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コスモポリタン“ミュシャ”、パトリオット“ムハ”

ヴラスタ・チハーコヴァー(美術評論家)

アルフォンス・ミュシャはチェコスロヴァキアの生まれで、"ムハ"と発音するのが正しいが、世紀末のフランスで有名になったために通常フランス語風に"ミュシャ"と呼ばれている。日本では始め"ムッハ"あるいは"ムッカ"として紹介されたそうだが、"ミュシャ"といえばサラ・ベルナールのポスターや、モダン・アートの形成に貢献したその装飾的仕事と切り離せない呼び名である。言い換えれば"ミュシャ"とは、そのコスモポリタン的存在、1888年から1904年に至るまでパリで活躍し、そこで得た評価と離れがたく結びついた呼び名なのである。

一方、"ムハ"は生まれた国に深い愛情を抱くパトリオットで、当時は自国においてすら十分に理解されないモニュメンタルな作品を描いた画家でもあった。"ムハ"のこのようなパトリオットとしての芸術的生涯はモラヴィアやプラハのバロック教会との出会いによって最初の転機をむかえ、晩年の大作<スラヴ叙事詩>の制作において頂点に達している。それは「芸術はファッションのように変遷するものではなく、人類の進歩と同様に常に永続性がなければならない」という考えに基づく、彼のもう一つの存在の在り方なのである。

『ジスモンダ』のポスター

 

実際のところ1894年に殆ど一夜でミュシャ・スタイルが完成されたといっても過言ではないのだが、それは時代の流行を十分に反映したアール・ヌーヴォーの中のインターナショナルなスタイルであった。引用の織り物としてしられるアール・ヌーヴォーは素材への新しい感覚を開拓する一方、東洋の(主として日本の)芸術の影響を受け入れ、また各国の民族芸術や過去の芸術の歴史的スタイルの要素をも取り入れたのだが、ミュシャ・スタイルもまた決してその例外ではなかった。日本、スペイン、ビザンチン、また出身地の南モラヴィアといった様々の芸術の造形的要素を受け入れながら、ミュシャ・スタイルはラファエル前派のロセッティや、同時代ではビアズリーとかクリムトが繰り返し描いた「宿命の女(ファム・ファタール)」の魔的画像の系譜に属しているのである。その上、装飾美の理想を平面の問題に結びつけ、画面における枠と輪郭線という2つの手段によって新たな平面の感覚を生み出したのである。

ミュシャがコスモポリタンへの道を歩み始めたのは、ミュンヘンでの修行時代(1884〜1887)だと思われる。ミュンヘンは同時代のウィーンに比べて外国に対してもっと開かれた芸術環境を持っていたようで、特に前世紀の70年代から90年代、この都市はちょうどアカデミックな歴史主義にピリオドを打ち、ネオ=ロマン主義的ムードに支配されていたのである。若きミュシャはルートヴィヒ2世時代の幻想的な建築や室内装飾に感動し、ミュンヘンの芸術界を支配する美への熱狂的なあこがれに同調した。その上、彼はミュンヘンに滞在する同国人の画家たちと付き合い、彼らと一緒に自分の中のスラヴ人としての意識、またチェコ人としての意識を強める会を開いたのである。この会(一時、シュクレータ会と呼ばれる)の多くの友人、特にデッサンにおいては軽やかな、またイラストにおいては優美な腕前で知られる画家ルジュク・マロルドは、ミュシャがパリに移ってからも彼の仲間でありつづけた。

1888年、初めてパリに出て、1889年にこの街に永住することを決意したミュシャは、ポーランド、ロシア、北欧、チェコ等々色々な国籍をもつ国際的な仲間に恵まれた。成功をかちえるためには自らのエネルギーをフルに回転させねばならなかったにちがいない。また、1900年の万国博をきわめて象徴的な目標とみる近代社会の思想を、ミュシャは心から信じなければならなかったであろう。雑誌のためのグラフィック・デザインや本のイラストの仕事を、彼はミュンヘン時代の友人でパリでも挿絵画家として評判の高いマロルドに紹介してもらい、こうして自己特有の装飾的表現を次第に身につけていった。

1894年12月、ミュシャはサラ・ベルナールのための最初のポスター《ジスモンダ》を制作することになるが、この時期、彼の様式はほぼ結晶していた。パリの土着の色々な要素も含めて、都市のフォークロアを日常生活を通して敏感に吸収していたこの芸術家は、一匹狼の孤独を味わうことなく、大勢の人と触れ合い、また色々な影響を受けることによって成長していった。かつてウィーンのリング劇場の舞台装置の工房で働いた経験や、ハンス・マカルトのアトリエで覚えた人気芸術家の寛大な身振りを、ミュシャはサラ・ベルナールの劇場のために利用することができた。ポスターの他に彼は舞台装置や衣裳、またそれぞれの芝居の全体的な雰囲気を形づくることを手伝い、サラの芸術のファンの層を広げるのに一役買った。こうして彼は、シェレ、グラッセ、ロートレック等の一員として、自らの地位を確立したのである。

『ヒヤシンス姫』のポスター

 

ミュシャの作品に大きな影響を及ぼしたハンス・マカルトについては、ミュシャ自身はあまり語っていない。しかし、マカルトは1869年に天才的女優サラの最初の肖像画(油彩、ウィーンの個人蔵)を描いている。サラはその時25歳、パリで人気が出始めた時期だが、このマカルトの絵には、彼女がしばしばベッドとして使っていた棺や『ハムレット』の公演の際に使っていた頭蓋骨や燃えるろうそくが描かれている。またマカルトが二度目にサラの肖像画を描いたのは彼女がウィーンを訪れる1881〜1882年のことであった。それはちょうどリング劇場で火災がおき、人々が芝居を見にこなくなった時期であったが、サラのおかげで芝居を見にくる人の数が再び増大したのである。ミュシャはちょうどその時ウィーンでの滞在を終えようとしており、このマカルトの作品を知っていたにちがいない。

マカルトがサラを「宿命の女」として描き上げるやり方は、前述のごとく時代的な現象であり、それはミュシャの力強い個性的な女性の描写とほぼ一致している。また、パリでミュシャを取巻く同国人の会でも、1860年頃パリにやってきたヤロスラフ・チェルマークをはじめ、その後ヴォイチェフ・ヒナイスやヴァーツラフ・ブロジークといった人々の手になるアカデミックでネオ=ロマン主義の影響を受けたサロン的な女性像にも、アレゴリーに近い神秘的な女性が描かれている。また、チェコにおいても現在まで高く評価され、一時ミュシャのパリのアトリエでも働いたことのある画家でグラフィック・アーティストのヴォイチェフ・ライシグもネオ=ロマン主義というよりは象徴主義に近い女性像を描き上げている。一方、パリにおけるチェコ人会のうちで最も有名で、最も気難しい仲間として知られる画家フランツ(フランチシェク)・クカも同じ頃パリにやって来た。クプカはそれほど「宿命の女」の像に時代的な意義を感じてはいなかったが、象徴主義の影響の下に社会的な矛盾を指摘するグラフィック・アートを通して、近代社会の別の神話や世界観を描き上げた。象徴主義的作品を抽象絵画にまで発展させたクプカとミュシャとは、余りにも個性の異なった芸術家のタイプであり、互いに親しく付き合ったとは思われないが、それでも生まれ故郷への愛情とノスタルジーによって二人は結ばれ、接触があったようで、30年代になると二人の回顧展がパリで開かれている(1936年、ジュ・ド・ーム美術館)。

一方、世紀末のチェコにはパリの国際社会の生活とはかなり相違した空気が漂っていた。オーストリア=ハンガリー帝国の中のチェコは、国の独立のための政治的な戦いをつづけ、その中で文化人は指導的な役割を果たしていた。1870年〜1880年にはチェコ語やチェコの演劇による国民劇場の建設をきっかけに、チェコの芸術家たちはきわめて民族的な要素の多い、国のための象徴的な、ネオ=ロマン主義的な仕事にとりかかっており、しかもその発想はリアリストのものであった。この世代には作曲家で有名なスメタナや、画家ではミコラーシュ・アレシュやヨゼフ・マーネス、また先ほどパリとの関係でふれたヒナイスやプロジークらも属していた。

ホジッツェでの

北東ボヘミア商業・工業・芸術展のポスター

 

ところで、世紀末が近づくにつれ進歩的な若いインテリはチェコの美術のために国際的な展望を願って、1884年に「マーネス会」を結成し、また1896年からは『自由な方向(ヴォルネー・スミエリ)』なる機関誌を発行しはじめた。そして1900年のパリの万国博を契機に、チェコの中でも現代絵画の運動が活発になり、パリや外国からの情報が急激に増えるようになった。このような雰囲気のおかげで1902年、ミュシャは友人のロダンを伴って一時プラハに戻ることができた。しかしプラハにおけるアール・ヌーヴォー様式の定着に対しては、ミュシャはいかなる時にも「ウィーンからの一方通行である」と批判的な意見を述べている。実際、彼やマロルドやプライシグはチェコにおけるアール・ヌーヴォーの形成に影響を与えることは殆どなかったのだ。これはチェコ国内の複雑な事情によるのであろう。一方1900年より前のプラハではパリとの交流が弱く、ウィーンの影響が優先していたが、アール・ヌーヴォー形成にはウィーンばかりでなく、イギリスのアーツ・アンド・クラフツの思想の影響も加わって、様々な要因が働いていた。ただ、ミュシャ個人に対しては、同時代のチェコの人々は確かに無関係で、彼のパリでの評価に比べてその態度は冷たく、自らの中に磨き上げていく彼の愛国心にも特別な理解を示しはしなかった。

このような情況に対する居直りとしてか、1900年以後のパリのアイドルであった"ミュシャ"は、次第に"ムハ"としての本来の自分の姿に戻りつつあった。不思議なことには1903〜1904年頃の彼のデッサンには表現主義的かつフォーヴ的な要素が現れはじめる。もっとも彼はこうした傾向の絵画を生み出すことはなかったが、しかしデッサンは少なくともこの芸術家の意識上の変化を暗示している。また、ミュシャはチェコからの作品の注文がきわめて少なかったにもかかわらず、それらに対しては熱心に、かつ丁寧に応えたのである(1898年、『ルミール』誌のための表紙デザイン、1902年のヴィシュコフでの展覧会のポスター、1903年のホジツェでの展覧会のポスター、1911年のバレエ『ヒヤシンス姫』のためのポスターは、この時期の主要な注文制作の例である)。

一方、プラハでは今世紀初め、ロダン展やロダンの訪問ののち、現代フランス美術展が催され、さらには1905年にはムンク展、1909年にはブールデル展、また1910年にはチェコとフランスのキュビズム展等々と紹介が続く。従って1907年頃パリで"引退"を決意し、資金集めにアメリカへ出かけ、1909年にこのアメリカでスラヴ民族の歴史を賛美する<スラヴ叙事詩>の制作のための援助を得ることができたミュシャは、やがて祖国に戻るが、この帰国はかなり出遅れた祖国への登場となる。1910年、プラハ市民会館の壁画制作のためにボヘミアに赴くこと自体、芸術家自身にとって誤解を生む悲劇であった。プラハ市民会館の建物は1905年に設計され、その実現が1910年まで延びていただけに、ミュシャの壁画とともにそれはプラハ人によって時代遅れのアナクロニズムと受け取られた。ましてや、1912年<スラヴ叙事詩>の最初のカンヴァス3点が完成し、その暗い歴史画スタイルが明らかとなり、さらに1928年に至るまでに17点のモニュメンタルなカンヴァスを生み出すに及んで、彼と時代とのふれ合いは齟齬をきたすことになった。

一方、現在の私たちが<スラヴ叙事詩>をみると、そこに画家としてのムハの非常な熟達と精神の強さを感じずにはいられないし、また作品の内容および構成から出て来る個性的で神秘的な雰囲気に感動するばかりである。時代を大きく隔てた一人の天才のスタイルの中に閉じ込められた絵画的な現実であるにせよ、それは独自の法則をもって成り立ったものとして現在見直されてしかるべきであろう。

また、ミュシャは自らの画歴の初めにプラハの美術アカデミーへの入学を認められず、以後そのためにチェコの画家たちと十分な接触をもつことができなかったと一般に言われているが、このことも大きな逆説を物語っている。彼こそチェコの伝統絵画の線的表現(デッサン力)を最高度に高めたのであり、しかも線のリズムやメロディー、愉楽とノスタルジーによって自らが心の奥底までチェコ人であることを証明して見せたのである。しかも、彼は絵画から出発してデザインの前衛を形成しながら、デザインから再び絵画の原点に戻った時、そこでなおかつ絵画に対しても前衛の立場を維持すると期待するのは奇妙なことである。コスモポリタン"ミュシャ"が前衛であることは当然である。また、パトリオット"ムハ"は時代の流れに無関係なきわめて独創的な個性をもったということも当然なのであろう。

日本で「アルフォンス・ミュシャ」展が開催されるのは今度で三度目になるが、ポスターや挿絵といった複製芸術のみならず、油彩やデッサンといった原画が展示されるのは今回が最初であり、"ミュシャ"と"ムハ"を対照しつつ、その芸術を正当に評価する絶好の機会であろう。(原文日本語)

 

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*この文章は1983年3月〜11月に、プラハ国立美術館及びアルフォンス・ミュシャ展開催委員会を主催者として、日本の主要都市で行われた「アール・ヌーヴォーの華―アルフォンス・ミュシャ展」図録より引用させて頂いております。あくまで文化振興を目的とし、ミュシャの業績を広く皆さんに知って頂くために掲載させて頂いておりますが、著作権者のご要望があれば即座に削除いたしますので、メールにてサイト・オーナーまでお知らせ下さいませ。著作権者様のご理解を賜れれば、これに勝る喜びはございません。また読者の皆さまにおかれましても、著作権に十分ご配慮頂き、商用利用等、不正な引用はご遠慮下さいますよう、宜しくお願い致します。

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