Look back in languor

Sunday Times magazine - July  1999

Interview by Mark Edwards

 

サタデイ・タイムズ・マガジン - 1999年7月

インタヴュアー:マーク・エドワーズ

  

グリーン・ガートサイドは1980年代にポップスターであるということがどれほどイヤだったかについて説明するのに、最も適切な言葉を見つけようとしているようだった。
断っておくが、彼はかつて‘ガール’という言葉をポップミュージックの中で使うことについて曲を書き(大ヒットしたシングル、ワードガールのことである)、自分のバンドにイタリア語で殆ど‘政治的文書’という意味に近い名前をつけ、フランス構造主義の次世代を担う哲学者であるジャック・デリダに献呈する歌さえ歌ったことがある。
グリーンにとって言葉はないがしろにできるものではないのだ。

「なんて言ったらいいのかな...」彼はまだ言葉を捜すように、しばらく視線を宙に遊ばせていたが、やがて私の方を見て言った。「つまりは、裏切られたんだよ」

驚いたというのが最初の印象だ。昔ほど理屈屋ではなくなったのかもしれないが、これでは全く普通と変らない。普通と言っても二枚の完璧なポップアルバムを創り上げ、その後の11年間の多くを消息を絶って暮らせる種類の人間が他にいての話であるが。

次の驚きはグリーンが80年代の成功を、と言うのはつまり、ウッドビーズ、アブソルート、ヒプノタイズ、パーフェクトウエイ、オー・パティと続く一連のヒットを飛ばしまくり、彼の曲がチャートから消えることがめったにないような成功をおさめていた頃のことだが、その時期をいかに嫌っているか、ということだった。
「ポップスターなんて地位に上りつめるのは、全くうっとおしいことなんだ。ぼくにとってはね」彼は続けた。「中身のないたわごとだよ。うまく言えないけど...。とにかくなにもかもがひどかった。もちろん音楽は子供の頃から大好きだった。憧れていたし、だからこそ努力もしたのさ。だけど現実は最悪の一言だったね」

スターでいることについての嫌悪感が、つまりは長いこと業界から遠ざかるきっかけになったのである。1988年のプロヴィジョン#ュ表後、プロモーションの義務を終えると、グリーンは何の足跡も残さずに我々の前から姿を消してしまった。そして彼の両親が暮らすウェールズに戻ってその近くのコテージに落ち着くことになる。
1991年に発表された二枚のシングル(どちらもカヴァー曲だったが)、それがその後の彼のわずかな便りだった。そして明日、その沈黙は新曲ティンゼルタウン トゥー ザ ブーギーダウン≠ノよって破られる。続くアルバムであるアノミー&ボノミー≠ヘ1週間後にリリースの予定だ。

さて、この11年という決して短くはない時間をグリーンはどんなふうに過ごしていたのだろうか。「答えるのが難しい質問だね」、ため息交じりで彼は言った。「何してたか覚えがないんだ。最後の記憶は音楽を創るという仕事にも、それに付随するあれこれにも完璧にうんざりしてたってことだけ。結果として友人とも音楽仲間とも縁切るしかなかったんだよ。で、ウェールズに帰って昔、学校で一緒だった連中とまた付き合い始めて...、まあ、人生をうまくやり過ごすことにかけては連中の方がずっとぼくより上手だね。そこが大事なところなんだ。そういうくつろげる環境で時間が経ってしまったわけだけど、不意に気がついて時計を見たら...! うそだろ、って感じだったよ。そりゃ信じられないのはわかるけど、そんなに時間が経っているなんて思ってもみてなかったんだ」

成功したソングライターには我々とは違って良いところがひとつある。それはロイアリティが入り続けることだ。確かにグリーンのこういった行動は一見凡人には理解しがたいもののように見えるが、金に困らないとわかっていれば、こういう生き方を選ぶ人間も決して少なくはないだろう。それはともあれ、創作活動は続けていたんでしょう?

「まさか」彼はそう言ってから続けた。「確かに仕事に関するものは全部ウェールズに持って帰って寝室のひとつに据えはしたんだ。けど、ときおり部屋の前を通っても、見ないふりして通りさ。それほど音楽に嫌気がさしてたんだ。曲を創るなんて考えただけで気分が悪くなったよ」
プロモーションという義務、例えば(テレビで)メイクアップに埋もれたアメリカ人二人とソファーでコーヒーを飲みながらインタヴュー≠ネどという仕事が彼をうんざりさせたのと同じように、一方ではこの業界に対する嫌悪感は自分で創った作品についての自己評価にまで影響することになった。
「自分のレコードなんかだいっきらいだ。そんなものわざわざ聞かせるために招かれるくらいだったら、すみっこでヒマつぶしてる方がよっぽどましだよ」

さて、ここでグリーンのこれまで創った曲が実際どれほどの反響を巻き起こしたかについて振り返ってみるのもいいかもしれない。パンクシーンにおいて未だ方向性の定まらないデヴュー当時を経て、その後発表されたソングス トゥー リメンバーはスクリッティ・ポリッティのポップ界における可能性を大いに予見させる仕上がりを見せていた。そしてそれに続くのがキューピッド&サイケ85≠ニプロヴィジョン どちらも、ポップファンなら必携の一枚である。(ドナルド・フェイゲンの)今は亡きスティーリー ダンを彷彿とさせるディテールへのこだわりを以って、グリーンとその仲間 たち -フレッド・メイハーとデヴィット・ギャムソン-は、ポップ・ソウルとも言うべき卓越したこの二枚の作品を創り上げたのである。

そしてついに今度は長いブランクの間、唯一彼を救ってくれた音楽であるヒップホップに大きく影響された新しい作品を携えて戻ってきてくれた。彼はウェールズに引きこもっている間ロンドンへは最新ヒップホップのCDを手に入れるためにだけ出かけていたと言うが、そうしている間に「音楽を創るという、人生最大の楽しみを自分で台無しにしていることに気がついた」らしい。彼は例の「入りたくもない二階の部屋」で、もう一度自らの魂を注ぎ込むために音楽を創り始めた。

そうやってグリーンが新たに創り上げた曲の数々がこうしてめでたくレコードになったわけだが、しかし彼のステージ恐怖症は未だに直っていない。「もお、不幸の連続みたいな人生だろ?」彼はそう言って微笑してから続けた。「とにかくこわくて仕方がないんだから好きにもなりようがない。どう聞こえるか見当はつくよ。実際ぼく自信でさえいい加減にしろよ≠チて叫びたい気分なんだ。自分の頭をどやしつけていつまでもガキみたいなこと言ってんじゃねえよ。弱音はくのもたいがいにしとけ≠チてね」

ともあれ新しいシングルを一聴すればわかることだが、グリーンはその卓越した曲創りのセンスを全く失ってなどいなかった。コーラス部分ではあのすばらしい天賦の才とも言えるヴォーカルが聴けるし、それだけでもこの曲にはまりこむには十分すぎるくらいだ。ただ、この曲に関する限り彼の声が聴けるのはその部分だけで、殆どはリー・メジャースやモス・デフのような多彩なラッパーにヴォーカルのメインを譲り、彼自身はサンプリングでもあるかのような位置に引いていてる。

アルバムの方はと言えば、これも全く煌くばかりの仕上がりである。ギター、ベース、ドラム(それにもちろんビート)の、アコースティックなスピリッツを殺さないようにキーボードを締め出した結果、のりのいい曲の方は以前よりぐっとハードな印象に仕上がっているが、ファーストグッバイ=Aボーン トゥ ビー=Aブラッシュド ウィズ オイル・ダスティッド ウィズ パウダー≠フようなバラディックなスローナンバーではグリーンのピュアてシルクのような美しい声を存分に聴くことができる。

ところでまた更に私を驚かせたことがある。グリーンはやっとのことで自分の声を好きになることが出来るようになったらしい。いや、なんとか聞けるように、と言う方が正確かもしれない。「今だって、どうせ聞くなら他の人の創ったものの方がいいに決まってるよ。ただプレイバックしてる間スタジオから逃げ出すということだけはしなくてもすむようになったんだ。昔はいつもそうやってたんだけどね。実際、好きになったと言うのはとんでもない間違いだな。ただイヤでたまらない、という状態からは抜け出せたというだけでね」

そう言った彼の顔はなかなかいい笑みを浮かべていた。しかしもうひとつ彼の自分に対する過小評価がいかばかりであるかをお見せしよう。確かに昔の曲は気に入らないかも知れないけど、今度のアルバムは楽しんで創れたことでもあるし、気に入ってるでしょ?

「別の方向から見れるようになったんだよ。注視しすぎるのはやめたんだ。好きかどうかなんてぼくの決めることじゃないからね。成功か失敗か、とかさ。何を期待してるわけ? 家でスピーカーの前に座って自分の曲聞いてよしよし、これはいいぞ、グリーン≠チて悦に入ってろっていうの?」

まあ、一回くらいそうやってみてもいいんじゃない?

「できればね。でもスタジオで何万回と聞いてるわけだよ。それだけで十分すぎると思わない? 音楽ってのは創ってる間が楽しいんだ。そういう時間はあっと言う間に過ぎ去ってしまうけどね」
そう言って彼は笑った。「またお気に召さないこと言っちゃったかな」