The Biz Radio interview

Red Dragon radio station (Wales)- April  1991 (Easter Monday)

Interview by Chris Moore

Supplied by Dirk Schulz

 

レッドドラゴン・レイディオステーション(ウエ−ルズ)-1991年4月(イースター・マンデイ)放送

インタヴュー:クリス・ムーア

資料提供:ダーク・スカルツ

 

“Plays “ウッドビーズ(プレイ ライク アリサ フランクリン)”

こんばんわ、クリス・ムーアです。今日はイースター・マンデイということで、スペシャル版“ビズ”をお届けしてゆきましょう。これからの一時間はグリーン・ガートサイドの曲とインタヴューで楽しんでね。

グリーンは50年代半ばにカーディフで生まれ、ここ十年に渡ってご存知のようにUK、USで数々のヒットを生み出してきたスクリッティ・ポリッティのリード・シンガーであり、オリジナルメンバーの一人でもあります。1,2週間前、ケンジントン・ハイ・ストリートの豪華なロイヤル・ガーデンズ・ホテルでグリーンと話せる機会があったんですが、その時、今までのスクリッティと現在のグループについていろいろと聞いて来ました。


★..まず、始めにグリーンに尋ねたのは、カーディフのどこで生まれたのか、ということだったね。

グロシップ・テラスの病院で産まれたって聞いてるよ。母が今朝言ってたんだけど、ぼくは女王陛下がそこを開く前に生まれることになってた子供のうちの一人だったんだって。そう言われてその時期がなんとなくわかったんだけどね。でも...、んー、とにかく生まれたのはそこだけど、家族はカントンとウイッチャーチの出身なんだ。子供の頃はケアフィリー・ロードで育ったし。引越しはよくしてたみたい。だからそのあたりは詳しいよ。

★じゃ、サウス・ウエールズはよく知ってるんだ。

うん。うちは、...つまりぼくの家族は、実際一年に一回は引っ越ししてた感じだった。理由はいつも同じだったみたいだね。だから、ケアフィリー、イーストン・メイナー、ブリッジエンド、ルビナ、あー、もうあっちこっちだな!ぼくはどうしてだったのかよく知らなかったんだけど、そこらじゅううろちょろしてたよ。最終的にはニューポートとカンブランで学校に通ったんだけどね。だからそのへんはホントによく知ってる。

★で、いくつの時にサウス・ウエールズから出たの。

十代の終わりごろかな。リーズに行った時だよ。ニューポートで既に基礎的なアートコースは取ってたんだけどね。ファインアートを学びにリーズ・ポリテクニックに通うことになって、そこでセックス・ビストルズやクラッシュ、ダムド、ハートブレイカーズなんかの例の伝説的なツアーを見ることが出来たんだ。あれは実際ぼくだけじゃなくて、そこに居合わせた大勢の人たちの人生に影響を与えたと思う。ぼく自身はあれで一生決まったようなもんだったし。目からうろこが落ちたって言うか、よーし、何がなんでもチャンスを見つけてミュージシャンになってやるぞ、って決心したんだからね。

ウエールズでもバンドには参加してたけど、そもそもやってたのはウエールズの地元音楽とかさ、トラディショナルなやつだったんだ。例えば、伝承をリヴァイヴァルしたのを覚えてる。マリ・ルイド...、っていうのはウエールズのクリスマス行事で、その中には石こうで固めた馬の頭蓋骨を持って近所を回るっておかしなのがある。それに関した曲を全部カーディフの図書館で調べてさ、ステージに乗せたんだ。16かそこらの頃の話だよ。大騒ぎだったな。それにウエールズの伝統音楽をレゲエっぽくアレンジして演奏したのも、その頃の話だと思う。

★じゃ、スクリッティの始まりっていうのは、セックス・ピストルズやその頃のパンクバンドからインスピレーションを得たことなんですね。

全く、その通り。最後の年の奨学金はドラム・セットとベースやギターを買うんで吹っ飛んだから、リーズの学校生活はそれでおしまいになったね。楽器なんかあっと言う間に覚えてさ。まあ、あの時期はみんなそうだったんだけど、下手だろうがなんだろうがそんなのどうでも良かったんだよ。で、ロンドンに移って、カムデンで共同生活をしながら、自費製作のレコードを作った。って言っても、100ポンドくらいで出来たんだよ。プレスも自分達でやって、そこら中持って回るわけ。で、それをジョン・ピールがラジオ局入りするときに押しつけてさ、そしたらその晩彼のラジオ番組でセッションやらないか、って声かけてくれたんだ。

それから、その時の演奏を聞いてくれたらしくてクラッシュから“次のツアーに参加しないか”って話が来た。思うにぼくたちのレコードが彼らのやってるレゲエ調ロックに近かったのがお気に召したんじゃないかな。それにぼくはクラッシュのすごいファンだったし。でも実際まだ3曲しか書いてなかった時だったんで結局そのツアーには参加出来なかったんだけど、それが残念でたまらなくてさ。そのせいで音楽を創るってことに真剣に取り組もうって気になったんだ。

★確か、NMEの付録カセットに“スイーテスト・ガール”が入ってましたよね。あれがラフ・トレードと契約するきっかけになったんですか。

いや、その頃にはもうラフ・トレードとつきあいはあったんだ。ぼくたちがジョン・ピールに押しつけた例の自費製作レコード、あれを気に入ってくれてね。そのあとすぐにラフ・トレードとは親しくなったよ。

実際スイーテスト・ガールのレコーディング費用を持ってくれたのは彼らだったし。だからその頃すでにうまくいってたんだ。それからアルバムを一枚作って、スイーテスト・ガールはその中のシングルの一枚だったけど、このアルバムはけっこういいとこまで行ったよね。トップ20に入ったってのはラフ・トレード始まって以来だったし、12位まで上がったんだもの。その頃のインディー・グループとしては快挙だったんじゃない?アルバム発表1週間でそこまで行ったわけだから。で、めちゃくちゃラッキーだったのはそのせいでメジャーがいくつもスクリッティに興味持ってくれたことだね。ぼくの方はそのアルバムを創る時にラフ・トレードを破産させかかったって前科もあったもんだから、思う通りのものを創るにはさらに大きな予算を組めるバックが必要だなってわかってて、それほど苦もなくヴァージンとワーナーに移る決心が出来たんだ。

 

Plays “ザ・スイーテスト・ガール”,“アサイラムズ・イン・エルサレム”

 

★ぼくが始めて聴いたスクリッティの曲は“アサイラムズ・イン・エルサレム”だったんだけど、それってNMEの別のカセットに入ってましたよね。で、その同じカセットにデヴィッド・ギャムソンの“ノー・ターン・オン・レッド”が入ってました。どうしてデヴィッドがバンドに入ることになったんですか。

おかしなきっかけでね。んー、ラフ・トレードはデイヴに興味を持った唯一のレーベルだったんだ。

ラフ・トレード...今だってすごくいいレコードつくってるけど、...そのジョフ・トラヴィスがズィー・レコードのデヴィッド・ジルカに会いにニューヨークに行った時のことだった。ズィー・レコードっていうのは、その頃キッド・クレオール・アンド・ザ・ココナッツなんかのゆわえる“ディコンストラクション・ディスコ”ってやつをリリースしてたレーベルだよ。ワズ・ナット・ワズとかね。

で、丁度ジョフがそこにいる時に若い奴が一人デモ・テープ持って来て、それがデイヴ・ギャムソンだったわけ。ジルカは気に入らなかったらしいんだけど、ジョフがそのデモを横で聞いてて興味持ってさ。“良かったらうちで使ってやるよ”って言ったんだ。そしたらデイヴは“うん”ってことになって。で、マンハッタンでデイヴがそのテスト・プレスを受け取ったんだけど、そのとき彼のとこに行っちゃったのが、どういうわけかスイーテスト・ガールのテスト・プレスだった。それを聞いたデイヴは“こりゃ、いいや”って思ったんだって。逆にぼくは彼のノー・タンーン・オン・レッドを聞いて、“お、いいぞ”って思ったんだよね。お互いすごいなって思ったもんだから会うことになって、結局2枚のアルバムを一緒に創ることになったんだ。

★その最初のアルバムが“キューピッド・アンド・サイケ85”だったわけだけど、フレッド・メイハーもこのアルバムから参加してますよね。フレッドはどうしてバンドに入ることになったの?

うーん、フレッドとどこで知り合ったかってのは、正直はっきりしないんだよ。どこかのナイトクラブでじゃないかなあ...。と言うのは、ぼくたちはみんな似たようなものが好きなんだよね。フレッドは15の時にゴングっていうグループ...多分ヒッピーの頃の音楽をよく知ってるリスナーなら聴いたことがあるかもね...その後期メンバーとして参加するためにマンハッタンの学校をやめてるんだ。で、ぼくもそのあたりがすごく好きなわけ。ヘンリー・カウみたいなグループとかロバート・ワイアットとかね。デヴィッドもそう。で、もう一つ、みんながみんなブーツィー・コリンズやファカデリック、パーラメント、ピーファンクなんかが好きなんだ。その二つのテイストが3人とも好きなもんだから、すぐにうちとけて仲良くなったってことなんだな。

★“キューピッド&サイケ85”は言うまでもなくアリフ・マーディンのプロデュースでしたよね。ずっと一流のソウル・シンガーをプロデュースして来てる人と一緒に仕事するってのは、どんな気分でした?

ひどいもんだったよ。...というのはつまり何て言えばいいのかな、すごく神経を使ったって意味だけど。

...ラフ・トレードと仕事をしてた時はさ、やりたいようにやってたわけじゃない。インディーっぽくっていうか。で、更にクオリティの高いものを創りたいという気になって来て、まあ、その頃にはブラック・ミュージックとかR&Bやダンス・ミュージックしか聞かなくなってたからさ。

で、ニューヨークに行ってそういう人達と一緒にやってみたいな、と。アリフはね、ぼくのデモを気に入ってくれて、ぼくが大好きだったレコードでプレイしてるような、すごく有名な人たちに紹介してくれたんだ。その後はもう飛びこむしかないよね。気がついたらアトランティックのスタジオにいて、回りにはマーカス・ミラーだのポール・ジャクソン・ジュニアだのスティーヴ・フェローンだのがいるんだよ。こわくないわけがないじゃない。そのあたりはかなり大変だったね。


★実はそれについて言おうとしてたとこなんです。ここに書いてあるんだけど、アルバム・ジャケットを見てくとね、ポール・ジャクソン・ジュニア、マーカス・ミラー、えっと、それにザ・システムの(ミック・)マーフィーでしょ、で、(デイヴ・)フランク、あと、ロジャー・トラウトマン、彼はプロヴィジョンに参加してましたよね。言ってみればソウル界の超大物ばかりで...

うん、わかるだろ。そりゃ、びびるよね、全くの話。まともに歌えったって無理だよ。でも、やらないわけにもいかない。自信なんて薬にしたくたって残ってないし、でもこのチャンスは何がなんでも掴まなきゃ、ってね。で、がんばったんだ。すごくあがっちゃってたけど、こういう場合は気合いを入れて、こんな風に決めこんじゃう。ぼくは音楽が好きでここにいる、そして回りにいる人たちはみんな、ぼくの大好きなミュージシャンなんだ。これはすごいことなんだぞ。彼らと一緒にやれるかどうか、ここが勝負のしどころだ、って。で、そう考えてしまうと、あれは最高に幸せで、実りのある経験だったと言えるね。長いことニュー・ヨークで過ごしたよ。ずっとそこに住んで、たくさんのミュージシャンと知り合いになった。彼らからは言葉につくせないくらい多くのものを学んだな。短期間で多くをね。

 

Plays “パーフェクト・ウエイ”

 

★このアルバムは言うまでもなくウッド・ビーズのような大ヒットを含んでいるんですが、まあ、これは何万回となく聞かれたことでしょうけど、このシングルを何百回聞いてもぼくにはウッド・ビーズって何のことだかさっぱりわからないんです。どういう意味なんでしょう。っていうか、そもそも意味なんてあるんですか。

うーん、あったはずなんだけどねえ...、ぼくも覚えが悪い方で、何だったか自分でも思い出せないんだ。確か、おかしな話だけど、ウッド・ビーズのスペルね。W・O・O・Dってやつ。あれは古いレゲエのレコードで、思うにデイウ&アンセル・コリンズ(ダブル・バレル)のやつから来たんじゃないかな。はっきりしないけど、そのあたりのはずなんだ。それと、これもありそうにないかもしれないけど、あの頃読んでた論理的な本ね、違った種類の政治学とかフランスで言う“スキッツォ・ポリティクス”っていうやつ。つまりそんなのがあれこれ混じってて、もちろんアリサへの献呈の意味もあるし。それ以上は言えることがあまりないんだ、ほんとに!

 

Plays “ウッド・ビーズ”,“ザ・ワード・ガール”

 

★あなたの音楽には、前にもご自身で言ってましたけど、明らかにソウルからの影響ってありますよね。、と言うのは、スクリッティの曲ばかりじゃなくて、チャカ・カーンやアル・ジャロウに曲を書いたりとか。どんな縁でそのカテゴリーの人たちが、あなたの曲をレコーディングすることになったんですか。

曲を書くよね、で、聞いてもらう。んー、すると気に入ってくれて。...何でだろうね。なんかすごく簡単に聞こえるかもしれないけど、とにかくそうなっちゃうんだよ。チャカに書いた曲が出来た時はニューヨークにいた。雨が降ってて、ホテルにいたんだけど、側にギターがあってね。なんとなく曲が出来ちゃったからデイヴに電話したんだ。それでアトランティックのスタジオに入って、ピアノとギターでぱぱっとデモを作った。その頃にはもうチャカと知り合ってたんだけど、...すごい女性だよ、彼女は。あらゆる点ですばらしい。...で、そういう感じで、今度は彼女に聞いてもらって、するといいわね、ってことになったんだ。...we were never very aggressive about trying to get cover versions for songs it was just then when there was.-because we never did write many, we weren't like writing hundreds-it was just if there was an odd way around, that someone else was usually keen to do it.

★“プロヴィジョン”と“キューピッド&サイケ85”の間は3年もあいてますよね。その間、何をしてたんですか。

え、そう..だね。どちらかと言うとブランクは2年くらいって言って欲しいんだけど、それでも適当じゃないかな。“キューピッド”のプロモートには1年以上も駆け回ってたからね。はっきり言ってそれこそ文字通り世界中駆け回ったよ。考えられうる限りの国を。

と言うのはぼくらはライヴをやらないし、と言うより、絶対やらないし、だからインタヴューもラジオ出演もその他のもいろいろやることになるんだよ。1年くらいはそんなことにかかって、次の曲を書くのと落ち着きを取り戻すのにも1年くらいかかったんじゃないかな。それにぼくらはゆっくり慎重に仕事を進めてゆく方だし。

★アルバム制作に時間がかかることについて、レコード会社はあなたの言ったことを引用して説明してるんですけど、それによると“あっという間に何ヵ月もたってしまう”んですってね。それって、テクノロジーの面でやることが多いってことでしょうか。

うん、確かにぼくらはテクノロジーに大きな魅力を感じてるね。つまりシーケンサーの性能とか...(注;救急車の音が聞こえて来たので、グリーンは一旦言葉を切った後、こう言っている。“ああ、あれ、ぼくを連れに来たんだ、絶対”)え、なんだっけ。ああ、でも、要するにぼくらはシンコペーションにいつでも関心があるってことなんだ。それにクインシー・ジョーンズとかシャラマーなんかのすごい人たちの作品。

シーケンサーの出現によってシンコペーションはずっと多彩になったわけだし。うんと細かい点まで調整できるし、別々のシンセに音を分けることもできるしね。それにMIDIだよ。これのおかげで時間的にも音色の点でもすべてにおいてますます細かい調整がきくようになった。そうすると知らない間によりいい音にするには3000分の1秒戻すべきかどうかで悩んで2日間もスネア・ドラムの音を聞いてるって状況に陥ってるんだ。ほんと、おかしいよね。そうじゃなきゃ、ほとんどの人は驚くか、確かにどっちかだと思うけど。でもそれが技術で、ぼくらはその限界を研究することをとても面白いと思っているんだ。このテクノロジーをどこまで使いこなせるか、とか、これはどこまでやれるのか、とかね。

★それはつまり大成功したセカンドの方法論を踏襲して、サードにも完全さを要求したってことなんでしょうか。

サードは確かにちょっと...、ちょっと泥沼にはまりこんだような状態だったな。って言うのはつまり、今になってみて言えることだけれどね。確かにあの時はわかってなかった。“キュービッド&サイケ85”は少しずつ出来て行った作品で、しかも作ってる間とても楽しかったんだ。多分ミリセカンドにこだわるあまり、“プロヴィジョン”の時は音楽を作ることの楽しみがいつのまにか稀薄になってしまってたんだろうね。

 

Plays “ブーム!ゼア・シー・ワズ”

 

★“オー、パティ”は大御所のトランペット奏者であるマイルス・デイヴィスをフューチャーした大作でしたよね。それにマイルスは2,3年前に“パーフェクト・ウエイ”をカヴァーしてたでしょう?あれ以来彼はあなたと親しくて、それでサードに招くことが出来たってことなんですか。

えーっとね。ここしばらくは彼と話してないんだけど、前はよくうちに電話をくれてて、ロンドンの北部に住んでた時かな。朝の3時に電話が鳴るんだよ。で(深みのある声をまねて)“やあ、マイルスだがね”と。飛び起きる以外にどうすればいいと思う?だってマイルス・デイヴィスなんだよ!彼みたいな偉大なミュージシャンをいったいどう扱ったらいいんだかわからないよ。でも、そういう場合もまた、こわいのをぐっと抑えて、開き直って言ってみるしかない。“で、一曲演奏してもらえませんか。一緒にやって頂きたいんですけど”って聞いてみた。それで話がうまくまとまったんだ。

ぼくらはマイルスととても仲良くやれたんだよ。でもそれってわりと珍しいことなんだ。ふつう彼は白人のミュージシャンにそれほど寛容じゃないからね。それについて、ぼくはマイルスの方に理があると思ってるけど。

実際アメリカではスクリッティは本国でよりずっと重く見てもらっているんだ。(ラフ・トレード時代の)初期の頃、つまりすごく必死にやってるって感じだった頃はもっと尊敬されてたんだけど、アメリカに行ってずっとスムースに落着いた感じになったからかな。こっちではミュージシャンやパプリックの受けは悪くないと思うんだけど、評論家たちがね。でもミュージシャンはいつでもアメリカでやることからくるメリットは大きいと思ってるみたいだね。

 

Plays “オー、パティ(ドント・フィール・ソリー・フォー・ラヴァーボーイ)”

 

★“プロヴィジョン”にはザ・ザップ・パンドのロジャー・トラウトマンをフィーチャーした曲がいくつかありますね。彼と仕事するのはどうでした?

それはもう全くのお祭りさわぎだったよ。彼ってヴォイス・ボックスっていうのを使うんだ。ピーター・フランプトンもほんの少し使ってるんで知ってる人もいるか知れないけどね。それで何をするかって言うと、ゴムのチューブを口に差し込んむんだけど、その向こう側は4インチかそこらの車についてるようなスピーカーにつながってるんだ。すっかりテープで止めてあるから、スピーカーが送り出す空気は口の中に入ってくる。で、スピーカーのもう一方の端は彼のキーボードにつながってて、弾いてる音を口で言えるような感じになってるんだ。

ぼくはずっとザップのファンなんだけど、まだまだ彼らは過小評価されてるね。本当にすばらしいファンク・グループなんだよ。

今度も彼に電話をかけて...オハイオのデイトンに住んでるんだ。リムジンの艦隊を持ってて、コインランドリーのチェーンもやってる。(笑)その他にもいろいろとね。...で、レコーディングに参加してくれませんか、って聞いてみたんだ。来てくれたはいいんだけど、いたことに彼ときたら真っ赤なファドーラ(帽子)を被って、70年代の真っ赤なスーパーフライ・スーツ、しかも赤いパテント・スキンの靴、タイ、おまけにサングラスまで赤と来てて、そりゃもうめちゃくちゃ変なんだ。70年代のソウル・ミュージシャンそのままって感じにふるまうし、...その化身と言ってもいいくらいだった。とにかくものすごく楽しかったよ、彼と仕事するのは。ファンクがそのまま人間になったような人だからね。シンコペーションに合わせて身体が動いちゃうんだ。あれはもう見物に回るべきだね。とにかくすばらしかった。また一緒に仕事したいって切実に思うよ。

 

Plays “シュガー・アンド・スパイス”

 

★“プロヴィジョン”の中の何曲かはアメリカのブラック・シングル・チャートで登りましたよね。確かそう記憶してるんですけど。

うん。おかしな話なんだけど、“キューピッド&サイケ85”も“プロヴィジョン”も、その中の曲は結局アメリカで白人向けより黒人向けのラジオ局のほうでよくかかったんだ。アメリカでプロモーションしようと思えばロスに行くものなんだけど、アップタウンのこぎれいなラジオ局でプロモーションした時にはぼくらは“ヒップでトレンディな見栄えのいい白人青年”ってふうに見られてた。

その後、...未だになんでワーナーがあんなことをしたのかわからないんだけど、ワッツの局に行くのに彼らがよこしたのは真っ白なストレッチ・リモでさ、ましてやナンバープレートがMUSIC1と来た。すごくいやな気分だったよ。ワッツにあるのは黒人向けのラジオ局でね、20フィートの有刺鉄線が張り巡らされているようなところなんだ。もちろん回りは貧困のどん底でね。事実、全く奇妙な体験だったよ。文字どおり一つの街の両極端、二つの異文化、で、黒人向けのラジオ局でかかってくる電話を取ってみると、黒人の子供たちが言うんだよ。“あんたの曲覚えようとしてるんだよ”とか。ちょっと分裂したような気分になるよね、ほんとに。でもアメリカってそうなんだ。おかしな所だよ。

★でもブラック・ミュージックのサイドから認められるっていうのはすばらしいことですよね。

うん、ほんとにね。事実そうだと思う。アメリカってとこは人種差別が激しい一方で、肌の色がどうかなんて全く関わりない部分もあるんだ。ぼくらは他のミュージシャンにもそういう所へ入って来て欲しいと思うね。そこではいい音楽であるかどうかだけが重要で、肌の色なんか関係ないと思うべきところなんだ。でメテュームでも誰でも、...スティーヴィー・ワンダーでさえ、ぼくらの作品にいいこと言ってくれたりしてるんだけど、それってちっともぎせがましい感じがしない。“こいつらめちゃくちゃファンキーな白人の坊やだな”とか言われてもね、本当にそう思ってくれてるのさ。そういうのはつまり、...えーと、ジェイムズ・イングラムとハリウッドで会ったのを覚えてるよ。連中は本当に音楽に夢中なんだ。真剣になりすぎるあまり愚かになるってこともないと思うし、それがいいところでもある。予定調和みたいなものじゃなくて、本当に音楽が好きだってことだよ。

★88年のビッグ・ヒットだった“オー・パティ”以来、殆どみんなスクリッティから何の音沙汰もないって感じだったと思うんですけど...、まあアルバムから何曲かシングル・カットは出ましたが、あれからどうしてたんですか。

んー、あれだけスタジオにこもって仕事したんだから、いくらか休んだってバチは当たらないかな、と思ったんだよ。わかるだろ、マンハッタンでハコに詰め込まれて2年間も一日12時間、週に5日、いや6日か。...いい加減おかしくなってくるよ。しかも外に出てきて世の中との接点を取り戻して始めて自分がおかしくなってるって気付く始末でさ。本当に埋め合わせが必要だと思ったんだ。

“オー・パティ”はヒットだった。で、ぼくらが次の2枚をリリースした時、まあそれはアメリカじゃロジャー・トラウトマンのおかげで人気はあったけど、その頃にはラップ同様ハウス・ミュージックがこの国に入って来てて、うまくフィットしないのは目に見えてたんだ。ぼくはぼくでもう、うんざり、って感じもあったから、それでウェールズに帰ることにしたのさ。

何もかも一旦たなに上げといて、気持ちよく過ごせるグウェントのウスクにコテージを借りてね、まあ、そこでもう一度音楽を創ろうかな、と。仕事に必要なものは全部、シーケンサーとかも全部持って帰って、何もかも考え直して一から始めようとしてたんだ。しばらくの間デヴィッドはそのまま続けていて、...ぼくの方はプリンスのためにペイズリー・パークでやったりとか、トニー・レマンの作品とかね、それには髄分時間をかけてた。ぼくはそこで少し歌ったりもしてたし。デヴィッドはそういうのが少し気に入らなかったのかもしれない。今はワーナーでA&Rのプロデューサーの仕事をしてるよ。

フレッドはインフォメーション・ソサエティのLPをもう一枚ニューヨークで作ってるし、ぼくはウェールズでものを書いたりしててね。ブリティッシュ・エレクトリカル・ファウンデーション(BEF)のマーティン・ウエアが電話して来て彼らの新しいアルバムに協力してくれないかって言ってきたのは、そういう頃だった。どうしてそれをやる気になったかと言うと、...ぼくはレコード会社にさえウエールズの住所どころか電話番号も教えてなかったから、全く連絡の取れる状態になかったんだ。ぼくを捕まえることができたのは彼一人だけだったんだよ。

 

Plays “ファーストボーイ・イン・ディス・タウン”

 

★あなたが関わったこのアルバムについてのお話が出たところで、このプロジェクトに他に誰が参加しているか反すうしてみたいんですが。

ああ、このアルバムはね、みんなカヴァー・ヴァージョンをやってるんだ。他に参加してるのは、Taschan、メイヴィス・ステイプルズ、チャカ・カーン、ビリー・プレストン、ララ・ハサウェイ...、とにかくすごいシンガーばかりだね。だから参加しないかって言われた時にはウエールズからその足で飛び出したような感じだったよ。パディントン(ロンドンの駅名)行きの列車をすぐにつかまえた。行ってみるとマーティン・ウエアがこのプロジェクトを取り仕切ってて、...ヘヴン17で知ってる人も多いんじゃないかな。でも、彼はその前にはヒューマン・リーグにいたんだ。...“みんなカヴァー・バージョンをやることになってるんだ”って言う。で、ぼくはそれまでカヴァーってやったことなかったんだよね。

ウェールズに戻ったぼくは...その頃にはカーリオンに住んでたんだけど、一週間ほど好きな曲を3曲選んであれこれアレンジしてみたんだ。その中にスティーヴィー・ワンダーの曲があって、それがBEFのアルバムに入ったやつだ。その他の2曲は、ビートルズの“シーズ・ア・ウーマン”とグラディス・ナイトの“テイク・ミー・イン・ユア・アームス・アンド・ラヴ・ミー”だった。スティーヴィー・ワンダーの曲をってる時にBEFの連中に“他の2曲も録っちゃいたいから、もう2,3時間スタジオを使ってもいいかな”って頼んで、...それってまるでスクリッティらしくないやり方だったけどね。前のぼくらはシンセのプラグ一本つなぐのに2時間かかるような状態だったんだから。...ともかくそうしてぱぱっと2曲録ったんだけど、それは今ではものすごく気に入ってるジャマイカン・レゲエのアーティストと仕事できないかな、と思いながらやった曲なんだ。

★とすると、これからのスクリッティはそんな感じでやってくってこと?

待って、待って、そうは言ってないよ。ウエールズで書きためてる曲が随分あるし、その中のはバラッドも多いんだ。今までで最高の出来じゃないかなって思ってるくらいだし、それってレゲエ調ってわけじゃ全然ない。いくつかはそれの影響もあるけど、他のはヒップ・ホップ系で、でも歌詞はずっと巧妙に出来上がってるんだ。ぼくはいつでもそのへんすごくうまくなりたいって思ってる部分なんだけどね。だからこの(BEFとレゲエ系の)曲はちょっとした息抜きっていうか、楽しみで作ったものなんだよ。まあ、スタジオでもう一度仕事が再開できるかどうか、試しにって意味もいくらかはあったけどね。でもそれについては嬉しいことに大丈夫だって言えるよ。

★じゃあ、4枚目はもう構想が出来てるって思ってもいいんでしょうか。

んー、曲はもうかなり書けてるんだけど。...(注;ここはウエールズ訛りで)フロッピー・ディスクに放り込んであって、カーリオンに置いてあるんだ。問題はレゲエ系の作品にどのくらい時間をさくかってところだね。これってまだポピュラーなジャンルじゃないし、それについてうるさい連中は黙ってないだろうし。...まあ、それを気にしてるってわけでもないんだけど。そもそもぼくはイマジネーションのままに仕事するたちだから。今年はもっとレゲエ調の曲をやるかもね。なんにせよアルバムは今年の終わりごろになるんじゃないかな。もっと早く出来るかもしれないけど。ロスでやるかも知れないし...、まだどうなるかは決まってないんだ。

★じゃあ全部じゃないにしても、かなりの曲をウエールズに戻ってきて書いてるってことですね。どのくらいこっちに来てるんですか。

ずいぶん戻って来てるよ。過去18ヵ月の間はずっとウエールズにいたね。もちろんここ3,4ヵ月仕事でロンドンに行ってるから、その前って意味だけど、それについてはすごく良かったと思ってるんだ。って言うのは、昔は子供の頃から住んでるような場所からは出たいとばかり思ってたし、戻ってくるのは後退って言うか、なんだか負けを認めるような気がしてたもんだけど、今は全然そうじゃないんだ。本当にこうすべきだったんだよ。戻って来て自分を見詰め直すとか、気力を取り戻すとか、学校に一緒に行ってた連中に会うとかすると、また先の見通しが立つようにもなって来るしね。そういうのって見失いやすいものだから。特にスタジオにこもったり、ロンドンのクラブを遊び歩いたり、そんな事ばかりしてるとね。だからこっちにいるとすごく楽しいんだよ。

★シングルが順調に行くといいですね。実際みんなBEFのアルバムを楽しみにしてるんですよ。ソウル・ファンには涙もののアルバムですからね。

うん、本当にいい出来だよ。ぼくはもう全部聞いてるけど、本当におすすめしたいね。

★このプロジェクト全体に関わってらしたってことですよね。

そう。いくらか他の作品にも口を出したしね。ビリー・プレストンはぼくの曲にも参加してくれてるんだよ。これは自分でアレンジしたやつだけど、そういうのって夢みたいな話だよね。ビリー・プレストンはこの曲でもすばらしいよ。全くの話。

★もう仕上がってて、いつでもリリース出来る状態にあるってことですか。

もうタウン・ハウスのカッティングルームに入ってるから、テン・レコードがまとめ終えたらすぐにもレコード店に並ぶんじゃないかな。

★それに今年中にスクリッティの4枚目もね。

だといいね。それもきっといいと思うよ。

Plays “シーズ・ア・ウーマン”