌーヴォーがウィーンにまで達した時 ― ウィーンでは分離派と呼ばれるようになるのだが ― いかなることが起こったかを次のように記している。「ドイツ=オーストリアのアール・ヌーヴォーのもつ強い影響力は、一つにはその真面目さから来ている。フランスでは何百というなぐさみもののポスターが、何千という工芸品や装飾品がつくられていたのに対して、分離派の芸術家たちは革命的な生活様式を創造することに邁進し、人間が接するほとんどすべてのもの ― 便器から地下鉄の駅に至るまで ― は分離派の理想に奉仕すべきものとしたのである。このことをシーレほど情熱をもって、ほとんど残酷なまでに行った分離派の使徒はいなかったし、またそれほどの断乎たる主義主張を貫いたものもいなかった。イギリスにおいてはやや退廃的で、フランスにおいては軽薄な様相を見せたアール・ヌーヴォーは、オーストリアにおいて真の姿を示し、その革命傾向が明らかとなった」。

これまで数多くの筆者がアール・ヌーヴォーをあらゆる側面から分析してきた。その大半はアール・ヌーヴォーが人々の感情の中のある種の分裂を表現しているという点で意見の一致をみている。ドイツのユーゲントシュティールは、その名称がひたすら、若さ、春、そして生命そのものへの礼讃を宣言した。1977年、ダルムシュタットで開かれた「ドイツ芸術の記録(アイン・ドクメント・ドイツチャー・クンスト)」展の浩瀚なカタログの中で、ハンス・シュルリッヒはこう述べている。「1900年ごろ、芸術の根源的な衝動をなしていたのは、人間の肉体およびそれに伴うすべてのものの発見であった。人間が精神をもつ動物であることは古代から知られていた。しかしその精神の実体は肉体と相即不離に結びついてこそはじめて存在しうるものであり、肉体のおかげで精神が宿るという事実を、それ以前は誰もそれほどはっきりとは理解していなかった。かなえられぬ願いは絶望をもたらし、嫉妬は人を地獄の責め苦にさいなむという事実は、ストリンドベリィを読まずとも判ることだったし、ムンクの絵の中に視覚的に見ることのできるものだった。この絶望と手をあいたずさえて、人間の肉体の美に対する信仰が ― 交接の瞬間の恍惚たる至福のひとときを超越して永遠の次元に至り、かくして幻のごとき観念として浮び上がってくるもの、すなわち幸福を人間にもたらす肉体の能力に対するほとんど福音主義的な信仰が ― 働くのである」。

ドルフ・シュテルンベルガーは同じカタログの中で次のように言う。「ユーゲントシュティールは ... 他の様式とは違って ... 必要とされ、要望され、文字通り発明されたものだ」と。そしてさらに「これを発明した人々は、自らの発明の複雑なわなに捕えられたも同然の状態であった」と。

ヴィクトル・ベイエルもまた同様の考え方を展開する。「曲線や渦線や曲がりくねった線に対する愛好、這いまわるつるや蛇、しなやかでしかもはりつめたコイル状のスプリングにみられるこのような線の効果に対する愛好 ― それは第一次大戦が弔鐘を鳴らした文明の、終焉ではないにしても、凋落に警告を発するものではなかろうか。こうした過剰な曲線は、いわば犠牲者をめぐる苦悩の網目を織り上げているのであって、その犠牲者とは愛好家であり、ユーザーであり、繁栄のさなかにさえ危機を感じとる人であった」。アール・ヌーヴォーは基本的に二次元的で装飾的であるがために、運命の先ぶれでもある。「装飾は不確実の時代にはつきものである。というのもそれは儀式的行為であり、われわれの過去の淵に根差している悪を祓う行為だから。」(『アール・ヌーヴォー、ベルギー/フランス』ヒューストン、ライス大学、1976年)。

オルタを論じた著書の中で、F.ボルシは象徴的な装飾について語っている。「楽観と疲労とは2つの運動、すなわち上昇運動と下降運動によって象徴される。この運動は交互にひきつける2極の間に正弦曲線を描いて同時に起こり、かくしてすべての構造的要素および装飾的要素に見ることのできる運動の輪郭を形成する。この2つの補い合う極は特定の人間の運命と結びつけて考えられる。こうした特性のまた別の側面として、アール・ヌーヴォーと人間経験の触媒として作用する音楽との関連がある。音楽はリズミカルな運動や心臓の鼓動を生み出す。アール・ヌーヴォーは第一に擬態芸術(ミミック・アート)であり、あるものを喚び起し、装い、最終的にはある種の人間の行動の仕方と結びつく」。

ミヒャエル・ミュラーは分析をさらに一層推し進める。彼は装飾の機能的内容を強調し、「実際の要求を装飾という美的形式に変えること」について語ることも可能だと主張する。「それは、要求の表現を ― たとえそれが現在は実現できない要求であろうと ― 美的形式に翻訳することができるという意味なのだ....。ユーゲントシュティールの装飾は、新しい経験と内容を定式化し、生の現実と対応するものを少くとも美的に提供することにその源がある....。」結論として彼はこう述べる。「フロイトによれば、幻想が芽生え、隆盛を誇れば、人格が分裂して神経症や精神病になる条件が生まれる」と。(『ドイツ芸術の記録(アイン・ドクメント・ドイツチャー・クンスト)』、1977年)。

アール・ヌーヴォーの装飾的側面の重要性は、アドルフ・ロース(1870年ブルノー生まれ)の激しい悪罵によって否定的な意味で立証される。意味ありげに「装飾と犯罪」と題された彼の論文の中には、恐れと、ロース自身の意識下の諸傾向を抑圧しようとする企図がある。ロースは装飾を落書きに等しいものとし「エロティックな象徴を描いて壁を汚してやろうという内的衝動をもった」人間を、犯罪者ないし堕落者とみなす。「こうした本能の束縛が解かれれば、主として公共施設にこのように堕落がぶち撒かれることになるのも当然のなりゆきである。われわれは便所の壁の落書きの程度によって一国の文化の水準を測ることができる。子供にとって最初の芸術的表現が壁に落書きされたエロティックな象徴だというのは自然な現象である。しかし子供には正常なことでも、現代の大人には堕落の表明となる。私は次のような結論に至り、それを贈り物として人類に献じよう ― 日常使用するものから装飾を取り除くことと歩調を合わせて文化は発展する」。

ロースはこう信じてさえいた。「最初に生まれた装飾である十字形は ...エロティックな起源を有している。水平の線は横たわる女であり、垂直の線はその女を貫く男である」と。ロース自身、自らのエロティックな幻想が強引に抑圧された典型的な例であって、彼は己れの教訓を経済学に適用して、装飾とは「労働時間の浪費であり、資本の浪費」であることを証明しようとした。

ロースのこうした考えは、生活環境が致命的な非人間化傾向をきたした初期に形成されたものだが、それは建築における新しい方向を求めて戦っていた同時代の人々の考えとは相容れないものだった。例えばル・コルビュジエはアール・ヌーヴォーに讃辞を呈し、それを「1900年前後の美的態度」とみなし、「それはわれわれが古い文化のぼろをかなぐり捨てた時だ」と述べている。

私の父アルフォンス・ミュシャが1888年にパリにやってきた時、この新しい様式は今まさに生まれようとしていた。それから一世紀を隔てた現在、われわれは新様式の形成に寄与した影響や関連のことごとくをはっきりと見ることができるものの、この出来事に関わった当の主役たちには、ごく身近に進行していることのみが了解されるにすぎなかった。従って、私の父が世界的規模の潮流の一翼を担っていることをついに理解できなかったのも無理からぬことだったかもしれない ― 父はただ「自己流でやっている」と語るだけだった ― しかし一方、多くの高名な芸術家や知識人が集い、大まじめで新しい考えやその実行について論じたのは、ヴァル・ド・グラース6番地の父のアトリエでのことだったのである。そこにはアナトール・フランスが、レナルド・アーンが、ロダンが、シャルパンティエが、クプカが、ジャン=ポール・ローランスが、ロスタンが、ジニスティがいたし、のみならずロシュフォールが、ポール・アダムスが、アロクールが、シュレが、シャルル・ノルマンが、クラルティがいた ― 事実、全体がイデオロギーの中央委員会のごときものであった。ただし、いかなる委員会も、細胞も、組織もなかったのだけれど。フランスにおけるアール・ヌーヴォーは生活の仕方であり、自発的な運動であって、確かに組織というものがまったくなかった。同じ様なグループがいたるところに存在した ― ナンシーにはガレ、ブリュッセルにはヴァン・デ・ヴェルデ(ヴァン・ド・ヴェルド)とマウス(モース)がいたし、さらにブリュッセルにはオルタが、パリにはギマールがいた。彼らはいずれも進歩(progress) ― 大文字の“P”をもつにせよ小文字の“p”をもつにせよ ― に対する熱狂者であり、いずれもその工房やアトリエで並はずれた美とまったく新しい形式とをそなえたものをつくり出していた。

私の父がそうした自発的かつ急進的な運動と関わっていることを充分には気づいていなかったのも、主に父の抱いていた芸術の国民性という考えによるものだった。「芸術と精神とは何か?」と父はかつて書いている。「それは感情を知覚し、それを最も適切な手段で翻訳する能力のことだ。芸術家とは、独自に考案し、その個性から発した個人的な手段によって、この感情の翻訳を行う人の謂である...。従ってインターナショナルな芸術といったものは存在しない。そのような芸術があるとすれば、それは常に弱肉強食にしかなりえない」。当時の状況を父はきわめて否定的に見ていた。「今日の生活は、すすけた、おまけに非常に金のかかるホテルのようなものだ。客は金を払ってホテルに入り、金を払って外に出るが、中にいるときに支払う金のことは勘定に入れない。芸術でさえ、こうしたホテルのオーナーの必要条件を満たさなければならないのだ。」ウィリアム・モリス以来、基本的な論点となっていた応用芸術の問題について、父の考えは今やはっきりとしていた。「芸術のための芸術と、産業が利用する芸術とは区別しなければならない。後者は前者を含んではならず、しかし前者は後者に侵されてはならない」。

父は、オーストリア=ハンガリー帝国の非ドイツ国家の芸術から故意に国民性を奪おうとする分離派の動きを機会あるごとに糾弾したにも関わらず、1898年にウィーン分離派の創立メンバーになったという話は、ほとんど逸話化している。とはいえ、分離派はアール・ヌーヴォーやユーゲントシュテールと同じ根から生じたものであって、それはまたアカデミズムに対する異議申し立てでもあった。しかしパリではミュシャの描き出す天使のごとき存在は花と化し、その色彩はパステルのもつ色合いの域を越えていたのに対し、ウィーンの分離派は黒い渦巻きや筋骨たくましい姿の女性、それに重苦しいドイツ神話を好んだ。これは父の好みと真向から対立するものであって、父は祖国に影響を及ぼしているのがウィーン分離派であることに非常な困惑をおぼえた。父は己れの作品が純粋にスラヴ的なものであると確信しており、祖国の人々がどうして自分たちには全く異質な要素を無思慮に受け入れるのか理解に苦しんだ。父のこのような考え方を支えたのは次のような事実であることに疑いはない ― パリにおいて新様式の形式に及ぼす父の影響力が着実に増大し、アール・ヌーヴォーという言葉がミュシャ・スタイルという言葉と自由に置換えて使われるほどにもなったという事実。こうした事態が生まれたのは、父がなした特定の貢献 ― 流れる髪の毛を入り組んだ装飾的要素として使用するといったような ― によるばかりでなく、応用芸術のあらゆる分野をカヴァーし、最終的には圧倒的な数の優勢によって勝利を収めたその旺盛な制作力によるものでもあった。忘れてならないのは、ポスターや装飾パネル(あらゆる家庭に入り込み、重要な収集品となった新案物(ノヴェルティ))の他に、何万という数の絵葉書が、父のリトグラフのほとんどすべてをまずは首尾よく複製にすることによって、父の作品を世界中に知らしめたという点である。これは芸術が大衆向きの商品となり、かくして芸術家のポピュラリティが著しく増大した最初のことであった。

1897年に『ラ・リュム』誌に発表されたアンリ・ドグロンの論文を読めば、公衆が父の作品にはどのように反応したかを少なくとも幾分かは理解することができる。「われわれの内に入り込み、感情の全域を提供するために、ミュシャは女を使う ...われわれの知るがごとき女を ...女の口づけはわれわれを愛撫し、あるいは傷つけ、神秘的な襞のある衣裳は気まぐれな恋人の意のままに広がり、あるいは寄せる ...。ミュシャはリアリストでも神秘主義者でもない。確かならざる基準をもついかなる印象主義も、彼の作品には孕まれていない。彼はだれにもまして、欲情の濡れた唇をもつ現実の女をいかに讃美するかを心得た詩人である。」公衆の心をかき立てたのは純粋な形の象徴主義であった。人々は絵の中に己れ自身のイメージを投影し、さらには与えられたテーマによって即興的にイメージを展開することのできる作品を愛した。「ミュシャは自らが属する特定の時代に意識的に参画した数少ない人物の一人であるように思われる」とール・ルドネルは同年の『ラ・リュム』誌に書いているが、これはまことに正しい指摘である。父が完全な成熟期に達したまさにその時、芸術に対する父の態度すべてが時代の要求するものと完全に合致したのだ。もしも父が10年早く、あるいは10年遅く生まれていたならば、父はその目的を逸して取り返しのつかない事態になっていたであろうし、それは父と時代の双方にとって損失となったことであろう。

アラベスク、波打つ髪の曲線、空間を満たす装飾の使用 ― このすべてが空白を嫌うミュシャの心から、一つの領域を分節し、分割し、同時に調和あるものとする必要を感じたミュシャの心から生まれたものである。私は父の制作する姿をしばしば注意深くながめたものだが、その制作の仕方はずっとのちに私が目にしたピカソのやり方と同じものだった。まず父は主要な線描で画面を分割することから始めた。ついで直ちにもっと多くの線で空白部分を埋めてゆくが、はじめはバランスを崩さないように控え目に、やがて線をどんどんふやしていって遂には全体が曲線とアラベスクの調和のとれた模様(パターン)になるまで描いてゆく。父は予めプランを考えておくようなことは決してなく、また画面の一つの個所に注意を集中することも決してなかった。父の手は紙の上を確実に動き、新しく生まれる一つ一つの線が、単純なバランス感覚から、その次の線を論理的に導き出す。確かにミュシャほどやすやすと器用に、自ら属していた特定の時代に参画することができたものもいなかったのであり、公衆の幻想をあおり立てて、かくまで信じがたくゆがめたものもいなかったのである。それほどの豊かな発明の才に恵まれていたならば、全世界は曲線や環状線(ループ)からなるひとつの巨大なうねる波と化していたであろう。「なぜ」とポール・ルドネルは叫んだ。「時代は、われわれのすべての欲望を実現するために、あらゆる現象を支配し、それをわれわれの目的に供するために整えられているのであるから、それならばなぜ、ある大産業人が自動車の形そのもののデザインをミュシャに依頼してはいけないのだろう」。

然り、なぜこうしたことが起こらなかったのだろう? ヒエロニムス・ボッス的幻想が車輪をつけて走ったならば、世界はそれだけいっそう豊かになったであろうに。

 

 

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*この文章は1983年3月〜11月に、プラハ国立美術館及びアルフォンス・ミュシャ展開催委員会を主催者として、日本の主要都市で行われた「アール・ヌーヴォーの華―アルフォンス・ミュシャ展」図録より引用させて頂いております。あくまで文化振興を目的とし、ミュシャの業績を広く皆さんに知って頂くために掲載させて頂いておりますが、著作権者のご要望があれば即座に削除いたしますので、メールにてサイト・オーナーまでお知らせ下さいませ。著作権者様のご理解を賜れれば、これに勝る喜びはございません。また読者の皆さまにおかれましても、著作権に十分ご配慮頂き、商用利用等、不正な引用はご遠慮下さいますよう、宜しくお願い致します。

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