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Bryan Ferry Drops His Guard

-Lucky for Face readers, STEVE TAYLOR was there to catch it. How Bryan learned to live with failure! Why he's tried to dump the playboy image!

A candid glimpse into the uptown life and times of reformed dandy. -

 

Interview by Steve Taylor / photography Sheila Rock

The Face 1980 no.3

Translated by Ayako Tachibana

 

私の目の前で品のいいテーブルの向こうに座っているのが、グラム・ロックの生みの親だなどということがあり得るのだろうか。1972年、アルバム"Roxy Music"の豪華装丁されたジャケットに挿入されていたのは、6インチのカラー・ポイントが付いた豹柄のジャンパーを着た男の写真だった。ヘア・スタイルはといえば、無造作に長い髪が片方の肩にかかり、もう片方はグリースで固めて高く逆立ててあろうかという有様だ。*訳注1

8年が過ぎた今、例の逆立てた髪は自然に耳の後ろにまとめられてエレガントな様子になり、ブラウンのファンデーションは優雅な冬の日焼けが薄れ掛けている自然な肌に、ラメ入りの衣装は落ち着いた色のスーツとこなれたブルーのシャツ、それに赤と緑の縞模様のタイに取って代わられた。クツはといえばシャレた小悪党がはくような白のブローグときている。 *訳注2)

ブライアン・フェリーがずっと魅力的なインタヴューの対象だと思われてきたのは、全くこのコントラストと、彼自身が意図的に上流階級への仲間入りを果たした存在であるという事実によるところが大きい。

ずっと上流の生活に憧れ、そのように自分を作り変えてきた北部出身の画学生は、今やヴォーグ誌の表紙に載り、マスティークでゴシップの中心的存在であるマーガレット王女やRoddy Llewellynに混じって休暇を楽しんでいるのだ。*訳注3

それもあって、元々のRoxy Musicというモロトフカクテル(火炎瓶)に仕込まれていたスタイルとジャンク、ノスタルジーとフューチャリズムといった配合が如何に衝撃的な威力を持ったものだったか、今では思い出すのさえ困難なものとなっている。そしてデヴュー以来、評論家たちが飽きずに話題にするのがフェリーとイーノのことだ。

「その話はよく出るんだけど」、フェリーは少しニュー・キャッスル風のアクセントが残った発音で言い、「でも、人のことをあれこれ言い立てる立場に追いやられるのはイヤなんだよ。自分を弁護しなきゃならないハメに追いやられるような気がして。誰についてでも、良いコメントを出せないなら何も言うべきじゃない。特にプレス相手にはね。」

彼はロキシーの歴史が語られる中で、"不当な扱いを受けてきた"と感じている。「何故なら、その歴史を書いて来たのはぼくだからだよ。その一点につきる。まあ言えば、ロキシーはぼくの舞台だったんであって、それを生かし、活気づけ、動かし続けなければならないと思っていたし、そのために出来る限りをやって来た。それまでのアイデアを展開し尽くしたと思ったらいつでも、次に進まなければならないと思ってたしね。みんなぼくらに 'For Your Pleasure',の復刻版みたいなものを10も作らせたがったけど、でももし成長し、変化し続けたいと望むなら ― ぼくの場合では ― それはもっとポピュラーなものを作ることで、それこそがぼくにとっては挑戦だったんだよ。同じことを繰り返していてはいけないと思うから。」

 

 

彼の言い分によれば、フェリーが構築したオリジナルのロキシー・ミュージックというアイデアは、ファースト・アルバムのリリースによって十分に完成を見たと言って良かったようだ。マネージメント・オフィスからキングス・ロードをちょっと行ったところにあるタウン・レコード店に、初めてそれが並んでいるのを見た時のことを、彼は回想する。

「ぼくは自分が聴きたいと思っていたようなものを実際に作るという面白い立場にあって、それが実現したのがあのアルバムだったんだ。今でも覚えてるけど、突然 ― と言うか、1年もリハーサルやら何やらで費やした後ではあったけれど ― 完成したものがショー・ウィンドウに並んでいる。あれは、ちょっとした気分だったよ。」

けれども「毎年、より良いものを生み出さなければならない ― それは更に努力が必要とされるということでもある」彼はにっこりして言った。それで彼にとっては、ロキシーの限界がますます不満に感じられるようになって来ていたのだろう。

「ぼくらはそれほどは一緒に演奏してたわけじゃない。スタジオに入る一週間前とかは別として、それからそのままツアーに出て、それが終わると解散。だから一般的な意味でのバンドとは言い難いと思うよ。一つの家に一緒に住んだりみたいな、よくある形のね。ぼくに言わせればレパートリーを共有している仲間というか、そんな感じだったな。」

「一番の問題は、5人全部に一時に目が届かなかったということでね。誰かは気に入らないことをやるものだし、そうするとイメージ通りに進めようとすれば、ある種のクオリティ・コントロールが必要になってくるものなんだ。」

ツアーに出た時にも、そういう問題は起こりませんでしたか。

「録音をやってる間に、解決はしてるよ。」

でも、ミュージシャンというものは即興や展開をやりたがるもので、それがその"クオリティ・コントロール"とぶつかるようなことは無かったんでしょうか。

「それが難しいところ」と彼はなんとか如才ない答えを返そうと努力しながら、「もし一流のミュージシャンなら、それをやっても的をはずすことはないものなんだけど、でもロキシーの場合はそういうわけにゆかなかったんでね。確かに誰かが部分的なものを持って来て、ぼくが"なかなかいいね"と言うこともあった。そういうのが独裁者と司令官の違いだとは思うけど。」

「'For Your Pleasure' ツアーのあと、別のキーボード・プレイヤーを用意しないことにはどうにも立ち行かなくなったんだよ。イーノは全く贅沢品だったし、― それがわからない人も多かったようなんだけど、ステージで彼にやってもらうことはそれほどなくて、他の楽器をやってもらってもそれは言わばケーキに乗った飾りみたいなものだったんだ。ぼくらにはコード(和音)がどういうものか知っているような、音楽的に妥当なキーボード・プレイヤーが必要になっていた。バンドのメンバーもみんなそれは分かっていたのに、何も言おうとしなくてね。」

"「司令官」は無視されてたわけですね"、と言うとフェリーは柔らかく笑って、「諸君、立ち上がる時だ!」

 

 

 " For Your Pleasure"に続いてすぐに次のロキシー作品に取り掛かる代わりに、フェリーは彼の初めての"オールディーズ"アルバムである"These Foolish Things"のためにスタジオに入った。彼はそれを「(オリジナルに対する)反動的な道楽仕事」として始めたと認めるが、しかしこのスタジオでの作業は、彼の ― 通説には反するが ― シャイで凝り性な性質にピッタリだったようだ。

それは「より技巧的な作業だったので、より専門的な技術を必要とするもの」であり、それが後にロキシーのオリジナル作品に発展した時には、良い作品(pieces)よりも、良い曲(songs)を書くこと」に通じることになった。ここに"Stranded"が成立する。ここで若いエドウィン・ジョブソンがイーノに代わり、「よりアブストラクトでない」方法論をバンドに適用する試みがなされた。

その試みは、どのくらい成功しましたか、という問いに、フェリーは口元を歪め、掌を二律背反という様子に傾けて「あれは、折衷策だったんだよ。本当はもっと聴きやすく(ポピュラーに)するべきところだったんだけど、いくらか曲がアブストラクトだったし。」これは"These Foolish Things"が「より保守的なオーディエンスへの掛け橋」になることを望んでいた彼にとって納得のいかないことだったようだが、この2つの異なった種類の仕事に、投げ出さずに取り組んで来た彼は、次第にスタジオ・ミュージシャンとして、またリーダーとしても信頼を得て行くことになる。

所謂ロックンロール・サーカスについてどう思いますかと尋ねられると、彼は「ぼくはそれと全く関係ないよ」ときっばり答えた。「ぼくにはいつでもちょっと異世界という感じがしてて、そのせいでミュージシャンたちも始めは戸惑うんだろうね。」

「ぼくが本当の音楽職人とも言えるアラン・スペナー のようなプロのミュージシャンに馴染むようになったのはごく最近のことだよ(アラン・スペナーは元ココモのベース・プレイヤーで、ロキシーのカムバック・アルパムとなった"Manifesto"と新作 "Flesh+Blood"で殆どのベースを担当している)。何年も前は彼とスタジオで仕事するなんて考えるのは、ぼくにとってとてもパニクることだった。引っ込み思案で臆病なとこがあるから。でも今じゃ、そういう劣等感は感じなくなってきたな。リチャード・ティーが 'Dance Away' でピアノを弾いてくれてるんだけど、― ぼくはシンセのパートを弾いてるんだ ― 彼はスタジオ・ミュージシャンとしては最高のヒーローだろ。その彼が今では"なかなかいい曲じゃないか...!"って言ってくれるくらいなんだからね。」

フェリーは話題がミュージシャンのことやスタジオ仕事のことになると急に生き生きとしてきて、慎重な態度も崩れて椅子から身を起こすと"Stronger Through the Years" でアラン・スペナーが見せた途方も無いベースの曲弾きだの、アルバム "In Your Mind"に収められたクリス・スペディングの「すばらしいチェインソー・ギター」だのをものまねしてみせるほどだった。

「ああいうのはレコーディングをやってて最高と思える部分だね。」彼は嬉しそうに「エンジニアときたらこんなふうでさ」、そう言って驚きの表情を真似て見せ、十字を切った。

ブライアン・フェリーのこの2本立てのキャリアは、"Country Life"と"Siren"という2枚のロキシー・アルバムを作り上げる間も続いたが、その頃、彼のソロ活動はバンドという船の回りを飛び回る邪魔なアルバトロス(アホウドリ)のようなものになっていた。ロキシーは毎年ツアーを続け、ソロ活動の方ではオランダやオーストラリアのような信じられないような場所でのプラチナ・ディスク獲得にも関わらず、3つのアルバート・ホールでの例外を除いて、個人としてのツアーに出ることはなかった。彼はオーストラリアでロキシーと演奏した時のことを思い出して言う。「ブライアン・フェリーとロキシー・ミュージックというポスターがあちこちに貼ってあって、見るたびぼくは『あ、あっちにヘンなカンガルーがいるよ』とか言って、みんなの気をそらさなきゃならなかったんだ。」

「そういうのが重荷になりすぎてね。」と、彼は説明した。

でも、どうしてロキシーの活動が打ち切られることになったんですか。「それはつまり...、だからもし...」フェリーの解説はそこで止まってしまい、彼は突然「インタヴューっていうのは全く難しいよ。」と言った。「だって時には自分の回りの人たちについて言わなきゃならないこともあって...。ウソはつけないしね。みんなぼくをインタヴューするのをイヤがるのは、ぼくがいつも慎重すぎるからなんだろうな。でもぼくは誰のことも、怒らせたり傷つけたりしたくないんだよ。」

「ぼくはあのあと、もう一枚ロキシーのアルバムを作るのは適当じゃないという気がしてたんだけど、何より自分に作ろうという気がおきなくてね。それでもう話は終わってしまうんだ。あまりにいろいろ不満が出すぎいてい、それまでのメンバーとスタジオに入る気にはならなかったんだよ。」

例えば、どんな?

「さあね。なんでもかんでも、かな。みんなぼくを憎んでるように思えたし、被害妄想だったのかもしれないけど、とんでもない怪物を生み出してしまって、その怪物がぼくを憎んで、首を食いちぎりたいと思ってるような感じで。」

「それにイギリスからしばらく逃げ出して、どこか他のところに住みたかったというのもあるね。惰性で続けて退屈するなんてのはごめんだから、違ったプレイヤーや違ったスタジオ、どこか他でレコードをミックスするとか、自分が面白いと思える状態に自分を置いておく必要があるんだよ。仲間を投げ出すとか、そういう問題じゃなくて、変化してゆかなかったら内面的なものが停滞してしまうということなんだ。」

 

 

そこでツアーのあと彼はロスに赴いた。「天候が一番の理由だったかな。全く違った気候の中で、休暇というのが必要だったし、それでHolland Parkの家を売り払って、向こうに行ったんだ。」

自家製プレイボーイにとって、LAと関わるのはどんな感じでしたか?

「LAは当惑させられる場所だけど、どう付き合えばいいのか分かっていさえすればまあそれなりにやってはゆける。そんなに長く滞在すべき所ではないと思うけどね。人間的に不誠実だったりいろいろあって、スコット・フィッツジェラルドのような厭世的な気分にさせられたし、ぼくにとっては曲を書くのにあまりいい場所じゃなかった。滞在中、気に入るものは2曲出来ただけだったし。自分じゃ話したいと思わないような人たちとパーティーで合ったり、― 向こうもぼくと話したいとは思ってなかっただろうけど。」そこで彼は苦笑して、「ぼくはホントに、そういうことに向いてないんだよ。」

彼は「面白い経験ではあったけどね。少しくらい戸惑ったり動揺させられたりすることがあってもいいと思う。」と結論した。しかし、"Can't Let Go"("The Bride Stripped Bare"の中の一曲)の歌詞を見ると、いくらか動揺しすぎという印象を受けますが? 「確かにかなりおかしくなってたね、あっちでは。神経に来てたと思うよ」、彼は認めてそう言った。

LA滞在の後を受けて、フェリーは"The Bride..."レコーディングのためのバンドを、スイスのモントルーに集めた。「妙なバンドが、妙な時期に、妙な場所に現れたわけさ。」

気分的に、どんな状態でしたか? 「ああ、ものすごく落ち込んでたよ。おかけで現代版ブルース・アルバムみたいなものになった。あれに参加していた連中は、みんなホントにヘンになってたね。ぼくだけじゃなかった。あっと言う間にぼくの神経症に、あの優れたプレイヤーみんながまきこまれてしまうという、とても奇妙なことが起こったんだ。」

どう見てもそれは、おかしな取り合わせだった。雪に閉ざされた真冬のモントルー、宮殿のような豪華なホテル、― 「確かナボコフの未亡人も滞在してたと思うよ。ナボコフの方は一年くらい前に亡くなっていたけど、もし彼がいたらアルバムに参加してもらったのにな。」フェリーは皮肉な笑いを浮かべた。アルバムの雰囲気は、いくらかそんな情景を反映している。Greil Marcusは、このアルバムを彼の年間ベスト3のうちのひとつに数えたが、聴衆はこぞってそれを無視した。制作に50万ドルかかり、玉砕したのである。

フェリーのこれに対する反応は、失望に満ちたものだった。「ぼくにとっては、初めての失敗だったわけだよ。」出来の良かった"Sign Of The Times" も含めて、"The Bride"からのシングルはどれもこの悪循環にハマりこみ、彼は「ぼくの名前で何を出そうと、同じことになるんじゃないか」と感じたようだ。「イメージの問題で ― プレイボーイだとかそういう ― あまりにそれが宣伝されすぎて、誰もがそう思うようになってしまったんだろうね。」

ここに、ロキシー再編の必要性が生じた。「ロキシーという名前が持つイメージの方が、ぼく自身のそれよりずっと健全だということは分かってたから。」その判断は、" Manifesto", "Dance Away" そして"Angel Eyes"の成功が物語る通り、当たっていたようだ。前作よりも尚、確信的に確立されたスタイルを持つ"Flesh+Blood"は、更に大きな利益を上げようとしている。

さまざまな意味で、これはフェリー自身にとっても真の勝利であると言えるだろう。キーボードは殆ど彼自身が手がけ、彼がこれまでに書いた中で、最も印象的なメロディーである "Over You", "Oh Yeah" や "Running Wild"なども含まれているのだから。

 

 

アーティストとしての向上と新たな成功に伴って、フェリーの私生活も落ち着く時を迎えているようだ。

彼は今、フラットを探している。おそらくニューヨークになるだろう。と言うのは、彼が作品の殆どを手がける「基地」となっている郊外の両親の家を除いて、(Holland Parkの家を売り払って以来)まだ改めて自分の住み家を用意していないからだ。

Chertseyにある自宅に24フルトラック・スタジオを建てたばかりのフィル・マンザネラ ― ロキシーのギタリスト ― のように、フェリーは自宅にレコーディング施設を持っているのだろうか。「こんな程度だよ」と言って彼はテーブルの上の小さなカセット・レコーダーを指した。

「みんな、ぼくらが実際やってるより贅沢に暮らしてるだろうと想像するものみたいだね」と彼は言い張るが、それではリメイク・リモデルされた1980年版ブライアン・フェリーは、プライヴェートをどんなふうに過ごしているのだろうか。

「独身だとね、人に会うためには出かけて行かなきゃならない。でもそれも制限されていて、ますます有閑階級の方へ押しやられることになるんだ。ホントだよ。もともとそういう暮らしぶりに惹かれてもいたわけだから。そういうのにも、もう慣れたけどね。イギリスにいると選択の余地がないってことが殆どみんな分からないようだけど、ぼくがニュー・ヨークを好きなのはそのせいもある。ともあれ、これまでぼくはそういう階層の方向に押しやられて来て、でもそこだと厄介がない代わりに経済力以外に何の共通点もない人たちの間にいるってことにもなるかな。プレスがダンディだともてはやすのは、ずっと不愉快だったよ。面白くはあったけど...」

でももう、そういう茶番は終わりということですね?

「みんな分かってくれないんだろうけど。可哀相なぼくには、どうしようもないことだけどね。_」

 


 

*訳注 1 ..."Roxy"という言葉は、元々は「売り出し中の若手女優」のことだが、ここから派生して映画館によく用いられた名前だった。ブライアンはロキシーの初期コンセプトとして、全盛期の社交場としての映画館をイメージしていたようで、豪華な建物の中で様々な物語が上映される映画館のように、多彩なショー性に富むバントを目指していた。このアイデアそのものが空前のもので、そしてそれを音楽と結びつけたイメージを想起させるのが"Roxy Music"というバンド名である。元々は"Roxy"のみの予定だったが、当時アメリカに既にその名前のバンドがあったためMusicを付けることになった。このような事情で成立したバンド名ではあるが、よりコンセプトを明確にした名前としてブライアン自身も気に入っていたようだ。こうしたコンセプトがあったために「ゴージャス」は当時のRoxy のウリのひとつで、それまでは厚紙製のジャケットが殆どだったところへ、Roxyのファースト・アルバムはビニール装丁が為された豪華版、しかも中にはメンバー全員の華麗(お派手とも言う)でカッコいいカラーフォトが挿入されていた。現在で言えばCDブックレットのようなもので、そのハシリとも言えるだろう。音楽性に加えて、こうしたアイデアが大きな話題を呼んだことは言うまでもない。

アルバムに挿入されたフォト以外にも、ブライアンがハンフリー・ボガードやプレスリー、アンディ・マッケイがジェームス・ディーンをイメージしたようなフォトも残っており、このあたりが今なお「ブライアンは変装の達人」と自他共に認める所以だろう。つまりRoxy Musicは、「元祖・コスプレ」という要素をも含んでいたわけだ。ちなみに今では一般的によく見かける豹柄などの動物柄だが、これを最初にやったのもRoxyで、アントニー・プライスとブライアンの奇抜なファッション・センスから生み出されたものである。みんなさすがにカッコよく着こなしている動物柄のバリエーションであるが、後にたたき上げの純正音楽職人とも言えるポール・トンプソンが「あんなのを着せられて参ったよ」と当時を振り返って語る笑い話も残っている。

 

*訳注 2'brogues (ブローグ) ' ...スコットランドやアイルランド起源と言われる紳士靴。アメリカでは一般にウィングチップと呼ばれる。また、フリンジやウィングチップのついた、所謂「オクスフォード・シューズ」を指すこともある。

*訳注 3'Mustique/ Roddy Llewellyn' ...Mustique(マスティーク)は Mustique Companyという会社が所有するカリブ海のプライベート・アイランドで、89のヴィラと2つの豪華なホテルを持つ。その豪華さと一般から隔絶されている環境からセレブ御用達となっていて、常連にはマーガレット王女やビル・ゲイツ、デヴィッド・ボウイなどの超・有名人が名を連ねるという。Roddy Llewelly もそのひとりで、英国で著名な風景式庭園の設計者。また庭園関係のジャーナリスト、著作家としても知られ、オリンピックのゴールドメダリストだったHarry Llewellyn卿の子息でもある。

 

translation : 2005.8.12.-8.16.+2007.3.25.

revise / edit 2007. 2.21.+3.5.+3.25+3.29.

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