ポップ・ミュージックの魔力を信じ続けるグリーン・ガートサイド

文 高野裕子 (流行通信 1985年 8月号)

オフ・ビートのドラムスが空を打ち、不調和音をギターの弦が奏でる。無知て若い少女に、問いかけるように歌う情緒不安定なボーカル・ライン...。"Skank Bloc Bologna"は、1978年にリリースされたポップ・レコードの中で、ひときわ美しい輝きを放つ名曲だった。

これをやっていたのが、スクリッティ・ポリッティというグループ。イタリアの共産主義者であるアントニオ・グランチの著作からグループ名を頂いたというこのグループは、リーズの美術大学に通っていた美大生によって結成された、アンチ・コマーシャリズム・グループで、当時カムデン・タウンにスクオットし、自費でレコードを出していた。・・・ 言ってみれば、ボヘミアン的な人間の集まりだった。グリーン、ナイアル、トムにマチュー。この4人が追求していたポップは、レゲエに大いなる影響をうけたアコースティックでスロー・テンポな曲が殆ど。時々神経質にグリーンがギターをかきならす・・・ そんな感じだった。

スクリッティ・ポリッティほど、コマーシャリズム、資本主義の鉄則をあくまでも貫き、音楽主義から距離を置いていたグループはいなかっただろう。コンサートをやればステージの上で討論したり、満足いくまで曲をやり直したり、インタヴューを受ければ、インタヴュアーの質問の一言一言にこだわってみたり。

時の流れは音楽産業の体質を随分変えたものだが、スクリッティ・ポリッティというグループにも大きな変化をもたらした。ナイアル、トム、マチューといったメンバーはそれぞれの理想を貫くために音楽から遠ざかっていった。結局スクリッティ・ポリッティという、極めて政治的な名前を持つグループは、グリーン・ガートサイドというシンガー兼ソングライティングを担当していたひとりのソロ・プロジェクトへと変容した。

「今でも政治やその形態、それにかかわろうとするポップ・ミュージックに関心はある。しかしポップ・ミュージックの中で、これらのテーマをもてあそぶことはできても、6コーラス3分で何かができるというわけじゃない」。

「ジェリー・ダマーズのように"ネルソン・マンデラを解放せよ"なんて曲は、僕は書けない。僕にとってポップというのは、楽しみ、セックス、エンターテイメント、こういったものを含めたものなんだ。そしてこれらすべてのものが、ポップにおいては政治的であると思う」。

政治的なチャリティ・コンサートに出演したり、政治的なコメントをメッセージとして書いたり、そんな行為は、今年29歳になる彼のスタイルではないようだ。

82年、彼はニューヨークへと飛び、そこでフレッド・メイハー(マテリアル)やナイル・ロジャース(シーク)、アリフ・マーディンやデヴィッド・ギャムソンと交友を深め、その結果として"WOOD BEEZ ( Pray like Aretha Franklin)"、"Abosolute"、"Hypnotize"という三枚の驚きに値するシングルを発表した。最もパワフルで生命感を秘めたニューヨークのストリート文化、ヒップ・ホップに触発されたスクリッティのポップは、メッセージ・ソングという紙きれのように薄っぺらなポップが到達しえないエクスタシーとパワーをひめた音のベクトル。

現在のグリーン・ガートサイドは、音楽雑誌のグラビアにも登場するし、テレビで三分間のインタヴューを受けたりもする。一見コマーシャリズムに傾倒したかのように見えるスクリッティ・ポリッティ。しかし、かつてステージで討論したり、インタヴュアーの語意に疑問を浴びせたりするグリーン・ガートサイドは未だに健在。状況は変われど、3日ごとに流行と主義(?!)がひらひらと変わるポップ産業の荒野をマイペースで歩く彼である。

最近発表されたスクリッティ・ポリッティのニューLP "Cupid & Psyche"は、グリーンの心に魔法をかけたポップ・ミュージックの様々な形態が、彼自身の音として美しく結晶化した作品である。ひたすらポップ・ミュージックの美しさと魔力を信じ、音に、そして言葉にこだわり続けるアーティスト、それがグリーン・ガートサイドなのだ。

 

2002.1.8..

(この記事は国内において、日本語で発表されたものです。現在の一般的な日本読みが相違している部分についてのみ修正しました。)