Chapter 1

1978-1979 

"Skank Bloc Bologna"

"2nd Peel Session"

"4A-Sides"

 

1978

この年の半ば...グリーン(22才)、とトムはリーズを去り(グリーンは教科課程を放り出した)ロンドンのカムデン・タウンにある1・キャロル・ストリートに移る。

グリーンは旧友であるナイアル・ジンクスをバンドに招き、3週間でベースを教えた。一緒に住んでいたマチュー・ケイが“オーガナイザー”(ギグを決めてくるなどの仕事)をやってくれることになり、このため彼らのスクオットにはバンドのメンバーを含めて一時は18人もが集まることになった。

9月...ザ・ディスパリット・バイシクルズ(自分達のレコードをプレスしてリリースしていたバンド)に触発されて、スクリッティもレコードを自費製作することにする。
ナイアルの兄弟から500ポンド借り、安いスタジオでレコーディングした曲がスカンク・ブロック・ボローニャ”で、7インチEPとして彼らのセント・パンクラス・レーベルからリリースされた。(セント・パンクラスはロンドンの地名で、地下鉄にもその名前の駅がある。この駅は昔、王宮だったという歴史を持つ。)このレコードはラフ・トレードによって出回ることになり、ジャケットにはバンドの写真と制作費用の詳細をトムが構成したアートワークが用いられている。トータルで15,000枚を売り上げたが、1週間に400〜500枚売れた時もあった。



10月...スクリッティはジャミング誌(第6号)にて、初めてのインタヴューに応じる。グリーンはすぐにグループのスポークスマン的存在になるが、インタヴューで政治論を語ることから、プレスの間でもよく知られるようになった。



11月...この頃のスクリッティは思想性に裏打ちされており、主にバンクバンドとして活動している。初めてのステージは、ロンドンのアクラム・ホールでリハーサルなしの15分間というものだった。その後彼らのギグはさまざまなリアクションを引き起こすが、いくつかのギグではグループの他に多くの人がステージに登ることもあった(あるギグでは12人もステージにいたことがある)。
グリーンはロンドンのヤング・コミュニスト・リーグ(青年共産党)に参加し始める。



12月...グリーン、トム、ナイアルは初めてのピール・セッションに出演するためBBCのレコーディング・スタジオ入りする。これはこの月の半ばにラジオでオン・エアされたが、収録曲は“ザ・ユーモア・オブ・スピッタルフィールズ”,“ノウリッジ・アンド・インタレスト”,“ダウト・ビート”そして“5/12/78”(これはセッションの収録日)だった。“5/12/78”は“スカンク・ブロック・ボローニャ”7インチEP収録の“28/8/78”と同じ曲である。




1979


スクリッティはUKでのツアーでジョイ・デヴィジョンやギャング・オブ・フォアと共演するが、グリーンがあるギグに向かう途中、車の中で"虚脱状態"に陥り、その結果バンドの活動は後退を余儀なくされる。彼はその時全くの麻痺状態に見舞われ、4時間話すことも出来なかった。あとになって分かったことだが、極度の不安が抑うつ状態を引き起こし身体機能の低下に繋がったらしい(この場合は心臓に症状が見られた)。グリーンはまた心臓発作を起こす可能性があると言われ、精神分析によってこうした不安の解決策を見出だそうとし始める。


5月−グリーン、トム、ナイアルの全員が、不健康な生活習慣のせいで健康状態を害する。結果的にはみんな回復するが、そのためギグを続けることに支障をきたし、すでに予定されていたスタジオでの仕事の方に重点が置かれることになる。

何枚かEPを作ってリリースするために借金するが、スタジオで失敗して(レコーディングした中の)何曲かしか救い出せなかった。(訳注;この頃の作品は即興で演奏されていたものが多かったため、録り直しがきかなかったせいと思われる)



6月−スクリッティはBBCで2回目のピール・セッションを録音し、7月の初めにオン・エアされる。その時の曲は‘メスセティクス’、‘ヘジェモニー’、‘スクリットロックス ドア’、‘ザ・ニュー・ワン’。
ラフ・トレードはこのスクリッティの新曲(レコーディングで救い出された分と、2回目のピール・セッションでの曲)を気に入り、新しいEPを二枚作るための資金援助をしてくれることになる。



10月−‘4A-Sides’12インチEPがラフ・トレードからリリースされる。



11月−‘2ndピール・セッション’7インチEPがラフ・トレードからリリースされる。これはBBCのレイディオ1におけるジョン・ピールの音楽番組のために録音された曲を集めたものだ。
また、スクリッティはニューヨークでカルト信奉者に注目され始める。

フレッド・メイハーはニュー・ヨークのカルト・バンドであるマテリアルのミュージシャンだったが、その奇妙なバンド名に魅かれて‘2ndピール・セッシ

ョン’を手に入れ、その中の曲が大変気に入ったと言う。偶然にグリーンもマテリアルの曲を聞いてそれが気に入っていたらしい。フレッド・メイハーはデヴィッド・ギャムソン(もう一人のニューヨーカー)の友人であり、この二人は後にスクリッティ・ポリッティに参加することになる。
また、この頃グリーンはひどい肺炎を引き起こし、音楽誌で彼の具合が良くないことを知った両親(母と義理の父)は、5年間会っていなかった彼にサウス・ウエールズに静養に戻って来ないかと言って来てくれた。戻ってすぐグリーンは病院に直行している。

入院している間に全部やめてしまうか、もう一度ロンドンに戻ってやり直すかで随分悩んだらしいが、結局彼は音楽を創ることに本当に魅力を感じている自分に気がつき、本格的に始めるために戻ることを決意する。

 

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