David Gamson and Fred Maher

Scritti Politti magazines no.1 and no.2−August 1985

Interview by Green


Scritti Politti magazines no.1 and no.2−1985年8月
インタヴュアー;グリーン

 

G;お二人はマテリアルで知り合ったんですか

D&F;違うよ!

D;ぼくは、まるっきりマテリアルとは関係ないんだ。

F;ぼくがその頃つきあってた女の子がデイウと同じ大学に通ってたのがきっかけだよ。ぼくはニューヨークに住んでて...、生まれたのも育ったのもマンハッタンだけどね。で、ぼくは初期のゴングのレコードをプロデュースしてたジョルジオ・ゴメルスキーって人と知り合って...

D;あれ、それ認めたくないんじゃなかったっけ。

F;それで、彼はヤードバーズともやってて、確かクロウダディ・クラブもマネージしてたんじゃないかな。ローリング・ストーンズが初期の頃、ギグを取ってやったとも言ってたけど。悪名高い人物だった。まあ、ともかくぼくがそいつと知り合った頃、マテリアルのみんなも彼に会ってるんだ。その頃ぼくはゴングやヘンリー・カウみたいなヨーロッパ系の音楽にはまりこんでて、ジョルジオはニューヨークに(マテリアルの)みんなを集めようとしたんだけど、それがうまくいったおかげで、ぼくはフレッド・ファースとプレイするハメになったんだよね。結果的にはフレッド・ファース、ビル・ラズウェル、それにぼくでバンドを作った。で、デヴィッドはそういうのを聞いててさ、ぼくのガールフレンドが言ったわけ、“会ってみなさいよ、デイヴってああいうおかしなのが好きらしいから”ってさ。(笑)

D;ミュージック・フェスの時のポスター持ってるんだ...

F;ジョルジオがぶちあげたやつだろ。

D;マテリアルはね、昔はズゥーって名乗ってたんだ。よくニュー・ヨークに聞きに行ってたんだけど、ほんと、気に入ってたよ。

F;あの頃はプログレッシヴからダンス・ミュージックに変りつつあって、まあノリはよかったんだけど、まだしっくりいってなかったね。

D;エレクトロ−ダンス−ウイアードとかって?!

G;ズィー・レコードから出てたの?

F;いや、違うよ! それは後になってから。始めのやつはフィラデルフィアのレッド・レコードってとこから出てたんだ。で結局、かの有名なセルロイド・レコードに移った、と。いまや最先端のレーベルだけどね。そのうちぼくらはもっと本物のポップなダンス・クラブ・レコードが作りたくなってさ。それが“ブッツィン アウト”って曲になったんだ。ノナ・ヘンドリックスがヴォーカルに入ってて、アメリカじゃダンス・フロア系で結構ヒットしたんだよ。こっちではちょい知られたくらいだったけどね。で、それがズィー・レコードから出たやつ。それだけじゃなくて、ノナ・ヘンドリックスでもう一枚やってるんだけど、それは“イッツ・ア・ホリデイ”っていって、これはあんまり良くなかったね。クリスマス・ソングでさ。そうしてるうちにぼくはマテリアルを出てしまったから、それが連中と一緒にやった最後の曲かな。アルバムはエレクトラのでセルロイドから出た“メモリー・サーヴズ”が最後。で、ぼくがバントを出た後、めちゃくちゃ成功するんだもの。それって退屈。でもあの間は...

D;そりゃ、連中の成功は一重にお前がバンドを抜けたおかげだね。

F;はいはい、おっしゃる通りですよ!で、デヴィッドとぼくはまだつきあいがあって、...時間的には前後してるかもしれないけど、とにかく連絡は取り合ってたんだ。16トラック・スタジオで仕事してたんだろ。あとは、君にまかせるよ。

D;ぼくはバンドでやってたわけじゃないんだ。

G;スタジオでやりながら、アイデアを練っていた、と。

D;うん、まあそんなとこかな。

F;音大やめてまでだってゆーんだから。

D;作曲家になりたかったんだよ。でも、アメリカで作曲家をやってくってのはさ、ますますうんざりするような状況に陥ってきてたんだよね。...ボストンのオーディエンスとか...そういうのが多分事情としてあって。で、ちょっとアートっぽい方に手を出し始めてたんだ。エンジニアリングにも興味あったしさ。そんなわけでニューヨークのちっちゃな16・トラック・スタジオでアシスタントの仕事をしてた。音楽作ってるようなスタジオじゃないよ。そこでやってたのは企業向けのオーディオ・ヴィジュアル・プレゼンテーションなんだけど、こいつがやってみるとすごく面白いの。一年くらいそこで音響効果のライヴラリを作る仕事をしてた。

F;それって、カートリッジ・テープの小さいリールだよ,

D;ラベルに書いてある音と実際の音が一致するかチェックするんだけどさ、こんな感じ。“よし、これは確かに犬の鳴き声だ”とか!中には何の音だか全く見当つかないのなんかもあって、車なんだけど、56年式のシヴォレーのスターターみたいな...、56年式のフォードだかシヴォレーだか!で、そのスタジオには16トラック・マシンがあってさ、それで遊んでるうちにアーチーズのシュガーシュガーのひどいカヴァーなんかをデモに仕立てて、フレッドとはもう知り合ってたから手伝ってもらったりしてね。

F;で、ぼくが言ったんだ。“おおっと、これ最高じゃない。ズィー・レコードに持ってけよ”って。

D;そこでぼくはその通りにした。けどズィー・レコードのマイケル・ジルカは気に入ってくれなかったんだ。いや、あいつはホントは気に入ってた。でも、ズィー・レコードにはちょいキレイすぎるって思ったんだな。だってズィーってのはだいたいズィー・レコード・サウンドってのに沿ったものばかりリリースしてたからね。

G;だからこそ、レーベルそのものが特に立ったイメージを確立してたわけだしね。

D&F;そうそう。

D;で、彼(ジルカ)がもうちょっとパンチのきいたやつやってみろよ、って言うから、やってはみたけど、ぼく自身は気にいらなかったんだ。でも、その時そこでジョフ・トラヴィスとも会ってて、それがラフ・トレードのコネになったというわけ。彼がシュガーシュガーを扱ってくれて、休暇でそっちへ行った時にグリーンとも会えたんだ。ラフ・トレードってもっとでっかいレコード会社だと思ってたから見てみたかったんだけど、いざこっちに来てみると、あるのは小さな家一軒なんだよね!思ってたのとは全く違っててさ、オフィスも古びてて小さいし。でも、とにかくそんなでグリーンと会うことになったんだよ。

G;グリーンはその時何やってたの?

D;ぼくが彼に会った時は、丁度ソングス・トゥー・リメンバーを録り終えたとこだったね。ぼくの方はズィーでやったノー・ターン・オン・レッドを出したばかりだったし。NMEのコンピレーション・カセットに入ったんだ。、と言うのはぼくがシュガーシュガーのリリースについてアトランティックとアメリカで契約してしまっていたから、その制約のせいでズィーからはリリース出来なかったわけ。結局そんな事情で公式にはリリースされなかった。全くばかげた話なんだけど、アトランティックもそのレコードについて何もしようとしなかったしね。でもそれでグリーンとはここで会って、一緒にシングルやろうか、ってことになったんだ。もとはぼくのシングルになるはずで、グリーンがヴォーカルに入ってさ、でも結局スクリッティのシングルってことになった。...スクリッティにはある程度もうファンがいたから、ぼくらはその方がいいんじゃないか、と思ったんだ。

G;それが“スモール・トーク”のもとになったやつだよね。

D&F;その通り。

F;それが全ての始まりだったと言えるかな。その頃にはグリーンは新しいマネージメントを見つけようとしてて、その真っ最中に彼はラフ・トレードから出る決心をしたんだ。

D;その結果、ぼくらはそれをリリース出来なくなった。

F;そのおかげで(次のリリースまで)ものすごく長くかかることになったね。

D;スモール・トークはずいぶん長くやってた。少なくともぼく自身は始めのポップなやつが気に入ってたんだけど。全くアーティな感じのね。どんなのが一番いいかって言うんで、いろいろミックスしてみた。最後にはナイル・ロジャースをひっぱりこんでリミックスしたんだけど、彼があの曲をすごく上手く作り直していくのを見るのは、いい経験になったな。ほんと面白かった。現場の経験というかね。で、そのあたりで、グリーンはマネージメントやレーベルを根こそぎよそへ移し終ったんだ。

F;法的問題にひっかかってたんだよね。

D;でもラフ・トレードで実はもう一曲作ってるんだ。で、これもリリースされないままだよ!そのすぐ後、グリーンが歌詞を書いた、“エル・イズ・フォー・ア・ラヴァー”をやったんだけど、これも出てない。ぼくらは他のシングルを作って、グリーンと一緒にやって来てるから、いずれ“エル・イズ・フォー・ア・ラヴァー”も出るかもしれないけど。

F;そうなるといいんだけど。今回のアルバムと次のの間のつなぎにね。

G;ところで、ほとんどニューヨークにいたんですか?

D;うん。こっちへはグリーンに始めて会った時に来ただけかな。それからスモール・トークは全部ニューヨークでやったし。でその後グリーンはニューヨークに来てぼくのうちにいることになったから、アリフとやった3曲、“ウッド・ビーズ”、“アブソルート”、“ドント・ワーク・ザット・ハード”のデモもニューヨークで作って、結局レコーディングもそこでやったんだ。

F;ものすごく費用が嵩んだんだよ!

D;そんなこんなで、グリーンはちょっとニューヨークに飽きちゃったのかな。それに、こっちにいるとコストの面で助かるしね。でも今度はぼくがこっちに飽きてきたけど。

F;でも第2期はまたニューヨークに戻って始めたから、結局そこで一夏過ごすことになったね。“ヒプノタイズ”、“ラヴァー・トゥー・フォール”、“ア・リトル・ノウリッジ”の基本的な部分をやったから、実際“ラヴァー・トゥー・フォール”と“ア・リトル・ノウリッジ”のヴォーカル部分を除いて全部そこでやったことになるかな。

D;でもその夏、グリーンはニューヨークにほんとあきあきしてたみたいで、こっちに戻って来たがってた。ぼくはニューヨークって好きなんだけど、でもこっちのスタジオって確かにいいよね。

F;それにまた、たくさんあるんだ。レコーディング・スタジオって英国のウリのひとつなんじゃない?

D;ただ、ミュージシャンがちょっと問題。ほんとにうまいセッションミュージシャンっていうのは、これまたアメリカのウリみたいなもんだから。

G;ここで一番違うところはね、誰もが何かにつけてやりたいようにやりたがるってとこだと思う。

F;うん。ここではアイデアはいいのがいくらも出てくるんだけど、ただ実現するにはプレイのうまいやつを引っぱって来ないことにはね...

G;いいテクニックを持ったセッション・ミュージシャンは絶対だよ。それってアメリカにはいっぱいいるよねえ...

F;うん。東にも西にもセッション・ミュージシャンの家族みたいな集まりってあって、誰でも他にどんなやつがいるのか知ってるし、うといくらかかるとかも知ってたりする。連帯意識みたいのがあってね。こっちにもセッション・ミュージシャンはいるけど、ニューヨークみたいに、団結してないよ。

D;それも機械にたよることになった原因かな。自分たちで何もかもやんなくちゃ、と気がついて、だけど楽器を全部ぼくらだけで演奏するわけにはいかないし、解決策は見つけなきゃならないしで、やれることはミュージシャンに飛んできてもらうことだったんだ。そうしないと出来ないことをやるためにはそうしたけど、避けるようには努力したね。でも、...つまり、機械でやるのってすごく面白いんだけど、ミュージシャンとも仕事したかったってことかな。

G;てことは、グリーンはこっちに帰って来たがってて、あなたたちにも一緒に来て欲しいって、説得したってこと?

D;いや、そういうんじゃなくて。たまたまそういう結果になったんだよ。アメリカでやったやつをミックスしに1ヶ月だけこっちに来てて、それが2ヵ月に伸びたもんだから“レコードをこっちで仕上げようか”って決めて、それがそのまま...。

F;ずっとこっちで仕上げやろうって決めなかったっけ?

D;えっ、ほんとか?ああ、それでもう2ヵ月が過ぎて、...そうしてるうちに一年になっちゃったんだな!

F;ここで仕事してるとコストは安くつくからね。

D;マネージメントとか全部こっちなんだし、ここがベースになるのがあたりまえなのかも。イミグレーションの問題があるからね。ぼくはここ好きだよ。...天気を抜きにすればだけど!前の5月にこっちに来て、でも夏の2ヵ月はニューヨークに帰った。

G;で、アルバムが完成して、その間に“ウッド・ビーズ”や“アブソルート”の完成品はリリースされていたわけですね。

D;それと“ヒプノタイズ”もね。...でも、それについては話したくないな!(笑)そりゃ、気に入ってるけどさ。どこか異色というか、ポップ・シングルって感じじゃないね。アルバムの中の一曲としてはいいんだけど。

G;“ワード・ガール”って大ヒットしそうと思わない?それともシングル・カットするのはちょっと冒険かな。

F;ヒットになるとずっと思ってるけどね。

D;あれってシンプルでダイレクトな曲だから、アルバムの中では目立ってるよね。それにレコードが出来上がってから、ぼくら自身で聞くに耐える唯一の曲だし!苦労しないで、なにもかもスムースにいったのはあの曲だけだったもんな。

F;始めっからツイてる曲だったよ。

D;すんなりできたもんだから、だれもイラつかなかったしね。

F;大した時間もかけなかったから、シングルになるなんて思ってもいなかったよね。

D;余分に一曲いることになったんで、...スタジオに行く前に寄せ集めて、だから誰も心配してなかったよな。

G;じゃあ、自然に出来上がったってことかな?

F;そう。ぼくらがその頃住んでたベイカー・ストリートのフラットにグリーンが来て、始めの部分の歌詞とコーラスをなんとなく作ってみてさ、食事に出かけるまで時間があったんで、デヴィッドが作った曲で演奏してみたんだ。結局そのあとスタジオに入って、どう仕上げようかって考えて。ほんとにこんなのからもう一曲作るつもりなんかなくてさ、だから“こんなとこでどう”って言ったら、グリーンも”いいよ!”って言うから。そこで、出来上がり。あんなふうにトントンといくと楽しいよね。

D;レコードの残りの部分にも同じ事が言えるね。

G;さて、トップ・オブ・ザ・ポップスに出演した感想は?あれってちょっとした経験だったと思うけど。

D;神経使ったよ!

F;こわかった!

D;ここに住んでさえいなきゃ、大して気にしなかったと思うけど、毎週見てて出てる連中を笑ってたんだからね。そりゃ、緊張しちゃうよ。オランダでもやったけど、そっちのは全く何も知らなかったんだ。あっちじゃ確かに一番人気のあるポップ・ショーらしかったけど...

F;でも、そこに住んでなかったら気にするほどのこともないよね。

G;オーディエンスがどんなかも知らなかったの?

D;やるしかないじゃない。でもなんとかなるもんさ。

F;トップ・オブ・ザ・ポップス初出演か。終わってみると面白かった気もする。まあ、確かにちょっとした経験だったね。オランダのをやったから言えることだけど、トップ・オブ・ザ・ポップスってうまくプロデュースしてあるのは有り難かったよ。こっちのスタッフはうまくいくように一生懸命準備するからね。オランダと来たら、オーディエンスの子供たちを入れるのはいいんだけど、それって子供どころか17,8にはなってるんだよな。で、退屈そうな顔して見てるんだ。その態度ときたら“何か面白いことやってみな”って感じでさ。トップ・オブ・ザ・ポップスじゃ1時間も前からレコードかけて、わいわいって感じになって,来てる子たちもいい雰囲気になったところでやるだろ。オランダじゃ、そんなに気を使ってくれない、って!

G;ところで、ワード・ガールのヴィデオね、あれどこで録ったの。

D&F;ヘイスティングスとハムステッド。良かったのは遊園地とボートだったけど、そのためにわざわざヘイスティングスまで行ったんだ。雨降ってたのに休暇を楽しんでるって風に見せなきゃいけなくてさ。

G;あれってホントにナイアガラの滝みたいに見えたけど、もしかして雨だったんだ。

F;同感、同感。

D;休暇みたいに見えてただろ。

F;もともとはスペインに行くはずで、それっていいアイデアだと思ってたんだけど、ちょっと予算が足りませんでね。

D;おかげで代わりにヘイスティングスにいったのさ!

G;そう言えばフレッド、ロバート・クワインとやったアルバムがあるっていう話だけど?

F;ベイシックってレコードだよ。ぼくら二人だけが、ドラムマシンやギター、ベースを演奏してる。ぼくがベースを殆どやって、少しギターもね。彼にしては珍しいんじゃない?ソロで有名な人だから。

D;悪名高い、だろ。

F;デヴィッドとぼくはクリサリスでアデル・バーテイって女の子のために曲を書いてたんだ。彼(クワイン)はソロで参加してて、ぼくらはそれがとても気に入った。でもクリサリスはそんなにいいとも思ってなかったから、残念ながらだめになるかもね。ベーシックはポルタステュディオでやったんだけど、気楽にやりたかったからなんだ。ロー・テックにね。みんな気に入ってるんだよ。EGレコードから出たけど、いいレーベルだろ。もっと小さいインディペンデントから出る可能性もあったんだけど、あまり小さなレコード会社だと流通の点で弱いからさ。その点EGならうまくいくと思う。

G;小さいけど、充分な販売力はあるよね。それはアンビエント・サウンドのイーノ・シリーズに入るのかな。

F;そうじゃないよ。エディションズEGの方。ぼくはエディションズって何なのかわからないけど。最近は彼らそんなにレコード出してないからね。実際ブライアン・フェリィのアルバムはエディションズ・EGというより、ブライアン・フェリイ・レーベルって感じだし。もう一枚彼らが出したレコードがあるんだけど、...と言うのは何枚かのシリーズのうちの一部になるはずだったんだけど、でもそれが2枚だけだから。それがぼくらのと、アルト・リンゼイ...もとDNAとラウンジ・リザード...のレコードなんだ。彼って独創性があって、いい奴なんだよ。クワインとぼくは秋にぼくが家に帰ったらもう一枚一緒にやるつもりでいる。ベーシックはトントンで、もとが取れたからね。いい批評も出てるし。EGの連中とはルー・リードのコンサートで知り合ったんだ。ぼくと同じにクワインもルー・リードとやってたしね。ぼくは前の2作、彼のスタジオ・アルバムにも参加してるし。ともかく長いことクワインとは会ってなかったんだ。去年の12月から。

G;アデル・バーテイの方は終わったんだよね。それってシングルなの?それともアルバム?

F;シングルだけど、8月の第1週にリリースされるってうわさだよ。

G;そして、つぎは“ラヴァー・トゥー・フォール”のリミックスに取りかかる、と。

D;そう。次のシングルになるやつをね。それから日本、アメリカ、ってふうに回る予定。

G;ニュー・アルバムには時間がかかると思う?契約上の問題はもうないわけだけど...。

D;いや、かからないんじゃないかな。今までやった分で一緒に仕事するには、どんなふうにやればいいかわかってるからね。

F;スタジオで時間がかかったことの他に理由をあげるとすれば、知ってるかもしれないけど、3段階に分けて作ったことかな。始めの3曲はアリフ・マーディンと一緒にやったわけだけど、あれあっという間に何ヵ月もたってたよね。

D;少なくとも3,4ヵ月はね。

F;次の段階に差し掛かる前に、少なくとも3,4ヵ月はたってた、と。それからニューヨークでやって、そのあとロンドンに来てミックスして、それでその後2,3ヵ月はまた次をやるんで大騒ぎしてたんだ。

D;その頃にはすっかりスタジオにこもるようになってたしね。

F;次のアルバムまできっと2年かかるってことはないと思うよ。

D;ふつうよりずっとレコーディングに時間をかけるしね。

G;すると、フレッドはもう一枚創るつもりでいるアルバムの他に何か予定入ってるの?デヴィッドは?

D;入ってないよ。他で曲は書くかもしれないけど。それって出ていって、他の人たちと仕事して戻ってくると気分転換になるってくらいの意味だし...

G;戻ってくる時,何かいいアイデア持って帰って来れる?

F;そうしてなきゃ、何も出て来なくなるだけだもんね。ぼくの方は次のルー・リードのアルバムに参加するかも知れない。今はスタジオには入ってないって聞いてるけど。パーフェクトって映画が出来るって話で、いつ封切られるかは知らないんだけど、アメリカでやるんだって。どうやらぼくも出てるみたいでさ。そのためにセッションやったんだよ!歌詞を変えなきゃならないそうだけど、曲全体を変えなきゃならないのかどうかは、知らないんだ。あとは次のクワインとのレコードかな。

G;スクリッティはアメリカではどう?結構売れてるみたいで、手紙もたくさん来てるよね。

D;今までのところ12インチをずっと出してて、“ウッド・ビーズ”は7インチだけどね。アルバムはアメリカで出たばかり...インポート・マーケットでやっと発売されたとこだよ。流行って来てるし、レコード会社としては売りたいとこだからね。でもシングルは7月の半ばまで出ないんだ。だから今のところは様子見ってとこだな。

G;プロモーションに出かけなきゃならなくなるまでね。

F;ダンサブルな音楽が出回ってて、12インチってのはクラブから始まってるよね。で、スクリッティはこれまでアメリカで目立ってはいなかったし、いたとしてもほんの少しだよ。

D;ビルボードにはデヴュー・アルバムで載ってるし。

F;ファーストはアメリカでは発売されてないよね。いずれリリースされるかどうかはわからないけど、そうなるといいね。