Vol.2.  野獣死すべし 

名作に見る、いい男の系譜 その2 〜挫折者の結論〜

 

前回「汚れた英雄」をレヴューしてしまった限り、今回は「野獣死すべし」、つまり伊達邦彦シリーズについて書かないわけにはいかない。

大藪春彦氏のデヴュー作として、あまりにも有名なこの作品の主人公である伊達邦彦を、氏はほぼその生涯に渡って断続的に描き続けられた。作者に取ってこの主人公が最も自らに近い存在であったことは、デヴュー作であり、シリーズ最初の作品となった「野獣死すべし」にも描かれたように、その生い立ちが作者自身のそれと重なることからも知ることが出来る。単に生まれ育ちに関する事柄ばかりではなく、重要なのは最も思想的に近い存在であるということだ。北野晶夫は、邦彦の別次元への投射であるように私には思われる。

華麗なる殺戮者、何者にも屈することのない野獣、一千人を超える屍を後にする史上最悪の犯罪者、そういった邦彦の昏い側面とは正反対に、彼の表の経歴は鮮やかなほどインテリジェントだ。そしてそれが邦彦の不幸であるとも言える。全9巻に登るシリーズの全貌をここで紹介することは不可能だが、この類稀な主人公について、ご存知ない方のために人物像のアウトラインくらいは提供しておくべきだろう。

伊達邦彦は戦前、旧満州ハルピンに生まれる。父は従業員千人を数える新満精油を経営していたが、部下に裏切られて会社を乗っ取られ、一家は裕福な暮らしからの転落を余儀なくされた。そこへ戦争、敗戦と悲惨な出来事が続くが、死が日常茶飯事という環境の中で、邦彦の人間性も明らかに歪んだ方向へと形成されてゆく。

敗戦に伴って母と妹ともども帰国するが、その後十代では権力に対する嫌悪から共産主義に傾倒し、一度は大学受験に失敗して神学校に入るも、そこで宗教家の欺瞞に絶望し背徳的なキリスト論を書いて放校となる。翌年は東京の私大に入り直すが、この辺りのどこかで情熱的な理想家は完膚なきまでの個人主義者に堕落したのだ。精神は荒廃と堕落の一途を辿りながら、けれども表面的にはその美貌も手伝って人あたりが柔らかで快活な学徒と見える。その輝かしい経歴を並べれば、入りなおした東京の大学から大学院に進み、修士課程を折り紙付きで卒業してハーバードの大学院へ留学 ―  たとえそれが実質的には最初の大犯罪に対する追求からの高飛びだとしても ― その後そこでも修士課程を終えてコロンビア大学の博士課程に進む...。

しかし妹の晶子がかつて父を陥れた現京急コンツェルン総帥、矢島祐介の子息と恋に落ちた事実を知り、新たなる怒りを得て復讐を兼ねた次の犯罪計画を遂行するために帰国。それが三星銀行襲撃による87億円という巨額の強奪と、更にそれを元手にした京急コンツェルン乗っ取りという大博打だった。

邦彦の生涯は、このように殺戮と謀略に満ちた冒険の繰り返しであるが、同時に一時期は母校の大学院で教えていたこともあるし、様々な犯罪の追及から逃れるために英国に渡ってからは、タイムズ紙の記者として辣腕を振るっていたこともある。またNSAのエージェントとして帰国した時も、カヴァーは大学の助教授だったというように、表の顔からは凶暴な犯罪者の面影など微塵も浮かんでは来ない。いや邦彦に限っては、どれほどの殺人を重ねようとも、それは常に単なる血に餓えた殺戮者の醜悪さとは一線を画す。彼は野生の獣であり、従ってどのような軛にもそもそも支配されてはいないのだ。

もちろん数ヶ国語を自在に操り、趣味は射撃、狩猟、ヨット、スクーバ・ダイヴィング、スカイ・ダイヴィング、その他数え切れないが、最後に女とつけ加えておこう。BMW、アストン・マーチン、フェラリなど名だたる名車が愛車として名を連ねるのは大藪氏の作品ではいつものことだが、それに全長22メーター、三千馬力のエンジンを積むヨット"ザ・ビースト"が加わる。建造費だけでも一億かかっているという豪勢さだ。しかしその殺人機械としての手腕ゆえに、英国情報部にむりやり籍を置かされていたこともあるし、後にはNSA、そしてかつては犯罪者として彼を追った日本政府までが、邦彦の顧客に名を連ねることになる。犯罪者も究極を超えると国家にとって必要な存在になるというのは興味深いロジックだ。

晶夫よりもまだ線の太い人物像のように感じられるが、その外見の繊細な美貌はいい勝負をしている。と言うよりも、そもそも先ほども書いたように、北野晶夫のモデルは明らかに伊達邦彦だと私には思われるのだ。優雅な外貌と激烈な内面性。そして私の知る限り、大藪氏の作品の中で秀麗な美貌が強調されているのは、この二人をおいて他にない。けれども晶夫と邦彦が明らかに違うのは、まずこれだけの殺戮を繰り返して来ていながら、邦彦の方は時として無邪気と言っていいような表情を披露してくれることだ。しかもこいつは、ほんのタマにだがマジで女に惚れる。そのへんが一連の大藪ヒーローには珍しい可愛げで、それゆえ作者はこのキャラクターを特別愛しておられたのだろうと感じられてならない。そして邦彦の思想性の変遷が、彼を単にエンタテイメント小説のカッコいい主人公で終わらせない「重さ」になっている。

理想家が挫折する時、それは同時に人間に対して絶望する時でもある。

「十代でマルクスを読まないヤツはバカだが、ハタチも過ぎてマルクスに傾倒しているヤツは更にバカだ」という名言があるが、それは社会という自らを包含する大きなワクを認識する力を持って生まれるか生まれないかの差でもある。大半の人間はマルクスになどそもそも興味を持たない。何故なら彼らはあくまで地上に這いつくばった視野しか持たず、宇宙的な視野から俯瞰した世界を認識することなど到底不可能だからだ。しかしそれが悪いというわけではない。「人間」とは普通そういうものであり、だからこそ彼らは平和に日常を生きて行くことが出来る。

稀に十代でマルクスに傾倒することがあっても、大半は一過性の熱病で終わる。それはもともと一般通常の視野を持ち、普通の日常を生きて行くべき人々で、ただ何かの理由で横道に逸れただけだからだ。彼らはある程度の年齢になればそんなことも忘れて、良き市民として社会を構成する細胞のひとつとなることに満足するだろう。しかしそうであれば、例え一時なりとも思想哲学という劇薬に関わった者としては幸運と言わなければならない。不幸なのは、思想の袋小路に入り込み、そこから出られなくなった連中である。

マルクス主義には根本的に論理的欠陥がある。それはソビエト連邦においてさえ、原始共産制が破綻したごく初期の頃に露呈されていたものだ。しかし思想の袋小路から脱出できなくなるような連中は、そもそも思想哲学などというこの世で最も致命的な劇薬に関わるべき知力を持ち合わせてはいない。故にその論理的欠陥を見抜くことも出来ず、ハタチも過ぎてまだ社会主義、共産主義などというヨタを信じ込めるのだろう。もしくは更におめでたければ、そもそも自分が信奉していると吹聴する思想について、全く理解していないかのどちらかだ。

そして最後に極々稀少なカテゴリーの人間がいる。マルクス主義に興味を持つだけの視野を持ち、それを理解し更にその論理的欠陥を指摘する事が可能であり、故に早々にそれに見切りをつけられる。そのためには少なくとも「社会」、「国家」、「人間」について正しい理解を持たなくてはならないが、結果おそらくは最も幸運で最も不幸な生涯を送るハメに陥るある種の禁治産者、挫折者、何とでも。つまりは社会から自ら脱落し被疎外者としての生涯を運命付けられている者である。

「俺は俺のためだけに生きている」と邦彦は言い放つが、思想的挫折者に取って、これは苦い独白でもある。結局の所どう理屈をつけようと人間は自分のための一生しか送ることは出来ない。そして更に邦彦にとり「モラルとは彼自身の意志」であるという。これはもう、明らかに独裁者の精神性だ。しかしこの場合も邦彦に限って醜怪な腐敗に染まることはない。基本的にはストイックな彼にとっての快楽とは「生命の充実感」を意味するものであり、彼が追求するのは常に究極の「理想」に他ならない。そうであればこそ彼のこのような精神性は美にさえ通底するのだ。一般には、こうした精神性を持つ者は傲慢と認識されるだろう。しかし私は邦彦の生き方は極めて謙虚だと感じざるを得ない。何故なら、彼ほどの知力に恵まれていれば、人間を足下の存在と見下してしまうことだって難しいことではないからだ。戦うという行為は、自らと対等、若しくは脅威と感じられる相手に対してのみ挑み得るものだ。始めから自らの足下にある生き物に対して、誰も本気で戦うことなどしない。それでは邦彦は生涯、何と戦い続けたのか。

その戦闘の過程で築かれた屍の数はゆうに一千を超えるとも書かれるが、しかしそれだけの殺戮を繰り返さなければならないほど、邦彦に取って何が脅威であったのか。おそらくそれは「国家」であり、「社会」であり、幻影でしかないそれらを確固たる現実として存在させしめる「人間」だったのであろう。

自らの意志を貫き通して生きること、それそのものが「社会」に対する最大の反逆だ。「俺が俺のためだけに生きる」という単純な「正義」でさえ、力でねじ伏せにかかってくるのが「国家」であり「社会」である。自らの意志のみをモラルとして生き抜くためには、でっち上げられた権力という力に、死を賭して挑むより他ないだろう。その中核にあるものは本来自由であるぺき人間を曲げようとする「力」に対する純粋な怒りだ。この「怒り」という一点を以って、邦彦と作者である大藪春彦氏自身の精神性が融合する。伊達邦彦というキャラクターがヴィヴィッドであるのは、その核にある怒りが実在のものであったからだ。

さっき私は邦彦を謙虚だと書いたが、思想性の終着点まで来てしまった者は、さっさと別次元に抜けてしまうことも出来るのだ。しかし、それをせず、と言うよりもおそらく出来ずに、自らの存在をかけて戦うことを選んだ彼は潔いとさえ私には映る。「汚れた英雄」について書いたとき、「美は愛に通底し、愛は意志に通じる」と書いたが、死を賭けて闘い抜いたその意志力ゆえに、邦彦は囲い込まれた家畜の醜さとは無縁の、野生動物の光輝を失わない優雅なる野獣として君臨する。

築いても築いても壊される彼の「城」、砂上楼閣、その苦々しさもまた、大藪春彦氏自身の生涯の投影であったのかもしれない。伊達邦彦の一生に、はっきりと終止符を打つ前に氏が亡くなられたことは、今もって残念でならない。

2001.9.20.-9.26.

 


<銃を知る試み>

一般に銃器とは昨今では憎まれ役の代表格となっているが、私はそうは思わない。何故なら刀剣であろうと銃器であろうと、それは純粋に力そのものでしかないからだ。その「力」とは同時に本質的には政治や経済といった権力機構にも内在していると言っていい。そしてその「力」を使うのは「人間」に他ならない。銃器が凶器となるのは、すなわち凶器となす「人間性」によってである。時としてそうした人間性に相対する「力」は、人を「守る」ものとしても機能するのだ。武器の起源とはそもそも生存を目的としたものであるとも言える。

 

最も美しい銃器とは装飾を施されたコレクション的要素が強いものではなく、あらゆるムダを省き、機能のみに徹したが故に実用的であるものだと少なくとも私は思っている。このページのタイトル画像としても用いた右の拳銃はモーゼルHSc、邦彦がシリーズ最初の犯罪である警察官を射殺した時に奪い、その後も折りに触れて作中に持ち出される彼のお気に入りの拳銃でもある。「腰だめでも25メートル先の空き缶に百発射って全弾ブチこめる」というほどだから、彼の射撃の腕前がどれほどのものか想像に難くない。ドイツのモーゼル社は1930年代既にこのダブルアクション、セミ・オートマティックを生産していたが、敗戦後一時期銃器生産を禁じられていた。その後1968年に再生産が開始され第1号となったのがこのHScである。3種類の口径バリエーションを持つが、写真は7.65mmX17のもの。8発装填することが出来る。モーゼル社は後に装弾数15発のHScモデル80も発表している。


 

こちらは銃が好きでなくても名前くらいはご存知のはず。ドイツが生んだ世界最高のダブル・アクション、ワルサーP38である。1938年にドイツ軍の制式軍用拳銃となるが戦後はP1の名称で西ドイツ軍にも採用された。これも口径バリエーションは3種、写真は9mmX19のもので装弾数は8発だ。邦彦は「マンハッタン核作戦」の中で武器商人ディック・オーエンスからこのワルサーP38を贈られるが、そいつは装弾数16発の特別製。一般のP38より銃把が太いが、特殊プラスティックで作られているためバランスの取れた素晴らしい仕上がりになっているという。蛇足だが、アニメ界のヒーロー・ルパン3世の愛用する拳銃もこれだったと記憶している。もっとも第2部以降のルパンは、殆どと言っていいほどワルサーばかりではなく銃そのものを使わなかったように思うが...。

 

シリーズ中、私の最も好きな「野獣は甦る」で、邦彦が用いたもののうちのひとつがこのチェコ製CZモデル85だ。口径9mmX19で装弾数15発。薬室にも一発装填出来るから、16発の連射が可能。東側のエースと言われるCZ・M75を改良したもので、そのグルーピング(集弾率)は抜群だという。この作品では邦彦は他にイスラエル製ウージーの短機関銃、グレネードラウンチャーを装着したM16A2ライフル、更にはバズーカ砲まで引っ下げてなぐりこみに出かけるが、ここでもそのワンマン・アーミーぶりは遺憾なく発揮される。

ところで、銃というものは射手の技量が高ければ、どんな銃を使っても標的に命中させられるものだと考えられがちだが、大藪氏によると例え同じメーカーの同タイプの銃であっても個体によってそれぞれ個性があり、それはライフル・マークばかりではなく着弾点にも影響を及ぼすものなのだそうだ。だから例え邦彦のように抜群のグッド・ショット(名射手)であっても、試射した上で着弾修正を行わない限り、命中させることは難しいという。また銃を細かく分解してゆくと、ハンド・ガンでさえそのパーツは40〜70にも及び、クルマと同じように精密なメカニズムの集積であることが分かる。これもクルマ同様チューンナップも可能だが、銃の場合はアキュライズと呼ばれるそうだ。大藪氏の作品を読んでいると夥しい数の銃器が登場するが、これもまた氏がこの禍々しいながらも同時に美しい人間の創造物を、ことのほか愛しておられたことの表れであると言えるだろう。

2001.9.27.-10.3.


<DATA>1997〜1998年に渡って、光文社文庫より伊達邦彦全集としてまとめられた全9巻が刊行されています。各巻の概略は以下の通り。

■ 第1巻  野獣しすべし ・・・ 1958年、早稲田大学の同人誌「青炎」に掲載され、後に「宝石」に転載されて氏のデヴュー作となった第1作。当時「宝石」の編集に携わっていた江戸川乱歩に絶賛されたことでもよく知られる。ストーリーは伊達邦彦という自我が如何にして構築され確立されたのか、そしてその犯罪歴の幕開けを飾る殺人と強奪を中心として進んで行く。翌1959年には更にスケールを増した「野獣死すべし 〜復讐篇〜」になだれこむが、ここに至って華麗なる殺人機械・伊達邦彦の存在感は不動のものとなる。この第1巻には他に「野獣死すべし 〜渡米篇〜」が収録されており、これは海外ミステリー作品の名だたる名探偵たちを邦彦がシャレのめす形でなぎ倒してゆく笑えるパロディ作品。「俺は核兵器なんかまっぴらだ。一人で一人殺してゆくスリルがなくなる。」と吐き捨てる彼の心理には突き詰めてゆくと大変興味深いロジックを発見することが出来る。ともあれここに描かれる多くの名探偵たちを見ていると、大藪氏が如何にミステリー作品を愛しておられたかが感じられて微笑ましい。このシリーズを読んだことがない方には、第1巻はまず必ず読んで頂きたい原点である。

第2巻  血の来訪者 ・・・ 1960年、野獣死すべし・第3部として週刊新潮に半年に渡って連載された長編作品。深夜のドライヴ途中オートパイの不良少年二人にからまれた邦彦は、ふとしたはずみで同乗していた恋人・神野知佐子を射殺されてしまう。もともとは資本金百億を誇る大企業、大東電機の社長令嬢である彼女を利用して神野家の一員にのしあがることを目論んでいた邦彦だが、その突然の死によって計画変更を余儀なくされた。彼は知佐子を殺した少年二人を葬り去り、彼女の死体を遺棄した挙句、誘拐を装って神野家に身代金請求の脅迫状を送りつけるのだが...。この作品は印旛沼を取り囲む葦原での惨劇から本格的に幕を開ける。真夜中の沼のほとりで恋人の遺体を車の後尾に結び付けて引きずりまわし、二目と見られない肉塊に粉砕する邦彦の狂った行動と、彼の冴えた美貌が見事な対象をなし、禍々しい上にも美的な絵画的光景が繰り広げられるのだ。しかしそれは後に続く様々な犯行の序章にしかすぎなかった。

■ 第3巻  諜報局破壊班員 ・・・ 1964年、週間アサヒ芸能にこれも約半年に渡って連載された作品。モナコ・グランプリに沸き返る群集の中にマセラーティが突っ込み炎上、その騒ぎに紛れてモナコ公国の王女と王子が誘拐された。一方、日本での数々の犯罪に対する追求から逃れて邦彦は英国に隠れ住んでいるが、「隠れ住む」と言っても出国前に手に入れた莫大な金でリヒテンシュタインの国籍を買い、レーンフォードに壮大な屋敷を構えて優雅な毎日を送っているのだ。しかしそれに目をつけた英国外務省情報部に脅迫され、無理矢理エージェントとして在籍させられてもいた。モナコで起こった事件に関して思惑のある英国が乗り出すことになるが、そういうわけで邦彦がその解決を命じられるハメに陥る。彼は亡命貴族というふれこみでフェラリ250GTベルリネッタを駆りモナコに乗り込む。前作までの悲痛なほど暗い雰囲気は影を潜め、世界を舞台に邦彦のプレイボーイぶりと華麗な活躍が展開されるこの作品は、エンタテイメントとしても秀逸の出来ばえである。

■ 第4巻 日銀ダイヤ作戦 ・・・ 1966年に「宝石」に掲載された同名作品を、1970年に大きく発展させて書き下ろされたもの。第2次大戦末期、日本中から供出させられて集められた大量のダイヤが今も日銀の地下深く眠っている。そのダイヤをマフィアが狙っているという情報をつかんだ英国外務省情報部は、組織に潜入し計画を阻止するよう邦彦に依頼してくるのだが...。 もとより邦彦がエージェントとして働いているのは何も英国のためだの正義のためというつもりでは毛頭ない。情報部に在籍しているのだって好きこのんでやっているコトではないのだ。この任務を幸い彼は情報部からの解放をかけて、マフィアのみならずダイヤの横取りを企んでいる中国政府をも出し抜いて自らの自由のために戦う。

■ 第5巻 優雅なる野獣  ・・・ 前出の日銀ダイヤ作戦の原型となった「汚れた宝石」の他1966年から1970年にかけて発表された短編4つを収録。各50〜70ページと短いながら、どれもバランスの取れた小品に仕上がっている。

■ 第6巻 不屈の野獣  ・・・ 1971年〜1973年にかけて発表された中篇、「狂気の征服者」、「謀略の果て」、「スパイ狩り」 を収録。この一連の作品では邦彦は無理矢理在籍させられていた英国外務省情報部から解放され、フリーのエージェントとして荒稼ぎする一方で優雅なプライヴェート・ライフを満喫している。ある夜、手に入れたばかりのアルピナ・チューンBMW2002TIで東名を吹っ飛ばす彼は、突如としてハイウエイ上で止まったムスタングから降り立った若者が、フラフラと道路のど真ん中にさまよい出てトラックに粉砕されるという惨劇を目撃する。その数日後、自ら所有する全長22メーター、三千馬力の二本マスト・ハッチ「ザ・ビースト」を公海上に出し、ガール・フレンドたちとマリファナ・パーティを楽しむ邦彦は、須美寿島東方5カイリほどのところにある無人島にヨットをつけ更にパーティを続けようとしていた。しかし間もなく彼に厄介な仕事を押し付けるため、内務局保安部の鶴岡を乗せたグラマン・アルバトロス水陸両用艇が眼前に着水する。話を聞いてみると先の東名上での事故はLSDがらみ、しかもその背後では大規模な謀略が企てられているらしい。邦彦への依頼は速やかにその黒幕を突き止め、計画を座礁させることだった。この作品の中で彼は内務局保安部が動いていることを知った無辜の病院長を消すようにと鶴岡に頼まれるが、「嫌だね。俺は確かに殺人機械かも知れぬ。だけど俺には誇りという邪魔なものがある。無抵抗の院長を殺るなんてことは、俺の誇りが許さん。」とピシャリとはねつける。ちょっと作品を遡ってみると「おかまいなしに殺してたじゃないか。いつからそういうプライドが...」と意地悪く突っ込みたくならないでもないが、どちらにせよ彼の崇高な誇りは元々金のためだけに殺戮と犯罪を重ねて来たのではないということだろう。ともあれどれも中篇ながら読み応えのある秀作と言っていい。

■ 第7巻 マンハッタン核作戦 ・・・ 1976年に発表されたシリーズ最大の大長編。1963年、ロンドンを出発してグラスゴーに向かう途中の郵便列車から500万ポンド(当時のレートで約50億円)が強奪された。この作品では邦彦はまだ英国情報部に在籍していることになっているが、盗まれた500万ポンドの奪還を命令された彼は計画者と目される合衆国下院議員、また同時にブラックモスク党首であるダニエル・クレイトン・ポールズのシッポほ掴むべく単身アメリカに渡る。500万ポンドの行方を追ううちに大規模な陰謀に巻き込まれてゆくのだが、それがニューヨークを核の攻撃に晒し、その混乱に乗じて連邦準備銀行にプールされている150億ドルの金塊を強奪するというポールズの恐るべき計画であった。果たして邦彦は500万ポンドを取り戻し核攻撃を阻止して生還出来るのか? 今作でも彼のプレイボーイぶりと抜群の射撃のウデは遺憾なく作品に精彩を沿えている。

■ 第8巻   野獣は甦る ・・・ 1992年刊行。全9巻のうち個人的に最も好きな作品だが、加えてシリーズ中で邦彦が一番いいカッコしたお話かもしれない。大藪春彦氏の主人公は概して女に一晩以上の興味を示さないのが常だ。けれどもこの作品では、珍しく邦彦は全編を通じて一人の女性に執着している。ラヴ・ストーリーと言うにはあまりにもハードすぎるが、それにしてもやはり主人公にマッチングのいい相手役がいるとこうも違うものかと思わせられる。さて香港に本拠を置く地下組織「珠江」は中国本土からの密出国者を多く含むが、1997年の香港返還後襲ってくるに違いない当局からの追及を逃れるため脱出を企てていた。その数2万ともいう組織の全てを移住させる地として彼らが選んだのは日本。そのためのオペレーションが密かに開始される。「珠江」2万人の運命を背負ってこのオペレーションに着手したのは張梅花(チャン・メイファン)、妙齢の美女だ。翻って邦彦はNSAのエージェントとして帰国しており、大学の助教授をカヴァーに退屈な毎日を送っていた。しかし、「珠江」脱出にからんで核弾頭強奪、北海道独立という陰謀が進行し、メイファンにひっかけられて彼もその渦中に巻き込まれてゆくことになる。読んでない方に楽しみが無くなるといけないので伏せておくが、この話のラストが凄まじく壮絶。やはり野獣に安住の地はないということなのか? 米軍マリーンを相手に掛け値なしの「戦争」をやってのける邦彦は、正に一騎当千のワンマン・アーミーだ。またこのストーリーの中には邦彦がその後も執着する国宝「曜変天目」が登場するが、この宇宙を内包したかの如き小さな茶碗への彼の執着心は大変興味深い。そして時代錯誤な軍国主義者に対する彼の容赦ない怒りは、一体何が真実「悪」なのかを考えさせてくれる。

■ 第9巻 野獣は死なず ・・・ 1995年発表。伊達邦彦シリーズの最後となった作品である。前作で日本政府に恩を売って100億USドルをせしめた邦彦は、その金の一部でトンガの小島を買い取り新たなる挑戦を前にして休息の日々を送っていた。長い間、自らの力のみを信じて戦ってきた彼だったが、今では3年前の闘いの時に知り合った朝鮮系ロシア人の科学者ヤンと、メイファンの弟である張秀夫(チャン・シュウフ)に家族同然の存在として信頼を置いている。秀夫は現在MITに留学しているのだ。クリスマス休暇に自分の島を離れ一人旅を楽しむ邦彦だったが、折りも折り、900ヘクトパスカルにも膨張した台風デラが彼の島を襲い壊滅させたことを知る。この最終巻の冒頭には大藪氏が1955年頃に描かれたという油彩を見ることが出来るが、これは存在こそ知られていたものの氏の没後1997年になって自宅から発見されたそうだ。美術的観点から見ても大変面白い作品だが、ここに描かれているのは明らかに伊達邦彦のイメージであり、小説作品から受ける私個人のイメージとも見事に合致する。デヴュー作品の発表が1958年、まさに邦彦は大藪氏の生涯において不可欠のヒーローであったということなのだろう。

2001.9.27.-2001.10.10.

<映画に関すること>

この作品は映画化も4回されており、邦彦役のキャストは仲代達也、藤岡弘、松田優作、木村一八と続く。

中でも松田優作氏などは特に邦彦に近い雰囲気を持ったキャストだったと思うが、残念ながら彼でさえ主人公のエレガントな部分は出し切れなかったと思う。伊達邦彦を理想とまで崇拝しているファンの一人としてウルサイことを言えば、晶夫にしても邦彦にしてもネコをかぶっている時は外見上全く無害なヤサ男にしか見えないところが重要なのだ。またこの二面性はどちらの場合でも特に大藪氏が作品の中で強調している部分でもある。「美形な上に、いろいろな意味で力のある男はいない」という法則があるけれど、私は絶対に認めない。「汚れた英雄」でも書いたことだが、精神性に裏打ちされていない美貌など単なるハリボテに過ぎないと思うからだ。その意味で伊達邦彦は私に取ってパーフェクトかつ永遠の理想なのである。

2001.10.3.

 

Workshop Review Vol.1. 「汚れた英雄」<<

>> Workshop Review Vol.3. 「朝日のあたる家」

>> Magazine Workshop Top Page